Scene 2
ひょっとすると後からまた誰かが来るのかもしれない、とも思ったが、待ち合わせ場所としては常軌を逸しているし、そうだとしたらまともな相手ではない。
彼女がここへやって来た理由がわからないだけに、縁起でもない妄想が次々と湧き上がり、野瀬はいてもたってもいられなかった。
もちろん、ここを去った後で何が起きても、単なる客に過ぎないし、一応忠告も、警告もしたのだから、全てはそれを無視した、彼女の自己責任になる。
それでもやはり、人生最後に話した相手が自分などという事態は、激しく遠慮したい気持ちだった。
「おいくらですか?」
おそらくタクシーが帰ってしまえば、鼻を摘まれても相手がわからないような漆黒に包まれるだろうに、尋ねる声は涼やかで抑揚も少なく、いっそ不気味なほどに落ち着いていた。
むしろ野瀬の方が、よほど動揺している。
走ったのは二十分ほどだから、大した額ではない。
こんな時間でなければバスを使った方が、バス停からここまで歩かなければならなかったにせよ、よほど安上がりだっただろう。
千円札二枚でも少量の釣銭が戻るメーターの金額を、喉に声を引っかからせながら読み上げれば、彼女はバックから、大振りの、これもブランド品らしい革の財布を取り出すと、結構な厚みのあるその中から、慣れた手付きでピン札の一万円を一枚引き出し、運転手に差し出した。
「お釣はけっこうです」
この御時世に豪儀なことだと、いつもならほくほくしながら思うところだが、今夜に限ってはその気前の良さが、余計に不安になるだけだった。
「……御用が済むまでお待ちしましょうか?」
札を受け取りながらも、つい口から出してしまった言葉の端々に、その心情が溢れていたのだろう、それまでずっと無表情に近かった彼女が、初めてうっすらと微笑んだ。
「御親切にありがとうございます。……でも、いつまでかかるかわかりませんし、携帯は持っておりますから」
返事の内容はまた、予想を裏切らないものだったが、一介のタクシー運転手である自分に対しても礼儀正しいその態度と言葉遣いに、今の職業はどうあれ、過去においては、良家のお嬢様だったに違いないと確信する。
身に沁みた礼儀作法というのは、どんな境遇に落ちようとも、失われてしまうものではないからだ。
そこで野瀬はふたと思い出し、急いで上着の内ポケットを探ると、最近会社から支給されるようになった名刺を引っ張り出した。
自分の名前と社名、そして配車センターの電話番号の入った紙片を、今にも車から降りようとしている彼女に向かって、勢いよく突き出す。
「お帰りの際に、もしよろしければその番号におかけください。ご指名くだされば、すぐお迎えに上がりますから」
降りてしまう前にと、大慌てに慌てたものだから、その威勢の良さとあまりに必死な様子に、ずいぶんとびっくりしたらしい彼女は、しばらくためらっていたが、少女のようなしぐさで小首を傾げると、くすりと小さく笑みをこぼし、綺麗なラウンドにカットされた爪に、桜貝のような色のマニキュアが塗られた、ほっそりとした指先を伸ばしてそれを受け取った。
微笑んだ彼女は、どこか生きることに疲れ切っていたかのような暗さが消え、年相応に瑞々しく、美しく見えた。
するりと優雅な身のこなしで外へと出るその後姿を目で追って、どうしてこんなにこの女性の事が気になるのか、やっと合点がいった気がした。
運転手には、同じ年頃の娘が二人いる。
彼女の二親も、おそらく自分とそう年は変わらないだろうから、きっとこれ以上に胸を痛めて、娘の事を心配しているのに違いない。
何か深い憂慮を抱えているらしいが、その心の内を明かすことができる人物は、こんな、人目を避けるというにも程がある場所に呼び出すような、胡散臭い相手しかいなかったのだろうか。
もしそうだとしたら、彼女にとっても家族にとってもひどく寂しい話だ
おそらく、何度も大型車が乗り上げたせいで、縁石が壊れているというよりは崩れている歩道の上に、すっと背筋を伸ばして立っている彼女の服やバックが、ドアに挟まれる位置にないことを確認してから、やりきれない溜息をつき、ドアを閉める。
そのまま立ち去ってくれるようならば、ここで待っていようかとも考えたが、どうやら彼女もタクシーが走り出すまで動く気はないらしく、後ろ髪を惹かれる思いで、仕方なくそろそろとUターンしてその場を離れた。
ルームミラーの中、たちまち小さくなって暗闇に飲まれてしまった彼女の姿に、これで本当に良かったのかと野瀬は、後悔とも罪悪感ともなんとも言い表しがたい、苦く、重苦しい感情を胸の内に持て余し続けるしかなかった。
前回投稿の時に、区切りを間違えてしまったので妙に短くなってしまいました。