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闇中輝眼  作者: 銀河狼
12/13

Scene 12

作中にグロテスクな表現がありますので、苦手な方はお気をつけください

 一片、二片、鮮やかに色付いた花弁が、あえかな風に散る。

 現在は木内と、表札も変わってしまっているが、いまだ近所から『立花邸』と呼ばれる、立派な屋敷の建つ敷地は、奥行きのほうが多少長い長方形で、縦三分の一ほどが庭になっており、その半分近くを伸ばした枝葉で占めているのが、一本の染井吉野であった。

 この家が建てられたときに、記念として立花夫妻が植えたというその桜は、手入れがよかったせいか、それともよほどこの地と性が合ったのか、幹も太さはまだ子供でも抱きしめてしまえるくらいだが、見上げるその視界いっぱいに、、淡いピンクの花を咲き誇らせていた。

 昨日の晩に招き入れられた、豪華絢爛たるパーティ会場となった、かのリヴィングルームとは、同じリヴィングでも比べようはないが、一般的に見れば十分に広くて感じの良い室内と、この屋敷の一番奥に位置する、広さもきっとほとんど変わらないであろうダイニングキッチンとを行きつ戻りつしながら、木内貴史は最高の気分でディナーの準備をしていた。

 掃除の間は、汚れてもかまわないようにスウェットだったが、埃っぽくなってしまった身体はさっぱりとシャワーを浴び、自宅なので、それほど気張った服はかえっておかしいというか、邪推されてしまいそうなので、ベージュのチノパンに、グレーのアルパカのセーターという軽めの格好だ。

 ドイツ風をイメージしたというリヴィングは、白に近いベージュの漆喰の壁に、本当に火がたけるわけではないが、代わりに電気炉が仕込まれた煙突の必要ない暖炉がある。

 木製のマントルピースの上に以前は、何枚もの家族写真が、木のフレームの写真立てに収められて並んでいたが、幸恵と結婚してからはそれが、ツーショットや結婚式、新婚旅行に行ったときのものへと変わり、それらも彼女の死後にはすべて処分してしまっていたので、なにもなくなって、ちょっとばかり味気ない感じになってしまった。

 一家族が死に絶えたことを考えれば、縁起が悪いと思わないでもなかったが、貴史は別に迷信深い方ではないので、かまわなかった。

 それ以上にリッチで趣味のいい造りのこの家を気に入っていたので、できればそこに獅王子との写真を飾りたいと思っていたし、彼女の反応を考えれば、それほど難しくはなさそうな気がしていた。

 獲物としてしか見ることのなかった女性に、これほど惚れ込んだのは初めてで、それくらい彼女は、すべてにおいて魅力的だった。

 昼間であれば日当たり抜群の、庭に面したここからは、今は盛りの染井吉野が望めるし、そのままサッシを開ければ、古ぼけてはいるが、それなりに広いウッドデッキに出ることもできる。

 桜の樹は毛虫がつくから、本当はこの家に住み始めた頃、伐ってしまうつもりでいたのだが、いつもは唯々諾々と従ってきた幸恵と美和子が、これにはそろって大反対したし、危惧した毛虫もつくこともなく、時期になれば大層に綺麗に花を咲かせたので、それならばと、渋々、残しておいたものだ。

 両親が植え、家族で慈しんで育てた思い出の樹だからという姉妹の言い分に、表面上は優しく同意しつつ、その感傷っぷりにずいぶんと辟易していたものだが、今日という日を迎えるにいたっては、浅慮を起こさなくて良かったと感謝しきりだ。

 思えば立花姉妹との出会いは、獅王子と結ばれるためのステップだったのかもしれないと、一人悦に浸った。

 そしてそれは、めくるめく幸福におぼれきった、昨夜の記憶へとつながる。

 思う存分堪能し、大いに満足したベッドの中で交わしたピロートークで、庭の桜が見頃だと何気なくもらすと、ぜひとも見に行きたいと、獅王子が唐突に言い出したのだ。

 外見からしてもそんな日本趣味があるとは思えない獅王子の言葉に、貴史はかなり驚いたし、彼女自身も日本古来の行事はあまり好きではないとは弁明しつつも、それでも桜だけは、あの儚い美しさが好きだと呟いた。

 もちろん、一族の誰かしらが主催する花見の宴は毎年あるものの、花が咲いたらお弁当を作って、などという一般的な花見とは違い、そうした名所の近隣にある高級料亭やら旅館に予約を入れて、昨日のパーティとさほどかわりばえのない面々が集まるので、結局は堅苦しい席になり、楽しむどころではないし息も詰まる。

 もっとゆっくりじっくり、風情を楽しみたいと、豊満な、毛布の下は何一つまとっていない身体を摺り寄せながら、獅王子は甘えるようにささやいてみせたのだ。

 その彼女の態度に、貴史はピンときて、にやりとした。

 つまり桜云々は、もう一度会うための口実かと、内心脂下がった。

 とはいえ、お抱えのコックや使用人がいるわけでもないし、男のやもめ暮らしにしては、それなりに清潔にしているつもりではあるが、とても招待できるような状況にはないからと、申し訳なさそうに謝ると、獅王子は艶やかなしぐさで、こういうもてなしもしないつもりかと、再び貴史に仕掛けてきた。

 後はもう、状況に流されるまま、さらに情熱的に愛し合って、貴史があのビルを後にしたのはすでに、昼を回った頃であった。

 もちろん夜に、貴史の自宅で会う約束を交わして。

 これから掃除をしたり、食事の手配をしたりと、段取りを考えてみれば、目の回るような忙しさだが、家の方は、美和子の葬式のために一度ハウスクリーニングを入れたので、ざっと掃除をすればそれで十分だし、料理の方は、幸恵がいた頃から贔屓にしている店に、すぐに携帯で連絡すると、二つ返事とまではいかなかったが、できる限り見栄えのする懐石弁当を作ってもらえる段取りがつき、それから朝食用の食材や、その他もろもろを買いそろえるために、デパートへと回った。

 何せ一人なので、普段から食事は外食かケータリング、もしくはコンビニで、冷蔵庫の中身はほぼ空だったから、夜は良くても、朝食べるものがなかったせいだ。

 本当は、家に料理人を呼んで作ってもらえば、温かいものも食べられるだろうし、そうしてもらうことも可能だったが、せっかく雰囲気がよくなっても、その場でしっぽりというわけにはいかなくなるのでやめた。

 家に戻って、買い込んできた食材を冷蔵庫に放り込み、矢継ぎ早に取り掛かった掃除が終わる頃、わざわざお得意様だからと料理の配達に、店の主人がわざわざ来てくれたので、これ幸いと彼に頼んで、ちょっと一人では運びきれなかった、がっちりとした天板のかなり厚い、ダイニングテーブルの移動を手伝ってもらった。

 廊下は比較的広いし、ダイニングへの扉は、その幅いっぱいの両開きなので、出すのは問題ないのだが、いかんせんその重量と、ダイニングに一番近いドアからでは狭くてリヴィングに入れられず、ぐるりと玄関の方まで回り込まなければ運び込めなかったせいだ。

 一人でやるとなると、何でもスウェーデン製の床材だという廊下を引きずるしかないので、そうなればいくら気を使うにしても、ぶつけたりなんだりして、見るに耐えない傷が付くのは必至だったから、非常に助かった。

 主人とは、幸恵と結婚して以来の付き合いだが、店もそれなりに離れた所にあるので、近所の評判を知らず、気が楽だったのもある。

 すでに初老といっていい彼は、浮かれ具合に女性の影を感じ取ってはいたようで、もとより少ない口数が、ますます少なくなっていたのは、幸恵や美和子とより親しかったせいだろう。

 もっとも互いに、それを口に出して肯定するような愚行は、犯さなかったが。

 蒔絵の見事な漆器類は、傷をつけないように丁寧に洗っておくと約束して、二、三日後に回収に来てもらうように頼んだ。

 獅王子が今夜泊まっていくのは確実だし、店の開店時間はそれほど早くないので、午前中に来るような野暮はしないだろうが、それでもやはり、予防策を講じておくに越したことはない。

 姉妹が物心ついたころにはここで食事をしていたというテーブルは、少々傷みも目立っていたので、デパートで吟味した、落ち着いたミントグリーンのテーブルクロスと、オフホワイトのセンターラグを広げる。

 探せば、テーブルクロスもどこかにしまってあるとは思うのだが、幸恵か、もしくはその母親の嗜好は、どうにも少女趣味なので、それを使うくらいなら新しく買ってきた方が断然よかった。

 それが、思っていたとおり、最近は珍しくなった、バラの模様をあしらった手織りらしい、室内いっぱいに敷き詰められた、ルーマニア製の深いグリーンの絨毯とマッチしていて、貴史は大変満足した。

 元は中央に置かれていた、相当大きな、茶色の革張りのソファのセットは、天板がガラスになっていて、その中に小物を飾れるローテーブルと一緒に、葬儀のときの弔問客の待機場所として、玄関側のドアに程近い、壁際にある大時計の前に、葬儀社のスタッフ総出で移動させられてしまった後、これまた人手がないのでそのままになってしまい、都合よくぽっかりと空間が開いていて、この忙しい中、ダイニングテーブルの場所を確保するため、動かさなければならない重労働の手間は省けた。

 庭とは反対の壁際には、やはりヨーロッパ製の重厚な作りの食器棚と同じメーカーのサイドボードが並べて置かれ、食器棚の中には、母親の趣味だったという、超有名ブランドのティーカップやコーヒーカップ、ティーポットなどが両サイドに並べられ、真ん中には、そこが作ったという陶器の人形が、シリーズで品良く飾られていた。

 しかし、サイドボードに、クリスタルやバカラといった高級グラスばかりを、これ見よがしに並べたのは貴史の趣味で、そのおかげで、隣の食器棚とのバランスが取れているのだから、皮肉な話である。

 酒瓶は、現在の経済状況を反映して、国産の中の上くらいのランクのウィスキーが、中身の残り少ない、数本の高級酒のボトルと、あえてごちゃ混ぜになっていた。

 一緒についている小型の、温度管理も可能なワインセラーは、貴史があまりワインを好まないこともあり、必要な時だけ買いに行って、ストックは置かないので、現在は電源も入れられておらず、常時空っぽの状態だ。

 もっとも今晩は和食で、あまり日本酒には詳しくないため、主人に料理に見合った酒も一緒に見繕ってくれるように頼んでおいたのだが、ぬるめの燗で飲むとうまいという銘柄が、よりによって一升瓶で届いていたのには絶句してしまった。

 重箱同様、風呂敷に包まれて、ドンと置かれたその大きさに、急いでいたあまり、合う酒を、としか指定しなかったのは自分のミスなので、二人ではとても飲みきれないが仕方ない。

 冷でも飲めると言っていたから、口に合えば、晩酌用にするのも、たまには変わっていていいだろうと、気持ちを切り替えた。

 なにせ、これはこれで結構な値段なので、捨ててしまうのもあまりにもったいない。

 二つの二段重ねの横長の重箱を、テーブルの上に移して包んでいた風呂敷を解き、それぞれの席の前に、見栄えよく並べる。

 キッチンには、ハマグリの潮汁が、小振りな鍋に入って、これまたきれいな蒔絵の椀とともに、年季の入りすぎた両手持ちの盆にのせられて届けられたので、今はガスレンジの上で弱火にかけられて出番を待っていた。

 日本酒も、花びらの模様をあしらった、淡い桜色の三本の銚子には注いでおいてラップをかけ、後はレンジで温めるだけの状態にしてある。

 薬缶で温めるのが本当なのだが、さすがに給仕からなにから一人でするのは、手が回りきらないので、これは勘弁してもらうことにした。

 食後にでも楽しめるように、ベッドの中で聞き出しておいた、獅王子が好きだという、目の玉が飛び出そうだった高級銘柄のロゼワインも、それこそ清水の舞台どころか、東京タワーから飛び降りる気分で手に入れてきたので、これで準備は完了と、サイドボードの脇にある、大きな古い時計に目をやれば、針はまもなく八時をさそうとしている。

 見るからに年代もののこの大時計は、なんでも姉妹の祖父がフランスに行った折りに、ノミの市で一目ぼれして購入したとかで、当時からすでにアンティークな代物だったらしいが、狂ったり壊れたりしていないのはたいしたものだ。

 しかし、ほぼ一日おきにぜんまいを巻かなければならないし、時刻を告げる音が、図体に比例してかなりの大きく、それが三十分毎に、回数の差はあれど鳴るものだから、読経の邪魔になると止めた後は、ついついわずらわしくてほったらかしておいたのだが、獅王子を迎えるにあたって急遽ネジを巻いて、時刻を合わせておいた。

 昨日のパーティ会場の調度品から見ても、彼女はアンティークを好むらしいとわかっていらからだ。

 夕方から、モデル業の打ち合わせが入っていて、少し遅くなるからと、示された時間は昨日と同じ八時だったが、家の中を整えなければならない貴史にしてみれば、時刻は遅ければ遅いほど都合が良かったので、否やなどあるはずもなく、二つ返事で承諾したおかげで、なんとか間に合ったようだ。

 そうこうしている内に、時計が時を告げて盛大に鳴り始め、その音にかぶるように、リヴィングのドアの横の壁に取り付けてあるパネルが、非常にオーソドックなチャイムの音を吐き出した。

 他に訪問者がいるとも思えないので、胸を弾ませながら、幸恵とここで暮らし始めたときに取り付けた、今でも十分に防犯の機能を果たしているカメラを、門前のものへと切り替える。

 一応カラーだし、門柱には球体の照明もついているのだが、すでに暗闇に包まれ、もともと住宅街はそれほど明かりがないので、画像は白黒と変わらず、門の前に黒い服装の人物が立っているとしかわからなかった。

 ただ、獅王子は金髪なので、それくらい見えてもよさそうだが、まったくわからないところ見ると、黒系統の色の帽子をかぶっているのか、それとも別の招かれざる客人なのかだ。

 どちらとも判断がつかなくて、ボタンを押して、こちらの声が伝わるようにする。

「どちらさまですか」

 門のところにあるのは、監視カメラが別の位置にあるからと声だけのタイプで、カメラつきのインターホンは、あまりいたずらされても困るので、玄関ドアの脇にのみ設置されているのだ。

 だがこのカメラ、門前を広めに捉えるアングルになっているので少し遠目で、画像も荒いから、男か女かもわからない。

「獅王子です」

 すると間髪いれず、澄ました、間違いようのない獅王子の声が返ってきて、貴史の心臓の鼓動がさらに跳ね上がった。

 待ち人が、ついに自分のテリトリーへとやってきたのだ。

「お待ちしてました。鍵をはずしますから、どうぞお入りください」

 緊張と興奮のあまり、指先が震えてしまうのを忌々しく思いながら、パネルを操作して門の鍵をはずし、カメラで獅王子が門を押し開けて敷地へと入り、再度閉めるのを確認してから、また鍵をかける。

 これ以降は誰にも邪魔されずに楽しめるよう、そのまま音声をオフにしてしまうと、すぐに両開きのドアを開いて、一般住宅としてはかなりの広さの玄関ホールへと大慌てで迎えに出た。

 このあたりはみな、比較的広い敷地を有しているが、それでも獅王子が身を置いているような最上流ではないので、たかが知れている。

 門からドアの前まで普通に歩いたのなら、三十秒とかかるまい。

 黒のタイルの敷き詰められた玄関に、唯一あったサンダルを引っ掛け、大きくて重厚な、最近、蝶番のすべりが多少悪くなってきた外開きの木製扉を、ぶつける可能性もあるので慎重に押し開ければ、案の定、広めのポーチぎりぎりに、アンティークなポーチライトの明かりを吸収するかのごとき服装の獅王子が、すでに到着していた。

「こんばんは、お招きに預かりまして、ありがとうございます」

 優雅に一礼する彼女は、黒の薄手のハーフコートをまとい、その下には黒のシックなツーピースを着ているが、タイトのロングスカートには相変わらず、大胆なスリットが入っている。

 自慢のプラチナブロンドもきれいにアップにして、その上に、ローラーと呼ばれる、平べったい円筒形の帽子に、黒いベールのついたものをかぶっていた。

 アクセサリーも、白真珠の二連のネックレスに、イヤリングもホワイトゴールドに、小さめの三つの真珠が房状にぶら下がっているものを身につけ、黒のレースの手袋に、大きめな黒革のハンドバックという徹底ぶりだ。

 一見すると、ストイックな装いも、彼女がまとえばかえって妖しいまでに美しい。

「……喪服ですか?」

 しばし見とれて言葉を失ってから、ようやく我に返ってそう言うと、獅王子はにこやかに微笑んだ。

「弔問客に見えた方が、いいのかと思ったんですけど。四十九日もまだでしょう?」

 どうやら近所の目を気にしたらしく、貴史は困ったような、複雑な笑顔で、獅王子を招き入れた。

 確かに、まだ美和子が死んでからまだ一ヶ月と経過していないので、その方が、泊まっていくとしても、遠くの縁者が来たといえば言い訳もたつ。

「それは、気をつかわせてしまって申し訳ない。散らかっていますが、どうぞあがってください」

 すぐ脇に階段があるので、二階まで吹き抜けになっている玄関ホールに入り、獅王子は軽くうなずくと、上がり口に腰かけ、ピンヒールにシャープなシルエットのショートブーツを脱ぐと、やや斜めになってつま先を立てて正座をし、右手できちんとブーツをそろえて立ち上がった。

 まったく、ただ置くのですらぐらついているようなあんな靴を、はきこなす上に平気で動き回れるなんてと、いつもながら不思議に思う。

 背筋をピンと伸ばし、颯爽と歩く女性の姿は、確かに美しいし、そそられはするが。

 それにしても、膝をそろえて靴を直すといった、日本的な礼儀を、獅王子がごく自然体で行っているのに、なんとなく違和感があった。

 パーティのあったフロアの、ヨーロッパ調の内装は、彼女の趣味だと聞いていたからだ。

「さすがに靴のままとはいきませんから、スリッパを履いてください。夜になると、まだ寒いですから」

 その足元に、ウサギのファーのスリッパを差し出す。

 ストッキングだけの足元は、まだこの季節では冷え込むからだ。

「あら、お気遣いくださいまして。でも、私も普段は靴を脱いで生活していますのよ」

 コートを脱ぎ、どうやらハットピンで留めてあったらしい帽子をとりながら、獅王子はいたずらっぽくそう言った。

「それを聞いて安心しましたよ。こちらにどうぞ」

 確かに最近は外国人向けに、靴のままで暮らせるアパートなどもあるが、あまり一般向けとはいえないし、高温多湿の日本の気候を考えれば、雨が降ればどうしても濡れてしまう靴を家の中まで履いているのは、どうかとも思う。

 リヴィングのドアレバーを握りながら、誘うべく手を差し出せば、少し戸惑った様子で、彼女らしくもなく逡巡していたが、思い切って口に出した。

「その……せめて、お線香くらいあげた方がいいんじゃないかしら?」

 言いづらそうなそれが、美和子のことだとわかって、貴史はしまったと思った。

 訪問する家に不幸があれば、こうして喪服を着るまではしなくとも、焼香をするくらいは礼儀として考慮しておくべきだったのだ。

 周囲からも、納骨は四十九日の法要にするものだと、ずいぶん忠告されたが、遺体が帰って来たときにとんだ思いをした貴史にしてみれば、本当ならば火葬が済んだらさっさと薄気味悪い骨など、文字通り墓に葬ってしまいたかった。

 しかし、立花家の先祖代々の墓は、関東内とはいえ他県にあり、火葬が済んでから移動したのでは、車でも夜にならなければ着けない場所にあったので、やむなく断念し、代わりに初七日の法要をその菩提寺に頼み、そうまめには来られないからと理由づけて、納骨してしまったのだ。

 もちろん、ご近所はいい顔をしなかったが、貴史にしてみれば、一週間も骨壷と同居したのだから、もう十分という気分だった。

 仏壇にしても、姉妹が両親の位牌を納めるために買ったという、それなりに立派な家具調のものがあったので、一緒でかまわないだろうと、幸恵の位牌ともども放り込んで、しかもそれを普段に目に付かないよう、階段の傍にある音楽室に移してしまっている。

 グランドピアノに限らずピアノは、弾かなければだめになるという知識くらいはあるが、せいぜい「猫ふんじゃった」くらいしか演奏できないにもかかわらず、見栄っ張りの彼はその高級感がひどく気に入っていて、そのうちどうにかしようと思いつつ、カバーをかけた状態で売りもせずに、ずるずると放置していた。

 そのせいで、普段はまったく出入りしないため、とりあえずは運んだのはいいが、結構重量があるので、台の上にのせるが面倒になって床に直接置いていたのだ。

 しかも、こんなことは人に頼めないので、戸を閉じて、よろめきながら運んでそれっきりだから、中の惨状は相当なものだろう。

 とてもではないが、お焼香などしてもらえる状態ではない。

 近所連中も親戚も、法事以来、すっかり足が遠のいていたし、骨ももう墓に入っているので、それでかまわないと高をくくっていたのだ。

「いえいえ、それには及びませんよ」

 そこで貴史は、冷や汗をかきながらも、不自然にならないようにやんわりと、獅王子の好意を辞退した。

「妹は、もう十分に供養して、姉や両親と同じ墓に納めましたから、お気持ちだけいただいておきます」

 それに、彼女は血縁者ではないし、将来的に『木内』の姓を、もしかしたら名乗ってくれるかもしれないが、それならなおさら、後釜になる女性に焼香をしてもらうのにはさすがに、死者を悼む気持ちがないにしても抵抗があった。

 幸恵も美和子も、『木内』ではなく、『立花』の墓に入っているのも匂わせておいたので、それも一応、断る理由にもなっているだろう。

「そうですか……それではお言葉に甘えて」

 その辺の機微を理解したのか、それとも単なる社交辞令だったのか、あっさりと引くと、まだ手袋はしたままの手をさしだし、貴史へとゆだねた。

「では、こちらにどうぞ」

 獅王子の様子にほっとしながら、その手を恭しく取り、リヴィングへと招き入れた。

 自分から視線が外れたことで、獅王子はふと、目を伏せる。

 すると、かすかに、胸に迫るものを感じた。

 この家を、覆うように満たしている哀しみ。

 死んでしまったからなおのこと、彼女達はないがしろにされてしまっているのだろう。

 一度は愛した相手だというのに。

 それでも、貴史ではありえないが、自分以外にその死を悼み、慰めようとしているものが、確かに存在している。

 誰、いや、何なのかは、わからないが。

「たいしたものは用意できませんでしたが、桜だけは美しいですから」

 獅王子の憂いを知らず、貴史はコートとバックを受け取り、皺にならないようにソファの背もたれにコートをかけ、その傍にバックを置くと、準備万端に整えた花見の席へと誘う。

 比較的高い天井からは、黒く重々しい、金属製と思われる本体に、ろうそく型の電灯をつけたシャンデリアが吊り下がっていて、煌々と明かりを放っているが、そのせいで、よく磨き抜かれたガラスは、鏡のように室内を反射し、肝心の桜は、自分の影をガラスの表面に落とさないとよく見えなかった。

 貴史は上座にあたる、暖炉側の椅子を引いて獅王子を座らせる。

 テーブルの上には、重箱の他、割り箸ではなく、赤い漆の塗箸が、陶器の箸置きの上にきちんと並べられていた。

 そして、カラフルなろうそくの入った、大き目のグラスがいくつも鎮座していた。

「今、お酒の用意ができたら、電気を消しますね。その方が良く見えますから」

 獅王子はそれに、笑い声を立てた。

「あら、意外にロマンティストですね。このろうそくは演出?」

 揶揄するその言い方に、貴史はわざとらしく胸をそらせた。

「男は皆、浪漫を追い求める生き物ですよ。それでは、少しお待ちください。いい酒が手に入ったんです」

 そう自慢げに背中を向けて、ダイニングに近いドアから出て行った貴史を見送り、深いため息をつく。

 当初は面白がっていた茶番劇だが、飽きっぽい獅王子は、もういい加減うんざりしていた。

 元からして悪い印象しかなかったし、自分では良い男だとうぬぼれているのかもしれないが、あの程度なら、はいて捨てるほどいるというのに、まったく気がつかない、頭の悪さにもうんざりだ。

 そして何より……。

 そこで獅王子は、頭を軽く振った。

 もう、『狩り』は始まっているのだ。ここで立候補した役柄を、降りてしまうわけにはいかない。

 手袋を脱ぎ、両肘をテーブルの上について、指を組んだ手の甲に、あごを乗せて外に目をやる。

 満開となった花の散り始め。

 染井吉野の寿命は、人間とほぼ同じ、約百年ほど。

 だとしたら、せいぜい三十年という齢しか重ねていないこの樹が、これほど見事に咲いているのは、ここに住んでいる一家の命を、心ならずも吸い尽くした結果なのだろうか。

 獅王子は深く息をついた。

 だとしたら。

 桜に、よく見知った、美しい顔が重なった。

「麗しい人は、どんな表情をしていても様になりますね。それが、物憂げならなおさら」

 パタンと、ドアの閉まる音がして、その方向に目をやると木製の盆に、銚子を二本とお猪口、それに椀を二つのせて、貴史が帰ってきていた。

 相変わらずその歯の浮くような賛辞に、それでも獅王子は目を細める。

 慣れてはいるが、言われてうれしくないわけでもない。

 その表情に、貴史も満足すると、テーブルの上に盆をそっとおろし、持ってきたライターでろうそくに火をともして、インターホンの脇にある、シャンデリアのスイッチを切りにいった。

 室内に柔らかな闇が満ちると同時に、ろうそくのやさしい光がほんのりとテーブルの上を照らし、それによってほぼこちら一面を占拠しているサッシは、一気に鏡から、自然の荘厳のなる美を映し出すためのスクリーンへと転身する。

 それはさながら、自然という脅威の絵師が描いた、屏風絵のようで。

 己が身を、夜空へと浮き立たせる桜の樹に、獅王子は演技ではない、感嘆をこぼした。

「本当にきれいですね」

 枝を覆い尽くさんばかりの花が描き出すコントラストは、その盛りが短いだけに、よりいっそう鮮やかに感じられる。

 魔性とも例えられるその妖しいまでの美しさに、目を奪われている獅王子に、貴史は苦笑した。

「私にすれば、そうして桜に心奪われてしまう、あなたのほうがロマンティストだと思えますがね」

 確かに、これだけ咲き誇ればきれいだと、貴史も感じるが、ただそれだけだ。

 花はしょせん花だし、それ以上の感慨はない。

 それよりもむしろ、目の前にいる獅王子の方が、比較するのも馬鹿らしいほど魅力的だった。

「とりあえず、一献どうぞ。せっかくなので、日本酒にしたものですから……口に合えばいいのですが」

 差し出したお猪口を、嫣然と両手で受け取った獅王子に、銚子から、人肌に程よく温まった酒を注ぐ。

 穀物酒特有の、わずかに甘さを含んだ、馥郁たる香りが広がった。

「確かに洋酒の方が好みだけど、日本酒も嫌いじゃないわ」

 それを楽しみながら答えると、自分も手酌で注いだ貴史が、ふっと顔つきをゆるめた。

「それならばよかった」

 コップなら、テーブルの上に一旦戻すのも楽だが、お猪口だと小さすぎて、こぼしてしまいそうだったので、ちょっと失礼かもしれないが、たぶんそれを貴史もわかっていて自らやっているのだろうから、ここは黙って待っていることにした。

 銚子をテーブルに置くと、貴史はお猪口を掲げ、それに獅王子もならった。

「二人の出会いと、これからに」

 男女間の乾杯の音頭としては妥当なそれに、二人は杯を干した。

 わずかに甘口で、するりと心地よく喉を通り過ぎ、口当たりもまろやかな、どちらかといえば女性向けの味わいに思われた。

 とはいえ、貴史にとっても十分に美味だと感じたし、おそらく普段は洋酒党の獅王子からすれば、これくらいの方がむしろ飲みやすいだろう。

「飲みやすくておいしいですね」

 思ったとおり、獅王子は気に入ったようだった。

「お気に召したようで、何よりですよ。……しかし、わざわざ着替えてきたんですか?」

 場が和んだところで、貴史は注意深く言葉を選んで、気になっていたことを口にした。

 まさか、完全に喪服ではないといっても、この格好で、外を歩くだけならともかく、モデルの仕事の打ち合わせに行ったとは思えない。

 ましてやその喪に服すべき相手は、身内でもないければ、面識も無いのだから。

「それはもちろん。打ち合わせといっても、取材もかねていたから、そのままで来るわけにはいかないもの」

 もっとも、この姿を見せてやったら鷹人は、そこまでやるかと盛大に呆れかえっていたが。

 そんな彼女の説明に、貴史は大いに納得した。

 彼女が出るファッションショーはだいたい、庶民の手には届かないような高級ブランド、しかもオートクチュールばかりだから、一般的にはさほど知名度は高くない。

 それでもセレブや芸能界、マスコミ関係者などの間では、知る人ぞ知る超有名人だ。

 ただでさえ恋の噂多き彼女が、仕事の絡んだ打ち合わせの後、ここに直行したのでは、パパラッチ達のいいカモである。

 いまだマスコミから目を付けられている貴史からすれば、それはあまりうれしくない話だ。

「かえって、気をつかわせてしまったみたいですね」

 申し訳なさそうな貴史に、獅王子は首を振った。

「とんでもない。むしろわがままを言ったのは私ですもの」

 それからまた、うっとりと桜へと視線を移す。

「おかげで、こんなすばらしい桜が見られましたわ」

 貴史がどうぞと進めると、おもむろに箸を取り、料理に手を付けた。

 急に頼んだにしては、見目もいいし、上出来だろう。

 先ほどは酌をしてもらったので、今度は獅王子が銚子を取り上げた。

 酒を注いでもらいながら、もう一つ気になっていたことを、口にする。

「そういえば、何か桜に思い出でも?」

 ずいぶんとこだわっていたようだし、先ほども、なんだか表情を曇らせていた。

 同じバラ科とはいえ、獅王子は桜というより、大輪の、情熱的な真紅のバラを好みそうなイメージだ。

「そういうわけではないんですけど……。こう見えて、私も日本人だから、感傷的になっていただけです。だってよく言うでしょう、『桜の下には死体が埋まっている』って」

 ちょっと食事時に向いた話ではありませんけどね、と苦笑する獅王子に、貴史は、頬がかすかに引きつるのを感じた。

 桜の木を切りたいと思っていた、それがもう一つの理由だったからだ。

 元はといえば根も葉もない、とある小説家が書いた短編が出所だと言われるそれは、迷信よりも信憑性はないと思われるのに、これだけ広がっているのを見ると、桜という花はそうしたイメージが常時、付きまとっているのだろう。

 事実、名所といわれる場所は、古戦場跡が多いのだそうだ。

 そんな風に聞かされると、なんだか桜が得体の知れないものに見えて、不気味だった。

「失礼でしたね、義妹さんが亡くなったばかりなのに」

 明らかに様子のおかしくなった貴史に、おそらく美和子のことを思い出させたと考えたのだろう、獅王子は箸をおいてうつむく。

 それに、貴史の方があわてた。

「いえ、気にしないでください。私も聞いたことがあったので、出典がなんだったのか、思い出そうとしていただけなんです」

 意味もなく必死に取り繕うと、獅王子は首をかしげた。

 学生だって知っているような、有名な短編だったからだ。

「あまり本は、読まないんですか?」

 決まり悪げに、貴史は肩をすくめた。

「あいにくと、純文学の方はさっぱり。読むのはミステリーくらいですね」

 さすがに上流階級ともなると、読書歴がないのはよくないようだ。

 今まで付き合いのあった女性達は、流行物を本当に読んでいなくても、内容だけ把握していれば、たいてい引っ掛かってくれたので世話はなかったが、想像以上に博識の彼女では、そんなごまかしは通用しないだろう。

「あら、私、ミステリーも好きですよ」

 こぼれるように獅王子が笑ったのを皮切りに、話題はミステリー談義へと流れ、そこから映画や俳優といった、他愛もない方向へと発展して、大いに貴史を安堵させた。

 あまり高尚だと、ついていけなくなる恐れがあったのだが、獅王子にしても、この手の話の合う者が近くにいないのか、かなり不満がたまっていたようで、思っていた以上によく話す上に、その読書量の多さには、舌をまかずにはいられなかった。

 なにせ、古今東西、ありとあらゆるといっていいほどの、ストーリーをすべて把握しているのだ。

 他にも、有名な恋愛小説にまで詳しいことがわかり、人は見かけによらないものだと痛感する。

 こんな、読書家というイメージがなかったからだ。

 それから、映画や俳優にしても、やけに古い、白黒の頃が好きなのも意外だった。

 その話の合間に、箸も酒もすすみ、大時計が九時を知らせる頃には、料理はあらかた胃の中に収まり、気分もほろ酔い加減となって、貴史は、まだ寒いくらいなのでわざわざワインクーラーに入れるまでもないかと、やはりキッチンに置きっぱなしにしておいたロゼを、スクリュータイプのオープナーと一緒に持ってきた。

 なんといってもこれからが、大人のお楽しみの時間だ。

 テーブルにボトルを置くと、そこに獅王子の姿はなく、サッシが一枚開いていて、外のウッドデッキの上に彼女は出ていた。

 ひんやりとした、肌寒い空気がそこから室内に入り込み、せっかく暖炉の電子炉をつけて暖めていた空気を冷やしている。

 それでも、凍えるほどではないので、酔狂だと思いながらも声はかけず、サイドボードへとワイングラスを選びにいった。

 獅王子は、表面がかなり傷んでいるのでスリッパを履いたまま、完全にリヴィングに背を向けて、自分で自分を抱きしめるような格好で、桜を見上げていた。

 はらはらと、微風が吹くたびに舞い散る花びらが、わびしさを誘う。

 それを、一枚、一枚、数えでもしているかのように、獅王子は立ち尽くした。

「寒くはありませんか」

 そこへ、ロゼのワインを注いだグラスを両手に持った貴史が、声をかけた。

 しかし、どちらかといえば上はセーターのみの貴史の方が、明らかに寒そうに見える。

「いいえ、それほどでもないわ」

 差し出された片方を受け取って、獅王子は静かに答えた。

 グラスを傾けて、その芳醇な味と香りを楽しむ。

 獅王子は、猫のように笑った。

 それが本気で楽しんでいるときの、彼女の癖だと理解していた貴史は、ご満悦だった。

 これで今夜も、昨夜以上に濃厚で楽しい一夜を過ごせるのは間違いない。

 口に含まれたワインの美味が、散々味わった肌の、まろやかさのように思えた。

「末期の酒としては、申し分のない味ね」

 獅王子の紅い口紅の鮮やかな唇が、三日月のごとき、不吉な笑みに変わる。

 低く流れた声とともに、ざっと、思いがけなく強く吹いた風に、桜が大きく枝を揺らし、貴史までそれは届かせなかった。

「なんですか?」

 眉をしかめて聞きなおす貴史に、獅王子は、クイ、と三分の一ほどまで注がれていたワインを、一気に飲み干すと、口紅とそろいの、毒々しいまでに紅いマニキュアが塗られた指から、ワイングラスを滑るように落とす。

 ウッドデッキの上で、グラスは粉々に砕け散り、いつの間にそれほど高くまで上っていたのだろうか、丸い月の光を反射して、きらきらと星がこぼれたように輝かせた。

「あぶない! いったい何を……」

 このデッキは、庭に張り出すように作られているので、一応湿気を避けるために多少の地面から離してはあるものの、さほどの高さがあるわけではないし、庭にはもともと芝生がはってあったとかで、直接降りられるように、柵は設置されていなかった。

 破片を避けて、背後へと下がった貴史を一瞥し、獅王子はスリッパを無造作に脱ぎ捨てると、枯れ草ばかりの荒れている庭へ、躊躇もなく、ストッキングだけで踏み出した。

 靴を履いていないせいだろうか、音を立てずに、獅王子は悠々と庭を歩いていく。

 嘲るような笑みを残して。

「何をしているんだ、戻ってきなさい、獅王子!」

 サイドボードの中でも、一番値のはるワイングラスを、どう見てもわざと落としてわられた上、不可解な行動をとる彼女に、不安と怒りにかられて、思わず貴史は叫んでいた。

 あのまま桜の横を通りすぎれば、家の裏手から勝手口の方に回って、裏の道路へと出られるのだ。

 靴も、それどころか、コートもバックも置きっ放しだが、彼女の行動パターンには理解不能な部分が多いすぎて、それだけではとても安心などできなかった。

 桜の樹の根元まで来て、彼女は立ち止まると、それまでとはうって変わったような、ひどく冷たい視線を向けてきた。

「気安く、呼び捨てにしないでほしいわね。虫唾が走るわ」

 視線同様の凍てつく口調で、吐き捨てるように罵られ、貴史は顔色をなくした。

 なぜ、これほどに彼女は豹変したのか、それが理解できなかったせいだ。

 怒りは急速にしぼみ、大いなる不安と困惑だけが、その胸の中に渦巻いていた。

「いきなりどうしたんですか? 何が気に入らなかったんです?」

 口調を改め、混乱する記憶の中を、必死になって思い返してみるが、思い当たる節もなく、昨日と同様、楽しい時を送っていたはずだ。

「あんなに、楽しんでしてくれたじゃありませんか」

 懇願とも取れる貴史の言い分を、獅王子は腕を組んでさげすむ。

「楽しんでした? そう信じてたのなら、あなた相当なお馬鹿さんね」

 そして、嘲笑した。

 冗談、と言うこともできず、貴史は愕然とする。

 侮蔑の炎が燃え上がる獅王子の瞳に、ありありと本気が見えていたからだ。

 見つめあう、というか、一方的に貴史が凝視しているそこに、低い、別の声が割りこんできた。

「当然だ。奴は、ただの『餌』だ」

 桜が、慄いたようだった。

 夜の闇、そのもののごとく、獅王子の背後、いや、桜の幹の向こう側から、声は聞こえた。

 より強く、正面から吹き付けた風が、花びらをまるで、涙であるかに散らす。

 それをまともに浴びて、呆然としていた貴史はたまらず、顔を腕でかばった。

 ふと、漆黒が落ちた。

 風に流された雲が、満月を隠している。

 かさりと枯れ草を踏みしめる音が聞こえて、突然訪れた暗さに視力を奪われながらも、声の主が桜の樹の陰から出てきたことだけを捕らえた。

 貴史は必死に目を細め、闇を見透かそうとした。

 真っ黒い人影。

 輪郭すらが、幻のごとく滲んでいるというのに。

 まるで、北天に輝く天狼星のごとく浮かぶ、ダークグリーンのきらめき。

 おそらく、頭部と思える位置に、二つの星のような目が、爛々と輝いているのだけが、見える。

 背中にガラスに触れた。

 いつの間にかずるずると後ずさっていたのに、気がつかなかったようだ。もうこれ以上は、サッシを開けるか、ガラスを壊すかしなければ下がれない。

 獅王子が鍵をはずして外に出たのは、最も暖炉に近い端で、ワイングラスで両手がふさがっていた自分もそこから出てきた。

 そうしている間にも、迷いもなく影は、前へと進み続けている。

 一瞬で、不安が恐怖へとすり替わった。

 ずいぶんと中ほどによっているこの位置の鍵は、当然はずしていないし、室内に逃げ込もうにも、もうすでに腰が抜けそうになっていた。

 恐ろしいという感情だけが、貴史のすべてを支配している。

「だ、誰だ」

 それを懸命に押さえ込み、腹の底から、あらん限りの力を振り絞ったのに、出てきた誰何の声は、自分の耳までも届くかどうかというほど、まるで蚊が鳴くように小さかった。

 しかし、それを耳ざとく聞き取った、獅王子が失笑する。

「女を食い物してるだけあって、とんだ意気地なしね」

 辛辣な言葉に、反論できるゆとりもない。

 すると獅王子は、気まぐれにまた態度を一変させ、妖艶な、しかしとろけるような笑みを浮かべ、するりと樹から離れて影に近づくと、慕わしげにその首へと腕を絡め、押し付けるように身をすり寄せた。

 唇と舌で、耳元に口付け、執拗に、恍惚に、耳たぶを愛撫する。

 その表情は、ベッドを共にしたはずなのに、見たこともないほど艶やかで、目を見張らずにはいられない。

 影はされるがまま、身動き一つしていないというのに、あまやかな喘ぎ声が、獅王子の喉をついて出ていた。

 抱きしめている、ただそれだけで。

 存分に見せ付けられて、貴史も遅ればせながら、ようやく気がついた。

 貴史が彼女を、『獲物』という視点で捉えていたのと同じように、獅王子もまた、好意があるようなふりをしながらも、その心は冷え切っていたことに。

 それでも、貴史は他の女性とは一線を画して、特別に思っていたのに対し、この仕打ちを見る限り、彼女にとっては、そうではなかったのはあまりにも明らかだ。

 残酷すぎる現実を突きつけられ、貴史の思考は、真っ白に、拒否を示した。

 まとわりつく獅王子にかまわず、影が笑う。

「……『闇の狩人』とでも言っておこうか」

 大きすぎた衝撃に、自分でも忘れて果てていた問いかけに対して、律儀に返ってきた答えと、獅王子の侮辱に、プライドだけはむやみに高い、貴史の中で、なにかが焼き切れた。

「ふ、ふざけるな! なにが闇の狩人だ! 貴様は不法侵入しているんだぞ、とっとと出て行け!」

 怒りに任せて、顔をゆがめてわめき散らし、血走った目で、影に抱きついている獅王子を睨みつけた。

 そのすべてが手に入ると信じきっていただけに、だまされていたのが無性に腹立たしく、許せなかった。

 だますのは当たり前でも、だまされるのは、我慢できるわけもない。

 男を、まして自分をだまそうとするような女は、最低の、生きる価値もない存在だと、怒り狂う。

「あんたもグルだったわけだ。とんだあばずれだな」

 汚い言葉を浴びせかければ、いくらか不機嫌そうに、獅王子が眉をしかめる。

 たかがそれだけでも、多少、溜飲は下がったが、すかさず反撃に転じようとした彼女を、影が軽く手を上げて制止した。

 勝気な女王気質の獅王子が、それだけで黙って従うのを見て、また新たな怒りが湧き起こる。

 貴史に対しては、要求を突きつけるばかりで、しおらしく見せるための細工か、ほんの少し譲歩はしても、あんなふうに唯々諾々と従うことはなかったからだ。

 それにしてもなぜ、獅王子の姿は見えるというのに、その人物は両目以外、影にしか見えないのだろうか。

 煮えくり返っていたはずの貴史の心中に、そんな、どうでもいいはずの疑問が、ぽっかりと浮かんだ。

 それこそが、警鐘だったのかもしれない。

 雲が通り過ぎ、再び、ガラス細工のような月光が降り注ぎはじめる。

 その光に照らし出されて、色素の薄い髪が、冴え渡る美貌が、徐々にあらわになった。

「……!あんたは…!」

 氷のような微笑を唇に浮かべる、作り物のようなその美しさには、見覚えが……いや、忘れられるはずもなかった。

「墺守狼……」

 無意識にこぼれ落ちたその名前に、微笑が深まった。

「そんな名前も、持っているな」

 獅王子に負けないほど、濡れたように紅く、薄い唇が、からかいを含んで、ひらめく。

 黒の皮のジャンパーに、薄いグレーのタートルネックのインナー、黒のスリムジーンズと、あのパーティの時とはうって変わったワイルドな格好というだけではなく、貴史は自分の目が信じられなかった。

 ただ生きていくのすら面倒だといわんばかりの無気力さはまったくなりを潜め、黒だと思っていた瞳は、畏怖すら感じさせる、あの輝きを放っているではないか。

 まるで、夜の闇に潜む、肉食獣のように。

 射すくめられながらの、からからに干上がった口内になんとか湿り気を取り戻して、貴史は必死に声を絞り出しだ。

 このままではいけない。

 体の中に潜む、第六巻ともいうべきものが、金切り声を上げた。

「そ、その女の正体を見抜けなかったのは、俺の落ち度だからな、警察を呼ばれる前に出て行くなら、見逃してやる。さっさと俺の前から消えうせろ!」

 崩壊しそうな矜持をなんとかぎりぎりで立て直し、ここの家主としての威厳を保とうとはしているが、口調とは裏腹に気持ちはもはや懇願である。

 もうどうでもいいから、ここから出て行って、二度と来ないでほしい。

 それほどになぜか、ただそこにいるだけの狼という存在が、脅威だった。

 いったいそれがなぜなのかもわからないまま、その妖しく光るダークグリーンを見るだけで、見返されるだけで、危機感を神経を焼く。

 じりじりと少しずつ、摺り足で移動していく。

 家の中にさえ逃げ込めれば、セキュリティもあるし、サッシも強化ガラスを使っているので、鍵をかけてしまいすれば、そうやすやすと入ってはこられない。

 そうなれば、警察に通報されると思って、あいつらもあきらめて、立ち去るかもしれない。

 それに望みをつないでいた。

 一歩、狼が踏み出す。

 感付かれて、一気に間をつめられてしまえば、腕っ節などまったくからっきしな貴史は、恐怖でガチガチになっていることもあり、さして体格的により細身の彼が相手でも、どこまで抵抗できるかわからない。

 まして、見たところは素手だが、ずいぶんと余裕がある様子からして、どこかに武器を隠し持っている可能性も高いのに、貴史が持っているものときたら、作りが華奢なワイングラスだけでなのだ。

 また一歩、狼が踏み出し、その口角が、にぃっと持ち上がる。

 その笑みの冷徹さ、酷薄さに、ぞっとした。

 『闇の狩人』と名乗ったとおり、この男は、自分が恐れおののいて追い詰められていくさまを、明らかに楽しんでいるのだ。

 貴史の、凍えきっていた腹の中が、かっと熱くなった。

 そんな理不尽なことが許されるものか、すぐに立場を逆転させて、今度は俺が、吠え面をかかせてやる!

 まだいくらか距離はあったが、この程度ならば、相手よりも先にリヴィングへと戻れるだろうと、身を翻しかけた時、その方向から、思いもかけぬ衝撃を受けて、身体が吹っ飛ばされた。

 びりびりとガラスが震え、狼は立ち止まって、その衝撃波をやり過ごす。

「ちょっと往生際が悪すぎるなぁ」

 頭上から降ってきたそれは、ぺったりとウッドデッキの上に尻餅をついている貴史に向かって、どこかのんきな声を発した。

 開いているサッシの前をふさぐようにうずくまっているそれは、人間というには大きさが中途半端で、中学生の子供くらいだろうか。

 やけにもさもさとした、マントのようなもので全身を隠し、屈み込んでいるように見えた。

「自分がやったことのツケが、回りまわってきたんだから、その辺の責任は、きちんと取ってもらわないと」

 すぐ脇にガラスがあるせいで、片方しか広げられないらしく、ばさりとかなりの音を立てて広げられたそれを目にして、貴史は完全に腰を抜かした。

「ひ、ひいぃぃぃ」

 現実が、崩壊した。

 そうとしか思えなかった。

 完全にひっくり返った情けない悲鳴が、ぎゅっと縮こまってしまった声帯から、なんとか搾り出された。

 まだ燃えている、ガラス越しの頼りないろうそくの炎に照らされたのは、広げた片翼だけでもゆうに一メートル以上にはなる、考えられないほどに大きな鷲、もしくは鷹だった。

 しかも先の曲がった、鋭いくちばしがカタカタと動くたび、信じられないことにさっきまで聞こえていた、人間の言葉が吐き出されていたらしいのだ。

 ややオレンジ色の強い、朱色の瞳が、夜がだめなはずの鳥類には信じられないほど、強烈な光を放って浮き上がっている。

 まるで、狼の瞳と同じように。

 それは、あまりにも理不尽で、悪夢としか思えない光景だった。

 こんな大型の猛禽類が、日本に、こんな都会にいることさえ信じられないのに、それがよもや、人間の言葉をしゃべるなんて!

「……情けない男」

 驚愕と恐怖のあまり、口から泡を吹き、みっともなく這いずって、なんとかこの場から離れようとしている貴史に向かって、獅王子はいらだたしげに吐き捨てた。

 突然現れた、巨大な鳥にも、彼女は平然と立っている。

 それは狼も同様であることから、その存在の出現を、彼らは知っていたのだ。

 つまり、この鳥がなんなのか、わかっているのだ。

「それでも、立花美和子は、心の底から愛していた」

 狼の目が細められ、流れる声に寂寥感が生まれた。

 風が、音を立てて桜の枝を揺らし、獅王子は頭上の枝を見上げ、鳥は、朱色の瞳をかげらせた。

 哀悼を示すように。

「その立花美和子の願いだ」

 朗々と、宣告が響く。

 貴史はそれに引かれるように、ギクシャクと狼へと視線を向けた。

「死んでもらおう」

 何かが変わった。

 狼を取り巻く目に見えないものが、急激に変化し、その右目が、まるで血を吸い取ったような真紅へと染まっていく。

 その時、ありえないものを目にして、呆けたようになっていた貴史が、気の抜けた声で呟いた。

「美和子を殺したのはお前か」

 ただの思い付きだった。気がつけば、口から滑り出ていた。

 ありえない話だ。

 美和子は何か、獣、それも大型のイヌ科の生き物に、喉笛を食いちぎられて死んだのだ。

 人間ではない以上、その犯人が、目の前の麗人である可能性は皆無だ。

 しかしそれでも、なぜか間違いないと思った。

 この男が殺したのだと、確信した。

 真紅とダークグリーンの瞳が、すうっと眇められる。

「そうだ」

 短い、しかし、確かな肯定。

 通常の状況であれば、戯言と信じはしなかっただろう。

 貴史の目に光が戻る。

 狂気の光。

 こみ上げる憎悪と、生への執着。

 いや、もう真実など、どうでもよかった。

 黙って、殺されてなどやるものか。

 どす黒く湧き出すものが、貴史を突き動かした。

 渾身の力をこめて、握り拳をガラスへとたたきつける。

 鋭い音を立てて、滅多なことでは割れないはずの強化ガラスが砕け散り、その中の大きくとがった破片を凶器として、ガラスをわったことによって血にまみれた手で、握りしめる。

 痛みなど、もはや感じない。

「殺してやる」

 貴史は呻いた。

 ぎらぎらと異様な輝きを宿し、血走った目が、狼を捕らえた。

 もはやそこに、正常な思考はない。

「殺してやる!」

 腰が抜けていたのが嘘のように、猛然と跳ね起きた貴史は、恐ろしい雄叫びを上げながら、ガラスを振りかざして突進した。

 履いていたスリッパが飛び散り、靴下だけで庭へと、飛び掛らん勢いで降りた貴史に、よけるしぐさすら見せず狼は静かに言った。

「迎えだ」

 あとわずかで、振り下ろせばガラスを、その喉元に突きたてられる位置まできた貴史の身体が、ぴたりと止まった。

 正確には、つんのめりそうな急制動がかかり、いきなり足が動かなくなったのだ。

 なにかが絡みついている。

 しかし、絡みつきそうなものといったら枯れ草くらいしかなかったはずだし、枯れ草では、歩きづらくなるかもしれないが、動けなくなるわけはない。

「ひいぃぃ!」

 あわてて視線を足元へとおろした貴史は、今にも絞め殺されそうなか細い悲鳴を上げて震え上がった。

 青いというよりは青黒い、なんとも言いようのない不気味な腕が、まるで地面から生え、片足に二本ずつしがみついているのだ。

 そしてその腕の間からのぞいているのは、どろりと瞳を濁した、美和子と幸恵の姉妹の、土気色をした顔が、怨めしく貴史を見上げていた。

 次々、自らに降りかかるこの世ならぬ事態に、貴史はパニックに陥った。

「は、放せ!放せ!放せぇ!」

 半狂乱になって暴れるが、女の細腕だというのに、それが死者としての恨みの力なのか、びくともしない。

 貴史は、手にしたガラスを、自分の足をも傷つけるのもかまわず、二人の腕に突き立てた。

 しかし、肉に突き刺さる不気味な手ごたえはあっても、力は一向に緩まない。

 それどころか、地面の中へと引きずり込もうとするかに、増していく。

 狼は足音一つ立てず、足を血だらけにして悪あがきを続ける貴史の前へと、歩み寄った。

「立花美和子からの依頼だ」

 男とは思えないような、しなやかな白い手が、見た目はやんわりと、しかし肩の骨がきしみそうな強さで貴史の肩をつかんだ。

 びくりと、足元の二人に気を取られ、その存在を忘却していた貴史は、大仰に肩を震わせ、血走った目で狼に瞳をあわせ。

 美和子を殺し、今また自分を殺そうとしているのに、その色を違えた瞳は、それが嘘のように澄み切っていた。

 その中に、醜く顔を歪めた、貴史自身が映り込んでいる。

 突然、だらりと両手から、全身から力が抜け落ちた。

 あの魔性の瞳に魅入られたのか、ガラスの破片が、血まみれになった手から、地面へと落ちて突きささった。

「その命、貰いうけよう」

 その耳元へと、唇を寄せた。

 まるで、恋人に囁くように。

 優しく、貴史の身体を引き寄せた狼は、かっと開いた口内に、いつの間にか生じていた鋭い牙で、無防備にさらされていた喉元へと喰らいついた。

 柔らかい皮膚に肉に、牙が食い込み、流れ込んでくる温かい血を、喉を鳴らして飲み込む。

 脳天を貫いたその激痛に我に返り、絶叫をしようと、貴史の口がむなしく大きく開け、両目がこぼれんばかりに開かれる。

 ようやく抵抗すること思い出した手が、食い込んでくる牙をなんとか押し留めようと、無駄に、狼の背中を掻き毟ってあがいた。

 めきめきと音を立てて、狼の全身が黒く固い毛に覆われていく。

 その形が、明らかに人外のものへと変貌を遂げていく。

 その変化に耐え切れず、服が断末魔の響きをたてて、破れ、引き千切れて、あたりに散った。

 尻尾がふさりと、降りかかる花弁を払い。

 満月の下、その光を吸収してしまうそうな、漆黒のオオカミが、その完全なる、しなやかな体躯をあらわす。

 かぎ状に曲げられた貴史の指が、行き場を失って空を引っ掻いた。

 パクパクと、開いたり閉じたりを繰り返していた唇の奥から、ゴボゴボとくぐもった濁音がもれ、やがて、赤い泡が、血と共にこぼれ出す。

 すでに身体を支える力はないというのに、足に絡みついた腕と、いまだギリギリと侵食を続けるオオカミの牙とが、貴史が倒れることを許さない。

 生気を失いつつある、虚ろなその瞳から、涙が伝い落ちた。

 断末魔の痙攣を始めた全身を、ぼうっと、くすんで濁った赤いオーラが包み込んだ。

 美和子と幸恵の、暗黒の洞穴ごとくぽっかりと開いた口から、頭の中に直接響く、鳥肌が立つような歓喜の叫びが発せられる。

 首の骨が砕ける鈍い音が、貴史の苦悶に満ちた最後の意識だった。

 その直後にオーラは、すべてオオカミに吸い取られ、バクンと、その口が力任せに閉じられる。

 吹き出した血が、その黒い毛皮を染め、奇妙に顔をゆがめた貴史の頭部が、まっすぐ落下して地面に激突する瞬間に、姉妹は喜び勇んでそれを捕らえると、あっという間もなく地中へと自分達もろとも引きずりこんでしまった。

 腕の支えを失った貴史の身体が、その後を追って、のしかかっていたオオカミと共に倒れ伏した。

 周囲に、耳に痛くなるような静寂が戻ってきた。

 さらさらと、桜が静かにゆれ、花弁を降らせる。

「……言いたかないけど、壮絶だね」

 器用に、片翼でお手上げのポーズを作る大鳥に、獅王子は頭を振った。

「あの男のどこがそんなにいいのか、私には理解できないわ」

 オオカミがのそりと身を起こす。

 イヌ科最大のハイイロオオカミよりその全身は大きそうだが、ピンと立った耳、スレンダーなシルエットからして、オオカミ以外の何ものにも見えない。

 ただ、首の後ろ辺りから肩、胸元にかけてマフラーのように、色素の薄い、周りより長めの毛がぐるりと生えている。

 瞳とそれだけが、人だったときの狼の面影をとどめていた。

 その様子を見て、獅王子は大きく息を吐いた。

「服は? 持ってきたんでしょう、鷹人?」

 そう言われて、鷹人と呼ばれた鳥は、半ば自分の下敷きにしていた黒い紙袋を、オウムのようにバランスを取りながら、右足でつかんで前へと差し出した。

「まったく、こうして着替えを持ち歩かなきゃならないなんてさ。なんかカッコ悪いよな」

 つまらないことを嘆く鷹人に、獅王子は今度はため息をつき、袋を受け取るために桜の樹から離れ、首がなくなったため、いまだ大量の血を流している貴史の亡骸を踏まないように、わざわざ足元へと回り込んでウッドデッキへとあがる。

 死者に対する敬意を払っているわけではない、血がつくのが嫌なだけだ。

「そんなに服を破くのがいやなら、脱いで、たたんでおけばいいのよ」

 それに、鷹人はジト目をかえした。

「素っ裸になってから、変われって? もっとカッコ悪いよ」

 ああいえばこういう鷹人に、獅王子は機嫌悪く眉を跳ね上げる。

 静まり返っている庭からすれば、貴史が殺されたことで彼女達が満足したらしいのはうかがえても、なんだか不愉快さが消えないのは、身勝手だろうか。

 最初はそれなりに面白いと思っていたのに、こうなってみると、なんでこんな男と一晩を共にしたのかと、忌々しくなる。

「……私が、殺せばよかったかしら」

「それじゃ、意味ないでしょうが」

 つい口からこぼれた獅王子の呟きに、あきれ返った鷹人が間髪いれずに突っ込みをいれた。

 わかっているのに、さらに不機嫌になって紙袋を奪い取った獅王子は、中を見ていぶかしげになった。

「自分の服はどうしたのよ」

 そこにはどう見ても一人分の衣類と靴、他にはタオル類しかなくて、獅王子の問いかけに、大鷲は首をかしげた。

「飛べるのに、わざわざ人間の格好に戻ることないでしょう。このまま帰るよ」

 今度は獅王子が、ジト目になった。

「なによ、鳥目の癖に」

 それに、鷹人は首の羽毛を逆立てた。

「失礼な!そこらへんの野鳥と一緒にしないでよ!夜目のきく人間並みには見えるんだから!」

 あれだけ凄惨な現場を目にしたというのに、いつものように、軽口の応酬がはじまる。

 それだけ、こんな光景にも、慣れてしまったのだ。

 これで何度目なんて、数えるのすら馬鹿らしくなっていた。

 オオカミはわれ関せずと、すたすたと、生命活動が完全に停止し、もはやただの肉の塊と化した貴史の身体を見捨て、軽やかに歩き出した。

「ちょっと、どこへ行くのよ狼!あんたは鷹人と違って空を飛ぶわけにいかないんだから、そのままで帰ったりしないでよね!」

 それに気がついた獅王子は、あわててその後を追いかける。

 いくら夜とはいっても、こんな犬とごまかすのもいささか苦しい、黒いオオカミが闊歩したとあっては、目撃された時が大変である。

 だからこそ、わざわざこうして着替えまで準備したというのに、その労苦をふいにされたのではお目付け役の名が廃る。

 靴は玄関に置いたままだし、どうやら人の姿に戻る気がない鷹人に、まさか取ってこいとも言えず、獅王子は急いで、またストッキングのままで狼を追いかけた。

 その際、貴史の遺体のどこかを踏んづけた気もするが、もちろんそんなものかまいはしない。

 さすがに鷹人もそれはまずいと、かちゃかちゃと爪を鳴らしながら、ウッドデッキの端まで歩くと、巨大ともいえそうな翼を広げて、夜空に舞い上がった。

 先に回り込んで止めようとしたのだが、意に反してオオカミは、人の姿であった時に立っていたのとほぼ同じ桜の樹の傍まで来ると、ぴたりとそこで止まってしまった。

 肩透かしを食らった鷹人は、一瞬桜の枝に降りようかとも思ったが、とてもではないが、鷹人の体重を支えきれそうにないので、小さく旋回し、枝先を掠めるようにして結局、オオカミの背後へと降りた。

 じっと、樹を見つめるオオカミに追いついた獅王子は、その行動を理解できずに、眉をひそめた。

「いったい、何をやってるのよ」

 ちらりちらりと、花が散る。

 しばしそれに見入っていたオオカミは、おもむろに、桜の幹へと近づくと、まだ血がこびりついている口を開き、牙を突きたてた。

「な!?」

 その思いもしなかった行動に、一人と一羽が、驚きの声を上げる。

 オオカミが噛み付いたあたりから、まるで血のように、真紅の透き通った命のオーラが滲み出した。

 オーラは、見開かれた四つの瞳の前で、みるみる幹を伝い、枝を呑み込み、やがては花も、樹全体を覆いつくしてしまった。

「なに?」

 しかし、それだけでは納まらず、オオカミを包み込むとさらには、獅王子、鷹人までをも瞬時のうちにその紅い奔流の中へと、巻き込んでしまったのである。

「!」

 思わず、両手と翼で、顔をかばったその途端、意識の中に、一気に映像が流れ込んできた。

 かぐわしい風が吹く。

 その下で、二人の男女が、仲良く一本の苗木を、庭に植えている。

 よく見ればそこは、ずいぶん真新しい感じではあるが、間違いなくここ、立花邸だ。

 そして、狼がいたのとほぼ同じ位置と思われる、しかしまだなにもない庭の一角に、彼らはしゃがみこみ、うれしそうに言葉を交わしながら、まだひ弱な感じのする苗木を、シャベルで掘った穴の中に植え、大事に根元に土をかぶせている。

 降り注ぐ日の光がやわらかい。

 女性の方のお腹は、もうずいぶんと目立ってふっくらしていて、時々いとおしそうになでている様子からしても、そこに新しい命が宿っていることは明らかだ。

 太陽がきらめく。

 二人のまだ幼い姉妹が、さっきよりもずいぶんと強くなった日差しの下、庭で、ホースで水撒きというよりも、水遊びに興じている。

 まだ作ったばかりというウッドデッキに足を投げ出して、最初に見たときよりも、幾分年齢を増した男女が、その二人を目を細めて見守っていた。

 その庭に、少しずつ、木陰を提供できるほどに育ったあの苗木。

 あれはおそらく、交通事故で無くなった立花夫妻だと、見当がついた。

 そして、色づいた葉が庭へと散る頃、喪服に身を包んだ姉妹が、互いに互いを支えあい、見上げるほどに成長したこの桜の樹の下で、泣いている。

 やがて、崩れるように座り込むと、涙をぬぐうことも忘れ、根元を少し、手で掘り返すと、そこに白い何かを、いくつか埋めた。

 それは、たぶん両親の骨の欠片だろう。

 舞い散る木の葉を浴びながら、姉妹はいつまでもそこで泣き続けていた。

 しかし、いつしか寄り添っていたはずの姉の姿は消え、もはや泣くことすらせず、絶望に染まった瞳で、美和子が一人、一枚残らず葉を落とした桜の木の下に、立ち尽くしていた。

 打ちひしがれ、疲れきっているその肩に、花びらの変わりのように、白い雪が降る。

 美和子はゆっくりとしゃがみこむと、きれいに整えられた指先が汚れるのもかまわず、過去に姉と二人で掘ったあたりの土を、また掘り返した。

 そしてそこに、ハンカチの中にそっと持ってきた、小さな骨をころりと落とし、土をかぶせる。

 姉の幸恵の骨。

 美和子はのろのろと立ち上がると、ふと、誰かに呼ばれたのか、後ろを振り向いた。

 その先にいたのは、一応喪服を着ているが、その顔に好色そうな笑いを浮かべている貴史。

 桜の樹が、軋んだような気がした。

 そして。

 再びあたりを闇が包み込んだ。

 すべてのオーラが、オオカミの口へと吸い込まれていった。

 花びらが降る。

 それまでの、風に吹かれていたのとは明らかに違う。

 まるで雨のように、花が、その姿をとどめたまま、降り落ちてくる。

「……どうして美和子さんの依頼を受ける気になったのか、不思議に思ってたんだけど」

 命のすべてを吸い尽くされて、みるみる枯れていく、桜の花びらを手に受けながら、獅王子は呟いた。

「この桜が、本当の依頼主だったわけね」

 ぼんやりとしていた意識を、ようやく現実へと返した鷹人が、目を丸くした。

「じゃあ…!」

 苦々しく獅王子は、ゆっくりと牙をはずす狼を見やった。

「普通の人間の生気なんて、場しのぎ程度にしかならないし、まだそんなに切羽詰っていないはずなのに……。でも、この桜の樹、一本丸ごとの生気なら、報酬という意味なら十分ですものね」

 おそらくこの樹は嘆いたのだ、愛し、愛してくれた家族に降りかかった不幸を。

 そして、さらなる不幸を招き寄せた男を、恨んだのだ。

 身を引き換えにしても、許せないほどに。

 横たわる身体を、獅王子はかえりみた。

 月光の中、首を失い、無残な死に様をさらしている。

 馬鹿な男だ。

 愛されるままに、気持ちを返しておけば、その生活に満足していれば、こんな結末を迎えずに済んだというのに。

 彼は死ぬまで、本当の愛を、知ることはなかった。

 それは、生きるものとして、もっとも不幸なことではないのか?

「……さびしい男」

 獅王子は、ほんの少し憐れんで、ポツリと呟いた。

 その言葉は、夜をふるわし、鷹人は無言で獅王子を見上げた。

 なぜかそれが、妙に切なく心にしみた。

「……首を、どこへ持っていったんだろう」

 そう口にすれば、白い裸体が、血と血臭をまとわりつかせながら、立ち上がった。

 瞳はまだ、満足そうに、真紅と暗緑色に揺れている。

 獅王子は紙袋を探ると、バスタオルとふわりとかぶせかけた。

「あれは、立花姉妹じゃない。桜が見せた幻覚だ」

 血を拭いとりながら、狼が答えた。

「幻覚?」

 羽を少し逆立たせながら、うそ寒そうに、鷹人は聞き返す。

 見上げた先には、命を終えた、しかしなんの変哲もない桜。

 そんなことができるものなのだろうか?

 狼が、鷹人に視線を向けた。

「思いは、強ければ力になる。力が積もれば、奇跡も起こす」

 それが、なんであろうとも。

 淡々と、感慨もみせず語る彼が、少しだけ怖かった。

 その牙が、二人の喉を食い破り、三つの命をすすり上げたのに。

 彼は変わらない。

 この行為は彼にとって、ただの捕食でしかないから。

 生きていくための糧。

「掘り返せば出てくるだろう、この樹の下から、根に巻きつかれた頭がな」

 うっすらと、笑みのはかれた唇から、出てきた言葉に、鷹人はブルリと身体を震わせた。

 こういう時、狼が、得体の知れない、別の生物に見える。

 いや、同じだと思っているだけで、本当は違うのかもしれない。

 月光に照らされる、白皙の肢体に。

 桜が降る。

 すべての望みを成し遂げて、満足そうに。

 その最後の一片が、落ちるまで、三人は桜の下で、見守っていた。

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