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闇中輝眼  作者: 銀河狼
11/13

Scene 11

 木内貴史の告げた行き先に、四十になるかならないかという若さの細身のタクシーの運転手は、思わず目を丸くした。

「お客さん、あそこのパーティに行かれるんですか?」

 獅王子にそれほど畏まらなくていいと言われていたので、ダークブルーのダブルのスーツと、ブルーグレーのネクタイに、カフスと揃いのサファイアのタイピンをつけている。

 確かこれは、幸恵の前の女が結婚する時に、祖父の形見だといってくれたものだったが、別れた後、デザインが古臭かったので、小さくはなってしまうが、宝石だけをはずして、もっと今風のデザインにカットしなおしたのだ。

 靴は黒ではなく、ダークブラウンを選び、スーツがダブルなのでシルエットも少々いかつい物にした。

 腕時計もわざと、海外ブランドでもアナログタイプの革ベルトにして、セレブな集まりの中で浮いてしまわないように、全体的に渋めの感じに統一してみたのである。

 招待客全員の車を止められるほどの駐車スペースはないから、車では来ないようにと先に念を押されてしまったので、こうしてタクシーを自宅前まで呼んだわけだが、ビルの名を告げた途端、興奮気味にそう聞き返されて、貴史の方が面食らってしまった。

「そうだけど……知っているのかい?」

 獅王子はたいした集まりではないと言っていたし、多少胡散臭げに尋ねると、車をスタートさせた運転手は、貴史の疑問の方が心外という表情をした。

「あの辺りを走ったことのあるタクシー運転手で知らない者はいませんよ。もっとも、常連方は皆さん、運転手お抱えの、リムジンみたいな大きな車で送り迎えされるんで、タクシーなんかにゃとても、乗ってはくれませんけどね」

 言外に貧乏人だといわれた気がして、貴史は内心むっとしたが、住む世界が違うのは事実なので、じっと黙って聞いていた。

「といっても何人かは必ず、あなたのようにタクシーを使われる方がいらっしゃるもんで、話を聞く機会があるんですよ。私は、今回そのチャンスに初めて恵まれたわけですが、なんでもそれはすばらしいパーティなんだそうですね」

 ひどくうらやましそうな運転手に、貴史はなんだか不安を覚えた。

 今しがたは見当違いの方向に怒りを向けてしまったが、このパーティへの参加が仕事の一環とは考えづらいし、プライベートにまで運転手お抱えの大型の高級車を乗り回せるような集団の中に混じるのかと思うと、さすがに緊張してきてしまった。

 今時、よほどの家柄か金持ちでなければ、高級車は持っていても、プライベートでの運転は自分でするだろう。

「いや……私は初めて招かれたから、そこまでは……」

 いくぶん引きつった笑いを浮かべながら、そうお茶を濁すと、運転手は少しがっかりしたようだが、すぐに運転席の背もたれに貼り付けてある、ソフトビニール製の小さなポケットに束になって差し込まれている名刺を示した。

「背もたれに名刺がありますんで、よろしければお帰りの際にご指名してください。私達にとっちゃ雲の上の、一生縁のない話でしょうから、ぜひともどんな様子なのか聞かせて下さいよ」

 そうまで言われれば、貴史の方も悪い気はしなくて、その中から一枚を引っ張り出す。

 どうやらパソコンのプリンターで打ち出したものらしく、厚みが足りなくて頼りないそれを内ポケットへとねじ込んだ。

「覚えておくよ」

 尊大に答えれば、萎えそうになっていた自尊心もよみがえってきて、足を組んで後部座席にふんぞり返る。

 そうだ、何を臆することがあるといのか。

 自分を選んだのは、あの雷尾獅王子なのだから。

 うれしそうに念を押してくる運転手を、貴史は適当に相槌を打ってごまかした。

 どうせ帰るのは明日になるわけだし、めくるめく夜の素晴らしさに忘れ果ててしまうか、うまくすれば、獅王子が送ってくれるかもしれない。

 だんだんと戻ってくる調子に、貴史は満足した。

 確かに運転手の言うとおり、出自から考えれば、その足元にも近寄れないような世界ではあるのだろう。

 しかし自分はこうして、優雅に招待客のひとりとなっている。

 それがやはり凡人と、選ばれし者の違いだろう。

 貴史は運転手の背中を見下しながら、小さく鼻を鳴らし、新興宗教かぶれのような思考に酔いしれていた。

 そうこうしている内に、件のビルが見え始め、その前に立っている数人の黒っぽいスーツに誘導灯を持った男性に、すぐ脇の路地に入るように誘導され、もうすぐ裏手の別の通りに出るという辺りで止められた。

「木内貴史様ですね」

 料金を払おうとするよりも早く、窓を軽くノックされ、慌てて開けると、やはり同じ服装の三十前後と思われる男性が、慇懃に声をかけてきた。

「はい、そうです」

 それを肯定すると、男性がタクシーの運転手にドアを開けるように合図する。

「うかがっております。料金もこちらがお支払いいたしますので、中へどうぞ」

 開いたドアを軽く押さえるようにして立っている彼に、貴史は正直戸惑いながらタクシーから降りた。

 何度となくパーティには出ているといっても、ここまで格式高く馬鹿丁寧に迎えられたことはない。

「あちらの入り口からお入りください。中の者がご案内いたします」

 そう言って、すっと伸ばされた手で、高級マンションのエントランスを思わせる、小振りな出入り口を指し示した。

 路地は入るとまるでレンガのようなタイルで舗装され、件のビル側のほうは、車道よりいくぶん狭いくらいの幅で、小さな段差の歩道が整備されていた。

 歩道にはにょっきりと、ロンドンのガス灯を思わせる街灯が三本ほどあったが、普段はおそらくこれほど明るくはないのだろう、地面に置くタイプの、腰ほどの高さの同じデザインの照明が、明るすぎず暗すぎず、柔らかな光を放ちながらビルの壁沿いにずらりと並べてある。

 こんなことができるところをみると、この路地はひょっとすると私道なのかもしれない。

 促されて歩き始めはしたものの、気になって後ろを振り返ってみると、すでに清算を終えたらしく、タクシーは走り出し、その後に残った男性は肩幅に足を開き、両腕を後ろに組んで、制服警官が立っているときにとるようなポーズでそこにいた。

 どうやら見慣れた警官まがいの制服は着ていないが、送迎のスタッフを兼ねた警備員であるらしい。

 タクシーの中で復活させた自尊心が、またまたしぼんでいくのを感じながら、入り口前に立つと、確かに顔立ちは違うが、みな同じような印象を与える男性スタッフによって、ガラスの扉が引き開けられた。

 昨今は日本もだいぶ物騒になったし、こんなハイクラスのパーティともなれば、警備が厳しくなるのは当たり前だが……。

 しかしまた日本人の習性なのか、こうまで厳重にされると、悪いことをしているわけでもないのに、ついおどおどしてしまう。

 エントランスといっても何もないそこを素通りし、待つこともなく開いたエレベーターの中へと案内される。

 エントランスにはやはり二人待機していたが、役割はエレベーターに載せるまでらしく、中には別の男性が控えていて、恭しく頭を下げた。

 落ち着かない気分で、妙に広々としたエレベーターの中央に立つと、すぐに上昇を始めた。

「木内様、こちらがこのエレベーターのカードキーをなっております。こちらがありませんと、エレベーターが御使用になれませんので、失くさないようにお持ちください。御使用後はお持ち帰りになっていただいてかまいませんが、御使用できますのは明日までとなっておりますので、ご了承ください。本日中にお帰りであれば、スタッフがご案内できますので、お申し付けください。明日お帰りの際は、中に使用人が控えておりますので、そちらにお車等お申し付けくださるよう、お願いいたします」

 一流ホテル並みに訓練されているらしい彼は、とても警備員を兼ねいてるとは思えない懇切丁寧さで、貴史に説明しながら白っぽいカードキーを差し出すのを、遠慮がちに受け取り、たださえなくなりかけている現実感が、さらに加速をつけて薄れていくのを感じていた。

 金がないと嘆いている今の貴史の生活とて、世間から見れば、それなりに贅沢に違いない。

 それなのにこの待遇。なんだか雲の上を通り越して、宇宙にまで行ってしまったような気分だ。

 指に挟んだ、一見、ただに白いプラスチックカードにすぎないそれを、ついしげしげと見やる。

 やけにシンプルなのは、招待客用の使い捨てだからだろう。

 さすがに電子機器用とあっては、そう凝るわけにもいかなかったのだろうが、凝れるとなればこれとて、ここの格式にふさわしいものに仕上げられたに違いない。

 それになんだかほっとしているのは、思っている以上に自分が一般人だという証拠だ。

 スタッフは身体をずらして、本来なら階数の表記されたボタンがあるはずのコントロールパネルのある位置を見せたが、そこにあるのは、上昇を示している矢印のでている液晶画面と開閉ボタン、カードキーを差し込むようになっているスロットル、そして非常用の電話しかない。

「こちらは直通エレベーターですので、他の階に止まることはありません。カードキーさえ差し込んでいただければ、特に操作の必要はございません」

 思わず貴史の視線が、もっと遠くを見るものになったのも無理はないというものだ。

 こうまで度合いが違うと、どうしても虚構の世界に入り込んだ錯覚を覚える。

 たしかにこれでは、物見高いタクシー運転手の噂話にも上ろうというものだ。

 エレベーターをおり、その先にもざっと見た限りでは十人近くいるであろうスタッフに迎え入れられ、最後の止めとばかりに、開きっぱなしになっていたとはいえ、意匠を凝らした扉に度肝を抜かれつつ、それでも何とか表情だけは平静を保って玄関ホールに入る。

 日本家屋特有の、段差になった上がり口はなく、暗い色彩の御影石をパネル状にして敷き詰めた、完全なフラットだ。

 だだっ広いそこは、外の近代的な殺風景さが嘘のように、えらく古風な、というのでは言葉が悪いが、まるで中世ヨーロッパの上流貴族の邸宅の調度品が、そのままそっくり持ち込まれたのではないかと錯覚を起こすような、アンティークな家具が思い思いの場所に配置されていた。

 しかしどの家具も、じっくりと触れて観察してみればわかるが、綺麗に丁寧に扱われているのはもちろんでも、作られたのは近年らしく、今時こんな手の込んだ家具を、しかもこれほどの細々とした種類で、高級木材であるマホガニーを使用して既製品で売っているメーカーはまずないから、わざわざ特別注文をしたのだろう。

 これだけでも、庶民からすれば、正気の沙汰とは思えない所業だ。

 扉の正面の位置に置かれている、猫足の小さなテーブルの上には、大きな、天使の装飾も美しい白い花瓶に、色鮮やかな生花が見事にいけられて据えられ、どちらかといえば暗いトーンの中で引きたっている。

 テーブルの下には、濃い青地に、白い蘭の模様が入った大振りのカーペット敷かれ、そこが暗に、玄関と室内とを分けているようだ。

 天井には八個の花形のシェードの付いたシャンデリアがぶら下がり、メゾネットのわりに吹き抜けにはなっていなかった。

 思わずそのきらびやかさに、あんぐりと口をあけて見入りそうになっていると、スタッフの一人に、次にある控えのまで少し待っているようにと告げられた。

「ただいま、雷尾様をお呼びいたしますので、こちらで少々お待ちください」

 それにしても、今時これほど接客に対する教育の行き届いたスタッフを集められるのも驚きだが、招待状も示していないというのに、よく名前や顔が分かるものだと感心する。

 おそらく、それだけ参加するメンバーが長期間にわたって固定されており、なおかつ、人数もさほど多くないために違いない。

 獅王子が来るということは、部外者に等しい自分が、その会場に入るには紹介者の同伴が必要なのだろう。

 貴史としても、見知った人物など一人として望めそうもないパーティに、いきなり一人で放り出されてはかなわないので、おとなしくそこで待つことにした。

 スタッフもそれぞれ、玄関ホール、会場へと行ってしまったので、この小部屋でようやく気を抜けて、大きく息をつく。

 ここは、昔で言えば訪れた客が、コートなどを抜いて身なりを簡単に整えるために一旦待機する部屋で、従者がいる場合、主人の用が済むまで待つための部屋でもあった。

 玄関ホールより多少狭いくらいのここの現在の役割は、廊下の延長のようなものでしかないらしく、昔の名残風に、扉の両側に一脚ずつ、布張りの長椅子と、コートや帽子をかけるための、これまたクラシックな木製のラックが、長いすの前に一つずつ置いてあったが、これでは足りるはずも無いので、両サイドの壁に目立たないようにクロークが作りつけられていた。

 この部屋には、入ってきた扉のほかに三つの扉、つまり各壁に一つずつドアがあり、その全てはこの部屋の中心に向かって、つまりは内開きになっている。

 正面は今までと同じ両開きだが、半分より上に、植物を咥えた鳩が四方を固め、その中心に大きなベツレヘムの星が、それぞれ削り出された白いガラスがはめられており、左右の扉は木製の一枚扉だ。

 広さとしては八畳くらいだろうか、たいしたものが置いてあるわけでもないので、すぐに観察に区切りをつけ、腰をおろしのもはばかられそうな、高級感溢れる長椅子に、それでもどっかりと座り込むと、しばし放心してから、行儀悪く足を投げ出してそっくり返り、うーんと、伸びをした。

 貴史は初めて、ここに来たことをほんの少し後悔していた。

 逆玉の輿を狙ってはいるが、これは少々、レベルが違いすぎているようだ。

 こうなると今度はいろいろと、別な意味で制約がある様な気がする。

 もう少し堅実なところを狙うべきだったかなと、だらしなく身体を伸ばして、ぼんやりを考えていたときだった。

 正面の両開きのドアが開き、貴史は危うく椅子からずり落ちそうになってから、慌てて立ち上がると姿勢を正した。

 飾りガラスがはめ込まれているので、人が立てばすぐ分かると思ってこんな格好でくつろいでいたのに、気を抜きすぎるあまりに、ドアが開くまでまったく気がつかなかったのだ。

「お待たせして大変申し訳ありませんでした」

 しかし、畏まるスタッフを伴って現れたのは、期待していた人物ではなかった。

「雷尾獅王子の方は今、ちょっとうるさ方に捕まっていますので、僕がお相手を言い付かってきました」

 にこやかに微笑む相手は、着ているものこそ、貴史よりも上等のようだが、どう見ても高校生くらいにしか見えない少年だった。

「獅王子の遠縁に当たります、羽島鷹人といいます。どうぞよろしく」

 物慣れた様子で右手を差し出してきた彼に、つい無遠慮にじろじろと見てしまっていたことに気付き、貴史は急いで愛想よく取り繕うと、その手を握った。

「失礼しました。木内貴史です。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」

 手が放せないからといって代理に、こんな子供をよこすなんてどういうつもりだと、腹も立ったが、獅王子が指名した相手とあっては、まだ試されている可能性もあるので、ここはぐっと辛抱すべきだ。

 話した印象からして、獅王子は一筋縄ではいかない女だったし、結局、分不相応の世界だったとしても、それこそ経験するだけでも悪くはないはずなので、尻尾を巻いて帰るのは信条に反する。

 ここは、お手並みを拝見した方がいい。

「ほぼ身内ばかりの席ですので、少々無礼講が過ぎるかもしれませんが、あまり気にしないで楽しんでください。獅王子さんもすぐ来ると思いますから」

 そう言って、広大なリヴィングの中へと誘う彼の後について、やはり緊張気味に歩を進める。

 ドアの横に立っていたスタッフが、二人を見送って恭しく一礼すると、扉を閉めた。

 さほど大きな音がしたわけではないし、室内には、生の弦楽四重奏の音楽が心地よく流れ、高くもなく低くもなく、人々が交わす会話によって作り出された静かなざわめきの波に包まれていて、その中に二人が入ってきたことなど、そうそう目立つ事ではないように貴史は思っていた。

 ところがいきなり、ざわめきのボルテージが下がり、音楽がはっきりと耳に届くようになると、大半の者の視線が一気に集中した直後、何やら聞き取ることできないほどひそひそと、そこここで囁きが交わされているのに、いやがおうにも気がつき、貴史はひどく戸惑った。

 元々扉の前は、出入りがあるせいか、人は少なめで、ぽっかりと空間になっていたのだがそれにしてもなんだか、ひどく遠巻きにされている感じがする。

 視線が向けられていることからして、話題は明らかに自分であるらしい。

 その貴史の横で、鷹人は密やかにほくそえんでいた。

 どうやら彼が『餌』だと、きちんと広まっているようだ。

「どうかしましたか」

 わけも分からず混乱して立ち止まってしまった貴史に、素知らぬ顔で声をかける。

「あ、ああ、申し訳ない。なんだか、注目されているようなので……」

 注目されるのは別に初めてではないし、むしろ目立つことが好きではあるが、こんな、観察するような妙な視線にさらされたことはないので、知らず浮かんでいた額の汗を、胸ポケットのハンカチを取り出してぬぐった。

 敵視されているような、軽視されているような、それでいながら、恐れられているような、様々な感情が複雑に入り組んでいて、なぜそれを見知らぬ人々から向けられなければならないのかが、理解できなかった。

「ああ!」

 できる限り不自然にならないように、鷹人は、初めて気がついたというような表情をしてみせた。

「気にすることありませんよ、いつものことです。あなたが今夜の獅王子さんのパートナーだと紹介されているせいですよ」

 苦笑しながらそう告げられて、貴史は目を瞬かせた。

「それだけで……これですか」

 さすがには不仕付けだと思ったのか、談笑は戻りつつあるが、やはりちらちらと様子をうかがわれていて、居心地が良くないのは変わらない。

 鷹人は軽く肩をすくめた。

「獅王子さんは、美人で若くて……まだ独身ですからね、仕方ありませんよ」

 どこか遠まわしな返答に、それでも貴史は納得した。

 財産とその美貌を目当てに、言い寄ってきているのではないかと、警戒されているわけだ。

 その通りなので、否定もできないが。

「なるほど、彼女が大層な家柄のお嬢様なのは、有名な話ですしね。私は不逞の輩ということで、警戒されているわけだ」

 理由が分ければなんて事はない、よくある話なので、少し皮肉ってやれば、鷹人の苦笑が深くなる。

「そんなところです。僕と一緒の間は、ひょっとすると多少勘繰られるかもしれませんから、注意してくださいね。獅王子さんが傍にいるようになったら、さすがに聞けませんから。そんな度胸のある人もいないでしょうし」

 最後のところで、鷹人の笑いに冷たいものが混じるのを見て、貴史は目の前の人物が、見た目ほどかわいらしいわけではないらしいのに、少しひやりとした。

「このビルのオーナーが彼女だからかい?」

 当然のようになされた問いかけに、鷹人は一瞬きょとんとした後、しばらく考え込んでから、急に年相応の顔になって、くすくす笑い出した。

 何がおかしいのかと怪訝な表情になった貴史に、鷹人は手を振った。

「違いますよ。ここのオーナーは獅王子さんじゃありません。厳密に言うと、このパーティも、名目上の主催者は獅王子さんじゃないんです。まあ、実際取り仕切ってるのは、獅王子さんですけどね」

 そういうと、もう少し奥へ行くように、貴史を誘導する。

 すると、自然と、露骨にならない程度に、しかし確実に皆が二人を避けるので、なんともいえない気分になった。

 中央からいくぶん奥によった、こちらからすると右の壁際の、ずいぶんと大きな風景画を背に、五人ほどの中年の男女に囲まれて立っている長身の若い男性を、鷹人はこっそりと指し示した。

「あそこに立ってる中の一番若い男の人が、このビルのオーナーであり、入っている会社の会長、そしてこのパーティの主催者で、僕達の家主である墺守おうがみあきらです」

 いや、示される必要はなかった。

 その方向を向いた途端に、貴史の視線はその人物に釘付けになってしまったからだ。

 すらりと線の細い長身は、ドレスではなく、スリムなシルエットのタキシードに包まれている。

 しかしインナーは、派手にフリルのついたドレスシャツなので、女性にしては背が高すぎるかと思わないでもないが、体のラインから女性か男性かは判断がつかなかった。

 絶妙なバランスの卵形の顔を、柔らかな色合いのセミロングの髪が縁取り。

 しかし何よりも、貴史の目をひきつけて放さないのは、まさしく花のかんばせというにふさわしい、類まれなる美貌であった。

「……墺守、狼さんとおっしゃるんですか……あの、失礼ですが、本当に男の方ですか?」

 正直、見た目だけなら獅王子より美しいあの顔で、こう聞くのはかなり抵抗があったので、かなり口幅ったくなる。

 確かに男性だとは言われたが、切実に否定して欲しい。

「まあ、初めて見た人は大抵そう言いますね。狼は間違いなく、男ですよ」

 それなのに、鷹人は慣れているのか、あっさりと肯定してしまって、覚悟はしていたはずなのに、ものすごいショックを受けた。

 こんな、美しいとしか表現できないような男性が、想像の世界ではなく存在するなど、とても衝撃を受けずにいられまい。

 獅王子といい、ここの一族には、美形の遺伝子が組み込まれているのかと思ってしまう。

 そういえば、この鷹人と言う少年も、見た目の幼さにごまかされていたが、よくよく見ればきれいな顔立ちをしている。

 もう少し成長すれば、自分と同じくらい、いや、それ以上の美男子になることだろう。

「……なんだか、御伽噺の王子様みたいな人ですね」

 それでも、あの墺守という青年はまた別格で、ホストというのもなんだか違う気がして、思わずそう呟いてしまってから、内心首を傾げた。

 なぜそんな印象を狼に対して抱き、口にしているのか、自分でも良く理解できなかったからだ。

 隣にいる鷹人が女性だというならまだしも、素の自分はそんなことを男に対しても言えるほど、ロマンティストのつもりは無いが。

 そう考えていて気がついた。

 狼という人物に、現実味がないことを。

 どこか怠惰で、物憂げな感じはするが、獅王子のような鮮明さが無く、イメージとして捕らえようとするとどこかぼやけているようで、外見の美しさだけが際立って存在感が薄いのだ。

 だから、己の存在を、生存競争のために強烈にアピールするホストではなく、御伽噺の王子になってしまう。

 獅王子を落とそうとしている自分からすれば、とんでもないライバルのはずなのに、なぜか嫉妬する気も起きなかったのは、そのせいだったのだ。

「あの服は、獅王子さんが見立てて、そういうコンセプトらしいですから、見方は間違ってませんよ」

 まさか貴史が、狼をそんな風に分析しているとは思ってもいない鷹人が、ずれた答えを返したが、それを構成する言葉の一つに引っかかった。

「雷尾さんが、『見立てた』?」

 思わず聞き返すと、さも当然と鷹人は頷いた。

「狼や僕の服は、いつも獅王子さん見立ててくれるんですよ。この手の礼服のセンスは、僕達は信用がまったくないんです」

 それから困った様子で、大きな溜息をついた。

「僕ら三人は、この上のフロアで同居してるもんですから、選んだ服をちゃんと着て見せないと、絶対に許してくれないんですよ。正直、女性じゃないんで、毎回新しい服にしてくれなくても、いいって言ってるんですけどね」

 こんなデザインの服じゃ、他では着られないのでタンスの肥しになるだけですよと、半ば愚痴になっている鷹人の言葉が耳に入らないほど、貴史は危機感を感じていた。

 なんだか嫌な予感がするとは思っていたのだが。

「君と、墺守さんが、雷尾さんと同居している……?」

 聞き捨てならないと言うか、貴史が調べた限りでは、彼女が誰かと、しかも男二人と生活している事実など、まったく引っかかってこなかったのに。

「ええ、さっきも言ったでしょう。ここの家主は狼なので、実際は、僕と獅王子さんが同居させてもらってるんです」

 そんな貴史の危機感を、さらに煽るような発言を鷹人は続けた。

「といっても、僕は後から加わったので、元々は狼と獅王子さんが、二人で住んでたんですよ。……狼は、見ての通りの大金持ちですから、それがどういう意味なのかは、お分かりだと思いますけど」

 さすがに平常心を保てなかったのが顔に出ていたのだろう、鷹人は秘密ですと言わんばかりに人差し指を立てて、唇に当てる。

「これ以上、僕は話せないので、後は獅王子さんから直接聞いてください」

 つまり、他人から聞くのはタブーだが、本人から聞く分にはかまわないと言うことなのだろう。

 後は、それを尋ねる度胸があるかどうかの問題だ。

「……彼女が資産家だと言うのは、そういうことか」

 貴史が呻く。

 だとしたら、まんまといっぱい食わされたことになる。

 貴史の狙いはあくまで、結婚の予定のない、金持ちの独身女性で、金持ちになる予定の女性ではないのだから。

 ましてや、狼が相手では、外見からいっても、経済力からいっても、まったく勝ち目がないのは、あまりにも明白だ。

 男遊びが激しいというような噂は耳にしていたが、それにしても婚約者がいるとは思わなかった。

「違いますよ」

 完全に誤解している(そのように仕向けた傾向はあったが)貴史に、鷹人は噴出しそうになるのをこらえながら、それを否定した。

 こんなにわかりやすい性格をしているのに、よく結婚詐欺師などやっていられるものだ。

「確かにこのビルのオーナーは狼ですが、獅王子さんの実家は、世界でも指折りの大金持ちですよ。だからこそ、お目付け役としてここに住んでるわけですから」

 今度こそ、不可解という表情になった貴史に、鷹人は小さく咳払いして説明を始めた。

「このビルに入っている会社が、ランゲバージコンツェルンに属しているのはご存知ですか?」

 それには、貴史も頷いた。

「もちろん知っていますよ、ヨーロッパに拠点を置いているという、巨大財閥ですね」

 世界経済の知識が多少なりともあれば、ランゲバージコンツェルンの名を知らない者はいまい。

 ヨーロッパのみならず、世界中のありとあらゆる業界に、名を変え品を変え、存在するといわれる、この超がつく巨大企業グループは、ドイツに名目上の本社が置かれているらしいが、その実体は大きすぎるゆえか、まるで濃い霧に包まれでもしているかのように知られてはいない。

 この時代にありながら、まったくの血族者による、完全なる経営が図られているのだが、その結束は、そうした絆の固さが有名な華僑よりもなお強く、まったく他者を寄せ付けず、その存在を完璧に現実社会から隠蔽しているため、大げさではなく、まさしく神秘ベールに覆われているのだ。

「ランゲバージのトップを構成する四家の内の一つが、獅王子さんの実家ですよ」

 さりげなく言われたそれに、しかし貴史は息を呑んだ。

 それこそ、住んでいる世界が違うというやつだ。

 ランゲバージは元々、ランゲバージという一族が創設したらしいが、すでにその血筋は絶え、その一族に仕え、かつ縁戚関係にもあった、現在の四家が引き継いだというところまでは知られているが、その氏素性は、企業実体同様、ほとんど不明である。

「だから、別の四家の一つの後継者である狼が、ここの会長役に就任するに当たって、まあ、許婚兼お目付け役に抜擢されたわけです」

 なにやらその辺りは口を濁したが、それでも貴史は驚かずにはいられなかった。

 ハイクラスだとは思っていたが、そこまでとは、とても想像がつかなかったのだ。

「それも、秘密というわけだね」

 これは相当慎重にいかないとと、気を引き締めなおし、できる限り平静を装って答えを返す。

 迂闊に事を運ぶと、これは火遊びではすまなくなりそうだ。

 尻込みしたい気分がある一方、興奮してくる思いもある。

 そうだろう、例え遊びのつもりだったとしても、声をかけてきたのは獅王子の方なのだから。

「ええ、ですから獅王子さんから聞いてください」

 そうさらりと流されたところからして、どうやら婚約者である狼のことを尋ねるのも、さほど問題ではないらしい。

 その程度の相手としか、見られていないのかもしれないが。

 話し続けていて喉が渇いたのか鷹人は、通りかかったボーイを呼びとめ、グラスを手に取る。

 確実にアルコールと分かるそれを、止める間もなく喉へと流し込んだ鷹人に、いくら身内だけとはいえ、とりあえず未成年の飲酒は、大人として注意すべきだろうと、一応目付きを厳しくした。

 本来はそういうことには一切かまわないし、自分も未成年の頃からアルコール類は良く口にしていたから、いつもは気にはしないのだが、やはり分別があるところ見せておいた方が、鷹人からの印象は悪くなっても、周囲や獅王子からの評価はアップするというのものだ。

 妙に毛負っている貴史の様子に気がついた鷹人が、心の中で盛大に苦笑いをもらす。

 これも、こういう席で初対面の相手にはいつものことだ。

 どうせ彼も、自分のことを高校生だとでも思っているのだろう。

 ましてや、少しでもいい恰好をしようとしているこういう手合いだと、必ず、偉ぶって注意しようとしてくる。

 説明が面倒な時などは、素直に聞き流すか、初めから外見にあった年齢を装ってごまかすが、この男に説教されるのは御免なので、先手を打っておくことにした。

「これにも誤解があるようなので、あらかじめ断っておきますけど、僕は成人してますから」

 グラスを軽く上げながら、そう告げると、貴史は、狼が獅王子の婚約者だと教えた時よりもよほど驚愕したようだ。

 これも、往々にして同じリアクションではあるので慣れてはいるが、虚しいというか、けっこう傷付く。

 『餌』だと知っていると、余計だ。

 この男について、そう詳しい説明は受けていないし、狼も獅王子もする気はないだろうから、鷹人が持っているデータは、ワイドショーなどで放送されたものに毛が生えたくらいと、こうして直に会ってみての第一印象のみだが、それでもろくでもない人間であるらしいのはすぐに判別できた。

 それ以前に、本当に分別のあるなら、付き合っていた女性がなくなってまだ、四十九日も迎えていないというのに、獅王子の誘いに乗ったりはしないだろう。

「そ、そういえば君も、雷尾さんとは遠縁だと言っていたね」

 引きつりながら話題を変えてきた貴史に、それでも、童顔ゆえに可愛らしいと称される、愛想笑いを向けた。

 こうした外面の厚さも、獅王子たちと付き合う上で積み重ねられた経験から得たのだから、なんとも複雑だ。

「……それで、君も、墺守さんのお目付役なのかい?」

 ずいぶんと下手な質問だが、他に聞きようもなかったのだろう。

 獅王子との親密な付き合いを望んでいる貴史からすれば、相当気になるに違いない。

 年齢こそはっきり言ってはいないが、立派に成人男性なのだと教えたのだから。

 鷹人はそれに、わざと素知らぬ顔で嘯いた。

「僕は、そんな大層な役柄は持ってませんよ。文字通り、『遠い親戚』ですから。……家族がみな、死んでしまった頃はまだ未成年だったので、狼が同居を申し出てくれて、獅王子さんが了承して、それに僕がうなずいただけです」

 それを聞いて、貴史は失敗したと内心大きく舌打ちした。

 どうも浮世離れした集まりなので、世の常識というのを、失念してしまっていた。

 会話を交わしていても、なにやらこの場に似つかわしくないというか、庶民的な感じがすると思った時点で、配慮すべきだったのだ。

 男だということと、最初は未成年だと思い込んで侮っていたので、対応が疎かになっていたようだ。

 彼は、獅王子の代理として相手をしてくれているのだから、もっと慎重にならなければ。

「それは、大変不仕付けな質問をしてしまって申し訳ない」

 沈痛な顔をして非礼を詫びると、鷹人は恥ずかしそうにグラスを持っていない左手を振った。

「そんなに気にしないでください。同居のことを知ると、大抵の人が疑問に思いますから」

 どうやら、さほど悪い感情をもたれていないようなので、貴史はもう少し突っ込んでみることにした。

 自分としては彼がどういう過去をもっていようが、さほど興味はないが、獅王子と一つ屋根の下にいる以上、その関係がどんなものかは大いに気にかかる。

「それじゃ、墺守さんから援助を受けながら、大学に?」

 いくらなんでも、もう大学を卒業しているということはないと思うが、念のためにぼかして尋ねてみた。

「いえ、それは、両親の保険金とかがけっこうあったので、一人で生活できないこともなかったんですが……この年齢で恥ずかしい話なんですけど、やっぱり急に肉親を亡くしたので、寂しかったんですよ」

 さすがにうつむき加減の鷹人に、気の毒そうに相槌を打ちながら、そんなもんなのかねと、貴史は心の中で首を傾げた。

 貴史の両親もすでにこの世にはいないが、あちこちに無心ばかりして借金を作り、一人息子にろくな金も残せないような最低の親だったから、死んだ時には、悲しいというより清々したという思いしかなかったからだ。

 世間一般的にいえば、鷹人のように感じる方が普通なのだとは知っている。

 ただ、理解できないだけで。

「まあ、今にしてみれば、狼達にとっては渡りに船だったのかもしれませんけどね」

 そう昔の話でもないわりに鷹人は、もう心情的には割り切っているようだが、そういうとなんだか疲れた様子になった。

「今や、家事の一切は僕が一手に請け負ってますからね」

 一瞬、鷹人の言葉を把握しかねて、貴史は疑問符を頭の中に飛ばしまくった。

「あの二人は……見れば分かるでしょうけど、家の事なんて、やるタイプじゃ、全然ありませんからね」

 『全然』に妙に力の入った鷹人の言い分に、貴史は当たり前の疑問を口にした。

「しかし……それなら家政婦とか……お手伝いさんを雇えば、問題はないんじゃないのかい?」

 というより、むしろそうするのが当然のような気がするのだが。

 それに、鷹人はちょっとたそがれた。

「……そうなんですよ。僕が来る前は確かにお手伝いさんやら、家政婦さんやら、頼んでたんですけど、あの二人、なんだかんだと理由をつけては来る端からクビにしていったんで、最初の頃は同居を快く思ってなかった親戚筋からも、こんなに長く面倒を見られる人は初めてだって、感謝されてるくらいですよ……」

 それは体よく、身代わりにされたのでは?

 ……とは、あんまりにも気の毒で言えなくて、貴史は口を閉ざしたが、鷹人の視線がなんだか遠くを見るものになってしまっているのも、無理はないだろう。

「それに、体の相性も良かったし」

 突然後ろから、割り込んできた声に、グラスを口に運ぼうとしていた鷹人は、むせ返りそうになった。

「獅王子さん!」

 何でも話していいとは言われたが、そこまで赤裸々に暴露しなくてもと、声を張り上げた鷹人と、人がいるような気配がなかったので、思わず飛び上がりそうになった貴史が、ほぼ同時に振り向いた背後で、妙ににこやかに獅王子が立っていた。

 何度見ても大層な美人だと、改めて貴史が脂下がっている一方、その笑顔に胡散臭さを感じられる程度の嗅覚のある鷹人は、内心引き気味である。

 体の関係があるのは、大方予想はついていたし、これくらいで落ち込んでいては、とても彼女のお相手は務まるまい。

「悪かったわね、押し付けちゃって」

 どうやら一通りの挨拶回りはすんだらしく、やっと肩の荷が下りたといわんばかりに明るい表情になっている彼女に、鷹人は少し首を傾けた。

「別にかまわないよ。けっこう楽しく話してたしね」

と、同意を求めると、貴史も頷いた。

「ええ、いろいろ聞かせてもらえてよかったです」

 それに、獅王子は満足してようだった。

「退屈してたんじゃなければ、良かったわ。今日は、いつにもまして年齢層が高いから」

 軽く息をついて、頬に手を当てて見渡す彼女につられて視線を巡らせれば、確かに中高年以上の姿が目立つようだ。

「それじゃ、僕はお役御免でいいのかな?」

 なんだかこうして会話を交わしていても、特に不審な点は見受けられないのだが、このまま一緒にいるのもまずいし、かといって離れるのもなんだか嫌な予感がするので、鷹人は一応お伺いを立ててみた。

 それも墓穴を掘っているような気がしないでもなかったが。

「ええ、ありがとう」

 もう一度労うと、ちょいちょいと耳を寄せるように合図した。

「……それで、今度は狼の方を見てやってくれる? 今日は、娘や孫を連れてきた人はいないから、狼がかまわないようだったら引き上げてくれても大丈夫よ」

 どうせいたところで、自分から社交辞令や世間話に応じるようなタイプではないし、名義だけとはいえ、主催者が一人で壁際で飲んでいるのでは、客の方もいい気がしないだろう。

「……挨拶したいっていったら、連れて来てくれる?」

 誰に、とは言葉にしなくてもすぐ分かるので、うなずくだけにとどめた。

「明日だから、どうかな」

 鷹人が呟けば、獅王子は肩をすくめる。

「分からないわよ、狼の考えてることは」

 こんなところにまで『餌』を招待した上、おいしくいただこうなんて気になる、獅王子さんだって理解の範疇を超えてるけどね、という本音は、自分の身の安全のために、表に出すことなく葬っていおいた。

 貴史がしきりに気にして、さりげなく会話を盗み聞こうとしていたので、端折れる部分は全部端折ったから、聞かれたとしても意味は通じないに違いない。

「それじゃ、ゆっくり楽しんでいってくださいね」

 それで、改めて貴史に向き直り、にこやかに締めくくれば、相手も同じような笑みを返してきて、狐と狸の化かし合いかと、むなしくなった。

 どうやら狼の方も、一通りの社交辞令は終了したらしく、一人になって無表情に立っているところへと向かう鷹人を、自然と二人で見送る形になる。

「すぐにお相手できなくて、本当に失礼しましたわ」

 鷹人が狼の元へと辿り着いたのを確認して、獅王子が艶やかに微笑んで右手を差し出すのを、貴史も恭しく受け止めた。

「美しい方を待つのもまた、楽しいものですよ」

 ひざまずくことはしなかったが、深く腰を折って、その甲に軽く口付ける。

「あら、相変わらず、お上手なのね」

 今夜の彼女は、前回のスーツよりも一層ボディラインが強調された、露出の高い、シックなデザインのマーメイドのワンピースを着ているのが、男心を刺激するのだ。

 このパーティそのものが、自分が踏み込んだことの無い、踏み込めるはずも無い世界だっただけに、怖気づいてしまったが、こうして獅王子を目の前にすると、全身から発散される魅力に、どうしても手に入れたいという強烈な欲求が、むくむくと頭をもたげたのがわかる。

「お世辞などではありませんよ。今宵のあなたは、また一段と魅力的です」

 一刻も早く、その黒のドレスの下の白い肌に指を這わせたくて、その括れた腰を抱き寄せ、きらめくプラチナブランドの髪に顔をうずめるように、耳元に囁いた。

「まだ、ダメよ。もう少しいい子にしていてくださるかしら」

 そのまま唇を求めようとするのを、軽く貴史の胸元を押さえて遮ると、獅王子はコケティッシュに首を傾げた。

「ここにいらしている方々は、そういうことにうるさい方が多いのよ」

 彼女の物言いに、貴史はちょっとむっとした。

「それは、婚約者の墺守さんに、配慮して、ですか?」

 つい皮肉気な言い方になるのに、獅王子は嘆息すると、元よりあまり力のこもっていなかった腕の中から、するりと抜け出す。

「そうとっていただいても、かまいませんのよ」

 それまでの多少砕けた喋り方から、ホテルのバーであったときのような口調に変わったことで、貴史は獅王子の機嫌を損ねたことを悟ったが、これはどうしようもない。

 貴史としては、これを有耶無耶にするわけにはいかないのだ。

 その返答いかんによって、獅王子を次のターゲットとするか、一夜の関係とするかが決まるのだから。

「鷹人から、お聞きになったのかしら?」

 つんと澄まし、冷たくなった獅王子の態度に、貴史は哀れっぽい声で縋ってみせた。

「私の心は、初めて出会った日から、全てあなたに奪われ、捧げ尽くしてしまったというのに、彼から、あなたに婚約者がおられると聞かされた時の絶望を、わずかなりと哀れに思うのでしたら、察してはくださいませんか?」

 目線を下げて、うな垂れるようにうつむく彼に、獅王子はわざとらしく、頬に手を当てる。

 今時、こんな三文小説にもならないような、芝居を演じることになろうとは。

 それでも、まったく面白くないわけではなかったので、もう少し付き合ってみることにした。

「狼のことは、関係ありません。……それより、あなたの目に彼は、どういう様に映りますの?」

 キッパリと言い切ってから、獅王子は周囲をちらりとうかがってから、こっそりと耳打ちした。

「それは、どういう意味ですか?」

 質問の趣旨が分からず、同じように声を潜めて聞き返すと、少しじれったそうに、獅王子は口調を荒げた。

「狼は、あなたにはどういう風に見えるのかと、聞いているんです」

 そんなことを聞いてどうするのかと、貴史は首を傾げたが、言われるままに狼の印象を口にした。

「男性にしては……綺麗な方ですね。まるで、精巧に作られたビスクドールのようです」

 顔の部分が陶器でできているその人形は、価値もさることながら、外見の繊細な美しさでよく知られている。

 人間味の薄い彼は、その美貌と相まって、先ほどの見たように無表情になると、余計に人形めいて見えた。

 その貴史の感想に、獅王子は頷くと同時に、盛大なため息もついた。

「確かに、私は狼の婚約者という位置の一番近くにはいますが、あくまでお目付け役であって、まだ婚約者じゃありません」

 なにやら迷惑がっているような、難しい顔つきで彼女は独白した。

「……第一、彼は、あなたが言うように、生気が無くて、まるで人形のようなんです」

 獅王子はそれにかなりの嫌悪感を抱いているらしく、眉を強くしかめるのを見て、ためらいがちに口をはさんだ。

「だって、彼はずいぶん……良い家柄のご子息なのでしょう?」

 金持ちの、と言いそうになって、修正する。

 おそらくは生まれた時から、金銭の心配など一切なく、それこそ何でも与えられて育ってきたのだろうから、やる気というか、ハングリー精神がそれほど養われないのは、ある意味当たり前だ。

 しかしそれは、彼女にとって大いに不満であったらしい。

「私は別段、彼の実家と婚姻関係を結ぶつもりはありませんもの」

 余計につんけんしてきた獅王子に、それもそうかと思う。

 彼女自身、狼に並ぶ良家の子女なのだ。

 地位も名誉も財産も、すでに持っているのだから、別段必要はないのだ。

「確かに私の家は名家かもしれませんけど、トップモデルとしての今の地位は、自分の力で築き上げたものですわ」

 獅王子の瞳は厳しく、力強い、見るものを引き付けずにはおかない輝きを、誇らしげに放って、貴史を見つめた。

「私、与えられた物に満足してしまって、甘んじるような男は好みではありませんの。何もかも貪欲に求める、野心家が好きですのよ」

 そう、どこか媚びるように言われて、ちらりと流し目を向けられれば、その妖艶さにどきりとしながらも納得する。

 確かに彼女のこの気性では、外見ばかりがお綺麗なお坊ちゃまでは、到底満足などできないだろう。

 これはとんだ大物を、釣り上げられたのかもしれない。

 貴史は、内心舌なめずりをした。

「それでは私は、あなたのお眼鏡にかなったというわけですね」

 先の言葉に配慮して、あまり露骨にならないように、そっと身を寄せて甘く囁けば、獅王子はもったいぶった笑いをもらした。

「あなたは、私を満足させてくださいますの?」

 目もくらむような魅惑的な誘いに、貴史は酩酊しながらも勝利を確信した。

 本当に夢のようだが、もうこの女は身も心も、そしてその財の全ても、近い将来、自分のものになるのだ。

「もちろんですよ。心も、そして、身体もね」

 自信たっぷりに微笑み、その美しい髪を一房手にとって、その先端に軽く口付ければ、笑みの形に細められた獅王子の瞳の中に、銀色の光がよぎった。

 上手くいった。

 それは、どちらの思考だったのだろうか。

「楽しみにしていますわ。それまでは、この宴を楽しんでくださいね」

 ようやくにこやかさを取り戻した獅王子に、貴史は快く応じた。

「喜んで、せっかくお招きいただいたのですから」

 晴れやかな笑顔の下で、それぞれの思いが交錯した。

 そこへ、タイミングを見計らっていたのか、鷹人が戻ってきた。

「獅王子さん、狼、引き上げるって」

 パーティも貴史がやってきてから、なんだかんだですでに一時間近くが経過している。

 音楽は流れているが、特にダンスをするでもなく、もっぱら挨拶や会話を交わすだけの、パーティとは名ばかりの身内の親睦会なので、貴史には八時に来るように言ったのは、それが一応開始の時刻ではあっても、実質上は特に時間指定は無く、最初の一人が大抵七時頃にやってくるので、それから済し崩しに始まるのが常なのだ。

 終わりの時間も決まってはいないのだが、食事と会話に満足した客の中から、最初の帰宅者が出る頃合だ。

 そして、おおよそ十時頃には、自然にお開きになり、まだ話が尽きない者や、飲み足りない者は宿泊して、このリヴィングと廊下を挟んだ両サイドにあるゲスト用の、一流ホテル顔負けの部屋や、この奥にある娯楽室、もしくは喫煙室も兼ねた談話室へと場を移すことになる。

 その声に目を向けると、社交辞令にすっかりうんざりしたらしい狼が、重い足取りで少し遅れてこちらに来るところだった。

「食事は取れた?」

 獅王子は少し、心配そうに鷹人に尋ねた。

 彼は、狼や獅王子とは別の意味で、よくうるさ方に捕まっているので、気にはなっていたのだ。

「今回は比較的、落ち着いて取れたよ。……みんなの興味は、『餌』に集中してたからね」

 狼は食べないし、どうせ動かないのも分かっていたから、獅王子が貴史と話しこんでいる間に、ちょこちょことテーブルと狼の間を往復して、今回は十分に舌鼓を打たせてもらった。

 そのわりに声をかけようって人はいなかったみたいだけどと、小声で告げる。

「あの狗堂さんですら、目が離せないって感じで、睨んでたしね」

 どうやら、周りの反応が予想以上に愉快だったらしい。

 必死に笑いをこらえている鷹人に、獅王子は猫のように目を細めた。

 それはまさしく、願ったりかなったりだ。

「……紹介してもらえるか、獅王子」

 そこへようやく、狼が到着した。

 獅王子とほとんど変わらない、男なのがもったいないような白い肌が、少し疲れて青ざめいているようだ。

 それを目にしたとき、なぜだろうか、唐突に美和子のことを思い出して、貴史は動揺した。

 最後に会ったときの美和子も、疲れを滲ませて、こんな肌の色をしていた。

「ええ、そうね」

 少し素っ気無く、獅王子は答えた。

 今の獅王子は、狼が好きではないという設定なのだから。

「こちら、木内貴史さん」

 その口調に鷹人は一瞬怪訝そうになったが、ちらりと獅王子と視線を交わすと、すぐになんでもない表情になった。

「はじめまして、お招きいただきまして、ありがとうございます」

 何とか動揺を押し隠しながら、差し出された手を握る。

 人いきれの中にいるというのに、狼の手はどこと無くひんやりしていて、それがなおさら人形めいていて、不気味さを感じた。

 それさえなければ、これほど観賞に適した相手もいないだろう。

 スレンダーな体つきは、獅王子がグラマーな分、より細く見えるし、下世話な話、もし、彼女との今夜ことがお流れになってしまったとして、彼から誘われたら、それでもかまわないと血迷ってしまいそうなくらいだ。

「招待したのは、獅王子ですから。これで失礼させていただきますが、楽しんでいってください」

 それにしても、本当に獅王子が言うように、生気がないというか、覇気が感じられない。

 ただ生きているだけの怠惰さが、全身から滲み出している。

 彼にとってはこのパーティも、そして、婚約者になるかもしれない獅王子の隣に立っている自分の存在も、どうでもいいことらしい。

 述べられた言葉も、単調で、社交辞令であるのがみえみえだが、気をつかうのも億劫なようだ。

「それじゃ、獅王子。後はよろしく」

 それ以上言葉を交わすつもりは無いらしく、どこか投げやりな調子でそういうと、獅王子に目配せをした。

 それを正しく読み取って、獅王子が怪しい笑みを浮かべた。

「それは、もちろん」

 獅王子の応えに、狼は、唇の端を歪めた。

 いびつな、笑いの形に。

 それきり、興味を失った風で、くるりときびすを返す。

「それじゃ、ごゆっくり」

 それに続いて鷹人も、これだけはと意趣返しの言葉を残して、その後を追った。

 背後の獅王子の気配が、ちょっとだけ尖ったことに、ひやりとしたが、あの程度なら明日には忘れてしまっているだろうと、見えないのを承知でちらりと舌を出す。

 やっぱり、やられっぱなしというわけにもいくまい。

「もう、あれだけでいいわけ?」

 大して速くもない歩調の狼に追いつくと、ちょっと不安になって尋ねてみた。

 明日に向けて、なにか仕掛けるのかと思ったのだ。

「ああ、あれでいい。後は獅王子がやってくれる」

 そこには、先ほどまでの様子と、別人のように活気に満ちて機嫌のいい狼がいた。

 夜型の彼にとって、これからが最も活性化される時間帯だからだろう。

 ましてや、明日は満月だ。

 もっとも、力の満ちあふれる日。

「全ては明日だ」

 その瞳が、暗い深緑に染まろうとしていた。

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