第一章 春の息吹と、給食の少女な蒼空ちゃん <Ⅱ>
<Ⅱ>
それは晴れた先週の月曜日のことです。その日から桜餅学園は通常の授業を再開していました。その日に合わせて蒼空の学園デビューの日ってことに僕、扇ちゃん、紲さんで決めていました。学生としてではなく、給食の美幼女としてなんですけどね。
思い出されるは、日常生活に慣れるための特訓の日々。その日々にはしっしー顔面直撃事件、蒼空空中浮遊事件、お食事解体事件……など、ありましたが本筋と関係ないのでまた、機会があればお話しすることでしょう。
扇ちゃんがしっしー顔面直撃事件だけでも話せと言いますが、無視しますみみる様。
「蒼空、ハンカチ持った?」
僕はエプロンドレスをきっちりと着込んだ少女にそう話しかけた。少女――蒼空はほんの少し、僕の瞳を見つめていましたが、僕の言葉の意味が解ると、ポケットからハンカチを取りだした。水色の飾り気のないハンカチだ。
「あい、しーちゃん」
そう言って、僕に渡そうしたけど、勿論、そうしたくてそう言った訳ではない。確認だ。
洗濯物を竿に吊しながら、その光景を見ていた清楚な淡い水色の着物姿の宮御紲はやんわりと微笑んだ。それをまるで演出するように微風が紲の長い黒髪をくつぐる。
「微笑ましいです、兄と妹の会話」
そんな言葉もあの時の僕には感情を高揚させる起爆剤にしかならなかった。なんて、可愛いそらぁ。
って、僕……真剣に話しているんですよ。牛乳を鼻から吹かないで真面目に聞いて下さい、みみる様。
「じゃあって、米乃国が母みたいじゃ! 笑えるぞ、笑えるのじゃ」
だからといって机を激しく叩くことはないと思われる。背が高い子どもと背が低い親なんて恰好がつきませんものね。しかも、蒼空、僕を親と思ってない。とほほ……。
さて、さて、話しを続けます。
「蒼空、ちり紙持った?」
「あい、しーちゃん。そら、いいこ?」
「蒼空、パンツ、ちゃんと穿いた?」
「あい、しーちゃん。にゃんがまえ?」
蒼空は自分でスカートの裾を持ち上げる。そこから覗く猫さんのイラストを眺めた。首を傾げる。もう、一度、眺める。もう、一度、首を傾げてから僕に視線を移した。
「何、確認してるんですか! ちなみににゃんの方が後ろ」
洗濯物を篭に放り投げて、パンツの位置を直そうとする蒼空を抱き上げたのは、その発言者である紲だった。本人にしては声を荒げたはずなのに、黒い瞳は穏やかな水晶体をしている。
「そら、わるいこ?」
「ううん、直せばいいの。にゃんを後ろにすれば、いいの」
「にゃん、直して」
そう、ちょっぴりお嬢様気質なところのある蒼空が僕に命令した。だが、それはどうだろう、許すはずがない人間としての理性が。
「私の息子。いくら、妹ちゃんのおパンツでも触れちゃいけません」
「今更……」
ここまで育てるのに蒼空の身体を何度、この目に焼き付けたことだろう。お風呂の入り方、お洋服の着方……その度に僕は己の性欲に打ち勝ったのだ。
「その度に僕はヘタレたのだ、の間違いだろう?」
「過去のお話しに入って来ないで下さい、扇ちゃん」
そう、僕が先輩に釘を刺すと、先輩は少しきっと、睨んだがすぐに冷静さを取り戻した。
今更、とため息尽く、僕の心を見破るように紲は先手を打つ。
「いいえ、蒼空ちゃんも恥ずかしいはずです」
「にゃんがうしろ。にゃん、にゃん、にゃぉー」
だが、もう半分、蒼空はパンツを脱ぎ始めていた。
恥って何だろう……。
それを考えつつ、僕と蒼空、紲は給食調理室へと辿り着いた。
狭い通路を抜けて、裏口の扉から室内に入る。室内には、人当たりの好さそうなおばさん達がいた。良かった、僕が思い描いていたサンタクロース系の人達だ。
だと、いうのに蒼空は僕の背中に隠れて給食のおばさん達に挨拶しようとしない。それでも給食のおばさん達はにこにことした皺だらけの顔を崩さなかった。
挨拶した後、経歴をさり気なく、聞いてみるとここにいる給食のおばさん達は元小学校の教師だったり、元幼稚園の先生だったり、と子どもと接してきたプロなのだ。
そんな彼女らの蒼空懐柔法は巧みなものだった。
「蒼空ちゃん、いつまでもお兄たんのお洋服をぎゅ、ぎゅ、してたら駄目だよぉ」
元幼稚園の先生であるお下げ髪の真夏梅雨が恐竜のお人形を手首に装着して、さもそのお人形が話しているように女性でもやや、きついソプラノを発していた。
「あの~」
「大丈夫ですよ。蒼空ちゃんの事は紲ちゃん――」
僕の後ろに背後霊のように控えている紲の姿をやり手教師風の眼鏡のレンズに捉える。そして、磯壁好実は言い直す。
「紲理事長様から聞いていますから、スタッフ一同、心して立派な米乃国家のお嫁さんに仕立て上げますから、グッ」
親指を立てている好実は何やら訳の解らぬ雑情報も紲から伝えられたようだ。僕は紲に抗議しようとしたが、背後から両肩を抱きしめられた。身動きが取れない。
風に乗って背後から華の香りが……しなかった。代わりに強烈なビール臭がする。紲という生物の性質を知らなければ、おかしい清楚な美女が! なんて嘆くことになるだろう。
僕は回れ右をすると、
「のほほんとしている顔がほんのりと赤く染まっていた。思わず、僕はビールくせぇんだよ! と叫んだ」
「だから、過去のお話しに勝手に登場しないで下さい!」
僕は回れ右をすると、紲に抗議した。
「また、朝、飲んできたんですか?」
「大丈夫ですよ、お母さんは金色水を飲んできただけですから、給食室前の蛇口から」
なんとも上機嫌な人だ。常に蛇口を捻れば、何故かビールが飛び出してくる魔法水が紲理事長の元気の素だった。校内の至る箇所に設置してある。
それはともかく、とばかりに頭を切り換えるべく、ブレザーを脱ごうとボタンに手を掛けようとした。
「あら、何、僕も手伝いますよ、キランな体勢に入ろうとしているの? お母さん理解できない」
自称、お母さんモードに移行した紲は僕の身体を無理矢理、調理室の出口方向へと向ける。ちなみにこのお母さんというのは、僕に家族はいないと言った僕を同情して紲理事長がお母さんになってあげると言った発言から始まったものだった。こんなに続いてるなんて。
みみるが僕の耳元で囁く。
「良い奴なのじゃ、紲は。人の為になることを率先としてするのじゃ。地球大使のお仕事、理事長のお仕事、寮長のお仕事。エネルギーは九十パーセント、ビールなのじゃ」
駄目人間なのか、そうではないのか? という疑問はさておいて、話しの続きをします。
僕は梅雨の操る恐竜さんから丁寧にハンバーグの作り方を教えてもらっている蒼空を一瞥した。蒼空はじっと、恐竜を眺めて、話に聞き入っていた。
時々、~だよね? とちゃんと聞いていたか、確認を求める恐竜に対してあい、と元気よく、返事をして蒼空は応えた。ぴんと伸びた左手には輝く指輪がある。正確には薬指に銀色の指輪がはまっている。女の子はオシャレをしているものらしい、と僕は適当な女性雑誌から適当な知識を得て、以前、購入したものだった。
「可愛い」
「そんな可愛い蒼空ちゃんのお仕事ぶりを信じてあげて、君は勉学に勤しむ」
でも……と、キャベツをまな板の上に置いた蒼空を見つめる。心配でたまらない。
「指を切ったり、しないだろうか」
「ねぇ、学ぶってことは失敗もつきものでしょ? 失敗から逃げてそれっきり、そこから逃げたらそれはそこで終わってしまう。人間はね、命の短い生き物だから、一生、砂に埋もれるんだよ、それは」
紲は目を細めて、蒼空の包丁の行方を見守っている。震えた包丁の刃の軌道さえ定まらない。愛らしく、うーんと蒼空は唸っていた。別にキャベツを細かく切る――千切りにするなんて簡単な技術だ。
簡単? いや……違う。
「そうでしたね、僕も包丁の扱い方で失敗したこと、ありました。双嵐……」
僕は一端、一息吐くべく、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。まだ、優しい闇にたゆたっていた頃を忘れずにしがみつこうとする。それでも僕の視界はぼんやりと現実の光を直視しようと努める。
「双嵐……朝が僕の指を一生懸命吸って……止めようとしてくれたんだ」
僕の記憶には必ず、そいつの名前がある。当たり前なんだ。独りで生きていく奴なんていない。
眉間の皺が深くなるのが自分でも解る。
「どうしたのじゃ……」
そんな僕の罪の傷跡を感じ取ったのだろう。みみるが僕を気遣う。珍しい。
「……」
無言の扇が痛い。お前は米乃国太郎だろうが、陽乃心ではない! と今にでも言いそうな怒気が籠もっている。
「ともかく、蒼空の包丁捌きを眺める時間も僅か数分。給食のおばさん達に僕は追い出された。ちなみに蒼空の包丁はキャベツではなく、まな板を切ることが多かった。蒼空は大丈夫なのだろうか」