深夜、サラリーマンが見たものは……。
何かの"すりこみ"なのか、俺達は何か信じられないものを見たとき、何故か目をこする。
だから、俺もそうした。
こすり過ぎたまぶたはヒリヒリと痛い。
「…………嘘だろ……?」
それでも目を開けると、影に飲まれた路地裏にひらひらと光るそれは、ひどく視界のなかに目立つ。無視しようがない。
ついさっき俺の鼻先を横切って、路地へ入っていった。
光る、白い羽の蝶。
「………………」
生唾を飲み込む。
最初は、疲れすぎたせいの幻覚かと思った。
今は冬だし、蝶が出てくるには早過ぎる。蛾――には見えない。
しかも、地面では光の点が、その蝶を追い掛けている。ようは本当に発光しているのだ。
光はだんだんと小さくなっていく。暗がりを奥へ、奥へ。
――どうしようか。
残業帰りですっかり疲れているし、何があるかもわからない。
だけど。
何故か、その蝶を"見たことがある"と思った。懐かしいような、切ないような、そんな気持ちが胸を占める。
こんなことは、めったにないはずだ。
足はいつの間にか、暗闇の中に踏み出していた。
そうとう距離が空いてしまったのか、蝶にはなかなか追いつけない。
――な、なんで……? 速過ぎるだろ、蝶のくせに……!
路地裏はわずかな月明かりが入ってくるだけで、足元はぜんぜん見えない。
――痛っ。
だから、なんども固いなにかにつまづく。仕事用の革靴だから、あんまり傷だらけにはしたくないのだが。
光る蝶から目が放せない。
追わずにはいられない。
しかも、始めはいる道のはずなのに。
――これ……デジャヴュってやつかな?
ぼんやりとした既視感。かつての、学生のときの通学路を歩くときのような、ひどく懐かしい感覚。
でも、前に来たことがあるはずがない。東京にすら半年前に来たばかりだというのに。
――なんでこんなに、切ないんだ……?
意味もわからないまま泣きそうになり、瞬きをした。
蝶に惹かれるように、ただ、暗闇の奥へ歩き続ける。
ふいに蝶の光が弱まった気がし、ハッと顔を上げた。
路地裏を通り抜けた先、わずかに明るい、そこは川辺の道だった。
「こんなところに繋がって……?」
独りつぶやくが、まわりには誰もいない。サラサラと静かな水の音と、自分のわずかに上がった息だけが聴覚を支配していた。
蝶は、川を渡らず、道に沿ってひらひら飛んでいく。
俺も、憑かれたように、それをふらふらと追っていく。
道は、橋の下へと潜り込む。
橋の影が作る暗闇を、蝶は躊躇せずに入っていく。
――家から離れすぎたかもな。
一瞬、暗闇に入ることをためらう。
このまま帰れば、もう二度とこの蝶を見ることはないとわかっていた。
だが、追っていったところでわかるのだろうか?
――なんだか、胸も苦しくなってきた。運動不足が祟ったのかもしれない……。
蝶の光が水面の方へ動くのを見て、引き返そうと決めた。
――……ん?
蝶の光が、何かに反射している。
亜麻色の髪――女性が立ってるみたいだ。
長い髪、ベージュのコートの女性は、川の方を向いて突っ立っている。
――こんな時間に、こんな場所で何を……?
声をかけようか迷っていると、いきなり女性は川の方へと大きく傾いた。
「う、わっ! 待つんだッ」
駆け出し、彼女に必死で手をのばす。
「――ッ」
「ま……間に合った……?」
俺の腕は、彼女のコートを掴むことに成功していた。
遠く見えたのは、影が境界を作っていたからかもしれない。
「離してッ」
「えっ、ちょっ、落ち着きなさい! 怪しい者ではないですから!」
暴れる彼女に困惑しつつ、なんとか川辺から離れた。
「離してください、行かなきゃいけないんです……!」
「どっ、どうするつもりだ! 今の川は絶対に冷たいぞッ!?」
「それでいいのッ」
入水自殺。
それにいまさら気づいた。
恋人に先立たれたのだろう。
「じ、事情はわからないがやめなさい! 死んでもなんにもならないぞ!!」
「きっとすぐ後を追えば、来世で一緒になれるわッ」
「――何故そう言い切れるんだッ!?」
手に掴んだ肩がびくりと震える。俺自身も、口をついた大声に驚いていた。
しかも、俺の口はさらに、俺も考えたことのないようなことを連ねていく。
「そんな理由で"後追い"だと? ふざけるのもいい加減にするんだ」
「ふ、ふざけてなんか……」
「ソイツは自殺か!?」
「じ、事故……よ」
「後追いされた方の心境はどうなるんだ!?」
彼女は泣きそうな顔をしてうつむいた。
普通ならここで、「マズイな」と思って黙るんだろう。
なのに。
何故か胸の苦しみは強くなってきて。
喉へ怒りがこみあげてきて。
それに耐え切れず、言葉を吐き出す。
「――"輪廻転生"なんてものを信じるとして次も人間とは限らない。……心中したって、来世で恋人を食べちゃってるかもしれない。何もわからないんだ」
「…………」
「忘れろとは言わない」
「…………」
「忘れずに、その"彼"の分、幸せになるんだ。それが、先立たなきゃならなかった者の望みじゃないのか」
喋っている間、俺は、"別の誰か"になっているようだった。
口が勝手に動き、その間、自分は宙から見ているような。
その浮遊感すら、いつか体験したもののようだ。ふわふわと、むしろひらひらと浮かぶ。
蝶にでもなったようだった。
気がつくと、座り込んですすり泣く彼女を抱きしめていた。
「…………………………え?」
さっきの夢見心地はどこへやら。自分の置かれた状況にあわてふためく。
完全に目が覚めた。
――というか、ものすごく失礼なこと言ってなかったか、俺……!? 何がわかるっていうんだよ、しがないサラリーマンが何様だよっ!! 死んだ記憶どころか……恋人がいた記憶すらないだろ、俺っ!!
「あ、あの」
「――……とう」
「えっ」
「ありがとう、ございます……」
いつの間にか月が傾き、俺達のいるところまで月光が差し込んできていた。
彼女が顔をあげる。
瞳も、頬も、鼻も、泣き腫らして赤い。
それでも、生きようと決意したその表情は、綺麗だと思う。
蝶はどこかへ消えていた。
彼女と結婚した今でも、時々思い出す、不思議な体験。
――あの蝶は、俺を彼女に逢わせてくれたのかもしれない。
――輪廻転生なんぞ信じたとて、次も人間とは限らぬ。
――心中したとて、来世では恋仲の者を喰らっているかもしれん。
――「来世では共に」などと、よく言えたものだのう。
――それでも逝くのかね?
――ならば、この爺は留めまいがね。
――嗚呼、お前さんが憤ったところで、あの娘には届かんよ。
――来世は人か、獣か、はたまた虫か。
――美しい恋人共よ。
どうせなるなら。
――……蝶のつがいにでもなるがいい。
江戸の月夜。
蝶の羽のごとくはためく白装束を、見送った老人の独り言であった。
※塾帰り、携帯の待ち受けとビルの隙間を見ていたら、ふと思いついた話です。
意味不明なところが多々あったと思います。
下に解説のようなものを載せますが、雰囲気を壊す恐れがあるので、読まなくてもいいかもしれません。
読んでいただき、ありがとうございました。
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・江戸時代、病死した恋人を追って、川に飛び込んだ娘がいた。
・恋人の魂は、それを見守り、先走った娘の行動を悲しみ、怒る。
・江戸→東京
・サラリーマンは恋人の生まれ変わり(?)
・路地裏の道は、江戸時代でも抜け道として存在していた。
(『ぶらタモリ』という番組を見て考えました)
・蝶は娘の生まれ変わりか、未だ残る魂か……。
・老人は死が近く、恋人の魂がわかった。
すみません、意味不明ですね。