惨劇前夜
2月13日、午後9時。廊下から部屋の中へと漂ってくる、甘い匂いに気付いた僕は、深いため息をつく。また始まるのか、そんな気持ちで
「……うわ」
部屋のドアを開けると、匂いは益々強くなった。甘い匂いも目に染みるんだなと、したくもない発見をしてしまう
「大好きるんくん、るんるんる〜んくん」
下の階から奇妙な歌が聞こえた。ワンフレーズしか聞こえなかったけれど、その機嫌の良さに僕は不安でいっぱいになる
そう、あれは去年の事。去年、姉さんは高さ50センチもある巨大なチョコレートケーキを作った。食べきるまで3日も掛かり、出る汗は1週間甘く感じた。今年もきっと……
階段を下り、台所へ通じるドアの前に着く。ドアを開けてはならない、僕の本能が強く訴える
だけれど、こうしていても事態は変わらない。僕は覚悟を決めてドアノブをひねった
「…………う」
どう表現すれば良いのだろう。開ける前ですら強烈だった匂いは、更に強く、更に過激となり、瞬く間に家中を浸食してしまった
お腹を空かしたヘンデルとグレーデルだって、この家を見たら泣き出してしまう。そんな悪魔城
「…………」
もう駄目だ、逃げ出したい、逃げるべきだよねこれ
「るんる〜ん」
こんな場所に居て、姉さんは大丈夫なのだろうか。鼻歌に聞こえるのは、実は呻き声だったりするのではないだろうか
「ね、姉さん?」
一歩踏み出して、恐る恐る声をかけてみる。姉さんはちょっとビクっとした後、とても甘く幸せそうな顔で振り向いた
「どーしたの、るんくん」
「大丈夫……ですか?」
「え? なにが?」
「あ、いえ、大丈夫なら良いです。えっと、料理をしているのですか?」
「ん〜明日のお楽しみ、かな。ヒントを言っちゃうと……今年のバレンタイン期待してねっ!」
「…………はい」
思いっきり苦いコーヒを用意しておこう
「では僕は部屋に戻りますが……。あまり無理はしないで下さいね」
「ありがとう。もうすぐ出来上がるから大丈夫だよ」
「はい」
作業を再開した姉さんの背中を見て、僕は部屋へと戻った。それにしても
「……甘いなぁ」
今日、寝れるかな
それが昨夜の事。で、今は朝
時間は5時ちょうど。少し遅く寝たので寝不足かと思えばそうでもなく、いつもの調子
「ん〜」
伸びをして着替えて目覚ましに深呼吸。よし、走りに行こう
寒さに震えながら階段を下りる。台所の電気は当たり前のように点いていた
「おはよう……姉さん?」
声をかけながらはいった台所では、姉さんがテーブルにうつ伏して眠っていた。ヒーターも無いので当然寒い
「姉さん、風邪を引いてしまいます」
「ぅ、ん……」
姉さんを揺り起こす僕を、姉さんはうっすら目を開けて見つめた
「姉さん?」
「……おはよう、るんくん。ごめんね今ごはん作るから」
「そうじゃなくて部屋で寝て下さい。食事は僕が用意しますから」
「だめ。るんくんのご飯作りはお姉ちゃんの活力なんだから」
疲れた顔で起き上がり、椅子に掛けてあったエプロンを身に付けようとした。まったくもう
「う〜ん、うかつだったなぁ。少し目を閉じただけだったんだけど……と、あ」
「危ない」
よろめいた姉さんを胸で受け止めて、支える。小さな体は酷く冷たかった
「あ、ありがとう」
「顔が赤いですよ。やっぱり風邪を引いたんじゃ」
「それ、るんくんのせいだよ?」
「なんでですか……とにかく、ベッドで寝て下さい。2時間経ったら起こしますから」
「で、でも、お姉ちゃんの活力……」
「僕のお願い、聞けませんか?」
「はい、寝ます!」
「はい、よろしい。では部屋に行きましょう」
「はぁい」
「温かくして下さいね。では走ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
「行って来ます」
なるべく早く帰ってこよう