第50話:祭りの後と、慰労会のソース焼きそば
王都アルカディアを三日三晩にわたって熱狂の渦に巻き込んだ『建国祭』。
その終わりを告げる最後の打ち上げ花火が夜空に大輪の華を咲かせ、やがて静かに消えていった。空を彩っていた魔法の光も一つ、また一つと落ちていき、祭りの喧騒はまるで潮が引くように、ゆっくりと、しかし確実に広場から去っていった。
数万人が行き交い、怒号と歓声が入り乱れていた石畳の広場には、今や心地よい夜風が吹き抜けるばかり。あちこちに残された祭りの残骸と、提灯の薄明かりだけが、そこにあった途方もない熱気を静かに物語っていた。
広場の片隅に陣取っていた小料理屋『結』の特設屋台もまた、深い静寂の中にあった。
真っ白だったはずの割烹着をソースの跳ねと油で茶色く汚した店主・藤原栞は、片手にコテを持ったまま、屋台の骨組みを支える柱に背中を預けてズルズルと座り込んでいた。
「……終わった……。本当に、全部終わったのね……」
かすれた声で呟く栞の隣では、王都警備隊長のバルトルトが、大の字になって石畳の上にぶっ倒れていた。顔は炭の煤で真っ黒で、甲冑の下の服は汗で絞れるほど濡れている。
「ああ……。客の波が途切れたのを見た時は、幻覚かと思ったぜ。三日間、剣を振るより過酷な戦いだった……」
ドワーフの鍛冶職人ドランは、丸太のような腕をダラリと垂らし、空のビール樽に寄りかかって静かな寝息を立て始めている。屋根の上で風の魔法を使い続けていたミレイユは、魔力切れで完全に気絶しており、エルフの密偵ファリスの膝枕でスヤスヤと眠っていた。
そして、突如として乱入し、完璧な炎のコントロールで焼き台を支配した宮廷料理長ジュリアンも、真っ白なコックコートをススだらけにして、木箱の上に腰掛け、天井を見上げて放心状態に陥っている。
「……おい、女将」
しばらくの沈黙の後、バルトルトが重い身体をむりやり起こし、屋台のカウンターの下から一つの巨大な木箱を引きずり出してきた。
「売上金の確認だ。……ちょっと、心して見ろよ」
バルトルトが木箱の蓋を開けた瞬間、提灯の光を反射して、眩いばかりの黄金色と白銀色の輝きが溢れ出した。
チャリン、ジャラララッ。
「うわぁ……」
栞は目を見張った。木箱の中には、銀貨だけでなく、高額な金貨が文字通り『山』のように積み上がっていたのだ。三日間の絶え間ない大行列と、異常なまでの回転率。さらに、お好み焼きと焼き鳥という未知の極上グルメに対する、貴族や大商人からのチップも大量に混ざっている。
「ざっと見積もっても、王都のまともな一軒家が三軒は建つ額だぜ。警備隊の俺の年収なんか、三日であっさり超えやがった」
バルトルトが疲れた顔で笑う。
本来なら、踊り上がって喜ぶべき莫大な富。しかし、今の栞たちには、その金貨の山を前にして歓声を上げるだけの体力すら、一ミリも残されていなかった。
「……お金は逃げませんから、計算は後回しにしましょう。それよりも、早くお店に帰りましょう。みんな、もう限界です」
栞の言葉に、全員が深く頷いた。
気絶していたミレイユをバルトルトが背負い、ドランが残りの気力を振り絞って屋台の機材を荷車に乗せる。ジュリアンも文句を言うことなく、無言で荷台を押すのを手伝った。
祭りの終わった静かな王都の裏道を、彼らは満身創痍の足取りで、自分たちの帰るべき場所へと向かって歩き出した。
***
カラン、コロン。
引き戸を開けて、小料理屋『結』の店内に入った瞬間。
出汁と木材が混ざり合った、いつもの静かで清浄な香りが、彼らを優しく出迎えた。
「「「…………はぁぁぁぁぁっ」」」
全員から、同時に魂が抜けるような深いため息が漏れた。
三日間、戦場のような広場で怒号と煙にまみれていた彼らにとって、この小さなカウンターと見慣れた椅子は、まさに世界で一番安心できる『家』であった。
バルトルトたちはドサドサと椅子に倒れ込み、テーブルに突っ伏した。
「……やり遂げましたね、私たち」
栞がカウンターの中に立ち、おしぼりを用意しながら微笑む。
「ああ。王都の歴史に残る、最高にイカれた屋台だったぜ。……だが」
バルトルトが言いかけた、その時である。
——グゥゥゥゥゥゥゥゥッ。
店内の静寂を打ち破る、凄まじい腹の虫の音が鳴り響いた。
音の主は、目を覚ましたミレイユだった。彼女はお腹を押さえて顔を真っ赤にしているが、それに呼応するように、バルトルト、ドラン、ファリス、そしてジュリアンのお腹からも、次々と盛大な空腹の合唱が連鎖したのだ。
「……そういや、俺たち。三日間、客に飯を食わせるのに必死すぎて、自分たちは端材の肉をかじったくらいで、まともな飯を一口も食ってねぇじゃないか……」
バルトルトのその言葉に、全員がハッと顔を見合わせた。
匂いだけで腹を満たしていたようなものだったが、静かな店に戻り、極度の緊張が解けた瞬間、彼らの胃袋が「限界だ」と猛烈な抗議の声を上げ始めたのである。
「店主さぁん……お腹ペコペコですぅ……何か、何か食べさせてください……」
ミレイユが涙目で訴える。
「……お師匠様。私も、その……お恥ずかしながら、空腹で倒れそうです。何かお口に入るものを……」
ジュリアンまでもが、プライドを捨ててすがりついてきた。
「ふふっ。皆さんがそう言うと思って、ちゃんと私の気力も『最後の一食分』だけ残してありますよ」
栞は汚れた割烹着を脱ぎ、新しい真っ白な割烹着に着替えて、ピシャリと気合の入った顔つきになった。
「お祭りの慰労会です。私が、王都で一番美味しい『まかない』を作ってあげます!」
栞が冷蔵庫から取り出してきたのは、屋台で使いきれずに余っていた半玉のキャベツと、オークの豚バラ肉の薄切り。そして、日本の裏口から念のために大量に仕入れておいた、黄色い『蒸し中華麺』の袋だった。
栞は広場から持ち帰ってきた特注の極厚鉄板(コンロの上に設置できるサイズ)に火を入れ、ラードをたっぷりと引いた。
——ジューーーーーッ。
豚バラ肉をカリカリになるまで炒め、そこへざく切りにしたキャベツを大量に投入する。
「疲れた体には、やっぱり炭水化物と、ガツンと濃い味が一番ですよね!」
栞の手際の良いコテ捌きで、キャベツがしんなりと炒められていく。
そこへ、袋から取り出した中華麺を三玉、豪快に鉄板の上へドサリと乗せた。
「麺……? パスタのようなものか?」
ジュリアンがカウンターから身を乗り出して覗き込む。
栞は麺の上に、少量の水(極上の昆布出汁を薄めたもの)をサッと回しかけ、立ち昇る蒸気で麺を一気にほぐしていった。
豚の脂とキャベツの甘みが、ほぐれた麺の表面にしっかりとコーティングされていく。
「さあ、ここからが主役の登場です!」
栞が取り出したのは、お好み焼きで使ったドロドロの濃厚ソースとは違う、少しサラリとした液体——『焼きそば専用のウスターソース』であった。
野菜と果実の旨味に、スパイシーな香辛料が強めに効いた、日本の屋台の裏の覇者。
栞は鉄板の上の麺と具材に向けて、そのソースをたっぷりと、円を描くようにして回しかけた。
——ジュワァァァァァァァァァッ!!!!!
二百度の鉄板に触れたソースが、一瞬にして沸騰し、弾け、強烈な湯気となって爆発した。
「うおぉぉぉぉぉっ!?」
バルトルトとドランが、たまらず悲鳴を上げた。
お好み焼きの甘い匂いとは違う、酸味とスパイシーさが際立つ、鼻の奥を直接ツンと刺激する暴力的なまでの『ソースの焦げる匂い』。
鉄板の端でわざとソースを焦がすことで、その香ばしさは何十倍にも増幅される。
カンッ、カンッ、カンッ!
栞は二枚のコテを使い、麺と具材、そしてソースを、空気をたっぷりと含ませるようにして宙に舞わせながら炒め合わせていく。
「麺を炒める……! 茹でるわけでも、煮るわけでもなく、鉄板の上でソースを直接焼き付けるようにして麺に味を染み込ませているのか!」
ジュリアンが驚愕の声を上げる。
ソースの水分が飛び、麺の表面がほんの少しだけチリッと焦げ目をつけた完璧なタイミングで、栞は火を止めた。
「お待たせしました!」
栞は巨大な大皿に、こんもりと山のように『ソース焼きそば』を盛り付けた。
トッピングには、紅生姜と、たっぷりの『青のり』。
青のりの磯の香りが、スパイシーなソースの匂いと混ざり合い、深夜の店内に背徳的で抗いがたい香りを充満させる。
「さあさあ、皆さん! ご飯の前に、まずはこれで喉を潤してください!」
栞は、キンキンに冷やしておいたガラスのジョッキを取り出し、ビールサーバーから極上の生ビールをなみなみと注いだ。(ミレイユには冷たい果実水を)
黄金色の液体と、純白のきめ細やかな泡。グラスの表面には、冷たさを物語る水滴がびっしりとついている。
「三日間、本当に、本当にお疲れ様でした! 乾杯!!」
「「「乾杯!!!」」」
ガチンッ!!
店内に、割れんばかりのジョッキのぶつかる音が響き渡った。
全員が、砂漠で一週間水を飲んでいなかった旅人のような勢いで、冷え切った生ビールを喉の奥へと流し込む。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……!
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
バルトルトが、天を仰いで息を吐き出した。
「生き返る……! 疲労のどん底で飲むこの冷たい麦酒の美味さ、悪魔的だぜ……!」
「うめぇぇっ! 俺の身体の血管を、麦酒が駆け巡っていくのがわかるぞ!」
ドランも髭に泡をつけながら歓喜する。
「さあ、焼きそばも冷めないうちにどうぞ!」
栞に促され、全員が箸を手に取り、大皿から山盛りのソース焼きそばを取り分けた。
ジュリアンが、少し震える手でフォークに麺を巻きつけ、口の中へと運ぶ。
「…………ッ!!!」
咀嚼した瞬間、ジュリアンの瞳孔が極限まで見開かれた。
麺の表面に焼き付けられたウスターソースの強烈なスパイシーさと、焦げた香ばしさが、口内を容赦なく蹂躙する。麺はモチモチとしており、噛むほどに小麦の甘みと豚の脂の旨味が滲み出してくる。
さらに、シャキシャキのキャベツがソースの濃さを程よく中和し、青のりの風味が全体を包み込む。紅生姜の酸味をかじれば、口の中がスッキリとリセットされ、また無限に麺をすすりたくなる。
「す、素晴らしい……!」
ジュリアンは涙ぐみながら叫んだ。
「お好み焼きとは全く違うアプローチだ! 麺という炭水化物に直接ソースを焼き付け、具材の旨味を吸わせる。シンプル極まりない料理だが、それゆえにごまかしが利かない、暴力的なまでの『食欲の権化』だ!」
「ずずーっ、ずずずっ! おいひぃ! おいひぃですぅぅ!」
ミレイユが、行儀悪く麺をすすりながら、満面の笑みで頬をリスのように膨らませている。
「はっはっは! こいつはたまらねぇ! ビールが! ビールが一瞬で消えていくぞ!」
バルトルトとドランは、焼きそばを一口食べるごとにジョッキを煽り、凄まじい勢いで麺の山を崩していく。
肉を食べないファリスも、ソースと出汁の染み込んだキャベツと麺を口に運び、静かに、しかし深い満足のため息を漏らしていた。
「……よかった。皆さんの胃袋、ちゃんと満たせたみたいですね」
栞は、カウンターの端で冷たい麦茶を飲みながら、その光景を愛おしそうに見つめていた。
全身の筋肉は悲鳴を上げているし、指先は火傷や擦り傷だらけだ。
それでも、自分の作った料理を心底美味しそうに、笑顔で頬張ってくれる仲間たちがいる。
この光景を見るためなら、三日間のあの地獄のような屋台の労働も、決して悪くはなかったと心から思えた。
「女将」
焼きそばを平らげ、ビールのジョッキを置いたバルトルトが、真っ黒な顔で栞に向かってニカッと笑った。
「最高の祭りだったぜ。俺たちの『オアシス』が、王都の連中全員を虜にしちまったんだからな。……お前の腕と、この美味い飯は、俺たちの誇りだ」
「……はい。皆さんがいてくれなかったら、絶対にできませんでした。本当に、ありがとうございました」
栞は深く頭を下げた。
ジュリアンが静かに立ち上がり、胸に手を当てて一礼する。
「お師匠様。私も、この三日間で料理の真髄というものを、改めて肌で学ばせていただきました。……明日からはまた、公爵邸の厨房に戻りますが、いつか必ず、このソースという未知の魔法を完全に理解し、超えてみせますよ」
「ふふっ。楽しみに待ってますね、ジュリアンさん」
深夜の小料理屋『結』。
王都を揺るがした建国祭の熱狂は終わりを告げたが、この小さな店の中には、祭りの喧騒よりも遥かに温かく、静かで、幸せな時間が流れていた。
ソース焼きそばの香ばしい匂いと、仲間たちの穏やかな笑い声に包まれながら、大騒ぎだった祭りの慰労会は、夜明けまで静かに、そして深く続いていくのであった。




