第35話:女騎士のコンプレックスと、コラーゲンたっぷり豚足煮
王都アルカディアに本格的な冬の足音が響き始めた夜。凍てつくような北風が石畳を撫でるように吹き抜け、道行く人々は皆、分厚い外套の襟を立てて足早に家路を急いでいた。
そんな寒空の下、王都警備隊の制服の上に地味な防寒用のローブを羽織った若き女騎士アイリスは、まるで何かから逃げるように、薄暗い路地裏を一人で歩いていた。
彼女は第三部隊に所属する、将来を嘱望された優秀な剣士である。隊長のバルトルトからもその剣筋と真面目な勤務態度は高く評価されており、男性ばかりの警備隊の中にあっても、決して引けを取らない実力を誇っていた。
だが、今のアイリスの足取りは、ひどく重く、どんよりと沈み込んでいた。
彼女は歩きながら、ローブの下に隠した自分の『両手』を、痛いほど強く握りしめていた。
今日の昼間、王城で行われた他国の使者を招いての歓迎式典。そこには、煌びやかなドレスに身を包んだ、同年代の貴族の令嬢たちが数多く参列していた。彼女たちの手は、透き通るように白く、細く、まるで白魚のように美しかった。クリスタルのワイングラスを傾けるその指先の優雅さに、アイリスは目を奪われ、そして絶望したのだ。
ふと視線を落とした先にある、自分自身の両手。
幼い頃から重い木剣を振り続け、実戦で何度も血と泥にまみれ、分厚い革のガントレットに擦れ続けたその手は、ゴツゴツと骨張り、無数の古傷が走り、手のひらも指の付け根も、カチカチに硬い『剣だこ』で覆われていた。
淑女の柔らかさなど微塵もない、醜く、無骨な戦士の手。
(……私だって、本当は綺麗なドレスを着て、殿方に優しく手を取られたかった……)
騎士としての誇りはある。だが、それと引き換えに、自分は『女性としての幸せや美しさ』を完全に捨て去ってしまったのだという強烈な劣等感が、彼女の心を冷たい冬の風よりも容赦なく凍りつかせていた。
ふらふらと歩くうちに、アイリスはポツンとオレンジ色の温かい灯りが漏れる、小さな木造の建物の前に辿り着いていた。藍色の布が風に揺れている。
隊長のバルトルトが、毎日のように「あそこの飯を食わなきゃ生きていけねぇ」と熱弁している隠れ家、『小料理屋 結』だった。
普段なら一人で酒場に入るような真似は絶対にしないアイリスだったが、今夜だけは、一人きりの冷たい部屋に帰りたくなかった。誰の目にも触れない場所で、ただ温かいものを胃に流し込みたかった。
アイリスは思い切って、引き戸に手をかけた。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませーっ! あら、お一人ですか? どうぞ、カウンターの空いているお席へ!」
扉を開けた瞬間、外の凍えるような寒さが嘘のような、ぽかぽかと温かい空気と、食欲を優しく刺激する出汁の香りがアイリスを包み込んだ。
厨房の奥から笑顔で出迎えたのは、真っ白な割烹着に身を包んだ、黒髪の美しい店主・栞だった。同年代か、少し年上くらいに見えるその女性の姿に、アイリスは少しだけ緊張を解き、カウンターの端の席へと静かに腰を下ろした。
「……あの、温かい飲み物と、何かお腹にたまるものを少しだけ……」
「はい、かしこまりました。お外、すごく寒かったでしょう。まずはおしぼりで手を温めてくださいね」
栞が湯気を立てる熱いおしぼりを差し出す。
しかしアイリスは、ビクッと肩を震わせると、そのおしぼりを受け取ろうとせず、両手をローブの下に隠したまま、俯いてしまった。
「……あ、いえ、手は……大丈夫です。汚れているので……」
消え入りそうな声で拒絶するアイリス。その不自然なほど頑なに手を隠そうとする仕草と、深く沈み込んだ表情を見て、栞はすぐに気がついた。
(……なるほど。あの子、自分の手に強いコンプレックスを抱えているんだわ。警備隊の制服を着ているってことは、きっと厳しい訓練で手が傷だらけになっているのね)
十五歳から厳しい板前修業に耐え抜いてきた栞自身も、昔は包丁傷や火傷の跡、油はねのシミでボロボロになった自分の手を恥ずかしいと思った時期があった。だからこそ、目の前の若き女騎士が抱える『女性としての自信の喪失』が、痛いほどよくわかったのだ。
「……わかりました。おしぼりはここに置いておきますね」
栞は優しく微笑むと、厨房の奥にある巨大な寸胴鍋へと向かった。
(手が荒れて、女性としての自信をなくしているなら……身体の中からと外から、ダブルで綺麗にしてあげるのが一番ね!)
栞はコンロの火をつけ、今日の昼間からコトコトと六時間以上も煮込み続けていた『ある食材』の仕上げに取り掛かった。
それは、日本の大衆居酒屋や家庭料理において、熱烈なファンを持つディープな食材――『豚足』である。
豚の足。見た目の無骨さと独特の臭みから敬遠されがちな食材だが、適切な下処理を施せば、これほど化ける食材もない。栞は日本の業務用スーパーで仕入れた新鮮な豚足を、まずはたっぷりの熱湯で茹でこぼし、血合いやアクを徹底的に洗い流した。そして、長ネギの青い部分、生姜の薄切り、ニンニクと共に、お酒をたっぷりと加えたスープで長時間茹で上げる。
豚足の主成分は、皮膚や関節を構成するコラーゲンとゼラチン質だ。長時間煮込まれることで、その硬い結合組織は熱によって完全に分解され、箸で触れただけでホロリと崩れるほどの極上の柔らかさへと変化するのだ。
柔らかくなった豚足を、今度は日本の本みりん、丸大豆醤油、たっぷりの砂糖、そして和風出汁を合わせた黄金色の煮汁の中へと移し替え、さらに味が染み込むまでじっくりと煮含めていく。
「ふふっ。照りも完璧、トロトロ具合も最高ね」
鍋の中では、飴色に輝く煮汁の中で、豚足がプルプルと艶かしく身を震わせていた。醤油と砂糖が焦げた甘辛く暴力的なまでの香ばしさと、生姜の爽やかな風味が厨房いっぱいに立ち昇り、落ち込んでいたアイリスの鼻腔を容赦なく刺激する。
栞は温めた深めの陶器に豚足をたっぷりと盛り付け、煮汁を上から回しかけ、最後に彩りとして白髪ネギをこんもりと乗せた。
「お待たせしました! 当店特製、『豚足のトロトロ煮込み』です。それと、身体が温まる生姜湯もどうぞ」
カウンターに置かれた小鉢を見て、アイリスは丸く目を見開いた。
「これは……お肉、ですか? でも、なんだか形が……」
「豚さんの足の部分のお肉ですよ。見た目はちょっと武骨ですけど、騙されたと思って食べてみてください。お箸で簡単に切れますから」
豚の足を食べるという文化に一瞬戸惑ったアイリスだったが、目の前から立ち昇る圧倒的な甘辛い匂いに抗うことはできず、ローブの中から恐る恐る右手を出して、箸を握った。
無数の傷と、硬い剣だこに覆われた右手を隠すように縮こまらせながら、アイリスは飴色に光る豚足の塊に箸を突き立てた。
——スゥッ。
「……えっ?」
アイリスは驚きの声を漏らした。肉というよりは、まるで極上の絹ごし豆腐か、柔らかいゼリーに箸を入れたかのような感覚だったのだ。力を入れるまでもなく、豚足の肉と皮は骨からホロリと外れ、箸の先でプルプルと震えている。
それを一口、口の中へと運んだ。
「…………ッ!!!」
次の瞬間、アイリスの脳髄を、未知の雷のような衝撃が突き抜けた。
咀嚼する必要など、全くなかった。舌の上に触れた瞬間、飴色の豚足はまるで雪のようにスゥーッと溶け崩れ、中に限界まで蓄えられていた濃厚な旨味と、ゼラチン質の極上の脂が、口内へと爆発的に溢れ出したのだ。
甘い。そして、深い。
日本の醤油とみりんが織りなす甘辛い完璧な味付けが、豚肉特有のコクを何十倍にも引き上げている。さらに、生姜の風味が全体の脂っぽさを引き締め、後味を驚くほどさっぱりとさせていた。
唇の周りが、溶け出したゼラチン質でペタペタとくっつくような、圧倒的な濃厚さ。それが喉を通り抜けて胃に到達すると、芯から冷え切っていた身体が、まるで内側から暖炉の火を灯されたかのようにジンジンと温まっていくのがわかった。
「お、おいひぃ……! なんですかこれ、お肉なのに、口の中で一瞬で溶けてなくなっちゃいました! それに、この甘じょっぱい味……すごく、すごく安心する味がします……!」
アイリスはもう、自分の手を隠すことすら忘れて、夢中で箸を動かしていた。
コラーゲンの塊である皮の部分。ホロホロに崩れる赤身の部分。それらが煮汁と完璧に絡み合い、食べるたびに幸せなため息がこぼれ落ちる。
「ふふっ、美味しいでしょう? そのプルプルしている部分はね、全部『コラーゲン』っていう成分の塊なんですよ」
栞はカウンター越しに、ニコニコと笑いながら説明した。
「日本の女性はね、お肌が乾燥したり、荒れたりした時は、このコラーゲンがたっぷり入った豚足を食べて、身体の中から綺麗になるんです。まさに、女性のための『食べる美容液』なんですよ」
「美容液……これが、綺麗になる食べ物……」
アイリスはハッとして、箸を止めた。
そして、空になった小鉢の横にある自分の手——剣だこだらけの、無骨な手をじっと見つめた。
美味しいものを食べて少しだけ明るくなっていた彼女の顔に、再び深い絶望と悲しみの影が落ちる。
「……無駄ですよ、女将さん。こんなに美味しいものをいただいても、私なんかには……」
アイリスの大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「今日、お城で綺麗な令嬢たちの手をたくさん見ました。真っ白で、柔らかくて……。それに比べて、私の手は……傷だらけで、マメだらけで、男の人よりも硬くて醜い。……剣を握るために、私は女性としてのすべてを捨ててしまったんです。こんな醜い手、どれだけ美容液を食べたって、もう元の普通の女の子の手には戻りません……っ」
アイリスはついに耐えきれなくなり、両手で顔を覆って声を上げて泣き出してしまった。
静かな店内に、若い女騎士の悲痛な嗚咽が響く。
栞は、アイリスの泣き声を黙って聞いていた。そして、優しく微笑むと、「少し待っていてくださいね」とだけ言い残し、厨房の奥にある鉄の扉——日本へと繋がる『裏口』を開けて、パタパタと走り出していった。
数分後。
栞が戻ってきたその手には、日本のドラッグストアで購入しておいた、上品な薄ピンク色のチューブが握られていた。
「アイリスさん」
栞はカウンターをぐるりと回り、泣きじゃくるアイリスの隣に座った。
そして、顔を覆っていたアイリスのゴツゴツとした両手を、自分の両手で優しく、しっかりと包み込んだ。
「えっ……女将さん、ダメです! 私の手、硬くて、ザラザラしてて、気持ち悪いから……!」
「気持ち悪くなんかないですよ」
栞はチューブの蓋を開け、真っ白で濃厚なクリームを、アイリスの手の甲にたっぷりと絞り出した。
——フワァァァッ。
その瞬間、日本の高級ハンドクリーム特有の、桜と柚子が混ざり合ったような、最高に心地よくて甘い香りが周囲に漂った。
「これはね、私の故郷にある、女性の手を美しく守るための特別な『魔法のクリーム』です」
栞は自分の手のひらを使って、アイリスの手の甲、指の先、そして分厚く硬い剣だこがある手のひらへと、そのクリームを優しく、丁寧に擦り込んでいった。
滑らかなクリームが、荒れ果てた肌にスーッと浸透していく。栞の手の温もりが、アイリスの凍りついていた心を少しずつ溶かしていく。
「……私の手もね、昔は包丁で切った傷跡や、油の火傷、冬のあかぎれでボロボロだったんです。女の子なのに恥ずかしいなって、ずっと手を隠して生きてました」
栞は、アイリスの分厚い剣だこを指の腹で優しく撫でながら、静かに語りかけた。
「でもね、ある時、私のお料理を食べてくれたお客さんが言ってくれたんです。『その傷だらけの手は、俺たちに美味しいものを食べさせるために頑張ってくれた、世界一美しい職人の手だ』って」
栞は、クリームがすっかり馴染んでツヤツヤになったアイリスの両手を、目の前へと持ち上げて見せた。
「見てください。アイリスさんの手、とっても綺麗ですよ」
「……綺麗、なんかじゃ……」
「ううん。綺麗です。この分厚いマメも、無数の傷跡も、アイリスさんが王都の平和を守るため、誰かの命を守るために、必死に剣を振るい続けてきた証でしょう? ……その手は、誰かを守るために頑張ってきた、世界で一番尊くて『美しい手』ですよ」
その言葉は、アイリスの胸の奥底に突き刺さっていた冷たいコンプレックスの氷を、一瞬にして粉々に打ち砕いた。
自分はずっと、女性としての美しさを失ったと嘆いていた。だが、この手にある傷は、自分が騎士として戦い抜いてきた誇りそのものではなかったか。
誰かを守るための手。その価値を、この異邦の料理人は、心の底からの優しさで肯定してくれたのだ。
「あ……あああぁぁぁぁっ……!」
アイリスの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
しかしそれは、先ほどまでの絶望の涙ではなかった。己の生き様を認められ、女性としての心を取り戻した、歓喜と安堵の涙だった。
アイリスは、桜と柚子の良い香りがする自分の両手を胸に抱きしめながら、子供のように声を上げて泣き続けた。栞は何も言わず、ただ優しく彼女の背中を撫で続けていた。
やがて、泣き疲れてスッキリとした顔になったアイリスは、少し照れくさそうに目を赤くしながら、冷めた生姜湯を一口飲んだ。
「……あの、女将さん。ごめんなさい、私、急にお店で泣き出しちゃって……」
「ふふっ。涙を流すのは、心のデトックスですから。それに、コラーゲンたっぷりの豚足を食べた後に泣いたら、明日のお肌はもっとツヤツヤになりますよ」
栞がウィンクをすると、アイリスはふわりと、年相応の可愛らしい少女のような笑顔を咲かせた。
「あの! 女将さん! この『豚足のトロトロ煮込み』、おかわりをいただけますか? なんだか急に、すっごくお腹が空いてきちゃいました!」
「はい、喜んで! お肉も煮汁もたっぷりありますから、ご飯にかけて丼にしても美味しいですよ!」
「最高ですね! 大盛りでお願いします!」
剣だこだらけの無骨な手を隠すことなく、堂々と箸を握りしめ、アイリスは二杯目の豚足をものすごい勢いで頬張り始めた。
外の凍えるような北風など、この店の中には一切届かない。
日本の家庭の知恵が生んだ美容食と、優しく香るハンドクリーム。それらが、一人の女騎士の失われかけていた自信と誇りを、見事に蘇らせたのだ。
甘辛い醤油の香りと、爽やかな桜の香りが混ざり合う店内。小料理屋『結』は、今日も傷ついた戦士たちの心と身体に、極上の癒やしと明日への活力を提供し続けている。




