第27話:宝石買取店の源蔵と、最新型冷蔵庫
料理人にとって、冷蔵庫はただ食材を冷やすだけの箱ではない。それは食材の命を預かり、鮮度という名の魔法を維持するための『心臓部』である。
王都アルカディアと日本の裏路地を繋ぐ、前代未聞の異世界小料理屋『結』。その厨房で、店主の藤原栞は、パンパンに膨れ上がった備え付けの小型冷蔵庫を前に、深い絶望の溜息を漏らしていた。
「……もう、限界。物理的に限界よ」
冷蔵庫の扉を開けると、そこにはカオスが広がっていた。
下段には、ミレイユが持ち込んだ巨大な『火吹き猪』のブロック肉が鎮座し、その横には『装甲魚』の半身が場所を占領している。野菜室には日本のスーパーで買った長ネギや大根が押し込まれ、上段には出汁用の昆布や鰹節、そして先日ジュリアンとの料理対決で使った『コカトリスの卵』の残りが、タッパーに詰められてギリギリのバランスで積み上げられていた。
毎日ひっきりなしに持ち込まれる、ファンタジー世界の規格外の魔物肉や未知の植物。それに加えて、日本の酒販店から配達される大量の純米酒やビール樽。
開業当初から使っていた中古の縦型二ドア冷蔵庫では、もはや容量も冷却能力も完全に限界を突破していたのである。
「最新型の、大型業務用冷蔵庫を買うしかないわね。チルド室と急速冷凍機能が独立してる、ピカピカの六ドアのやつ……。でも、あれって新品で買うと軽く百万円は超えるのよね……」
栞はぶつぶつと呟きながら、割烹着のポケットから『ある物』を取り出した。
それは、柔らかな布に包まれた、鶏卵ほどの大きさがある深い紅色の石だった。
先日、エルフのファリスが「奥様(ベアトリス公爵夫人)の健康を取り戻してくれたお礼だ」と言って置いていった、異世界の宝物庫から出土したという『ルビーの原石』である。
「……よし。これを資金に変えるしかないわね。日本の経済力で、厨房環境をアップデートするわよ!」
栞は固く決意し、エプロンを外すと、裏口から日本の現実世界へと飛び出していった。
向かった先は、駅前の繁華街にある老舗の宝石・貴金属買取専門店『大黒屋』である。
自動ドアをくぐり、静かなクラシック音楽が流れる店内に入ると、カウンターの奥でルーペを目に当てていた初老の男性が顔を上げた。
この道四十年を数えるベテラン鑑定士、源蔵である。白髪混じりのオールバックに、仕立ての良いベストを着こなした彼は、栞の顔を見るなり、目を見開いてカウンターから身を乗り出した。
「おや、栞さん! いらっしゃい! 今日は、今日はどんな素晴らしいお品をお持ちで!?」
源蔵のテンションは、異常なほど高かった。
それもそのはずである。以前、栞が持ち込んだ『不純物が一切ない特大エメラルド』を鑑定した際、源蔵は己の四十年の鑑定士人生の常識を覆すほどの衝撃を受けていたのだ。地球上の地殻変動では絶対にあり得ないほど完璧な結晶構造。それは、源蔵にとって麻薬以上の魅力を放つ『謎の魔石』であった。
「こんにちは、源蔵さん。今日もまた、海外のパトロンの方からいただいたお品がありまして……。買取、お願いできますか?」
「もちろんですとも! ささっ、こちらへ!」
栞がカウンターに布包みを置き、ゆっくりと開く。
現れた鶏卵大のルビーを見た瞬間、源蔵は「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げて後ずさり、心臓を押さえた。
「な、なんてことだ……。この大きさ、この恐ろしいほどの透明度と、燃え上がるような深紅の輝き……『ピジョンブラッド(鳩の血)』と呼ばれる最高級ルビーすら霞んでしまうほどの圧倒的な色彩……!」
源蔵は震える手で白い手袋をはめ、専用のピンセットでルビーをつまみ上げ、ルーペ越しに強烈な光を当てた。
「……信じられん。またしてもだ。内包物が、チリ一つとして存在しない。まるで、神が純粋な『炎』の概念だけを抽出して固めたかのような、完璧すぎる結晶だ。栞さん、あなたのパトロンはいったい何者なんです!? どこの鉱山を掘れば、こんな魔法のような石が出てくるというのですか!」
魔法のような石、というより、実際に魔法の力(魔力)が込められたファンタジー世界の産物なのだが、それを言うわけにはいかない。
「あはは……。中東あたりの、すっごく古い王族の末裔の方々でして。先祖代々伝わる秘宝だとか……」
「王族の秘宝! なるほど、それならば納得です! いやはや、私の目が黒いうちに、こんな奇跡の石を二度も拝めるとは……鑑定士冥利に尽きます!」
源蔵は感動のあまり涙ぐみながら、電卓を猛烈な勢いで叩き始めた。
「このサイズとクオリティなら、オークションに出せば数千万円は下らないでしょう。ですが、即金での買取となると……限界まで頑張らせていただいて、六百万円! いかがでしょうか!」
「ろ、ろっぴゃくまん……っ!?」
栞は危うく腰を抜かしそうになった。大型冷蔵庫どころか、店をもう一軒建てられるほどの額である。
「お、お願いします! それで!」
「ありがとうございます! では、すぐに現金の準備と、書類の手続きをいたします!」
一時間後。
分厚い茶封筒に詰められた六百万円の現金を手にした栞は、その足で厨房機器の専門問屋へと向かった。
そして、カタログで最も性能が良く、最も巨大な『最新型・六ドア業務用冷凍冷蔵庫(真空チルド機能・急速冷凍機能付き)』をキャッシュで一括購入したのである。
「これで、どんな魔物のお肉を持ち込まれてもドンと来いよ!」
意気揚々と店に戻った栞だったが、数日後の『納品日』に、彼女は重大な事実を見落としていたことに気がつくことになる。
——納品日の午後二時。
店の裏口にあたる路地裏に、トラックから下ろされた巨大な銀色の箱――最新型冷蔵庫が鎮座していた。
高さ二メートル、幅一メートル半、重量約百五十キログラム。
総ステンレス張りのその巨体は、見るからに圧倒的な冷却能力を誇っていたが、同時に、とてつもなく『デカかった』。
配送業者の作業員二人が、汗だくになりながら頭を下げている。
「すんません、店長さん。トラックが入れるのはこの路地の入り口までで、ここから店の勝手口までの細い路地は、台車でもギリギリです。おまけに勝手口の段差が高すぎて、俺ら二人じゃどうしても持ち上がりませんわ」
「ええっ!? じゃあ、どうすれば……」
「申し訳ないですが、この軒先に置かせてもらうところまでが限界で……。あとは、お知り合いの男手でも呼んで、なんとか搬入してください。それじゃ!」
作業員たちはそそくさとトラックに乗って帰ってしまった。
路地裏に取り残された、百五十キロの巨大な銀色の箱。そして、小柄な女板前である栞。
「……終わった。これ、私一人じゃ絶対一ミリも動かせない……」
夜になれば異世界の表口からバルトルトやドランといった怪力の男たちがやってくるが、彼らを日本の裏口側に回すわけには絶対にいかないのだ。異世界と日本の境界線を越えさせることは、店の秘密を守るための最大のタブーである。
途方に暮れ、冷蔵庫に寄りかかってズルズルと座り込みそうになった、その時だった。
「おや? 栞さん、こんなところで何をしているんですか?」
「ちわーっす。栞ちゃん、そのバカでかい箱、どうしたの?」
路地の向こうから、二人の男が偶然にも同時に現れた。
一人は、首にタオルを巻いた酒屋の配達員、浩太。
もう一人は、仕立ての良いスーツを着た老紳士、宝石鑑定士の源蔵だった。源蔵は、先日買い取ったルビーの追加の鑑定証明書を直接届けに来たらしい。
「浩太さん! それに源蔵さんまで! た、助けてください! この冷蔵庫、厨房に入らなくて!」
栞は地獄に仏とばかりに、二人に泣きついた。
「冷蔵庫の搬入? 俺は酒屋であって引越し業者じゃないんだけど……」
浩太が渋い顔をするが、栞はガシッと彼の手を握りしめた。
「お願い浩太さん! これが厨房に入らないと、今日からお酒もキンキンに冷やせなくなっちゃうの!」
「うっ……それは、配達員として俺も困るな……。冷えてないビールなんて犯罪だし」
浩太が頭を掻いていると、横から源蔵がスーツの上着をバサリと脱ぎ捨て、腕まくりをした。
「栞さん! あなたには極上の石を見せていただいた恩があります! この源蔵、六十五歳になりますが、昔は柔道で鍛えた身。男手が必要とあらば、一肌脱ぎましょう!」
「げ、源蔵さん……! かっこいい!」
こうして、日本の路地裏にて、女板前、酒屋の配達員、老宝石鑑定士という、謎の即席搬入チームが結成された。
「いいか、浩太くんと言ったね。君が下を持って持ち上げろ! 私が上を支えてバランスを取る! 栞さんはドアを開けて、導線を確保するんだ!」
源蔵の的確な指示のもと、男二人が百五十キロの巨体に挑む。
「うおぉぉぉぉっ! お、重てぇぇぇっ!! なんだこれ、中に鉛でも詰まってんのか!?」
浩太が顔を真っ赤にして持ち上げる。
「踏ん張れ浩太くん! 酒のケースを運ぶ要領で、腰を落とすんだ! せーの、よいしょぉぉっ!!」
老齢とは思えない源蔵の力強い掛け声と共に、巨大な冷蔵庫がジリジリと持ち上がり、勝手口の段差を越えて厨房へと侵入していく。
「ストップ! 右、右に切って! ああっ、そこ壁にぶつかる!」
栞がハラハラしながら指示を飛ばす。
厨房の狭い通路を通すため、ミリ単位での攻防が続く。もしここで彼らが厨房を抜け、表の客席側――異世界の路地裏が見える引き戸の方まで行ってしまえば、すべてが台無しになる。
「ちょっと浩太さん、そっち行き過ぎ! ストップ! そこで降ろして!」
「うおぉぉっ! 腕が……腕がちぎれるぅぅぅっ!!」
ドスゥゥゥンッ!!!
凄まじい地響きと共に、最新型の六ドア冷蔵庫は、栞が指定した厨房の完璧な定位置へと、見事に収まった。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「……や、やったぞ……我々は、やり遂げたんだ……」
浩太と源蔵は、その場に大の字になって倒れ込み、肩で激しく息をした。二人の服は汗で泥のようになり、源蔵の仕立ての良いシャツもシワシワになっていた。
「浩太さん、源蔵さん……! 本当に、本当にありがとうございました!!」
栞は感動のあまり、二人の手を握って何度も頭を下げた。
「いやぁ……死ぬかと思った……。栞ちゃん、これで今日の配達ノルマ、一つおまけしてくれない?」
浩太が息も絶え絶えに冗談を言うと、源蔵もハッハッハと笑った。
「いやいや、久しぶりに良い汗をかきました。これもまた、美しい宝石が結んでくれたご縁というやつですな」
このまま二人を帰すわけにはいかない。
栞の板前としての、最大級の感謝を示す時だ。
「お二人とも、今日は絶対に帰しませんからね。汗水流して手伝ってくれたんですから、私が極上の『まかない』をご馳走します!」
栞はすぐさまコンロに火を入れ、先ほどまで使っていた古い冷蔵庫から、最後に取り出しておいた日本側の最高級食材――霜降りの『黒毛和牛のサーロイン』を取り出した。
ルビーを換金した六百万円の資金力を使って、こっそりと買っておいた超高級品である。
熱した鉄板に牛脂を引き、分厚く切ったサーロインをドンッと乗せる。
——ジューーーーーッ!!
凄まじい音と共に、和牛特有の甘く芳醇な脂の香りが厨房いっぱいに弾け飛んだ。
浩太と源蔵が、倒れた状態のままビクッと反応し、顔を上げる。
「な、なんだこの暴力的な匂いは……!」
「高級鉄板焼きの店でしか嗅げない匂いだぞ……」
栞は表面をサッと焼き固めた和牛を、ミスリル包丁でサイコロ状に鮮やかに切り分けた。
味付けは、シンプルかつ最強。
たっぷりのすりおろしニンニクと、風味豊かな丸大豆醤油を回し入れ、一気に焦がして香りをまとわせる。
熱々の鉄板のまま、二人の前にドンッと置かれた『特選和牛のガーリックステーキ』。その横には、おろしたての本わさびが添えられている。
「さらに、肉体労働の後といえばこれですよね!」
栞は生ビールのサーバーから、氷点下ギリギリまで冷えた大ジョッキを二つ注ぎ、二人の手に押し付けた。
「さあ、お疲れ様でした! カンパーイ!!」
浩太と源蔵は、無言でジョッキをぶつけ合い、一気に冷たいビールを喉の奥へと流し込んだ。
——ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁっ!! うめぇぇぇぇぇっ!!」
「最高だ……! 労働の後のビールは、神の雫だ!」
二人はそのまま箸を掴み、ニンニク醤油の香ばしい和牛ステーキを口に放り込む。
「…………ッ!!!」
「溶けた!? 肉が口の中で一瞬で溶けたぞ!? なんだこの脂の甘さは!」
浩太が目をひん剥いて叫ぶ。
「素晴らしい……。醤油の焦げた香りとニンニクのパンチを、本わさびの爽やかな辛味が完璧に引き締めている。高級レストラン顔負けの味だ……!」
美食を知り尽くした源蔵でさえ、唸り声を上げて箸を止めることができない。
極上の肉を頬張り、冷たいビールで流し込む。
年齢も職業も違う浩太と源蔵の二人は、巨大な冷蔵庫を共に運び入れたという謎の達成感と、目の前の極上の料理によって、すっかり意気投合していた。
「いやぁ、源蔵さん! アンタすげぇ力してんな! 見直したぜ!」
「ハッハッハ、浩太くんの腰の落とし方も見事だったよ。君がいなければ、あの冷蔵庫の下敷きになっていたかもしれん」
二人はジョッキを片手に肩を叩き合い、笑い合っている。
その光景を見つめながら、栞はホッと安堵の息を吐き、微笑んだ。
(表の異世界のお客さんたちだけじゃない。裏口の日本の人たちとも、こうやって料理を通じて『縁』が繋がっていくのね)
謎の宝石を持ち込む女店主。
異常な量の酒を配達する酒屋。
そして、その謎を深く追及せず、出された極上の料理に舌鼓を打つベテラン鑑定士。
「栞ちゃん。君が裏でどんな大金持ちのパトロンを相手にしてるのか、俺はもう深く聞かないよ」
浩太がビールを飲み干し、ニカッと笑って言った。
「俺たちは、この美味い飯と酒が飲めて、商売が繁盛すればそれでいい。……何か困ったことがあったら、いつでも日本の裏口から呼んでくれよな。俺たち『裏の常連組』が助けてやるからさ!」
「ええ、私も同感です。この美味しいお肉とビールの味を知ってしまったからには、もはや共犯者も同然ですからな。ハッハッハ!」
日本の一般人たちによる、見て見ぬふりの固い連帯感。
ピカピカに輝く巨大な最新型冷蔵庫が鎮座する厨房で、栞の二重生活は、彼ら巻き込まれ協力者たちの優しさと食欲によって、ますます強固なものとなっていくのであった。
今夜もまた、この新しい冷蔵庫に異世界の未知なる食材がたっぷりと詰め込まれることになる。栞の料理の冒険は、無限の可能性に向かって冷え冷えと準備万端であった。




