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異世界交差点の小料理屋〜10年修行した女板前は、今日も日本の裏口から仕入れた食材で疲れた異世界人の胃袋と心を癒やします〜  作者: タカノ


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第2話:疲弊した騎士と黄金色のだし巻き卵

「よいしょぉぉぉっ! ううっ、重たっ! なんだこの鎧、中に鉛でも詰まってるんですか!?」


白木の真新しいカウンター席。その一番端の丸椅子に、栞は全身の筋肉を総動員して、倒れ込んだ巨漢の男をなんとか引きずり上げて座らせた。

男の着ている金属製の鎧は、見た目通りの凶悪な重量を誇っていた。栞の細腕では持ち上げるどころか数センチ動かすだけで精一杯だったが、床に転がしたまま飯を食わせるわけにもいかない。「どっこいしょ!」と掛け声をかけ、男の背中をカウンターに押し付けるようにして、どうにか上体を起こさせることに成功した。


「はぁ……はぁ……すまない、嬢ちゃん。助かった……」


男はカウンターに突っ伏したまま、虫の息でうめいた。

店の照明の下で改めて見ると、男の疲弊具合は尋常ではなかった。無精髭に覆われた顔は土気色で、目の下には真っ黒なクマが鎮座している。鎧の隙間から見える服は泥と謎の体液で汚れ、鉄の匂いと獣のような臭気が鼻を突いた。


「とりあえず、お水とおしぼりです。顔、拭けますか?」


栞は冷たい水を注いだグラスと、ほかほかと湯気を立てる熱いおしぼりを男の前にコトンと置いた。

男はゆっくりと顔を上げ、震える手でおしぼりを掴むと、それを顔に押し当てた。「あぁぁ……」という、心の底から漏れ出たような深い溜息が店内に響く。


「……言葉が、通じるんだな。ここは、王都の路地裏のはずだが……見たことのない店だ。俺はバルトルト。王都警備隊の第三部隊で隊長をやっている」

「バルトルトさんですね。私は栞。この『小料理屋 結』の店主です。言葉が通じている理由は……正直、私にもさっぱりわかりません。でも、お腹が空いて死にそうな顔をしているお客さんを放っておけないのは、どこの世界でも同じです」


栞が明るく言い放つと、バルトルトは少しだけ目を丸くし、それから力なく笑った。


「ははっ……頼もしい店主殿だ。俺は三日三晩、王都周辺に湧いた魔物の群れを不眠不休で討伐し続けてきた。部下たちを先に帰らせて、最後に残った報告書をクソッタレな上官に提出して……気づいたら、倒れ込むようにこの店の扉を開けていたらしい」


魔物。討伐。王都。

先ほどの馬車やファンタジーな光景を思い出し、栞は(やっぱり本当に異世界と繋がっちゃったのね……)と内心で頭を抱えたが、表情には一切出さなかった。板前たるもの、カウンターに立つ時は常に客に安心感を与えるべきである。


「なるほど、三日三晩の徹夜明けの肉体労働。おまけに上司の無茶振りですか。それは本当にお疲れ様です。……お腹の具合はどうですか? 何かガッツリ食べたい気分ですか、それとも……」

「いや……胃は空っぽのはずなんだが、疲れすぎて重たい肉を受け付ける気がしない。それに、ずっと野営で冷え切った保存食ばかりかじっていたせいで、腹の底が冷えきっているんだ。何か、温かくて……胃に優しいものを頼めないか」


バルトルトの言葉を聞き、栞の頭の中で瞬時にレシピの引き出しが開かれた。

極度の疲労状態。胃腸の機能低下。そして、冷え切った体。

必要なのは、消化が良く、良質なタンパク質が摂れて、何より冷えた心と体を芯から温めるもの。


「かしこまりました。バルトルトさんには、極上の『だし巻き卵』と、体を温める『熱燗』をお出ししますね。少しだけ、お待ちください」


栞はキリッとした表情でうなずくと、厨房の奥へと足を踏み入れた。

ここからは、彼女の聖域である。


まずは酒の準備だ。

栞は一升瓶の中から、米の旨味がしっかりと感じられ、温めることで香りが引き立つ純米酒を選んだ。それを陶器の徳利(とっくり)に注ぎ入れ、沸騰直前のお湯を張った酒燗器(しゅかんき)に静かに沈める。

目指す温度は『上燗(じょうかん)』。およそ四十五度から五十度。熱すぎず、ぬるすぎず、アルコールのツンとした刺激が飛んで、米のふくよかな甘みが最もふんわりと広がる絶妙な温度帯だ。


酒を温めている間に、だし巻き卵の調理に取り掛かる。

ボウルに新鮮な卵を三つ割り入れ、菜箸で白身を切るように、しかし空気を含ませすぎないようにリズミカルに溶きほぐす。

そこに合わせるのは、栞が今朝一番に引いた特製の『出汁』だ。

北海道産の利尻昆布を水からじっくりと煮出し、沸騰する直前で引き上げる。そこに、血合いを抜いた最高級の本枯れ節をたっぷりと投入し、澄んだ黄金色になるまで旨味を抽出した一番出汁。

この出汁を、卵液に対してたっぷりと加える。さらに、薄口醤油を少々と、ほんのわずかな塩、そして隠し味にみりんを一滴。出汁の風味を最大限に生かすため、味付けは極限までシンプルに。


コンロの火を点け、使い込まれた長方形の銅製卵焼き器を熱する。

油引きで薄く油を馴染ませ、温度を確かめるために菜箸の先に付けた卵液をチョン、と落とす。「ジュッ!」という軽快な音が鳴ったのを確認し、栞は第一陣の卵液を流し込んだ。


——ジューーーーーッ!!


店内に、卵が焼ける香ばしい音と、出汁の甘い香りが一気に立ち昇った。

カウンターでぐったりしていたバルトルトが、その音と匂いにビクッと肩を震わせ、顔を上げる。


「な、なんだ……? この、信じられないほど食欲をそそる匂いは……」


バルトルトの知る『卵料理』といえば、硬く茹でるか、鉄板で焦げるまで焼いて強烈な香辛料をまぶすか、どちらかだった。異世界の食文化において、香辛料は臭み消しであり、塩は保存のためのもの。素材の味を引き立てるという繊細な概念は、野営の騎士の食事には皆無と言っていい。

だが、今彼の鼻腔をくすぐっているのは、暴力的なスパイスの匂いではない。深く、甘く、どこか懐かしいような、海と大地の恵みが濃縮された『旨味』の香りだった。


栞の菜箸さばきは、まさに職人芸だった。

卵液の縁が固まってきた瞬間に気泡を素早く潰し、手首のスナップを効かせて卵焼き器を振り、手前へと卵を巻き込む。

空いたスペースに油をサッと引き、再び卵液を流し込み、巻いた卵を奥へと持ち上げて下にも液を流し込む。

ジュッ、クルッ。ジュッ、クルッ。

流れるようなリズムで、卵焼き器の中で薄い卵の層が何重にも折り重なり、徐々に分厚い黄金色のブロックへと成長していく。たっぷり含まれた出汁が溢れ出そうになるのを、絶妙な火加減と巻きの技術でギリギリのところに閉じ込める。

最後の一巻きを終え、卵焼き器の縁を使って形を美しい長方形に整えれば、完成だ。


「お待たせしました」


栞は、酒燗器から引き上げた徳利と、小さなお猪口(ちょこ)をバルトルトの前に置いた。

続いて、熱々のまま巻き簀(す)で軽く形を整えただし巻き卵を、黒い陶器の皿に乗せて提供する。傍らには、雪のように真っ白な大根おろしをふんわりと添えて。


「まずは、お酒で体を温めてください。熱いので気をつけて」


バルトルトは、目の前に置かれた小さな陶器の器(お猪口)と、そこから立ち上る透明な液体に戸惑った。

彼の知る酒といえば、木のジョッキで浴びるように飲む常温のエールか、貴族が飲む渋い赤ワインくらいだ。このように小さな器で、しかも湯気を立てている透明な酒など見たことがない。


恐る恐るお猪口を手に取り、口に運ぶ。

——ちびり。


「…………ッ!!」


バルトルトの目が見開かれた。

口に含んだ瞬間、ツンとしたアルコールの匂いはなく、代わりに米の芳醇な甘みと香りがフワリと広がった。そして、温かい液体が喉を通り、食道から胃の腑へと落ちていくのがはっきりとわかる。

カッと、体の芯から熱が灯った。

野営の冷気と疲労で凍てついていた内臓が、まるで春の陽だまりに包まれたように、ジンジンと温まっていく。


「なんだ、これは……!? 強い酒のはずなのに、ちっとも喉を焼かない。それどころか、魔力回復のポーションを飲んだ時より、体が内側から燃え上がるように温かい……!」

「ふふっ。それが『熱燗』です。疲れた体には最高のお薬ですよ。さあ、卵も熱いうちにどうぞ。そこの大根おろしと一緒に食べてみてください」


栞に促され、バルトルトは渡された『箸(はし)』という二本の木の棒を不器用に見つめた。使い方がわからず苦戦していると、栞がそっとフォークを出してくれた。


バルトルトはフォークを手に取り、黄金色に輝く四角いブロック——だし巻き卵に突き立てた。

その瞬間、彼は再び驚愕した。

フォークの先から伝わってくる感触が、あまりにも柔らかすぎるのだ。まるで雲かスライムにでも触れているかのような弾力。少し力を入れただけで、卵の断面からジュワリと透明な黄金色のスープ(出汁)が滲み出してくる。


「こんなに柔らかい卵料理が、あるのか……」


大根おろしを少し乗せ、大きく切り取った一口分を、バルトルトはパクリと口に放り込んだ。


「…………ぁ」


咀嚼する必要すらなかった。

舌の上に触れた瞬間、フワフワの卵が解け、中に閉じ込められていた熱々の『出汁』が一気に口内へ決壊した。

昆布の深い旨味。本枯れ節の力強い風味。それらを優しく包み込む卵のまろやかなコク。

異世界の塩辛いだけの肉や、味気ない干し肉ばかりを噛みちぎってきたバルトルトの味覚に、それはかつて経験したことのない『暴力的なまでの優しさ』となって襲いかかった。


添えられた大根おろしのさっぱりとした辛味が、卵の甘みをさらに引き立てている。

口の中が極上の旨味で満たされた状態で、すかさず熱燗をグイッと煽る。

出汁の余韻と、米の酒のふくよかな香りが口の中で完璧なマリアージュを果たし、食道を通って胃袋へと落ちていく。


——あぁ。

——俺は、生きてるんだな。


気がつけば、バルトルトの無骨な頬を、大粒の涙が伝い落ちていた。

理不尽な上官の命令。部下を守るための重圧。いつ命を落とすかわからない魔物との死闘。

張り詰めていた心の糸が、黄金色の卵と温かい酒によって、ぷつりと解けたのだ。


「うっ……うぅぅっ……うまい。うますぎる……なんだこれ、こんなに優しくて、温かい食べ物が、この世にあったのか……」


四十を過ぎた屈強な騎士が、カウンターで声を上げて泣きながら、だし巻き卵を口に運び、熱燗を煽る。

端から見れば異様な光景だったかもしれない。しかし、栞はただ静かに微笑み、新しい熱燗の準備を進めるだけだった。

美味しいものを食べて、泣くほど心が動く。

それは、その人が今日まで必死に、歯を食いしばって生きてきた証拠なのだから。


「ゆっくり食べてくださいね。お酒も卵も、まだまだたくさんありますから」

「あぁ……嬢ちゃん、いや、女将(おかみ)さん……あんた、命の恩人だ……俺は、もう一生、この味を忘れない……」


ボロボロと涙をこぼしながら、大事そうに卵を味わうバルトルト。

彼がこの後、王都の警備隊員たちに「路地裏に奇跡の飯を食わせるオアシスがある」と熱弁を振るい、小料理屋『結』が異世界人たちの溜まり場となっていくのは、もう少し先の話である。

今はただ、静かな夜の店内に、熱燗を注ぐトクトクという心地よい音と、疲れ果てた騎士の安堵の吐息だけが、温かく響き渡っていた。

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