第18話:ファリスの密命と、郷愁の筑前煮
王都アルカディアの空が、茜色から深い藍色へと移り変わる逢魔が時。
路地裏にひっそりと佇む『小料理屋 結』の店内は、開店前の静寂に包まれていた。白木のカウンターはチリ一つなく磨き上げられ、厨房の奥からは、コトコトと一番出汁を引く甘く芳醇な香りが静かに漂っている。
店主である藤原栞が、真っ白な割烹着の袖をまくり、夜の営業に向けた小鉢の仕込みに精を出していたその時だった。
——カラン、コロン。
入り口の引き戸に取り付けられた真鍮の鈴が、控えめな音を立てた。
まだ暖簾を出していない時間帯だ。栞が不思議に思いながら厨房から顔を出すと、そこには音もなく店内に滑り込んできた一つの影があった。
透き通るような金糸の髪に、長く尖った耳。月光のように白い肌を持つエルフの女性、ファリスである。
王都でも有数の権力を持つ貴族・ベアトリス公爵夫人の腹心であり、凄腕の密偵として暗躍する彼女は、以前この店で栞が作った『ほうれん草のお浸し』を食べて以来、すっかり野菜料理の虜となり、定期的に顔を出す常連客となっていた。
「いらっしゃい、ファリスさん。今日は早いですね、まだお店開けてないですよ?」
栞が明るく声をかけると、ファリスはいつもなら見せる微かな微笑みすら浮かべず、周囲を鋭く警戒するように見回してから、足早にカウンターへと歩み寄った。
「すまない、店主。今日は客として酒を飲みに来たわけではないのだ。……少し、厄介な相談があってな。誰の耳にも入れたくなかったゆえ、この時間を見計らって来させてもらった」
ファリスの翠緑の瞳には、いつになく深い疲労と、切羽詰まったような焦燥の色が浮かんでいた。
「相談、ですか?」
栞が手を止め、真剣な顔で向き直る。
ファリスはカウンター越しに身を乗り出し、声を潜めて話し始めた。
「実は……私の主君であるベアトリス様が、ここ数日、食事を一切受け付けなくなってしまわれたのだ」
「えっ!? ご病気ですか!?」
「いや、身体的な病ではない。王城での激しい派閥争いと、終わりの見えない政務の重圧……心労が限界に達しておられるのだ。城の料理長であるジュリアンが、どれほど腕によりをかけて最高級の食材で豪奢な料理を作ろうとも、奥様は一口召し上がっては『こんな脂っこいものは喉を通らない』と突き返してしまう」
ファリスは苦しげに顔を伏せた。
「エルフである私には、もとより人間の肉料理の美味さはわからん。だが、奥様が日に日にやつれていかれるのを見るのは、身を裂かれるよりも辛い。……そんな折、昨夜、奥様が熱に浮かされたように、昔の思い出を語られたのだ」
ファリスの話によれば、ベアトリス夫人は幼少期、身体が弱く、王都から遠く離れた辺境の領地で療養生活を送っていた時期があったという。
「奥様はこう仰った。『あの頃、村の老婆が作ってくれた、土の香りがする煮物が食べたい』と」
「土の香りがする、煮物……?」
「そうだ。宮廷で出されるような、美しく飾り立てられた澄んだスープや、香辛料で臭みを消した肉料理ではない。泥臭く、見た目は茶色く武骨で……だが、噛み締めるほどに大地の力強さと、郷愁を誘うような素朴な甘みがあったと。……城の料理人たちにその話をしても、彼らは『泥臭い料理など貴族の口には合わない』『そんな下等な食材は城の厨房には入れられない』と一蹴するばかりで、誰も再現しようとしないのだ」
ファリスは、すがるような目で栞を見つめた。
「店主。お前なら、肉を使わずとも植物の旨味を引き出すあの『お浸し』の魔法が使える。どうだろうか……心労で食の細くなった奥様のために、その『土の香りがする煮物』を作ってはもらえないだろうか。……この通りだ」
誇り高きエルフの密偵が、カウンターに額をこすりつけるようにして深く頭を下げた。
栞は、腕を組んでジッと虚空を見つめた。
(土の香りがする、茶色くて武骨な煮物。飾り気がなくて、噛み締めるほどに大地の力強さがある郷土料理……)
栞の脳裏に、日本の家庭料理の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
フレンチやイタリアンのような華やかさはない。だが、日本の食卓において、おふくろの味として決して外すことのできない、根菜をたっぷりと使った滋味深い料理。
泥付きの野菜。ごま油の香り。甘辛い醤油の照り。
「……ファリスさん。顔を上げてください」
栞は静かに、だが確かな自信に満ちた声で言った。
「詳しいレシピがなくても、大丈夫です。その『土の香りがする』というキーワードだけで、板前としての私の直感が、答えを導き出してくれました」
「ほ、本当か!? 作れるのか!」
「ええ。任せてください。……ちょっと、裏の市場までひとっ走りして、最高の『土の匂い』を仕入れてきますから!」
栞はエプロンの紐を締め直し、店の奥にある鉄の勝手口——日本へと繋がる扉に向かって駆け出した。
日本の業務用スーパーの野菜コーナー。
栞が真っ先にカゴに入れたのは、綺麗に洗われてパッケージされた野菜ではない。土にまみれ、太く立派に育った『泥付きのゴボウ』と、節が太くずっしりと重い『泥付きのレンコン』だった。さらに、大ぶりのサトイモ、色鮮やかな人参、そして和食には欠かせない弾力をもたらす『こんにゃく』を素早く選んでいく。
「土の香りを再現するなら、日本の根菜の右に出るものはないわ。大地のエネルギーを根っこに溜め込んだ、最高のお野菜たちなんだから」
さらに、煮物に深いコクと旨味を与えるための『干し椎茸』と、少量の『鶏のもも肉』をカゴに追加する。
買い出しを終え、足早に厨房へと戻った栞は、すぐさま調理を開始した。
「ファリスさん、よく見ててください。これが、大地の力強さをそのまま料理に封じ込める、和食の技法です」
栞は流し台に立ち、泥付きのゴボウを手に取った。
「土の香りを残すためには、洗いすぎても皮を剥きすぎてもダメなんです。ゴボウの旨味と香りは、この皮と身のギリギリの境目に一番詰まっているんですから」
栞は包丁の峰(背中の部分)を使い、流水に当てながら、ゴボウの表面の泥と薄皮だけを、優しく削り落としていく。真っ白になるまで剥くのではなく、ほんのりと茶色い土の気配を残す絶妙な塩梅だ。
それを、包丁で鉛筆を削るように、シュッシュッと素早い手つきで『笹垣』にしていく。さらにレンコンや人参、サトイモも、ゴツゴツとした武骨な形を残す『乱切り』にして水に放つ。
厨房の中に、たちまちフワァッと、雨上がりの森のような、土と木の根の力強い香りが立ち昇った。
「おお……。切っているだけなのに、なんという濃密な土の香りだ……」
カウンターから身を乗り出したファリスが、驚きの声を漏らす。
「ふふっ。でも、ただ泥臭いだけじゃダメ。これを極上の料理にするための下処理がここからです」
栞は、袋から取り出した灰色の塊——『こんにゃく』を手に取った。
こんにゃくは包丁で切るのではなく、あえて手で力強くちぎっていく。ちぎることで断面が複雑に荒れ、煮汁が圧倒的に染み込みやすくなるのだ。さらに、手でちぎったこんにゃくを熱湯でサッと下茹でし、特有の臭みを完全に抜き去る。
下ごしらえがすべて整ったところで、栞は使い込まれた大鍋を火にかけた。
たっぷりのごま油を引き、まずは一口大に切った鶏肉を炒める。
「ファリスさん、お肉が苦手なのは知ってますけど、この料理にはどうしても鶏のお肉が必要なんです。鶏から出る動物性の旨味と脂が、淡白な根菜たちにコーティングされることで、味に爆発的な深みが出るんですよ」
「……ああ。奥様は私と違って肉も食べられる。店主の料理哲学に口を挟むつもりはない。存分にやってくれ」
鶏肉の色が変わったところで、水を切った根菜たちとこんにゃくを一気に鍋に投入する。
——ジャァァァァァッ!!
ごま油と鶏の脂が、土の香りを纏った野菜たちと激しくぶつかり合い、厨房中に暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい匂いが弾け飛んだ。
鍋を大きくあおり、すべての具材に油がしっかりと回ってツヤツヤと輝き出したところで、栞は特製の『一番出汁』と、干し椎茸の戻し汁をなみなみと注ぎ込んだ。
そこへ、砂糖、本みりん、料理酒を加え、最後に丸大豆醤油をたっぷりと回し入れる。
「ここからが、煮物の神髄です」
栞は木でできた丸い蓋(落とし蓋)を、直接鍋の具材の上に乗せた。
「落とし蓋をすることで、少ない煮汁でも鍋の中で激しく対流し、すべての具材に均等に味が染み込んでいくんです」
コトコト、コトコト。
鍋から響く小気味良い音と共に、醤油と砂糖が煮詰まっていく甘辛く濃厚な香りが、土の匂いと完全に一体となって店内に充満していく。
ファリスは思わずゴクリと喉を鳴らした。肉の匂いなど気にならないほど、ゴボウやレンコンの放つ力強い大地の香りが、彼女の嗅覚を心地よく刺激していた。
煮汁が三分の一ほどになるまでじっくりと煮含めた後、栞は火を止めた。
「煮物は、火を止めて『冷めていく』過程で、最も具材の奥深くまで味が染み込むんです。……よし、完成です!」
栞は、漆塗りの美しいお重箱を取り出し、そこに出来上がったばかりの煮物をたっぷりと盛り付けた。
茶色く色づいたサトイモ、味が染みて黒光りするこんにゃく、艶やかなレンコンとゴボウ。そして、それらをまとめる鶏肉と椎茸。彩りとして、サッと塩茹でした絹さやの緑色を添える。
見栄えは決して派手ではない。むしろ、宮廷料理と比べればひどく地味で、茶色一色の武骨な料理だ。
しかし、その重箱から立ち昇る湯気には、人を根源的な場所で安心させる、圧倒的なまでの『郷愁』と『温もり』が詰まっていた。
「お待たせしました。日本の伝統的な根菜の煮物……『郷愁の筑前煮』です」
栞は重箱の蓋を閉め、美しい風呂敷で丁寧に包んでから、ファリスへと差し出した。
「あ、ファリスさん。味見用に小鉢にも少し取り分けてあります。鶏肉は抜いてありますから、ファリスさんもゴボウとこんにゃく、食べてみてください」
カウンターには、小さな器に盛られた筑前煮が置かれていた。
ファリスは箸を手に取り、まずは茶色く染まったこんにゃくを口に運んだ。
「…………っ!!」
ファリスの目が、驚愕に見開かれた。
プリッとした独特の弾力を噛み破った瞬間、手でちぎられた複雑な断面から、信じられないほど濃厚な旨味がジュワァッと溢れ出したのだ。
出汁の旨味、醤油の香ばしさ、砂糖とみりんのコク。そして、鶏肉から溶け出した豊かな脂の風味が、味気ないはずのこんにゃくを極上のご馳走へと変貌させている。
続いて、笹垣にされたゴボウを咀嚼する。
シャキシャキとした小気味良い歯ごたえ。その直後、鼻腔を鮮烈に駆け抜けたのは、まさにベアトリスが求めていた『土の香り』だった。泥臭いわけではない。大地が育んだ生命の力強さが、ごま油の風味と完璧に調和し、脳の奥底に眠る原風景を呼び起こすような、優しくも力強い味わい。
「美味しい……! なんだこの、心を鷲掴みにされるような深みは……!」
肉を嫌うファリスでさえ、鶏の旨味を吸い込んだ根菜の美味しさに、思わずため息を漏らした。
「……これなら。これならば絶対に、奥様の心を癒やすことができる!」
ファリスは風呂敷包みを大事そうに胸に抱き抱え、栞に向かって深く、深く頭を下げた。
「店主。心から感謝する。お前のこの魔法の料理、必ず奥様の元へ熱いうちに届けてみせる!」
「いってらっしゃい。奥様が、少しでも元気になってくれるといいですね」
栞の温かい笑顔に見送られ、ファリスは風のように店を飛び出していった。
***
それから数日後の、深夜。
閉店作業を終えようとしていた栞の元に、再びファリスが姿を現した。
しかし、その表情は数日前の焦燥に満ちたものとは全く違っていた。憑き物が落ちたような、清々しく、それでいて心からの喜びに満ちた輝かしい笑顔だった。
「店主!」
ファリスは店に入ってくるなり、カウンター越しに栞の手を両手でガシリと握りしめた。
「奥様が……ベアトリス様が、泣いて喜ばれたのだ!」
「本当ですか!?」
「ああ! あの『筑前煮』とやらを一口召し上がった瞬間、奥様の目から大粒の涙が溢れたのだ。そして、『これよ。私がずっと求めていた、優しくて力強い大地の味は……』と仰って、なんとあのお重に入っていた煮物を、一人でペロリと完食されてしまったのだ!」
ファリスの声は、歓喜に震えていた。
「奥様はあの日を境に食欲を取り戻され、顔色も見違えるほどによくなられた。城の料理長ジュリアンは、重箱に残っていた煮汁を舐めて、『私には絶対に作れない魔法の味だ』と膝から崩れ落ちていたよ」
「あはは、料理長さんにはちょっと悪いことしちゃったかな。でも、ベアトリス様が元気になってくれて、本当によかったです」
栞が心底ホッとしたように笑うと、ファリスは懐から小さな革袋を取り出し、カウンターの上にコトリと置いた。
「奥様からの、直接の報酬だ。あの料理は、どんな高価な宝石にも勝る価値があったと仰っていた」
栞が革袋の紐を解いて中を覗き込むと、そこには、息を呑むほどに美しく巨大な、親指ほどの大きさがある最高純度の『エメラルド』がコロンと転がっていた。
「ええええっ!? ち、ちょっと待ってください! こんな高価な宝石、も、もらえませんよ! ただの根菜の煮物なんですから!」
「受け取ってくれ。これは料理の代金ではない。私の大切な主君の命と、心を救ってくれたお前への、私と奥様からの最大限の感謝の印だ」
ファリスは優しく微笑み、栞の手にエメラルドを握らせた。
「お前は、本当に不思議な料理人だ。どんなに心細く、傷ついた者でも、お前の作る料理を食べれば、また明日を生きる活力が湧いてくるのだからな」
「……私なんて、ただの日本の板前ですよ。美味しいものを食べて、笑顔になってほしい。それしか考えてませんから」
栞は照れ隠しのようにエプロンで手を拭き、エメラルドを大切に握りしめた。
王都の権力闘争に疲れ果てた公爵夫人を、遠く離れた異世界の『おふくろの味』が救った。
土の香りがする煮物は、派手さこそないが、人の心の最も柔らかい部分に寄り添い、優しく包み込む力を持っている。
ファリスが上機嫌で店を後にした後、栞はエメラルドの深い緑色の輝きを見つめながら、日本の裏口から仕入れた泥付きのゴボウに、改めて深い感謝の念を抱くのであった。
「さてと。この宝石も……明日の朝、日本の買い取り専門店(源蔵さんのところ)に持っていって、新しい厨房機器の資金にさせてもらおうかな」
小料理屋『結』の店主の逞しさは、ファンタジー世界の貴族の感傷など遥かに凌駕している。
深夜の厨房に、栞の明るい笑い声が心地よく響き渡っていた。




