第11話:ミレイユの持ち込みと、火吹き猪のトロトロ角煮
王都アルカディアの路地裏にひっそりと佇む『小料理屋 結』。
その厨房は、日本の裏路地にある業務用スーパーと直結しているという、物理法則を完全に無視した奇跡の立地に恵まれている。店主である藤原栞は、その特異な環境を最大限に活かし、今日も開店前の仕込みに精を出していた。
出汁を引き、野菜の飾り切りを終え、一息つこうとお茶を淹れたその時である。
「たのもぉぉぉぉぉぉっ!!」
バンッ! という引き戸が壊れんばかりの豪快な音と共に、黒いローブに身を包んだ新米魔法使い、ミレイユが店内に転がり込んできた。
彼女の小柄な背中には、彼女自身の体重よりも明らかに重そうな、血の滲んだ巨大な麻袋が背負われている。ドサァッ、と鈍い音を立てて麻袋を床に下ろしたミレイユは、肩で息をしながら、ドヤ顔で栞を指差した。
「て、店主さん……! やりましたよ! 約束通り、物々交換のための極上の食材を、この天才魔法使いミレイユ様が命がけで調達してまいりました!」
「いらっしゃい、ミレイユちゃん。……ずいぶんと大物みたいだけど、ひょっとしてまたスライムのゼリーを大量に持ってきたとかじゃないわよね?」
「失礼な! 今回は正真正銘、お肉です! それも、森の奥深くでしか出会えない凶悪な魔物のお肉ですよ!」
ミレイユが誇らしげに麻袋の口を開けると、中からゴロンと転がり出てきたのは、真っ赤な赤身と分厚い脂身が層になった、巨大な肉のブロックだった。
しかし、普通の豚肉や牛肉とは明らかに違う。肉の表面からは、微かに焦げたような、それでいてツンと鼻を突く強烈な獣の臭気が漂っている。
「これは……猪のお肉?」
「ただの猪じゃありません。『火吹き猪』です!」
ミレイユはふんぞり返って説明を始めた。
「火吹き猪は、その名の通り口から灼熱の炎を吐く凶暴な魔物です。常に体内を炎の魔力が巡っているため、その肉は岩のように硬く、並の剣では切り裂くことすら困難。おまけに強烈な獣臭と硫黄のような匂いが染み付いているため、王都の料理人たちからは『靴底を煮込んだ方がマシ』と言われるほど敬遠されている、いわくつきの厄介な代物です!」
「……なんでそんな厄介なもの持ってきたのよ」
栞はジト目でミレイユを睨んだ。
「ち、違うんです! 本当はもっと美味しいと言われている『角ウサギ』を狙ってたんですけど、たまたま森でこの火吹き猪と遭遇しちゃって! 死に物狂いで氷結魔法を連発して、なんとか倒したはいいものの……私、今月のお財布の残金が銅貨三枚しかなくて……」
ミレイユは急にシュンと縮こまり、モジモジと指を合わせ始めた。
「ギルドに持ち込んでも、硬くて臭いからって全然お金にならなくて……。でも、店主さんのあの奇跡みたいな腕前なら、この岩みたいな火吹き猪のお肉も、ほっぺたが落ちるくらい美味しいお料理にしてくれるんじゃないかって……ダメ、ですか……?」
上目遣いで、お腹をキュルルルと鳴らしながら見つめてくる腹ペコ魔法使い。
栞は、まな板の上に乗せられた火吹き猪のブロック肉をじっと見つめた。
指で押してみると、確かに異常なほどの弾力、いや、硬さがある。まるでゴムタイヤか何かを押しているようだ。匂いも強い。野生の猪特有の獣臭に加えて、魔物特有のツンとした刺激臭がある。普通の調理法で焼いたり煮たりしただけでは、到底食べられたものではないだろう。
だが。
相手が厄介な食材であればあるほど、燃え上がるのが職人の魂というものである。
十五歳から厳しい板前修業に耐え抜いてきた栞の頭の中には、すでにこの強敵を攻略するための完璧なレシピが組み上がっていた。
「……ふふっ。いいわ、その喧嘩、買ってあげる」
栞は腕まくりをし、ニヤリと笑った。
「靴底よりマシだなんて言わせない。日本の和食の技法と、科学の力を使えば、どんなに硬くて臭いお肉でも、お箸で切れるくらいトロトロの絶品料理に変えてみせるわ!」
「ほ、本当ですか!? やったぁぁぁっ! 一生ついていきます店主さん!」
歓喜の舞を踊るミレイユをカウンターに座らせ、栞は即座に調理を開始した。
目指す料理は、豚肉料理の最高峰——『豚の角煮(火吹き猪バージョン)』である。
まずは、強烈な獣臭と表面の汚れを取り除くための『下茹で』からだ。
栞は巨大な中華鍋を強火で熱し、火吹き猪の肉の塊をそのままドンッと押し付けた。
——ジューーーーーッ!!
凄まじい音と共に、肉の表面から脂が溶け出し、もうもうと煙が立ち昇る。まずは表面をしっかりと焼き固めることで、肉の旨味を閉じ込め、同時に表面の臭みと余分な脂を焼き切るのだ。
全面にこんがりと焼き色がついたところで、肉を取り出し、たっぷりの水が張られた大鍋へと移す。
「ここからが臭み取りの本番よ。ミレイユちゃん、よく見てなさい」
栞が日本の裏口(業務用スーパー)から調達してきたのは、泥付きの長ネギの『青い部分』を大量に集めたものと、大ぶりの『生姜』の薄切り。そして、紙パックに入った安価な『料理酒』である。
「お肉の臭みを消すための、和食の三種の神器よ」
ネギの青い部分と生姜の薄切りを鍋に惜しげもなく投入し、さらに料理酒をドボドボと、鍋の水が白濁するほど大量に注ぎ込む。
火にかけ、沸騰したら弱火にしてアクを丁寧にすくいながら、約一時間じっくりと茹で上げる。ネギと生姜の香気成分が肉の臭みを中和し、日本酒のアルコールが蒸発する際に共沸効果で嫌な匂いを一緒に連れ去ってくれるのだ。
一時間後。
下茹でを終えた肉を鍋から引き上げると、あんなに強烈だった硫黄と獣の匂いは綺麗に消え去り、代わりに生姜とネギの爽やかな香りをまとっていた。
栞は肉をまな板に乗せ、五センチ角の大きめのブロック状に切り分ける。
しかし、包丁を入れる手に伝わる感覚は、まだ硬かった。匂いは消せても、火吹き猪の強靭な筋繊維は、一時間煮込んだ程度では到底ほぐれないのだ。
「匂いはすごく美味しそうになりましたけど……店主さん、やっぱりお肉、まだカチカチじゃないですか?」
カウンターから覗き込んでいたミレイユが、心配そうに尋ねる。
「ふふん。焦らない焦らない。ここからが、現代日本の科学の結晶の出番よ」
栞が厨房の奥から取り出してきたのは、分厚いステンレスで作られた、やけに厳重な蓋のついた奇妙な鍋だった。
「それは……? なんだか、ドワーフの作った爆弾みたいに見えますけど……」
「これはね、『圧力鍋』っていうの。これを使えば、硬い魔物のお肉もあっという間にトロトロになるわ」
圧力鍋。
それは、密閉した鍋の中で蒸気を発生させ、内部の圧力を高めることで、水の沸点を百度以上に引き上げる魔法のような調理器具である。高温高圧で一気に火を通すため、通常の鍋では何時間もかかる煮込み料理を、わずかな時間で劇的に柔らかく仕上げることができるのだ。
栞は圧力鍋の中に、切り分けた火吹き猪の肉を並べた。
そこに注ぎ込むのは、角煮の味の決め手となる『煮汁』である。
ベースとなるのは、もちろん栞が丹精込めて引いた昆布と鰹の一番出汁。そこに、風味豊かな丸大豆醤油、本みりん、料理酒、そして肉に照りとコクを与えるための『ザラメ糖』をたっぷりと加える。さらに、臭み消しと風味付けのために、新しい生姜の薄切りを数枚忍ばせた。
調味料の黄金比。それは、長年の修業で栞の舌と体に完全に刻み込まれている。
「よし、蓋をセットして……点火!」
カチリ、と圧力鍋の厳重なロックをかけ、コンロの火を強火にする。
数分後。鍋の中の水分が沸騰し、圧力がかかり始めた。
——シュッシュッシュッシュッ!!
圧力鍋のノズルから、蒸気が勢いよく噴き出し、けたたましい音を立て始める。
「ひぃぃっ!? て、店主さん! 鍋が! 鍋が怒ってます! 爆発しますよぉぉっ!?」
未知の調理器具が発する音と蒸気に、ミレイユは本気で怯えてカウンターの下に隠れてしまった。
「大丈夫、大丈夫。これが圧力がかかってる証拠だから。ここから火を弱めて……きっかり三十分。火吹き猪の頑丈な細胞を、内側から完全に破壊してあげるわ」
シュルシュルと微かに音を立てる鍋を見守りながら、栞は時計の針をにらんだ。
やがて三十分が経過し、栞は火を止める。
しかし、すぐに蓋を開けてはいけない。ここから圧力が自然に下がるまで放置する時間が、味が最も肉に染み込む重要な工程なのだ。
鍋が徐々に冷えていくにつれ、換気扇を通じて、醤油とザラメ糖が焦げてキャラメリゼされたような、甘く、深く、暴力的なまでに食欲をそそる香りが店内に充満し始めた。
「…………っ」
カウンターの下から顔を出したミレイユの口から、滝のようなヨダレが垂れている。
「て、店主さん……匂いが……甘くて、しょっぱくて……頭がおかしくなりそうです……」
「私もよ。和食の甘辛い醤油の匂いって、どうしてこんなに人を狂わせるのかしらね」
鍋の圧力を示すピンが完全に下がったのを確認し、栞はカチャリとロックを外した。
ゆっくりと、蓋を開ける。
——モワァァァァァッ。
濃厚な湯気と共に、鍋の中から現れたのは、まさに『宝石』だった。
醤油とザラメの色をたっぷりと吸い込み、琥珀色に輝く火吹き猪の肉塊。
赤身の部分は繊維の一本一本まで味が染み渡ってホロホロに崩れかけ、分厚い脂身の部分は、まるで上質なゼリーのようにプルプルと震えている。煮汁は肉から溶け出したゼラチン質と脂でトロミがつき、肉の表面に美しい『照り』となってまとわりついていた。
「うわぁぁぁぁ……! これがあの、岩みたいだった火吹き猪……!?」
ミレイユの目が、限界まで見開かれる。
栞は温めておいた深めの陶器の小鉢に、角煮を三切れ美しく盛り付けた。
傍らには、彩りと口休めのために、サッと塩茹でした小松菜を添える。
仕上げに、和辛子を器の縁にちょこんと乗せ、上からトロトロになった煮汁をたっぷりと回しかけた。
「お待たせしました。当店特製、『火吹き猪のトロトロ角煮』です」
カウンターに置かれた小鉢。
湯気と共に立ち昇る、出汁と醤油、豚の脂が織りなす甘美な香り。
ミレイユは震える手で箸を握り、琥珀色に輝く一番大きな肉の塊へと箸先を向けた。
力を入れて突き刺そうとした、その瞬間。
——スッ。
「……えっ?」
ミレイユは、自分の手の感覚を疑った。
あんなにカチカチで、包丁ですら刃こぼれしそうだった火吹き猪の肉に、木の箸が、まるで豆腐を切るかのように何の抵抗もなくスゥッと入っていったのだ。
箸で挟み上げてみると、自重に耐えきれず、肉がプルプルと震えて今にも千切れそうになる。
「嘘……こんなに、柔らかく……?」
ミレイユは呆然としながらも、大きく口を開け、その肉の塊をパクリと放り込んだ。
「…………ぁ」
咀嚼する必要すらなかった。
舌の上に触れた瞬間、プルプルの脂身が熱でスゥッと溶け出し、濃厚で甘い旨味が口の中全体に爆発的に広がった。
赤身の部分は、舌で押し潰せるほどホロホロにほどけ、中から出汁と醤油の甘辛い煮汁がジュワァァッと溢れ出してくる。
火吹き猪特有の強烈な獣臭は微塵も残っていない。生姜とネギ、そして日本の調味料の力が臭みを完全に封じ込め、野生の魔物肉が持つ『力強い旨味』だけを極限まで引き出している。
飲み込むのがもったいない。ずっと口の中でこの甘美な脂を味わっていたい。
そう思わせるほどの、圧倒的な美味しさだった。
「ひゃぁぁぁぁぁ……っ!!」
ミレイユは両手で頬を押さえ、身をよじって歓喜の悲鳴を上げた。
「と、溶けました! お肉が、口の中で一瞬で消えちゃいました! あんなに硬くて臭かったのに、すっごく甘くて、お出汁の味が染みてて……脂身が、脂身が甘いぃぃっ!」
「ふふっ。それが角煮の醍醐味よ。ちょっと味が濃いから、端っこにある和辛子を少しだけつけて食べてみて」
ミレイユは言われるがまま、箸の先に黄色い和辛子をほんの少しだけつけ、次の肉を口に運んだ。
「……っ!!!」
ツンと鼻を抜ける和辛子の鮮烈な辛味が、角煮の濃厚な甘みと脂の重さを一瞬にして引き締め、信じられないほどさっぱりとした後味へと変化させた。
味がリセットされることで、また一口、もう一口と、無限に肉を求めてしまう悪魔のループが完成する。
添えられた小松菜のシャキシャキとした食感と苦味も、口休めとして完璧な役割を果たしている。
「おいひぃ……おいひぃれす、店主はん……!」
ミレイユは涙と鼻水を流しながら、一心不乱に角煮を頬張り続けた。
三日間の討伐の疲れと、金欠による空腹の苦しみが、甘辛い煮汁と共に完全に浄化されていく。彼女の脳内には、天使たちがラッパを吹き鳴らし、黄金の豚が空を飛ぶ幻覚すら見えていたかもしれない。
まさに、至福の昇天である。
「ご飯も炊きたてがあるけど、食べる?」
「食べるぅぅぅっ!! どんぶりでお願いしますぅぅぅっ!!」
ツヤツヤの白米に、角煮の甘辛いタレをバウンドさせてかき込むミレイユ。
その見事な食べっぷりを見ながら、栞はホッと安堵の息を吐いた。
(……よかった。日本の圧力鍋と調味料の力があれば、異世界の魔物のお肉でも、立派な和食のメインディッシュに昇華できるのね)
火吹き猪という難敵を打ち倒したことで、栞の料理人としての自信はさらに深まった。
未知の食材と、研ぎ澄まされた和食の技法の融合。
それは、二つの世界を繋ぐこの『小料理屋 結』の厨房でしか生み出せない、新しい奇跡の味だった。
「ぷはぁぁぁっ……! もう、お腹がはち切れそうです……」
角煮三鉢と、どんぶり飯二杯を平らげたミレイユは、カウンターに突っ伏して幸せそうに大きなお腹をさすっていた。
「これで、今回のお肉の代金はチャラってことでいいわね?」
「はいっ! むしろお釣りが来るくらいの美味しさでした! 私、これからも王都の誰も見向きもしないような厄介な魔物を狩って、店主さんのところに持ち込みます! そうすれば、毎日こんな美味しいお料理が……ぐへへ」
「あはは、あまり無茶して怪我しないでよ。私はいつでも、ここで温かいご飯を作って待ってるんだから」
栞が優しく微笑むと、ミレイユは嬉しそうに「はいっ!」と元気よく返事をした。
異世界からの奇妙な持ち込み食材を、極上の和食へと変える実験室。
今日も小料理屋の厨房には、甘辛いお出汁の匂いと、常連客の幸せそうな笑い声が満ち溢れているのだった。




