【血風】
「は~あ、カモシカでねぇなー、シグ」
西の山道、森猪と遭遇したところから少し進んだあたり。
頭のうしろで両手を上げながらリオがぼやいた。
今はこの場所で簡単な野営を張っており、さきほど昼食を終えたばかりだった。
腹も膨れ、風も心地よく、天気もいい。
――まったくもって、ピクニック日和である。
「まぁカモシカ出なくてもベリア苔とって帰ろうなー。こないだは結局とれなかったし」
「……おう」
短く返事をしたシグも、どこか眠そうだ。満腹と、日光と、そよ風に、必死に抗っている。
「なぁ、蒼角カモシカはこの地域に出るやつだろ?なんか……他の角?のカモシカとかもいんのかな?」
「……いる」
リオの問いに、シグは少し目を細めながら、木々の合間を見渡して答える。
眠気の滲む声ではあったが、その視線は緩まず、周囲を油断なく見ていた。
「紅角が南の火山地帯。銀角が北東山岳地帯。蒼角と違って、そいつらは警戒心が強い。まず人前には出ねぇ」
淡々と語られるその知識は、長年の経験に裏打ちされたものだ。
「……蒼角だけが、たまに好奇心で寄ってくる。だから目が合ったら――騒ぐなよ?」
木陰にかすかに吹く風が、草むらを撫でていく。その音に混ざって、リオが「へえぇ」と素直に感心した。
野営の設備は、リオによって手際よく空間魔法へとしまわれた。
細々とした調味料も、テントのような嵩張るものも、その異空間へするすると収納されていく。
便利なものだな、とシグがそれを見つめていると、見られていることに気づいたのか、やや照れくさそうにリオが笑った。
「なんだよ。今さら俺の価値に気づいたか?戦えないんだから、せめてそれ以外で足手まといにならないようにするぜ、俺は!」
照れをごまかすように、シグの腕をぽん、と叩きながら、リオは歩き出した。
ちょうどいい長さの枝をおともに、それを楽し気に振り回しながら、進んでいく。
「……価値ってお前……」
ぼやく声も、弾む背中にはもう届かない。素直にそれを認めたい気もするし、それ以上だと思い始めている自分もいた。
――黙って、そのあとをついていくこととする。
「……あ、ベリア苔あった!とっていい!?」
リオの手に持たれていた枝が、そちらの方向を指し示す。初日とは違い、リオは走り出さない。シグの指示を待っているのだ。
「……行け」
短くそう言ったシグの声に、リオの顔がぱっと明るくなる。嬉々として苔の生えている木へと向かう背中を、シグは無言で見送った。
しゃがみこんだリオが、苔を傷つけないようにそっと指先で触れている。その様子はまるで、宝石を見つけた子どものようだ。
そのまま食べると炎症を起こす苔は、手で触れてもかぶれることが多い。皮手袋を身に着け、苔を丁寧に剥がして瓶に詰めていく。
風がざわめく。森の空気が澄んでいる。少し離れたところで、シグは腕を組み、周囲の気配に耳を澄ませていた。
が、敵意も殺気も、何ひとつ感じない。
平穏というものは、時に刃よりも鋭く胸に刺さる。
リオの方へ視線を向けると、彼は熱心に苔を瓶に詰めていた。頬にはうっすら汗が光り、嬉しそうに時折こちらを振り返る。
それを見て、シグはほんの少しだけ、目を細めた。
「……足手まとい、か」
低く、誰にも聞こえないような声で呟いた。苔を掲げて見せるリオに、小さく顎をしゃくって返す。
ただそれだけの仕草で、リオは満面の笑顔になった。
シグが周囲を警戒しながらこちらを見ている。苔の採取ひとつとっても、こんなに安心するものかと思う。
「わはは、頼りになるなぁお前!」
明るい軽口に、シグは肩をすくめて返事とした。リオはまた向き直る。苔の採取は一瓶目がいっぱいになり、二瓶目にうつった。
背中に感じる温かさがくすぐったい。くふふ、と思わず声が出て、もう一度振り返る。
「お前、いくらなんでも見すぎじゃ――シグ後ろ!!」
リオの声が裂けた瞬間、シグの体が反射よりも速く動いた。音もなく迫っていたそれは、低木の陰から突如姿を現した。
草を踏む音ひとつなかったのは、まるで地を滑るような動きだったからだ。
――魔獣緋紋蛇。
硬質な鱗に赤い紋様を持つそれは、地熱の高い地域に生息するはずの毒蛇種。
鋭い牙を剥き出しにし、まっすぐシグへと跳躍していた。
「っ……下がってろ!」
シグの声が、雷のように鋭く響いた。
背から引き抜いた細身の大剣が、唸りを上げる。
――金属と鱗がぶつかり合う、乾いた音。空中に舞う紅い鱗が、陽光を反射して煌いた。
地に叩きつけられた緋紋蛇が、鋭く舌を鳴らして体勢を立て直す。
その大きさは、成人男性の胴回りほどもある。だが、それでもシグは一歩も退かず、剣を構えたまま前に出た。
「来んなよ」
低く、抑えた声音。
それはリオにではなく――緋紋蛇に向けた、冷たい宣告。
再び跳びかかる毒蛇に、シグは迷いなく飛び込む。剣筋は無駄なく、研ぎ澄まされている。
斬撃が紋様の走る鱗の隙間を正確に穿ち、刃が深く沈んだ。首が飛ぶ。
断末魔を上げる余地すら与えられず、緋紋蛇は力を失い、地面に崩れ落ちた。
赤黒い血が、草を焦がすように滲み広がっていった。
静寂が訪れる。
シグは呼吸を整え、血が飛び散っていないか確認するように、剣を払った。
そして、振り返る。
「……無事か」
苔の前で立ち尽くしていたリオに、真っすぐ金の眼が向けられた。
リオが頷いたのを確認して、シグはようやく息を吐いた。そのまま歩み寄り、剣を背へと戻す。
「……ならいい」
低くぼやいたその声は、どこか焦りを押し隠していた。
「あっありがとうシグ、俺、なんもできなかった……」
固まっていたのであろうその手は、革鞄の紐を両手で握りこんでいた。
普段は魔獣と遭遇したら、真っ先に逃げる。けど、今日は目の前で仲間が身を挺して守ってくれていた。
ならば逃げる必要はない。けれど見ているだけで何もできない。そんな狭間に、リオはいた。
シグの身体の影から身を乗り出すようにして、緋紋蛇を見やる。
「えーと、こいつ何……?」
「緋紋蛇だ。……毒蛇だぞ」
「そ、素材もはぎ取らなきゃだし、あの蛇持って帰ろうぜ。ここではぎ取るより街に帰ってからのほうが安全だよ。
俺の空間魔法に、まるごと入ると思う――あと、」
一拍切ったリオが、そろぉりとシグを見上げる。
完全にお伺いを立てる目。どこか、おねだりめいた目。
「――俺まだ緋紋蛇食ったことないんだけど」
シグは、――ふぅ、と深く息をついた。目を細め、頭を掻く。リオの顔から目を逸らすように。
「……まぁ、そう言うと思った」
声は呆れていたが、怒ってはいなかった。
むしろその気配には、どこか安堵が滲んでいる。
「まったく、襲われた直後に言うことかよ……」
小さくぼやきながらも、緋紋蛇の死骸を一瞥する。確かに、胴は太く、肉付きも悪くなさそうだ。
だが毒蛇だ。肉に毒が回っている可能性も高い。
「……まずは、肉に毒があるかどうか、帰ってからしっかり調べろ。それから、食うにしても俺の目の前で試食しろ。いいな?」
リオがぱあっと笑顔になるのを、シグは視界の隅で捉えながら、がし、と再び頭を掻いた。
言っても無駄だとわかっている。だが、言わずにはいられない。そうでなきゃ、こいつはすぐ飛び込んでいくから。
「……ま、そうでなくとも素材にもなるかもな。鱗は厚いし、牙は薬にも使える」
緋紋蛇の死骸を空間魔法に収めるリオの背を見ながら、シグは周囲に再び目を走らせた。
警戒を解くにはまだ早いが――それでも、リオを傷つけずに戦えたことに、胸の奥がわずかに温まる。
どこか深い安堵を、感じていた。
帰り道、リオはこれまでにないほどにほくほくとした顔をしていた。
勝ったのだ。魔獣にではなく、シグに。
緋紋蛇は毒蛇だ。
シグには絶対に反対されると思っていたが、毒の有無の確認、シグの目の前で調理することを条件に、食材として扱う”許可”をもらった。
通常であれば、リオはシグから反対されれば引く。
だがしかし、緋紋蛇のように危険度が高く、市場にも出回らない獲物――リオにとっては”食材”なのだが、その食材の放つ魅力に、リオは抗えなかった。
シグの気が変わる前に空間魔法に放り込むのも、半ば慣れてきていた。
「シグほんっとありがとう!!ちゃんと気を付けて調理するからほんと信じて!
味見するときもお前の横でするし、解毒剤もちゃんと用意する!
そんでもし美味かったら最初のお客さんお前だぜ!超功労者だもんな!」
シグは、浮かれた足取りで前を歩くリオを見ながら、重いため息をひとつ落とした。
だが、その表情に険しさはない。むしろ、口元はかすかに緩んでいた。
「……食うことに対する情熱は認める」
ぼそりと呟き、リオの背を目で追う。
リオは緋紋蛇の素材を得た喜びで、顔をほころばせていた。
まるで山の幸を見つけた子供のように、足取りにさえ弾みがある。
ふと、振り返ったリオが、屈託なく笑う。
その顔には悪びれた様子も、迷いもなく、ただ”嬉しい”があふれている。
「……美味くしてくれよ」
シグの目が、ふと細くなる。
それは脅しでも、呆れでもなく――ただ一人の料理人に向ける、真剣な眼差しだった。
太陽が少し傾いてきた森の中、二人の影が並んで伸びていく。
歩幅は違えど、その足取りは同じ速さで、同じ方向へと向かっていた。
リオの表情は晴れやかで、弾む足取りのまま森の出口へと続く道を進んでいく。
シグはその後ろ姿を見つめながら、手の中の剣の重さをほんのわずかに感じ直していた。
命を懸けて守るに足るもの――その背中は、たしかにそれだった。
そして今日もまた、シグはリオの暴走に付き合うため、一歩ずつ歩みを進めるのだった。
帰ってきたリオとシグが街中を歩いていると、中央通りを男が一人、歩いてきた。
街の外の冒険者らしい。その男がシグに目をやり、立ち止まる。
シグも、男が自分を見つめているのに気づき、自然に足を止める。
男の目線に鋭さを感じ、少し警戒したように肩の力を抜いてから、相手をじっと見返した。
男は少し考え込みながらも、やがて口を開いた。
「お前、シグ・エルラント……血風のエルラントか」
ざわ、と周囲の空気がざわめきだった。次第にひそひそと声が聞こえてくる。
「ねぇ血風って……」
「ああ、噂じゃ討伐戦で……」
「でもリオの仲間じゃ……」
「だよな……」
――”血風”。
リオには覚えのない言葉だったが、周囲の囁きと、シグが顔をしかめたのを見て、閉口する。
男はシグの後ろのリオにちらと視線を送り、そのままシグに目線を戻して鼻で笑った。
「なんだぁ?誰とも組まねぇって噂だったが、そんなひょろっちい奴と組んでんのかよ。お前も落ちたもんだな」
リオはぎく、としたが、何を言えるでもなくシグの背中を見た。
リオに戦場のあれこれはわからない。
しかし、今シグの後ろ姿から立ち上る気配が、”殺気”と”拒絶”だということは、なんとなくわかった。
街路の夕陽が一瞬、翳ったように感じられた。
風が止まり、時間すら止まったかのような静寂が周囲を包む。
シグの金色の瞳が、目の前の男に向けてまっすぐに細められる。
言葉はない。ただ、沈黙の中で彼の全身から立ち上る気配が、刃のように空気を裂いていた。
――知らない、背中だった。リオが目を見開いて立ち尽くす。
確かにリオには理解できないことがある――だが、今目の前にあるのは、まぎれもなく”縄張りを侵された獣の気配”だ。
男は、その空気に気づきながらも、引かなかった。だが、その声はわずかに震えを孕んでいく。
「……は。睨まれたぐらいで引くかよ、あんたに憧れて冒険者になったって奴もいんだぜ? ま、それも今じゃ昔話か……」
そこまで言ったとき、シグがゆっくりと歩を踏み出す。
――無音。
その一歩に、男の喉がひくりと動いた。シグの唇が、ほとんど見えないほどわずかに動く。
「……黙れ」
たったそれだけ、だった。
だがその声は深く、低く、地の底から響くような重さを持っていた。
街路に居合わせた者たちは皆、気圧されて一歩退く。
そして次の瞬間、男が舌打ちをし、肩をすくめて歩き出した。
「チッ、冗談も通じねぇのかよ……」
小さく悪態をつきながら、乱暴に。
すれ違いざま、リオにも冷たい視線を浴びせてくる。
「雑魚が。どうやって取り入ったんだか」
リオに向かって呟くとも吐き捨てるとも取れない言葉を吐き、男はそのまま街の出口へ向かっていった。
場の空気が、ほんの少し緩む。
それでも、シグの肩にはまだ残滓のような緊張がまとわりついている。
彼は何も言わず、ただ一度、背後にいるリオを振り返るだけだった。
その瞳には、ただ――リオが無事であるか、それだけが映っていた。
こちらに振り返ったシグを、リオは何も言わずに見ていた。
シグが、何か言おうか迷っている気配がある。きっと言えることと、言えないことがある。リオはそれを感じ取っていた。だからこそ。
「シグ」
仁王立ちのまま微動だにしないその用心棒の前に、リオはあえて回り込んだ。
「あいつに食わせてやればよかったかな、俺の飯!」
まだどこか眼光鋭いシグの前、努めて明るく存在するのが、リオの役目であった。
街路に響いていたざわめきが、リオの声でふっとほどけた。
シグの金の瞳が、リオを捉える。その光は、ほんの少しだけ柔らかく揺れた。
冗談交じりの言葉には、芯があった。"気にすんなよ"という意志、"俺は俺でいる"という宣言、そして"隣に立ってる"という確かな存在感。
沈黙の中、シグは一歩だけ前へ出る。リオの肩へ、硬い手が置かれた。
それはまるで、「悪かった」と言うような、あるいは、「無理に明るくしなくていい」と伝えるような、寡黙な男なりの返答だった。
リオの軽口が風に乗って遠くへ流れ、街の音が再び戻ってくる。
何も変わらないようでいて、確かにそこには、ふたりの絆の輪郭がひとつ、深まったようだった。
シグは街の様子をちらりと見やった。あの場で聞こえてきた、こちらを囁く声。
それは今までも、全くないわけではなかった。
けれどもそんな好奇の目よりももっと強い空気が、この街にはあった。
”でも、隣のリオが笑ってる”――そういう、ある種の信頼であった。
「どこで解体しようかな、シグ!」
笑うリオに視線で返事をし、街を歩く。
「おやリオ、今日は露店開かないのかい!」
「リオ、こないだのゼリーおいしかったわ!」
「今度は辛いものもつくってくれよ」
そんな声を街の人にかけられながら、リオも快活に返事をする。
「わはは、ありがと!今日はシグがすげーの狩ってくれたから、美味かったら皆にもな!」
なんのことない、いつもの軽い返しだが、それは言外に、「この男は自分の仲間だ」と周囲に知らしめることに他ならない。
「リオ、今度うちの店いらっしゃいよ!」
「おう!じゃシグと一緒に行こうかな!」
「リオ、また運び屋頼んでもいいかい?」
「いいよ!うちの相棒と行ってくるよ!」
「なんだぁリオ、楽しそうだな」
「そうなんだよ!シグがすげぇ魔獣狩ってくれてさ!」
一つ一つのやり取りは些細なものだったが、それは雪が積もるようにしっかりと、シグの身体に降り積もっていった。
石畳を踏みしめながら歩くたびに、街の声がリオに向かって飛ぶ。
返ってくるのは明るい声、軽い笑顔、そして――自然に添えられる自分の名前。
不意に、シグの心に波のような感覚が訪れる。それは熱でもなく、痛みでもなく、ただじんわりと沁みるもの。
あのざわめき、あの視線の記憶すら、いまは遠く霞む。
自分が“孤独”を望んでいた日々。戦場で背中を預けることなど、一度としてなかった過去。
……生きることすら、数日前までどうでもよかった。
だがいま、目の前の彼が、「この男は仲間だ」と、当然のように言っている。
しかもそれを、周囲が当たり前のように受け入れている。
リオの隣で、歩幅を合わせながら歩く。自分の名が笑いと一緒に呼ばれる。
それが、こんなにも穏やかで、嬉しいと思ったのは――初めてかもしれなかった。
「……」
すれ違った子供が、興味津々にシグを見上げて、無邪気な声で言う。
「リオのおっきいお友だちだ!」
リオが吹き出す。シグは少しだけ、目を伏せて笑った。
金の瞳が柔らかく揺れたのを、リオは見逃さなかった。
――【血風】




