【仙麗の水場の主】
二人は、肩慣らしに、近場の草原にある低木の実を採取していた。
——リオは欲しいものを見つけると一直線になってしまう悪い癖があった。
それでも今まで大きな怪我もせず無事だったのは、ひとえにその逃げ足の速さと運の良さだった。
けれど、とリオは横目でシグを見る。
今は頼れる仲間がいる。自分をしっかり繋ぎとめてくれる、大木のような。それが、何よりもの支えだった。
風が草を撫で、遠くで虫の羽音がかすかに鳴っている。
「シグ!おれちょっとキノコ類も採ってくるな?」
しゃがみこんで木の実を取っていたシグに、リオが後ろから声をかける。指は林のほうを示している。一人で行けるよ、という顔だ。
リオの指差す方向——草原の端にぽつりぽつりと広がる林は、陽の光をまだよく通していて、薄暗さはほとんど感じない。
木の実を摘んでいたシグは、そのままゆっくりと体を起こし、背後からの声に振り向いた。
リオの言葉には軽さがあったが、どこか表情には「ちゃんと許可をもらっている」というニュアンスが滲んでいた。
「……二十分以上はかかるなよ」
シグの金の瞳が、静かに林の奥を見やる。距離はそう遠くない。気配も穏やか。だが念のために、といった具合に、目を細めて周囲の魔力の流れを探る。
——問題なさそうだ。
リオの笑顔にもう一度静かに頷くと、シグは再び腰を落とし、木の実の選別に戻っていった。
だが、耳はしっかりと林の方向に。いつでも、声があれば、飛び込めるように。
リオはうきうきとしていた。用心棒がいるというのはこんなにも心強いのか。
遠目に見える銀灰色の髪を確認してから、キノコを手早く採取していく。きちんとした食用のものをとり、もう一度そちらを見やる。
まだ低木のあたりで木の実を採っている。こっちを見てはいない。
よし、と、料理研究用に、”食用とはされていないキノコ”を数種類、しっかりと採取した。
後で聞かれた時に見せればいいだろう。シグのことだ、きっとまたやれやれ、という顔をして許してくれそうな気がする。
イヒヒと思いながら様々なキノコを採取していたが、ふと自分の周囲がかげった。
まるで、巨躯の大男が後ろから覗き込んでいるような、影。
振り返るのがちょっと怖い。
葉擦れの音が止んでいる。林の中の空気が、かすかにぴんと張り詰める。
陽をさえぎるように落ちた影は、明らかに人のものだ。大きい。厚い。見覚えのある、気配。
しかし今は草原のほうにいたはず——。
振り返ると、そこにはやはり、金の瞳があった。険しい顔こそしていないものの、……じっとリオの手元を見ている。口は開かない。が、目が語っている。
『——それは、食用じゃないな?』
ばっちり見られていたらしい。リオの手に握られていた、毒々しい斑点のある白いキノコに、シグの視線が鋭く落ちる。
そのまま何も言わずに、ひと呼吸。そして低く、じわりと問いかける。
「……“後で見せればいい”って思ったか?」
威圧はない。だが否応なく、内臓に響く声だった。目の前の巨体が、完全に用心棒モードになっているのを感じて、リオはちょっぴり冷や汗をかく。
「か……確認してもらうつもりだったよ……持って帰る前に……」
ぎこちない弁明も、シグの「ん?」という表情にはじき返される。
そろりと手に持っていたキノコを背後に隠すが、もう手遅れだろうということはどこから見ても明白だった。
リオはやがて観念したように、シグの前にキノコを並べていく。
麻痺作用のあるもの、食べると舌が焼けるもの、笑いが止まらなくなるもの、強い催淫作用をひきおこすもの。
「ええと……食べれるようになるか、研究するんだぜ?」
目の前に並べられたラインナップに片眉を引きつらせ、シグはリオを見下ろしていた。
黙ったまま、目の前に並べられたキノコを一つずつ見下ろす。その表情は、もはや怒りでも呆れでもなく——“諦め”の域に入っていた。
だが、その目だけは鋭い。まるで毒の有無だけでなく、リオの魂の中まで見通そうとするような、金の光。
「……」
ふ、と鼻で息をついたかと思うと、シグはしゃがみ込んでリオの目線に合わせる。大男の動きとしては静かで、しかし否応なく迫力がある。
「……研究するなら、せめて一人の時にやるな。俺がいる時も……採取までは、許す」
低く落とされた声は、思った以上に優しかった。
「だが食う前に、俺に見せろ。絶対だ。……“危ない”と判断したら、叱る。躊躇なく、止める。いいな?」
指を差すでも、声を荒げるでもない。けれど、その眼差しには“背く余地がない”という強さがあった。
そしてほんの少しだけ、口の端が動く。
「……お前のことは、信じてる。だが、“毒草”より、お前の楽観のほうが怖い」
それが、シグの本音だった。
「ご……ごめん、ありがとうシグ。俺もうちょっと気を付けるよ」
言いながらも、そのキノコたちを空間魔法にしまい込んでいくスピードは素早かった。
さながら、シグの気が変わらないうちに、といったところか。
歩き出し、肩越しにちらりとこちらを見たシグに、リオはどこか嬉しそうに笑った。
そのままその背中を追い越し、西の山道へと向かう。
「さ、行こうぜ!寄り道で時間食っちゃったしな!」
やれやれと肩をすくめるシグも、どこかこの風のような男に慣れてきていた。
風が吹き抜け、林の梢がざわめく。西の山道へ向かう道は、朝の光に包まれていた。
足元の草をかきわけ、リオが先導するように小道を駆け上がっていく。
その背中は、叱られたばかりとは思えぬほど軽やかで、どこか晴れやかですらあった。
その後ろを、銀灰の髪が静かに追う。シグは、先を行くリオの背中に目をやりながら、一度だけ小さく息を吐いた。
(……懲りねぇだろうな……)
そう思いつつも、口元にはかすかな苦笑が浮かんでいる。
毒物を集める癖も、突飛な調味も、見せてくる悪戯顔も——いまや、それらすべてが“手のかかる大事な料理人”の一部として、彼の中に根を張りはじめていた。
踏みしめる土の感触が、やがて乾いた岩肌へと変わり始める。遠く、山鳥の声。木々の隙間から、目的の”西の山道”へ続く登山路が覗いていた。
そして、シグは黙って剣の柄に手をかける。この道の先、何が待っていようと——隣にいる“あの男”の無茶に付き合う覚悟は、もうとっくにできていた。
しばらく歩いてきた辺りで、あ、とリオが足を止めた。背負った革鞄から例の”携帯食”を取り出し、一口頬張る。
「食うの忘れてた。いつも採取の時はさ、これで自分に補助効果かけて逃げ回れるようにしてんだ。
周りに何もいなけりゃ色々採取できるんだけど、たいてい魔物とか魔獣がいるから、そうなったら採取どころじゃないしな」
リオは携帯食料をもう一つ手に取り、シグに差し出す。
「お前はどうする?今回は食わないでおくか、それともどんな感覚か慣らしておく?」
差し出された携帯食を、シグはしばらく見下ろしていた。——香りは甘く香ばしく、色も焼き菓子のようで、見た目には異常はない。
昨夜ほんの一かけ食った時も、その味には納得した。けれど中身は、炎症を起こす苔や、廃棄される薬草、魔力を含む森の水の混合物。
金の瞳が、携帯食とリオの顔とを行き来する。無言のまま、それを受け取った。
かじる。
ほんのりと甘味、ざらつくナッツの食感、わずかに喉の奥にぴりりとした刺激——体内を、じんわりと何かが巡っていく。
足先から指先まで、感覚がわずかに鋭くなるのが分かった。
「……ん」
一瞬だけその感覚に己を見下ろしたが……異変はそれだけで、再び黙々と歩き出す。
ほぼすんなりとそれを口に入れたシグを見て、リオは何とも嬉しい気持ちを隠せなかった。
「わはは、そうやって俺の怪しい料理食ってくれんの、感動するかも」
軽口を叩きつつも、ついその肉体のほうに目が行く。
「さて効果時間はどうだろうなぁ、他人に食わせたことないし……。俺は半日は持つけど、シグは俺よりデカいし、動くから多分代謝もいいだろ?
もしかしたらもう少し、短いかもしれねぇな……」
物理防御の上がりようを確かめているのか、リオがシグのみぞおち辺りをペタペタと触る。
効果が目で見えるはずもないのに、不思議そうにじろじろと眺めている。
おい、と咎めるシグの声が聞こえているのかいないのか、リオは頭の後ろで腕を組んだまま歩き出した。
独り言のようにぶつぶつと言葉があふれてくる。
「うーん、シグみたいなデカいやつなら二切れ食ってもいいのかな……効果切れる感覚ってどうやって調べたっけな……、ああ、状態異常確かめようとして毒草食いながら調べてたんだな……でもさすがにシグに毒草食わせるわけにもいかねぇよな……」
それはリオの頭の中で考えられていたことなのだが、まことに残念ながら全部口に出ていた。
「シグ用に中身変えたやつ作っても面白そうだよな……そしたらなんだろうな……集中力強化、視野・反射感度、血流促進あたりかな……。魔法防御もつけてみたいけど多分素材の相性悪くなっちまうな……。でもそんな実験みたいな飯食ってくれ……るか……な」
はた、とリオが止まり、ぎぎぎとシグを見上げる。見下ろされている。とても鋭い半目で、見下ろされている。
「あ、あれぇ、俺、もしかして全部声に……」
——シグは、無言のまま、じっとリオを見下ろしていた。
長身の影が、細身の料理人にぴたりと重なり、金の瞳がまっすぐに射抜くように細められている。
風が草を揺らし、鳥の羽ばたきが遠くに響く。
シグは、リオの口からつるつると滑り出た“とんでもない案”の数々を、今ようやく確認し終えたところだった。
毒草。
実験飯。
身体強化。
「……」
しばらくの沈黙ののち、シグはゆっくりと息を吐いた。そして、ごくわずかに眉尻が動く。
口を開くことなく、リオの頭をくしゃりと無造作に撫でると、彼はそのまま背を向けて歩き出した。
大きな背中が、当然のように道を切り拓く。それは言葉ではなく——“まあ、やってみろ”の意志表示。
そして、その背中越しに、ごく低く、ぼそりと漏らす。
「……毒草は、食わん」
それきり、再び無言の山道行。だがその足取りは軽く、どこか笑いを噛み殺しているようでもあった。
リオはバツの悪そうに、しかし安心した顔でわははと笑った。
「いやあ、俺もう殴られちまうかと思ったよ!わるいわるい、実験台にはしねぇよ!
でも声に出しちゃってんのはまぁ、お前のせいなところもあるよ?」
信頼した表情でシグを見上げて、リオは破顔一笑した。
「今までの探索中の俺なんて、もうほんと無口で硬派な男だったんだぜ!
でもシグと出会ってからは、お前がなんでも俺の話聞いてくれるから、ついいつも以上に喋っちゃってさあ、まぁ先ほどのように、言わなくていいことまで言ってしまったわけなんですけれども……わはは」
シグは歩きながら片眉を上げると、ちらりと肩越しにリオを見た。
その表情には呆れと——どこか照れたような、かすかに柔らかい色が滲んでいた。
「……俺のせいかよ」
低くぼやくように呟いたあと、やれやれと首を振る。だがその背中は怒っているわけではなかった。むしろ、誇らしげな空気すらある。
風が涼しく吹き抜ける山道に、草木のざわめきとリオの笑い声が混ざる。
「ま、お前のそういうとこ、嫌いじゃねぇけどな」
それは本当に小さく、リオに聞こえたかどうかも怪しいほどの声。
けれどその瞬間、ふと見上げた空の青は澄み渡り、どこまでも晴れていた。
キノコだなんだのと小さな寄り道をしたものの、順調に路程をこなし、リオたちは目的の山道にさしかかっていた。
「普段こっちのほうまでなかなか来ないから、在庫が少なかった野草とかとれて助かるぜ」
リオがそう言いながら、道脇の木の新芽を数本もぎ取る。
シグも流れるように自然と周囲を警戒するが、脅威があるどころか行楽日和といってもよさそうだ。
「この新芽も揚げると美味いんだぜ。野営じゃちょっと揚げ物は難しいから、街に帰ったら作ってやるよ」
シグは頷きながら、足元の土を軽く蹴って確認する。踏み跡も新しく、獣の臭いもさほど強くはない。
視線を遠くへと向けて、山道の先——かすかに霧が揺れているあたりを見据えた。
「ああ。……ベリア苔は、もう少し先のほうか」
「おう。このさきの崖の手前だな」
乾いた小石が足元で転がる音が響く。シグはそれを踏み越え、リオの隣に立った。ふと、リオが摘み取った新芽に視線を落とす。
「……揚げ物な。覚えとく」
それは約束のような、なんでもない一言のような、どちらともとれる静かな返答だった。だがそれを聞いたリオの顔には、陽射しと同じくらい明るい笑みが浮かんでいた。
ぶっきらぼうな返答すらも、リオには新鮮だ。
こうして誰かと並んで探索をするのは、はじめてに等しい。まして、相手はこちらの寄り道に、歩調を合わせてくれている。それがひどく、たまらなかった。
「はぁ~あ、見れるといいなぁ、カモシカ!」
そう笑いつつ歩き始め、リオは鞄から小さな瓶を取り出した。中にはころころときらめく玉が詰め込まれている。一つ取り出し、リオが口に放り込む。
どうやら飴玉のようだ。そのまま口の空いた瓶を、シグのほうに向ける。
「お前甘いの苦手だっけ?飴いる?言っとくけどこれは変なもんじゃなくて、マジでただの飴玉だぜ」
シグは一瞬だけ瓶を見下ろし、すぐにリオの顔に目を戻した。
「……苦手だっつっても、食えなくはねぇ」
そう言いながら、ひとつ瓶から飴を取る。リオの手から受け取ったそれを、無造作に口へと放り込んだ。
さく、と足元の小枝が折れる音の中、静かに飴を転がすように味わう。
甘さの質を吟味しているのか、それともただ、目の前を歩く料理人の背中に気を向けているのかはわからない。
「……悪くねぇな」
口の中の飴玉がわずかに転がる音とともに、そんなひと言が落ちた。その声音はどこかくぐもっていて、言葉の端にほのかに柔らかさが滲んでいた。
リオの肩がわずかに揺れて、またひとつ笑みがこぼれる。
春の光が降り注ぐ山道に、ふたりの足音と、さわさわと揺れる木々の音が穏やかに溶けていく。
「わはは、でも苦手なら無理して食うなよ?そうだ、今度お前に甘くないもん作ってやるよ。辛いのとか味濃いの好き?
お前の好きなもん、言ってくれれば俺作るから……」
リオが言い切るよりも前に二人の前に、ぬ、とわき道から大きな猪が現れた。飛び出してきた、というよりは、散歩でもするかのようにゆっくりと。
シグの身体が一瞬で前に出る。抜かれた刃は、しかし地に構えられただけで振るわれることはなかった。
金の瞳が猪を射抜くように見据える。鼻息荒い獣——体躯は巨大で、ただの猪ではない。
だが——警戒するシグをよそに、リオが笑顔になった。
「おっ、水場の主じゃん!」
リオの声に呼応するように、シグはぴたりと動きを止めた。土を踏みしめる音が消え、森に再び静寂が満ちる。
猪はリオに正面から向き直り、どこか人の言葉を理解しているような仕草で、鼻先をふんと鳴らす。
その背には苔のような緑が生え、光を反射するように薄く揺れている。
「——仙麗の、水の主か」
シグが低く呟く。その声には警戒と驚きの両方が混じっていた。
猪は、リオの姿を確かめるように、ひとつ鼻を鳴らし、それから森の奥へと静かに踵を返した。
まるで「来い」とでも言うように。
振り返ったリオの目が、きらきらと輝いている。シグはその横顔を見て、小さく息を吐いた。
「……気が休まらねぇ……」
大きな背を追い、ふたりは森の奥へと足を踏み入れた。森の緑が、濃くなっていく。
「やー、ごめんなシグ、今日会えるわけないと思ってたからさ。説明しとけばよかったよな」
獣道を進みながら、リオは背中越しに、シグにそう謝った。
その前を、まるで森の番人か守り人であるかのように、巨大な森猪が進んでいく。苔むした背が、ゆるやかに揺れる。
ぬかるみに強い太い脚が、迷いなく先を進み、巨体で枝を押しのけるたびに、木々の間に一筋の陽光が差し込んだ。
時折後ろのリオたちを振り返りつつ、道なき道をかき分けて。木漏れ日の落ちた”森の世界”は、木々のざわめきや風の音、鳥の鳴き声などの自然の音にあふれている。
小動物も顔を出す。が、水場の主の行軍に、安心したように草むらへ飛び込んでいった。
シグはリオのすぐ後ろを歩きながら、ゆるく背の柄に手を添えていた。警戒の名残——だがその視線に、敵意はない。
むしろ、森の深奥に導かれるという非日常に、静かに気配を研ぎ澄ませていた。
「危なくシグに切られちゃうかと思ったよ。わはは」
リオの声は、先ほどまでとは打って変わって静かなものだった。森の営みを邪魔しないように。小動物たちの安寧を守るように。
その静かな声に、ちらと視線を向ける。背を向けたままのリオに向かって、短く息を吐き、小さく首を振った。
「……切りつける前に、あいつが止まった」
低く、森に紛れるような声だった。
足元を横切る小さな影に、シグが足を止める。一羽の小鳥が枝に降りてきて、森猪の背の苔をつい、とついばんだ。
それを一瞥した猪はまるで気にすることなく、再びゆるやかに歩き出す。森猪の背が、またひとつ枝を押しのけ、日差しの斑がその体を飾った。
湿った土の匂い、苔むす地面、遠くで鳴く鳥の声。すべてが、この静かな森の呼吸のようだった。
「……ずいぶん信頼されてるな、お前」
皮肉にも似た言葉に、リオは前を見たまま少し笑って、唸った。
「いや……信頼かなぁ?俺が弱そうだから脅威じゃねぇとか、そんな感じだと思うんだよなぁ。友達っていうよりなんかその辺の犬猫だと思われてるんじゃね?
まぁでも残念ながら俺も料理人だからさ、こうやって受け入れてもらえても、やっぱ頭のどこかで、あいつはどんな味かな、こいつはどう言う調理方法がいいかなって、考えちゃうんだよなぁ」
歩みを止めた森猪が、ちろりとリオを見る。リオが慌てて、その守人然とした獣に弁明する。
「あ、いや違う違う!お前は食べないよ!お前がいなくなったら、森のみんなが困るだろ!」
リオの声は、そんな森の空気を損なわぬよう、けれど思わず漏れ出た素直なもの。シグは、その背中を見ていた。
「あいつはどんな味かな」——冗談のようでいて、本気だろう。しかしそのあとすぐ、「お前はいなくなったら皆が困る」と言えたのも、本気だ。
そういうところが、リオなのだ。
森猪がくしゃみでもしたように鼻を鳴らすと、その脇に咲く薄紫の花が小さく揺れた。リオの言葉を“分かっている”ように、それでも歩みを止めずに先導するその後ろ姿は、どこか頼もしくさえある。
その様からは、やれやれまったくといった気配が滲む。
「あぶねぇ怒られちゃうとこだった……。おいシグ、妙なこと聞くなよ!」
それは言いがかりでは、と、シグが苦笑した。片眉を上げ、リオの背中に一言だけ返す。
「……聞かれて困るような本音、漏らすほうが悪い」
冗談めかしつつ、どこか親しげで、軽く肩を押すような声音だった。
そして、そのリオの後ろにまた並ぶ。銀灰色の髪が、木漏れ日にかすかに光を受ける。こうして森を歩くのも悪くない、と、シグはふと、思った。
やがて木々が開け、湧水の流れが見え隠れする、小さな谷間にたどり着いた。水面は、陽光を反射して、ちらちらと光が揺れている。
水場に着くと、リオは静かに森猪に歩み寄った。
自分の数倍もある巨大な獣に、器のようにした両手を差し出す。その手のひらから、ふわふわと魔力が滲みあがってくる。
森猪も、鼻を数度鳴らして、リオの掌に鼻先を近づけた。吸い込んでいるのか舐めているのかは見えない。
——魔力と交換で分けてもらえる——、そんなリオの言葉を、シグは思い出していた。
リオは一言も発さず、しかしかすかに笑みを浮かべていて、穏やかで静かな時間が過ぎていく。
しばらくして、森猪は静かにその場を去った。あとはご自由に、というような意思が、なんとなく伝わってくる。
森の生き物たちの貴重な水源。リオが悪いようにしないということは、もうわかっているのだろう。
それを見送ったリオは、虚空——空間魔法から空き瓶を一つ取り出して栓を開け、瓶を水の中に押し入れた。
こぽこぽとちいさな音を立てて、空の瓶が水で満たされていく。
「……シグ」
静謐な空気の中、リオの声が静かに漂った。周囲を警戒していたシグが、視線だけで返事をする。
「さっき俺、森猪とは”今日会えないと思った”って言っただろ」
「……ああ」
「……あいつさ、俺が一人の時にしか出てこないんだ」
言いながらリオは、ちゃぷ、と泉から瓶を取り上げ、栓をする。
「他の冒険者と一緒だったりとか、他の商隊がいるときは、どんなに探しても絶対出会えない。
でも今日は、お前がいたのに向こうから会いに来てくれた。…………、お前もあいつに認められたのかもな」
そう言って笑う横顔は、仏頂面の相棒を誇らしく思っているようにも見えた。
風が、水面をわずかに揺らす。谷間の木々は枝を揺らさず、ただその葉の合間から射す光が、ゆるやかに地面を撫でていた。
そこに立つリオの、横顔は……森の一部のように自然で、静かだった。
シグはその背に、無言で歩み寄る。重い足取りは草を踏みしめてもなお静かで、武器の音すらしない。
代わりに水の音と、どこかで鳥が囁くような鳴き声が響いていた。
「……筋合いは、ねぇな」
リオの言葉に対する返答ともつかぬ呟きが、シグの口から漏れた。まるで自分には不釣り合いだとでも言いたげに、ほんの少しだけ眉が動く。
けれど次の瞬間、その金の瞳がリオを捉えていた。
森猪がリオを信頼し、この場所を託したように。今この場所で、リオが自分の隣にいるように。
——“お前がいたのに向こうから来た”。
その事実だけで、何かが胸に刻まれていく。
「……だがまぁ、受け取った」
そうぽつりと呟くと、シグは空を仰いだ。陽の光が髪をかすかに透かし、影がその頬に落ちた。
リオは水の採取を、当然のように瓶一本にとどめた。空間魔法を閉じ、さて、といった具合でシグを見上げて、一拍——明るく話す。
「で、シグ、お前、帰り道わかる?俺わかんね!」
——こいつ……、と、シグはやや頭を抱えた。先ほどまでの静謐さも、水場の主と交わした神秘さも、すべて吹き飛ばすような発言、そして笑顔。
だがそこに、自分の存在意義があるようにも思えてしまう。
木々の合間にまだ陽は残っていたが、森の奥深くではすでに夕方の気配が差し始めていた。シグは静かに、しかしあからさまに溜め息をついた。
「……」
片手で額を押さえながら、数歩その場を離れ、辺りを見渡す。足跡、折れた枝、陽の傾き——周囲を無言で見定めるその様子は、まるで熟練の猟師のようだった。
やがてリオのほうへ戻ると、わずかに顎をしゃくってみせる。
「あっちだ」と言わんばかりの仕草に、リオは「おっ!」と顔を明るくして小さくガッツポーズを取る。
シグの肩がわずかに揺れた。ため息混じりの、けれどかすかに笑ったような気配——それは街にいた頃よりもずっと柔らかかった。
「まったく……」
かすれた声が喉の奥で零れ、シグは先に歩き出す。
その背を見上げるリオは、何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は楽しげな鼻歌をこぼしながら、後に続いた。
「いやー、いっつも迷うんだよなぁ!
来るときは森猪に置いて行かれないように必死だし、帰るときは一人だから野草とか木の実とか採るのに熱中しちゃって、気づいたら山道に戻ってきてる、って感じでさ!
シグがいれば遭難しなさそうで安心だな!」
笑うリオは、先ほどまでの森猪との儀式めいた静粛さはどこへやら。その奔放さはシグの頭を抱えさせるのに十分だった。
無意識に道脇の野草やらを採取しそうになって、はっと手を引っ込めている様子もある。一応、シグに黙って勝手な採取はしないように、心がけ始めてはいるようだった。
成長してるな——と思ったが、それを言うと調子に乗りそうで、シグは口をつぐむ。だが、普段人の手が届かないであろうこの森の奥は、たしかに恵みに溢れている。
よほど採取をしたいだろうな、とも思った。
「…………」
シグは歩きながら、無言のまま腰に手を伸ばす。
革製のポーチのひとつを開き、中から布に包まれたものを取り出すと、無造作にリオへ放った。
リオが慌てて受け取って、何かと思えば、小さなナイフだった。けれど市販品ではない。刃は短く、だが切れ味の良さそうな手入れが施されている。
柄はシグが普段使っている素材と同じで、彼の手で削り出したものらしい。
「——“これでなら採っていい”って言ったら、加減するか?」
「え……」
ぽつりと、低く、しかしどこか優しい声。
「……夕べ作った。握るとこ、指すべらねえようにしてある」
そして付け加えるように、静かに目を細めた。
「……材料が余ってただけだ」
それきり、リオの返事を待つでもなく、また歩みを戻していく。その背中は、いつにも増して頼もしく見えた。
リオは立ち止まったまま、驚いたようにシグを見上げた。
「さ、採取していっていいの……?俺叱られるかと思って遠慮してたんだけど……」
手元のナイフを見つめるリオの様子を見て、振り返ったシグが肩をすくめる。花が咲いたように、リオの顔がパッと明るくなった。
「じゃっ、じゃあちょっとだけいいかな!いやぁ、マジありがとうシグ!!」
そこからのリオは素早いものだった。
茂みに潜り、木に登り、地面に這い、気になったものを次々採っていく。
「あ、シグ見ろよ、これトトの実!甘酸っぱくてうまいんだぜ!」
「あっこれはなシーアジーアって山草!すげぇ腹持ちいいんだぜ、毒あるけど!」
ひとつひとつ、小さな解説を交えながら採取していく。
シグもそれを目で追い、耳で追う。よく目が回らないものだと、また頭を抱えそうになる。
「うわ、あそこいっぱい豆虫いるじゃん!何匹か採れるかなぁ!」
「おっ、あそこの茂み、今動いたよな!?なんか珍しい魔物でも……!」
暴走しかけたリオの腰を、シグが思わず掴んで抱き上げた。
急に浮いた身体に、リオの動きがぴたりと止まる。が、抱き上げたシグ自身も、己のその行為に思わず動きを止めていた。
「…………」
「…………」
午後の木漏れ日が揺れる森の中、ぶらりと地面から足が離れたリオは……呆気に取られた顔でシグを見上げていた。
その腕の中で、動きは完全に静止している。が、その目だけが、あちこちを泳いでいる。どこか気まずそうに、けれど嬉しさも混じっているような、複雑な表情。
「……シグ俺、制止って普通、腕とか首根っこだと思ってたん……だけど……」
腕の中で、リオが小さく呟いた。軽い。細い。自分は何をしているんだと戸惑う。
己の大きな手が、リオの腰を抱えたまま動けなくなっている。それは反射だった。ただ、とっさに暴走を止めたくて出た行動だった。
だが腕の中にある身体が、想像以上に軽くて、温かくて——いやそうじゃないだろう。ほんの少し、力を緩める。
「……っ」
喉の奥で、何かがひっかかったように音が出ない。
”首根っこ”……笑ったようなリオの言葉が、半ば冗談混じりで届いてくるが、今のシグにはその軽口にさえ返す言葉が見つからなかった。
抱えられたリオは、暴れるでも拒むでもなく、大人しくしている。その無防備さに、また困惑する。
やがて、シグはほんの少し視線を逸らしながら、小さく、低く、ひとこと。
「……調子に、乗るな」
それだけ言って、そっと地面へリオを戻す。けれど、耳はまだ少し赤い。そしてリオも、地に足がついた瞬間にようやく我に返ったように、笑みを浮かべていた。
森の風が、ふたりの間をすっと通り抜けていく。
「わはは、わりぃ……お前がいたから、普段より気が大きくなってた……」
そう言ったきり、リオは、黙って採取物を空間魔法に収納していった。
——自分の腕の何倍もある、太い腕だった。
これでも自分も立派な大人なのに、軽々と足が浮いた。——そして微動だにしなかった。
よく街の女性たちがムキムキの冒険者に黄色い歓声あげたりしているのを見て、むさくるしい男のどこがいいんだか、とすら思っていた。
でも、そうか、何者からも守ってくれそうなたくましさがあったんだな、なるほどなるほど、とリオは思った。
なぜか、回された腕の感覚が消えなかったが、そう、思うことにした。
草木がさわさわと揺れる音のなかで、リオは黙々と採取した草花や実を丁寧に空間魔法へとしまっていた。
その指先はいつも通りだが、表情にはどこか火照りを残しているようだった。
一方のシグは、すぐそばで見張るように立ち尽くしたまま、森の奥をちらと一瞥していた。だが、その視線の端にしっかりと映っているのは、先ほどまで自分の腕の中にいた男の背。
平静を装ってはいたが、かすかに拳を握り直す仕草に、内心のざわめきが滲んでいた。
——あれは、抑え込んだ方が良かったのか、違う形で止めるべきだったのか。そんな思考が脳裏に浮かんでは消えていく。
リオがちらと背後を振り返る。シグと目が合うと、ほんのわずかに目を逸らした。
その仕草に、シグもまた気まずそうに視線をそらし、鼻を鳴らす。
それでも、ふたりの間には静かな気まずさや重さはなかった。むしろ、あたたかな何かがそこに流れている。
「……しまい終わったか?」
ぽつりと、いつもより少しだけ声を落としたシグの問いに、リオがうんと頷く。それだけで、シグは振り返り、再び道を先導し始めた。
リオもまた、肩の荷を下ろすように息をつき、その背中を追う。
あの大きな背中の向こうに、陽の光がちらちらと差していた。
——【仙麗の水場の主】




