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【行ってきますが、帰る場所】


——翌朝。


リオはいつも日の出前に目が覚める。

宿屋の一階のカウンターに顔を出すと、朝食仕込み前の宿屋の主人が出てくる。


「すいませんお客さん、朝食はまだ……なんだ、リオじゃないか!どうした、また厨房乗っ取ろうってのか?」


挨拶をして、リオも笑みを浮かべている。


「わはは、だから乗っ取らねぇって!なぁ、今日も俺が朝飯当番してもいい?」

「おまえなぁ、そうやって飛び込みで作られちゃうと、普段の俺の朝飯が文句言われんだぞー?」


軽口を言い合いながらも、店主はリオを厨房に通してくれた。

よく行く街の、仲良くなった店の店主なんかは、時たまこうして厨房に入らせてくれる。


どこかに自分の店を構える気は、リオにはない。が、並べられた調理器具や備え付けのパン窯、火力の高そうな火口は、やはりわくわくしてしまう。


「食材は自由に使うといい。俺も楽しみにしとくかな」


受付のほうへ消えていく店主を見送り、リオは腰にエプロンを付けた。


パンの焼けるいい匂いが客室まで香る。スープはミルクを使ったもので、起き抜けの身体が良く暖まり腹に溜まるように。

焼きあがったパンに具材とチーズをのせて品数を増やす。サラダは酸味のあるソースをかけて、肉が苦手な人にも楽しめるように。

忙しく出かける人もいるだろうから、片手で簡単に食べられそうなものも。


ふと視線を感じて厨房の出入り口を見やると、宿屋の従業員たちがこちらをのぞき込んでいた。にやりと笑ったリオがまかないの皿を差し出すと、彼女らからきゃあ、と笑みがあふれる。


リオが泊まる宿屋は、どこからうわさを聞き付けたのか、常に満室になる。みな、こういったゲリラ的なリオの料理を期待してのことだった。




——やがて朝食の匂いに誘われた宿泊客たちで、朝の食堂は賑わっていった。

パンの焼ける甘い香りと、スープの湯気が静かに満ちていく朝の食堂。まだ朝陽は低く、街の通りもようやく動き出す頃。けれど、この宿だけはもう十分に“目覚めて”いた。

食事を楽しむ人も、時間に追われて出かける人も、皆一様にリオに笑顔で挨拶をしてゆく。


宿泊客たちはみな、思い思いの席でパンを手に取り、スープをすすりながら、ときに「うまいな」「今日も当たりだ」と呟き合っている。

誰が作ったのか、など説明しなくてもわかっているのだろう。リオの料理は、香りと味だけで名乗りを果たしていた。


厨房の一角で、リオは手際よく皿を洗い、次の分の盛り付けに移っていた。鍋の縁を拭きながら、ふと二階へ続く階段を見上げる。


昨晩、リオの部屋で晩酌をしたのち、そのままこの宿に宿泊を決めた相棒。どうやら朝には強くないらしく、食堂の賑わいに反して、まだ降りてくる気配はなかった。


——が。


無骨で重い足音が、ゆっくりと階段を下りてくる音が聞こえる。銀灰(ぎんかい)の髪が覗くのは、リオが目を向けて数拍後。

街中用の軽装に、寝起きの気配をわずかに残しながらも、朝の食堂の喧騒に少し眉根を寄せている。


リオの姿を見つけたシグの足が一瞬止まり、食堂を埋め尽くす香りと、人々の笑顔、そして——厨房の中から笑顔を向けてくるリオを見る。

金の瞳が、静かに細められる。そして、誰に聞かせるわけでもなく、低く、かすれた声がひとつ、漏れた。


「……起きて損はなかったな」


その巨躯が階段を下りきり、食堂の端におもむろに腰かけた。椅子がぎしりと音を立てて、それを受け止める。

食堂の喧騒が、その瞬間だけ少しだけ引いたような気配——だが、それは威圧によるものではなく、“あの料理人の隣にいる男”として、既に人々に受け入れられている証でもあった。

リオも、そばにいた従業員にあとの片づけを任せ、料理の皿を二つ携えて近寄る。それに気づいてこちらを見るシグに、リオはにっと笑った。


「シグおはよ!待ってたよ、一緒に食おうぜ!」


そう声をかけながら、朝食が盛られた皿をテーブルの上に置き、そのままシグの隣に腰かける。ふわりと香るパンとスープの匂いに、シグの鼻先がかすかに動いた。


「……お前が作ったのか」


ぽつりと低く呟いた声に、リオが頷いて笑う。周囲では宿泊客たちが、「リオの知り合いか」「昨日屋台でも見たな」と噂をするが、向けられるのは好奇の目ではなく笑顔。

この調子では、街中の人間に顔と名前が知れるのも、時間の問題だな——とシグが肩をすくめた。


宿屋の従業員がシグに、おはようございます、と笑いながら二人の前に水を置く。

ついでにリオの背に軽く手を添えてから去っていった。その小さな触れ方にさえ、彼がここでどれほど愛されているかがよくわかる。


そんな中、シグは静かにパンを手に取り、一口、かじった。外はさくりと焼かれ、中はふわりと香ばしい。

具材の塩気とチーズのとろみが、目覚めたばかりの身体を優しく満たしていく。

スープをひと口含めば、ミルクの柔らかさと根菜の甘みが染み渡り、それだけで“今日も、朝が来た”と実感できるような味だった。

リオはといえば、具材の乗ったパンをほおばりながら、視線を宙に浮かせ、思い出したようにシグへ向けていた。


「そうだ、さっき商人連中が話してたんだけど、ベリア苔のある西の山道で、蒼角(そうかく)カモシカを見かけたんだってさ」


リオの言葉が落ちた瞬間、パンを持っていたシグの手が動きを止めた。金の瞳がわずかに伏せられ、それから、ゆっくりとリオの方へと向けられる。


“蒼角カモシカ”——。警戒心が非常に強く、滅多に人前に姿を現さない魔獣だ。

角が特産品としての価値があり、青白く光る角をたたえて霧の中に佇む姿は大変美しく、”霧幻獣(むげんじゅう)”とまで言われるほどだった。


霧とともに現れるその魔獣は、脅威とまではいかないが、人前に姿を現すこと自体がまれ。

その角は、光を通す加工素材としても優れており、魔具や装飾品の職人たちが喉から手が出るほど欲しがる代物。


だが、狩猟そのものが困難である上に、捕獲する際に霧に紛れて姿を消す習性から、“幻”と呼ばれるにふさわしい存在だった。


そしてその名前を、“ベリア苔”と絡めて出してくるあたりが——リオである。


「……そんで、狩りに行きたいって言うつもりか?」


低く抑えた声が、パンとスープの香る朝の席に、静かに落ちた。怒りでも呆れでもない。ただ、予定を確認するような声音。

再びゆっくりとパンを口に運びながら、視線だけをもう一度、リオへと投げた。


「いやあ、実物見たことなくてさ、市場に肉が出たって話も聞かねぇだろ?どんな味なのか気になるんだよな~!」


笑うリオの顔は、世間話、というより、美味いものを想像して今にもよだれをたらしそうで。それを見るシグの目は、こちとら病み上がりだぞ、と文句を言っているようだった。


「わはは、まぁ、狩れるチャンスがあったらでいいよ!

お前も怪我が完治してるわけじゃないんだし、せっかくできた仲間を、初めてのお出かけで大怪我させるわけにもいかねぇじゃん?」


リオの言葉に、彼が遠慮をしている様子は感じられなかった。ただ純粋に、シグの存在を頼りにしていて、それを失いたくない本心からのものだ。

シグは、パンをひとかじりしたまま、目を逸らした先の空間をぼんやりと睨んでいた。

まるで、その“まっすぐさ”を正面から受け止めるには、まだちょっとだけ照れくさい——とでも言うような仕草だった。


「そんでもしカモシカを見つけたからって突っ走ったりもしねぇよ。

どんなもんか見れるだけでも見てみたい……。守られるからには、ちゃんと言うこときくよ、俺」


そう言って目を細めて微笑み、じっとこちらを見てくる瞳に、シグはやはり目を逸らした。

この料理人、思った以上に感情が表に出るし、思った以上にまっすぐだ。口元をぬぐうふりで軽く咳払いをして、そして再び、ゆっくりとリオに向き直る。


「……あのな」


言葉を切る。その一言で、リオがぴくりと顔を上げた。怒られる気配じゃない。けれど、言い聞かせられる雰囲気はある。


「”ちゃんと言うこときく”ってのは、口で言うほど簡単なもんじゃねぇんだ」


静かな声だが、芯があった。


「突っ走ったあとで反省したって、遅ぇ時もある。俺はそれを止めるためにいるが……止めきれないこともある」


パンを置いたシグの手が、ほんの一瞬、拳に力を込めた。リオを責めているのではない。

ただ、それほどに“守る”という行為が、確かな責任としてこの男の中に根を張っているのだ。

そして——リオの顔がふっとゆるんだ瞬間を見て、シグは目を細めた。


「……けど、お前がそう言うなら、信じてみる。突っ走るなら、俺の目の前だけにしろ。後ろで倒れられるのが、いちばん面倒だ」


それは、シグなりの“了承”だった。誰かと何かを共にするのが不慣れなこの戦士なりに、必死に言葉を紡ぎ、責任と情を両立させた答え。

そしてその返しを受けたリオがどんな顔をしたのか——それを見ずに、シグは水をひと口、静かに飲んだ。


「おう!」


という明るい声が、全てだった。






街の中央通りを歩くリオとシグは、ちょっとその辺まで、といった具合の身軽な軽装だった。

探索に必要な物資は、すべてリオの空間魔法に収納されている。すれ違う人々がリオに挨拶をしていく。


「お、リオ、今日も元気だな!」

「いいな、散歩か?いってらっしゃい、横のアンタもな!」


リオに向けられていた笑みがそのまま流れるように、シグにも向けられる。


「おう!行ってくる!」


そう軽く手を振って返事を返したリオは、面白そうに隣の大男を見上げた。


「わはは、目立っちゃってんな!お前でけーしな!今度露店の店先に立ってもらおうかなぁ!お前顔こえーけどかっこいいし、それで女性客増えちゃったりしないかなぁ!」


冗談とも本当ともとれない言葉に、シグは小さく肩をすくめて見せた。


「……客が逃げても、知らねぇからな」


と、ぼやきながらも足を止めずに歩き続ける。口調こそぶっきらぼうだが、声の調子はどこか柔らかかった。

まるで街の全員が親戚であるかのように、リオの挨拶はわざとらしくなく、一人一人に明るく返されていく。


街の明るい石畳を踏みしめながら、並んで進む二人の歩幅は、不思議とぴたりと合っている。

最初の頃のような、ぎこちなさもない。リオが気ままに寄り道しても、シグが足を止めても、どちらかが無理に急かすことはない。


すれ違う子どもたちが、リオを見ては駆け寄り、シグを見てはぴたっと立ち止まり——けれど、リオが「こっちはシグ!俺の仲間なんだ!」と笑うと、子どもたちも「でけー!」と元気に返してくる。

それを横目に、シグがぼそりと。


「……街ひとつ、味方にしてるみてぇだな」


それはあまりにも静かなひとり言だったが、リオの耳には届いていた。彼は顔を横に向け、にかっと笑う。

だが——それきり何も言わず、そのまま前を向いて歩いた。その背には、まるで太陽のような温かさが滲んでいた。


「怪我、無理すんなよな。今日は採取だけにしとこうぜ。戦えるってのは羨ましいけど、命張ることもあるもんな」


そうぼやく後姿は、どこか冒険者に対する敬意や誠意がみえる。頭の後ろで腕を組み、リオは明るく振り返った。


「ほら、お前もちゃんと、皆に行ってきますってしろよ?

”行ってらっしゃい”って皆に言われて、”行ってきます”って言うだけで、あーここに帰ってこなきゃなー!ってなるんだぜ!

そしたら出先で怪我してもうダメかもなーって思っても、いやダメだ、帰らなきゃ!って思えるだろ?」


リオの謎理論に、一瞬シグは眉を寄せた。が、そう言って笑うリオの顔は、街の喧騒にひどくなじんでいた。

しばし黙って、その明るく笑うリオの姿を見つめる。自分より遥かに小さなその背が、今、街を背負って立っているようにすら見えた。


「……帰らなきゃ、か」


低く呟くと、ゆっくりと露店の方へと目を向ける。近くにいた青果店の店主が、ひょいと顔を上げた。


「おう、リオの連れさんか。今日はお出かけかい?」


シグは小さく頷き、——言った。


「行ってくる」


その一言に、店主がにっと笑い返す。


「気ぃつけてな、二人とも!」


その声に続くように、通りのあちこちから「行ってらっしゃい!」「気をつけてなー!」と声が飛ぶ。

笑いながら手を振るリオの隣で、シグは静かに目を伏せ、もう一度だけ呟いた。


「……悪くは……ねぇな」


その声は小さくて、喧騒に溶けたはずだったが——リオの耳には、きっと届いていた。






——【行ってきますが、帰る場所】

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