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【触れたいの?】



さて、明日に備え、早めに宿に帰ることにしたふたり。……宿屋の玄関をくぐると、卵は大変な好待遇を受けていた。


ふっくらとしたクッション。くるまれた毛布。回りを囲む柵。その上で卵をあやすように揺れる鳥のおもちゃ。そして卵を撫でながら、目じりが下がっている宿屋の主人。

さながら”じいじ”である。


「ぶっは!!何それ!!」


目にするなり、リオが吹き出して笑う。じいじ……いや、宿屋の主人は、その顔のままリオたちを見た。


「おう、お疲れさん。ベビちゃんはお利口ちゃんだったぜぇ」

「べ、ベビちゃんって誰だよ!!わっははは!」


リオが腹を抱えて笑う中、渋面を見せたシグが、その保育スペースから卵を片手で掴み上げた。

名残惜しそうな宿屋の主人に見送られ、そしてツボに入ったリオの背を押しつつ、階段を上っていく。


「お、おっちゃんありがとな……っぐぅ、わは、わははは!ひー!」


階上から、最後にリオの声が響く。それを押し上げるシグだけが、着実に”帰る場所”へ足を進めていた。




卵を腕に収めたまま、シグは無言で廊下を進む。リオの笑い声が、宿屋にやかましく響いていた。だが、不思議とそれがうるさいとは思わなかった。

ふわふわのクッション、くるまれた毛布、囲い、揺れるおもちゃ。

あの異様に手の込んだ”保育スペース”を見たときの、金の瞳の一瞬の動揺は、誰にも気づかれていない……はずだ。

隣で腹を抱えて笑い転げているリオの、無邪気な足取りと笑顔に、どこか救われる思いもある。


そして、何より……宿屋の主人が、卵を実に丁寧に世話していたこと。あの年季の入った手で、まるで宝物のように優しく撫でていたこと。

それで、シグの中にあった、わずかな不安がそっと和らいでいくのすら感じていた。


(……“じいじ”も悪くねぇか)


廊下を進み切ると、自室の扉を開けて中へ入る。まだ笑いが止まらないリオの背を軽く押し、部屋の中へと促す。


シグは卵を所定の毛布にそっと置き、自分の荷を床に下ろした。

慣れ切った、一連の動作。部屋の灯りは夕暮れ色。窓の外、街の屋根の向こうに陽が落ちる。




「っあ~~……はぁ~あ、お前ベビちゃんだってよ」


服を着替えながらも、まだ笑いを引きずって、リオが卵に話しかけていた。


「あのおっちゃんがベビちゃんって……ぶふ、ベイビーから名前取ってんだよなぁ、あれ」


リオの瞳が面白そうに、シグのほうを向く。旅装を一つ一つ外していく手は、もうどこにも緊張を持っていなかった。

ベストを脱ぎ、腰ベルトを外し、風呂のタオルを支度する。


「まぁ赤ちゃんだもんなぁ」


よしよし、と、その手が卵を撫でた。……そうですが?と卵が揺らめく。

シグも、ちらと視線だけでリオと卵を見やる。いつの間にか部屋の空気が緩んでいる。

風呂支度のタオルを抱えたリオの動きは軽く、声には笑みが滲んでいる。


「…………」


無意識に口の端がわずかに緩んでいたことに気づいた。卵を撫でるリオの指先に、シグの金の瞳がわずかに細められる。

どこか、安心の中に宿る独占欲のような、それでいて否定しようもない気持ちは、果たしてリオに向いたものか、卵に向いたものか、それともその両方か。


(赤ん坊みたいなもん、か)


ならば、この腕で守る価値がある。いや、それだけではもう、済まないかもしれない。

リオが大切に触れるものを、誰より先に支えていたいと思う気持ちが、日に日に強くなっている。


装備を外し終え、椅子に腰を下ろすと、シグはしばし無言のままリオたちの様子を見ていた。

その背中の緩やかさ、風呂へ向かう前の軽さ。きっと、今夜も特別なことなどなく、温まって、飯を食って、眠るだけ。


けれど、その“いつも通り”が、何より貴重で、得難いものだと気づき始めている。


明日のために、今は……この部屋が、心を緩める最後の砦だった。




風呂を済ませ、夕飯も済ませ、シグは装備品の最終調整を行っていた。リオも空間魔法の中をなにやら確認していたが、やがてそれを終え、ベッドのほうへ潜っていく。

毛布の巣にくるまれた卵を、両手で抱えて横になる。


「よしよし。また明日から出かけてくるからな。おっちゃんのとこでお利口にしてろよ」


そう笑う口調は、少し柔らかだった。明日の依頼よりも、今この瞬間を大事にしている……そんな証のように。

横たわるその隣には、やはり大きな空間が開いている。

月明かりが薄く差し込む。その光は冷たいが、この部屋はどこまでも暖かい。


「シグが来たら魔力やるからな。今は大事な装備の手入れしてるから、も少し待とうなぁ」


――コツ、と卵が揺れる。


「生まれたら何て名前がいいかなぁ。さすがにベビちゃんは……ぶふっ、ちょっと可愛すぎるなぁ。お前おっきくなったらスナヤドリだもんなぁ」

「…………」


シグは静かに剣の刃を拭っていた。研ぎ澄まされた金の瞳が、刃先を細かくなぞるように動く。だが、耳はちゃんと、ベッドから聞こえる声を拾っていた。


「……名前、な」


その声に、ふと手が止まる。布越しに刃を包んだまま、しばらく黙る。そして、そのまま刃を鞘に戻すと、ゆっくりと立ち上がった。


椅子がかすかに軋む音。振り向けば、ベッドの上ではリオが卵を抱いて、毛布の中で丸くなっている。

その横顔には、心からのやさしさが滲んでいた。……まるで、それが家族であるかのように。


シグは無言のまま、歩み寄る。足音は静かで、床を滑るように。そして、リオの隣。開いていたその空間に、何も言わず身体を沈めた。

腕が伸びる。リオの手元の卵へ、静かに。


「……魔力、いいぞ」

「おっ、じゃあやるか」


シグの声は、淡々としていたが……その手のひらから伝わる熱は、しっかりと“今”を見つめていた。

明日のことは、明日でいい。今はただ、この小さな命と、隣のぬくもりを守ることだけが、自分の、たった一つの真実のように感じた。




ふわふわと、リオの手が、静かに魔力を流していく。

卵の中ぐるん、と何度か寝返りをうつような振動もある。それはシグにも、リオにも感じ取れる。


「依頼中に孵るなよ、お前」


少し笑うようにリオが言う。……それはどうかしら、と卵が震えた気がした。

やがて魔力の供給を終え、リオは卵を布団の中に入れ込んだ。


そのまま自然に、シグの懐に背中を沈めてくる。肩口に、頭が乗る。小麦色の髪が、シグの口元にふわりと触れて、……わずかに振り向いた視線で、シグを見ていた。


「……装備の調整、終わったのか?」


……少し、含みがあった。


シグも、一つだけ瞬きをした。


毛布の内側、胸元に触れる体温があたたかい。ゆっくりと沈み込んでくるその重みを、受け止めるように肩を緩める。


「……終わった」


声は小さかったが、確かにそう答える。

頭が肩に乗っている。その瞳が、自分を見ているのがわかる。そして、その視線がただの確認ではないことも――わかっていた。


(……また、なにか言い出す気配だな)


空気の変化に気づかないはずがなかった。声色の奥、わずかに潜んだ“探るような意志”。

問いをぶつける前に、まずは地ならしをするつもりか。あるいは、少しだけ甘えて、こちらの反応を窺うつもりか。

シグがほんのわずかに頭をもたげて、視線が静かにリオへと向けられる。


「……なんだ。聞く」


小さく、しかし拒まぬように。リオの胴に回した腕の先、卵の感触をざらりと感じていた。同じように添えられたリオの指先にふと触れたが、留まりはしない。けれどその声には、受け止める気がすでに含まれていた。



「……”あの”ナナシタケ、シグのとこでも変異してたけど――お前って俺に触りたいの?」



ぽつり、たったそれだけ。


たったそれだけだったが、……それは核弾頭のような言葉だった。



空気が、ほんの一瞬で張り詰めた。金の瞳が、ぴたりと動きを止める。リオの声は柔らかく、問いかけるように、まるで無邪気に。

けれどその内容は、言葉ひとつで人ひとりを撃ち抜くには十分すぎる破壊力を持っていた。


(……また、……そうやって)


目の前で笑って、隣で甘えて、そして唐突に核心を突く。それが無意識か、意図的か、それすら判別がつかないのが一番厄介だ。


……しかし、今回は違った。シグのなかで、答えはとっくに決まっていた。


「……そうだ」


吐き出すように、だが確かにそう言った。すぐそばで、リオの呼吸が一度止まる気配を感じる。


「お前を抱きしめたとき。撫でたとき。隣にいたとき……全部、“触れたい”と思ってた」


ならば、もう隠す意味はない。卵に添えられた指先に、あらためて手を添える。

ナナシタケにまで感情を暴かれ、リオにまで見抜かれたなら、もはやこの気持ちは嘘では包めない。


「――抑えてるだけだ」


それが俺の限界だ、と言わんばかりに、最後だけ声が少し低く、かすれた。

沈黙が訪れる。リオの体温はすぐ隣にある。だが無意識下の緊張からか、そのぬくもりが、今だけは……遠く感じられた。



「ふぅん」



緊迫した空気に、そんな返事が溶けた。

たった一言。それっきり。


背を向け、振り返りもしない、喋りもしない。卵も空気を読んだのか、沈黙。

まるで拷問か断罪かのような時間が流れ――少しだけ、リオの顔がこちらを向く。


「あれ、でも抑えられてなくね?結果俺こうなってるし」


……”こう”。すっかりと抱え込まれていることを言うのだろう。それは、と言葉を返せばいいのかシグが迷っているうちに、腕の中でリオがぐるりと体勢を回し、……真正面から向かい合う。

卵はまたも、蚊帳の外。――あ、大丈夫です、空気読めます。そんな顔をしていそうだった。


あらためて対峙したリオはといえば、優しげに笑っていた。


ぎく、とシグが目を見張る。その表情には、つい最近覚えがある。……な、何故だ。

何故”甘やかしモード”に突入している……!


「仕方ねぇな!ぎゅうしてくんねぇと、俺さみぃなぁ、シグ?」


視線が絡む。

リオの瞳は、いたずらに輝いているわけでも、からかっているわけでもない。ただただ……甘やかすような。まるで、ここまでたどり着いた“本音”ごと抱きしめようとする眼差し。


(……くっそ)


何も言葉が出てこない。ただ静かに、片腕を持ち上げる。


引き寄せる。ためらいなく、力強く。

次の瞬間には、リオの体がその胸に収まり、しっかりと抱きしめられていた。


片手が背に回り、もう片方が後頭部に添えられる。その体温、息遣い、肩口に触れる髪の感触。全部が、たまらなく“欲しかったもの”だ。


「……夏、前にして……さみぃもくそも、あるか」


せめてもの抵抗。だがそれは、抗いを捨てた男の声音だった。


もう抑えなくてもいい、のだろうか。

シグのその腕は、この夜、絶対に緩まなかった。






――【触れたいの?】

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

この作品の続きを含む創作は、現在は別の場所で続けています。

興味のある方は、プロフィールから辿っていただければ幸いです。

ここでの更新は、これにて一区切りとします。

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