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【テントの中の敵】



リオが歩を進める。足元のキノコたちがふわりと揺れる。

けれど、先ほどまでのような変異は起こらない。

彼が放つ空気は穏やかで、感情を制御しきっているのが、形状からもはっきりと伝わる。


(……器用なやつだ)


シグは口の中で呟き、無言のままその背を追う。リオの背中、その軽快な歩幅、たまに肩越しにちらりと振り返ってくる笑み。

たったそれだけの動きにさえ、こちらの足元のナナシタケは小さく反応するというのに。


「共鳴」するキノコの群れ。

それはまるで、今この場の“空気”全体が、感情という名の透明な糸に繋がれているかのようだった。


リオの一挙手一投足が、そこに波紋を生み、シグにとってはその視線ひとつが、毒にも、蜜にもなる。


(……抑えろ)


深く、重く、腹の底に感情を押し込む。

隣を歩くリオが何かを指差し、しゃがみ込み、慎重に記録を始める。昼の薄曇りに照らされた横顔が、柔らかい光のなかでわずかに濡れて見えた。


(くそ、抑えろ)


剣を抜くより難しい任務――それがこんな任務だとは。


踏み込むたび、霧が巻き、群生地の奥へ奥へと誘われていく。変異するキノコ、甘く漂う香り、そして隣に、リオがいる。

感情をもてばナナシタケが反応する。だが、無に徹すればいいわけでもない。リオを守るためには、意識せざるを得ない。


無意識すら許さないこの空間で、シグの精神は静かに、静かに――限界へと、追い詰められていくのだった。




「おわっ!」


ずしゃりとぬかるみに体勢を崩したリオに、シグが咄嗟に背を支えた。

その焦りに反応したのか、周囲のキノコが泡状変異を見せる。


「うわ、ありがとう、助かったシグ!」

「っああ」


自らを支えたシグに対して信頼を滲ませたリオの周囲に、香しい芳香が漂う。


「おっ?」


それを見て、リオが”なるほど?”と言った顔でシグを見上げる。くそ、バレた。キノコのくせに、とシグが渋面をする。


少しの心の動きで形を変えるそのさまに、どこか小バカにされているようで、シグが少しの苛立ちを覚えると、棘状変異が。

目まぐるしい状況におかしくなってしまい、リオがひとつ吹き出すと、周囲のナナシタケが開花反応を見せた。

泡状変異、芳香、棘、そして、花のような開き。


まるでそこだけが情緒の奔流に呑まれた庭園のように、ナナシタケの群れは色彩と形状を絶え間なく変化させていた。


その中心にいるのは、片足をぬかるみに取られたまま、必死に笑いを堪えて肩を震わせているリオと、彼を支える姿勢で硬直したまま、顔にあからさまな苛立ちと動揺を滲ませているシグ。


「……くそっ、いい加減にしろ……」

「ぶふっ、わ、わはは!だ、だめだシグっ……いったん離れよう……!わは、わはははッ!!」


とうとうリオがこらえきれなくなり、ふたりはいったん小休止を挟むことにした。


今にも変異の“爆発”が起きそうな一帯から、リオが肩を揺らしながら一歩、二歩と離れる。

ぬかるみの縁から離れ、そのまま近くの乾いた岩に腰を下ろした。

笑いすぎて呼吸が整わないのか、膝に手をつきながら上体を揺らしている。


シグも、ほんの一拍遅れてその場を離脱。足元に纏わりついていた泡状の傘たちが、名残惜しそうにしゅう……と潰れた。


「……この群生地……性格悪すぎだろ」

「わはは、ひ、ひぃー!っいやぁ、……あぁ~あ、しっかし変なキノコだなぁ!」


シグが苛立ちを押し殺すように息をつき、岩の背に立つ形で周囲を見張る。


リオのほうはというと、徐々に笑いの波から抜け出し、ようやく息を整えながら鞄から水筒を取り出していた。シグにも、水筒を差し出してくる。

水で濡れた唇が妙に無防備で、またしても何かの変異を誘いそうな気配がして……。


(……考えるな。感じるな。抑えろ)


自らに言い聞かせるように、シグは黙って水筒を受け取った。まるで、感情の神経戦だった。




「っはぁー……難しい依頼だなこれ」


笑いのツボから解放され、リオが座ったままに空を仰いだ。

元より感情が豊かなリオならまだしも……。無表情で、感情が顔に出ないシグの”内側”をさらけ出すようなあの群生地。


空を見上げた格好のまま、リオがしばし考える。

怒りによる棘状変異は、極まれば破裂しそうな気配もあった。泡状変異も同様に。


だが芳香変異や開花変異は、害はなさそうではある。


「……シグさぁ、常にいい匂いさせるやつと、なんかあの、花のやつ出せるようにできねぇの?」


見上げてきた笑顔は、それが一番早いんだけど、という顔だった。

シグはその言葉を受け取り、じり、と眉間を寄せる。


「…………」


視線は動かさない。だがその背中は、わずかに強張っている。

芳香変異は、信頼によるものだ。開花は恐らく、好意や幸福。


できなくはない。ことも、ない、多分、頑張れば。

だが、いまだかつて、誰かに感情を操るように言われたことがあるか?

いや……ない。そんな芸当、できるならとっくにやっている。


だが今、リオは本気で“できそうだ”と思っている節があった。

それがまた、腹立たしいやら、愛おしいやら、面倒くさいやら。


(……落ち着け。香り。花。好意。信頼)


リオが言っているのはつまり、“リオに対して、常に穏やか、好意的でいろ”ということだ。

それが一番安全だから。効率的だから。害がないから。


そんなもの、分かっている。分かってはいるが――。


「……善処は、する……」


低く、地を這うような声が漏れる。

その直後、シグの背後でひとつだけ、金色の花弁が開いた。


「おう」


リオの笑みが、深まった。






「抑えようとするから、ダメなんだよなぁ」



そう言いながら、リオは群生地を進んでは止まり、進んではまた止まって記録を取っていく。足元からは常に、芳醇な香りが漂っている。

その信頼がシグに対するものなのか、ナナシタケに対するものなのか。

……リオなら余裕でキノコを信頼しそうだな、とシグは思う。


シグはわずかに肩をすくめるような動作をして、リオの足取りを一定の距離で追っていた。

リオの足元に咲き始める花弁状のナナシタケたちは、もはや彼の歩みに随伴する装飾のようですらある。


(こいつ、たぶん本当にキノコにも信頼向けてるな……)


それが己に向けられたものなら、まだ対処できる。自覚もある。だが、リオは“毒茸”にも分け隔てなく信頼を注げるのだ。



「んーいい匂い。料理に使えそうだよなぁ。採取禁止なのもったいねぇなあ」

「料理、な……」


シグの口角がぴくりと動く。ああ、また始まった。未知の食材欲。底なしの探究心。

そう思った次の瞬間――。


「おっと、あぶね」


リオの呟きが聞こえた。その場に片膝をついて、深く息を整えている。その足元、ぽつりぽつりと、鏡面や花のキノコが増えていた。


「……っ、距離を取れ」


すかさずシグが声を低くして前へ出る。

その足元では、一瞬だけ“棘”が顔を覗かせる――が、すぐに押さえつけるように足を止め、静かに息を吐いた。


“守る”と“怒る”の狭間にある、繊細な綱渡り。


それを今、彼は――ただ一人、黙って歩き続けている。

リオが信頼をばらまき、香りと光を引き連れてゆく群生地のなかを。




その日の調査に区切りをつけるころには、すっかり夜になっていた。


ふたりは、湿林の空気が届かない場所まで退避して、野営を設えていく。

テントを設営するシグの横、リオが焚き火に鍋を置く。夕食の支度は静かに進み、風も冷たくなく、どこか穏やかだ。


「今日の夜の見張り、最初は俺がするから、夜中に交代な」

「ああ」


シグはひとつ頷いただけだったが、リオの提案に異を唱える様子はなかった。慣れた手つきでテントの張りを確かめたあと、腰を下ろし、剣を膝に立てかける。


テントの外、木々の隙間から夜空が覗いていた。湿林特有の濃密な霧は届かず、焚き火の煙もまっすぐ立ち上る。

星の数は多くないが、雲も少なく、静けさだけが満ちていた。


焚き火の明かりが鍋の底をゆらゆらと照らし、煮立ち始めた香りが穏やかに鼻をくすぐる。

金色の瞳が、対面で鍋の様子を見ているリオを静かに捉える。


昼間の群生地――ナナシタケにあれほど感情を揺さぶられながらも、今こうして、何事もなかったように振る舞っている。

無防備とも取れるその姿に、安堵と……わずかな、棘のような不安が交錯する。


(……守れたからいい、じゃない)


感情は確かに共鳴した。何度も、何度も。それはリオも、自分も、否応なく曝け出されたということだ。

その記憶を、焚き火の揺らぎがよぎる。


鍋の中で、静かにスープが泡立つ音。リオが器を準備している気配。そしてその横顔に映る、今日の疲れと……一日を終えた、小さな満足感。

シグはそっと背を伸ばし、肩に掛けた上着の襟元を整える。風はなく、虫の声も遠い。


この夜だけは、きっと穏やかに過ぎてくれるだろう。少なくとも――この火のそばにいる限りは。




リオの夜の見張りは、魔獣の気配もなく穏やかに過ぎていった。

焚き火を確認しつつ、料理の手帳を開き、周囲に目を向け。また手帳に目を落とし、何を調べるでもなく、ただただゆるりと眺める時間。

空の月の位置を見て、そろそろ交代の時間か、とリオがテントの中へもぐりこんだ。



テントの中、少々狭そうに横になり、仮眠をとるシグを見て少し笑う。……のし、とその胸にのしかかる。


「おーい、交代だぞー」


シグは反射的に、薄く目を開けた。テントのなか、湿林の気配も届かぬ薄闇に、焚き火の温もりがまだほんのり残っている。

胸の上に、柔らかな重み。


「……おい」


低くぼやいた声に、覆いかぶさっているリオの影が揺れる。恐らく笑っているのだ。のしかかったまま呼びかけてくるその声に、退ける気配はまるでない。

シグは腕をずらし、片手で額を覆うようにして目を逸らした。そのまま、ぐっと鼻から息を吸い、限界すれすれの理性を引き戻す。


「どけ」

「わはは」


少々眠そうな笑い声に息を短く吐いて、……だがその手は乱暴には動かさない。

むしろ、リオの体温を認識するだけで、筋肉がかすかに緩んでしまっているのが自分でもわかる。


ふわりと笑う声。もぞ、とリオが少し動く。今は、感情制御の必要はない。ここには、ナナシタケも、魔獣の気配もない。

だが、それでも。


(この“距離感”が、一番難易度が高いんだよ……)


シグは目を閉じた。完全に覚醒したその意識のまま、静かに、体を起こすタイミングを計る。


「はぁ~あ、眠かったぜ」


ぼやいて外套を外しながら、リオがもぞりとその毛布に入り込んできた。

狭いテントの中、出口側にリオが寝ころぶものだから、……シグは当然テントの奥へ追いやられる。

見張りの交代なら外に出なければならない。だがリオは退ける気配もない。

上を跨いでいけば?とでも思っていそうだが、それはつまり、ほんの一瞬、リオに覆いかぶさる格好になるということ。


(――こいつ……)


シグの脳内が、警報を鳴らしていた。テントの天井が、いつもより低く感じる。

毛布をくしゃりと巻き込みながら、リオが外套を脱ぎ捨てた音……その動きに合わせて、体温がぴたりと近づいてくる。


(……いや、違う、男同士だ、問題はない……)


そう、何も問題はない。可憐な少女の上に跨って、力では当然敵わなくて……など、そういう話ではないのだ。見張りに出なければならない。リオは寝る気満々。

見張りだ。交代だ。自分の番だ。リオを越えればいい。簡単だ。……か、簡単だ。


金の瞳が半分だけ開く。暗がりでも、リオの寝息がすぐそこに感じられた。


(……だが、顔の距離が……)


一瞬の体勢、一瞬の接触、そして“完全に意識している”という自覚。

それらすべてがシグの背筋を凍りつかせ、同時に、耳の火照りを加速させていた。


(……、冷静になれ……馬鹿馬鹿しい……、野営中だぞ……)


脳内会議が開かれる。主張はひとつに絞られている。

――「見張りに出るには、リオを跨ぐほかないのか」。

しかし議論は難航していた。なにせ、その一歩が精神的に致命傷すぎる。


(触れるな、見るな、息がかからない距離を……)


ごくり、と喉が鳴る。無音の緊張がテント内に張り詰める。


そして――シグは、深く静かに、腹の底から息を吐いた。

次の瞬間、音もなく身を起こし、リオを跨ぐようにして、極限まで距離を保った姿勢でテントの入口へと身体を滑らせた。


すれ違いざま、一瞬だけ、若草色の瞳と視線が合う。


(……っ……)


夜気が肌に触れたときには、背中までじんわりと熱が残っていた。


――見張り、開始。血風(けっぷう)、ぐったり。


最初の敵は、すでにテントの中にいた。……なお、本人は安らかに眠っている。






――【テントの中の敵】

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