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【ナナシタケ群生地調査】


――翌朝、早朝。


宿屋の主人に卵を預けたい旨を相談すると、少々感動しておくるみごと抱きかかえていた。実はこっそり、羨ましかったようだ。


「もしかしたら二日くらいかかっちゃうかもなんだけど……」

「おーおー問題ねぇ!かーちゃんと一緒にちゃぁんと見てるよ!心配せんで行ってきな!」


存外に心強い味方を得て、リオとシグも安堵の表情を見せる。


「ありがとうおっちゃん、よろしくな!」

「おう!気ぃつけてな!」




街の中央通り、朝露に濡れる石畳を、リオとシグが並んで歩き出す。

背後では、宿の主人が腕の中でおくるみに包まれた卵を大事そうに抱え、その顔にどこか誇らしげな笑みを浮かべていた。


街はまだ目覚めきっておらず、通りには人影もまばら。市場の準備をする軽い喧騒が、少し遠くから風に乗って届く。街角を曲がれば、薄明の空がゆっくりと色づき始めていた。


リオが再び、革鞄から依頼書を取り出す。



――《ナナシタケ群生地調査依頼》

【依頼内容】

南東湿林にて発見されたナナシタケ(形状変異性毒茸)の群生地を調査し、「反応未解明の個体群」について記録採取を行う。


【目標】

ナナシタケの群生地調査


【報酬金】

銀貨九十枚


【注意事項】

・ナナシタケは”接触時に形状を変化させる”反応が確認されている。

・反応未解明の個体群につき、直接採取は禁じられ、調査記録(観察・魔力反応測定)に留める。

・調査中の誤食・皮膚接触事故に備え、解毒薬・耐毒薬装備必携。



街の外れに差し掛かった頃には、空はすっかり紫から橙へと変わりつつあり、遠くの山影の上にうっすらと朝日が覗き始めていた。

朝の空気に緑の匂いが混じる。これから向かう“南東湿林”の気配は、遥か彼方であった。


シグは背負いの大剣の重みにも動じず、無言のまま周囲を警戒しながら歩いている。

リオの手元にちらついた依頼書の文字列にはすでに目を通していたはずだが、あえて何も言わないのは……それが、もう止められないと悟っているからだろう。


足元の露を避けるように、リオがひょいと跳ねる。その軽快な動きに、シグの目が一瞬だけ細められる。


「……解毒薬、あるな?」


低く問う声には、注意ではなく確認の意図が含まれていた。

あらかじめ用意された耐毒薬や観察用道具は、すべてリオの空間魔法に収められている。

彼の性格からして、抜かりはないだろうと分かってはいても、どうしても口に出してしまうのが、シグという男だった。


「おう。一応携帯食もあるぜ」


シグはそれに応じて、わずかに顎を引き、再び前を向く。頬が、ほんの少しだけ、緩んでいた。




やがて街門が見え、門番に軽く挨拶を交わすと、二人はそのまま南東へと延びる街道、そしてその先の獣道へ踏み込んでいく。


数刻歩けば広がるのは、毒を孕むとされる“ナナシタケ”の群生する湿林。

シグの視線は、まだ見ぬ薄暗く沈む林の奥へと……鋭く伸びていた。

彼にとって、それはただの護衛任務ではない。リオを――その笑顔を、毒ひとつ近づけずに守るという、沈黙の誓いそのものだった。






早朝の冒険者ギルドの緊急会議室は、緊迫感に包まれていた。


昨日の朝は頬に見事な張り手跡を携えていた、シグ。

そしてその横でシグに冷たい目線を浴びせていた、リオ。


それが昨日の夕方には、ほぼ気絶する形のリオを担いで、シグが帰ってきたのだ。

朝の時点で伺えた神妙さはもうシグにはなく満足気で、リオは完全に諦めた顔で眠たげ。


いったい何があったのか。

依頼先、”魔樹花(まじゅか)の蜜”の現場は街からも遠く、観測もままならない。

受付嬢マリーナが、悔しげに手元の紙をくしゃりと握りしめた。


「絶対になにかあったのよ……どうして現場に観測班がいなかったの……!」


その声に呼応するように、部屋の隅で机を叩いたのは、書記官だった。

紙束を額に押し当て、深く息を吐く。


「くっ……これだから現地非対応型の依頼は……!ギルド記録にも“蜜採取成功・異常なし”って、それだけ……こんなの、情報と言えるかっ……!」

「おかしいのよ。だって思い出してもみなさい、昨日のシグ氏の表情を……!」


マリーナが手のひらを卓上に打ち付けると同時に、数名が頭を抱えた。

脳裏に浮かぶのは、肩にリオを軽々と担いだシグの姿……そして、その表情に刻まれた、穏やかすぎる“勝者の余韻”。


「完全にやり切った顔だった……!」

「リオ氏の、その……あの顔も……!」


書記官がごくりと喉を鳴らす。蘇るリオの表情もまた、驚くほど穏やかだった。

ぐったりとしてはいたものの、眉間の皺はなく、どこか――許した者の顔。


「許された……んだな……?」

「うん……たぶん、追いかけっこの末に……何かが……!」

「何が!?」

「ナニかが!!」


室内が一瞬、どよめく。空気がざわつき、書棚の間から”恵み”の気配がじわじわと満ちてくる。

その中心で、マリーナが小さく拳を握った。


「くやしいけど、リオ氏……あれは、“満更でもない”表情だった……ッ!」

「……くっ、観測体制を見直さないと……!」

「次回は絶対、絶対に現地班を送るわよ……!」


(プレート)隊――冒険者ギルド非公式観測集団は、いま静かに誓った。

次の依頼こそ、現地で記録を取りきってみせる、……できれば――と。



コンコンコン、――ギィ……。


重々しい音で扉が開き、重々しい顔の皿隊員が二名、重々しい雰囲気をまとって入室してくる。

全員が瞬時にそちらへ目を向けた。……ただごとではない。


「……ほ、報告です……」


彼らは手元の報告書に視線を落としているが、その手元はわずかに震えている。

一同が固唾をのんで、その報告を待つ。


「りょ、両氏が宿泊する宿屋に潜伏中の隊員より、昨日早朝……リオ氏が、「風呂だよ!!!」と絶叫する声が轟いたとのこと……。飛び起きた隊員が廊下の様子を探っていたところ、連れ立って大浴場へ向かう両氏を発見……」

「昨日はそのまま、二度と宿屋の自室から出てこず……日が明けて今日、ナナシタケの依頼に向かったようですが、……きょ、距離……両氏の距離がほぼゼロでした……」

「リオ氏がとても、その、なんというか……シグ氏を甘やかすような表情で……」


それきり、二名の隊員は息絶えた。

床に力尽きた身体が崩れ落ち、部屋の空気が――凍った。


紙を手にしていた者は、震える手でそっとそれを伏せ、椅子に深く沈み込む。

情報を聞いた全員が、思考の迷路に迷い込んでいた。

――沈黙。だがそれは嵐の前の、致命的な静寂。


「…………甘やかす、表情…………?」


マリーナがぽつりと呟いた。

普段は冷静なその瞳が、今はどこか遠くを見つめている。


「リオ氏が……甘やかしていたの……?」

「逆じゃないのか……?いつもは、リオ氏が振り回してて……」

「そうだ、どちらかといえば、シグ氏がリオ氏を……これは構図が……逆転……?」


「ちっちがう!もっとこう、相互供給的な……」

「いや!これは……これはもう……っ」


突如、観測班第三席が椅子から立ち上がった。

顔は紅潮し、眼鏡は曇っている。


「これこそ、“夫婦の距離”……!!」

「……っ……!!」


誰かが、耐え切れず机に崩れ落ちた。


「だめだ……供給過多……理性がもたない……」

「ギルドの浄化水持ってきて!早く!」


慌ただしく走る足音。どこかで椅子が倒れる音。

そして一人、また一人と、椅子にもたれて昇天していく。


――その中で、マリーナだけは震える手で紙束を広げていた。

震える指先が、一枚の依頼報告に触れる。


「……ナナシタケ……形状変異性毒茸……」


その文字に、なぜか――わずかな“期待”すら滲んでいた。


「こんなものが、両氏の距離を……離すわけがない……!」


覚悟を決めるように立ち上がる。


「次の報告は、私が取りに行くわ――!」


受付嬢なのだからそれはそうなのだが、マリーナを送り出した扉が勢いよく閉まった。

残された者たちはその背中を、崇拝にも似た眼差しで見送る。


皿隊、次なる出陣。

そろそろ誰かが、仕事に戻れと言う必要があるかもしれなかった。






深い湿林の中、霧が棚状に広がる一帯があった。


地面はもちろん、木の根元から岩肌に至るまで、びっしりと広がる黒紫のキノコ群。

それが”ナナシタケ”と呼ばれる存在だと、ふたりには一目でわかった。


リオが念のためと携帯食を取り出し、共にそれを摂取する。




キノコ群は、かすかに膨らんだりしぼんだりしていた。規則的ではない脈動が、まるで生き物の集団のようだった。


シグを先頭に、その群生地に足を踏み入れる。ゆっくりと慎重に進む中、シグの足元にあるキノコの傘が、……鱗状に変異していった。


「シグ、下」

「ん」


リオの呼びかけに、シグも足元を見る。明らかに、周囲とは形状が変化しているそれ。

ついで、金の瞳がリオの足元にも視線をやる。そちらのほうは、傘が鏡面状になっている。


「……なんだろ、これ……」


確かに先ほどまでは、黒紫のキノコだった。が、近づいた途端に形状を変えている。

リオがしばらく考えて、……シグに問いかけた。


「……シグ今”警戒”してる?俺はもう”興味津々”だけど……」

「……まさかだな」

「まさかだよなぁ……」


しん、と静けさが落ちる。……どうやらそれは、感情に対して共鳴し、形状変異するキノコであった。


シグは再び足元を見る。

鱗状に変化したナナシタケの傘が、わずかにうねるように揺れていた。


腰の剣帯にかけた手に、力が入る……”警戒心”。

こちらが抱いた感情に対してキノコが応答しているのだとすれば、この場において不用意な感情は、即ち“予測不能な変異”を招く。


リオのほうはというと、しゃがみ込んで手帳を取り出し、魔力測定用の水晶板をかざしていた。

鏡面のように変わった傘が、彼の顔を映してきらりと光る――その表情は、どう見てもわくわくそのものだ。


「……っ、リオ。感情、抑えろ」

「おっ」


低く呟いたシグの声に、リオが少しだけきょとんとした様子を見せた。すぐに頷くが、観察をやめる気配はない。

しかしやがて、リオが静かに呼吸をする気配を見せ、次いで……鏡面傘の群れが、緩やかに元の黒紫へと色を戻し始めた。

ふたりの呼吸が静かに重なったその時、シグはようやく息をついた。


「……観察なら、“同じ感情”でやれ」


金の瞳が一瞬、やわらかに揺れる。リオが立ち上がりつつ、ぽり、と頬をかく。


「同じ感情……かぁ」

「……興味を持ちすぎるな。俺も、気を付ける」


それはまるで、リオにではなく――シグ自身に向けられた警告のようでもあった。




鱗状変異が収束していく中、シグの傍らに棘状変異をみせる個体が現れ始めた。

無意識の、シグの殺気に反応したものだ。


「シグ、それ殺気?抑えなきゃ」


リオに言われ、シグが小さく舌打ちをする。今のところ実害はないが、なんとも厄介だ。


「うーん、俺も測定版見ちゃうとダメだなぁ。これはシグに頼んでいいか?」

「ああ、よこせ」


手を差し出され、リオが魔力測定版をシグに渡した。測定結果を見たら、また興味が沸いてしまう。

リオは手帳を開き、おおまかな個体数や規模を記録することに集中した。


シグも手渡された測定板を無言で受け取ると、淡く揺れる光を(すが)めて見つめた。

赤味を帯びた魔力反応が、水晶内部で脈打つように現れている。強度は中程度――だが、波長が安定しない。

まるで個体ごとに、”感情の温度差”を映し出すように、反応が揺らいでいる。


その視界の端、棘状変異を見せたキノコが、まるで威嚇するように傾き直った。

刺々しい傘の先端が、まるで弾ける寸前の針のように震えている。……あれが爆ぜたら胞子か毒か、いずれにしても接触は危険だ。


「チッ……」


喉の奥で小さく舌打ちをすると、シグは息を長く吐いた。

――今この場では、殺気さえ毒だ。


ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込む。

肺の奥にたまった緊張を、吐息と共に吐き出すようにして、身体から力を抜いていく。肩の力が抜け、瞳に戻る光がわずかに柔らいだ。


すると――棘状に隆起していたキノコの傘が、ふわりと膨らみ、徐々に元の丸みを帯びた形状へと戻っていく。

リオの記録のペンが、細かく走る音が聞こえる。脇に立つその姿から、余計な興奮が消えたのを感じ、シグはちらりと横目をやる。


若草色の瞳は真剣に紙面へと向けられ、唇はわずかに開いて何かを数えているらしい。

好奇心の熱を抑え、理性で釘打ちしたようなその表情に――不意に、シグの胸が静かに鳴った。


「…………」


だが、言葉にはしない。


感情に共鳴するこの空間において、余計なものを漏らせば、それだけで危機が芽吹く。

代わりに、背を向けて再び警戒にあたる。静かに大剣へ手を添え、視線を前へと走らせた。


その背にあるのは、ただ一つ、信頼。リオの“調査”を、支えるという覚悟。この身をもって、護り抜くだけだった。




測定版を手にリオに随伴するシグの足元、棘状変異を示していた個体が収束し……次の瞬間には徐々に、(かぐわ)しい芳香が漂い始めた。

湿気に満ち、ぬかるんだ足元、湿った土の匂い。そこにそぐわぬ、甘い香り。


(……なんだ?)


ぐるりと周囲を見回したリオが、シグを振り返り、その足元を見て、シグに向き直る。

丸く熟した木の実のように、シグの足元に咲くキノコ。


「……シグ今、なに考えてる?」


問われて思わず自分の足元を見たシグは、咄嗟に”信頼”の言葉が出ず、リオを見つめ返した。

リオの周囲で、鱗状変異と鏡面変異が広がっていく。


(――ちくしょう、本当に、厄介な依頼だ)


シグが視線をわずかに落とす。足元から立ち昇る、甘く、けれどかすかに湿った、まるで熟れすぎた果実のような香り。それがシグの周囲をふわりと包み込み、視界の端でキノコの群れがゆっくりと揺れていた。

まるで、その感情に酔ったかのように……黒紫だった傘が今や滑らかな桃色を帯び、わずかに鼓動のような“ゆらぎ”を見せている。


リオとシグ。あちらとこちら。

鱗状、鏡面、そして――どこか柔らかな膨らみ。すべてが混ざり合い、互いに影響を与え始めていた。

そしてなによりも正面。リオが、こちらをまっすぐに見ている。


「…………」


金の瞳が、リオの顔に、揺れるキノコに、再びリオに。


次の瞬間、シグの頭に浮かんだのは、「守る」という言葉でも、「危険」という判断でもなく――ただ、その表情の意味を、理解しようとする思考だった。


信頼、好奇心、安心感、油断、無防備。


シグの口からは一言も答えが出ないまま、足元のキノコが再び変異する。


さきほどの棘ではない。


今度は、薄く発光する淡金色の膜をまとい、まるで“花弁”のような形状が傘の縁に現れていった。

やさしく、柔らかく、どこか――好意を模したかのように。


「え、また新しいの出るじゃん」

「っ……面倒だな……」


シグは静かに息を吸い込み、そして目を伏せる。感情を、抑えろ。目の前のリオを“意識するな”。

けれどその意識の強さこそが、足元のキノコをさらに活性化させていく。

厄介なのは、このキノコではなく……この空間でリオと二人きりになるという事実、そのものかもしれなかった。


「おっ、と」


ここでやっとリオが、鱗状と鏡面を見せていた自分の足元に気づき、深く息をして心を落ち着けた。

未知の食材を調理するときに似た、集中力。余計な感情を抑えるのは、どちらかといえば、まぁ得意。


「向こうのほうも見てみようぜ。この広さだもん、やっぱ一日じゃ終わんないな」

「ああ……野営は、離れたとこで張ろう」

「そだなぁ」


一つ頷きながら、リオが歩き出す。

幸い、今の時点でキノコたちに明確な、害、というか、敵意のようなものはない。

今日と明日、群生地を調査して、報告する。

ただそれだけなのに、今ここにリオと二人きりだということが、この依頼の難易度を格段に押し上げてしまっている。


感情を持つことを許されない中……シグの、感情を抑える試練が始まってしまった。






――【ナナシタケ群生地調査】

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