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【甘やかしの朝】



――朝。


温もりに包まれて目を覚ます。腹には卵。背中にはシグ。

そうか、自分は催眠効果で落ちたのかと理解する。ほぼ想像通りの状況に、リオは抵抗する気力もない。


卵が殻の中でぐるりと動く。背中ではシグが小さく唸っている。

はいはい、ここは俺の居場所なのね、とリオはかすかに笑い、……観念した。


今日は、ナナシタケの依頼に行こう。解毒薬はもっている。

野営が必要になりそうだったら、卵は宿屋の主人にでも頼んでみよう。面倒見のいい人だから、きっと大丈夫。

卵がまたぐるりと動く。それは、”大丈夫!”と言っているようで。


シグが目覚める気配がして、その腕が、ほんの少しだけ強くリオの腹を引き寄せた。


「……動くな」


低く掠れた声が、寝起きの喉から漏れる。悪役のようなセリフ。

金の瞳はまだうっすらと閉じたまま、だがその意識は確実に覚醒し始めていた。

背中から伝わる熱。密着した腕。そのどちらにも、寝ぼけた気配はなく……むしろ、確信的な拘束に近かった。


「ええ?」

「……また、逃げんだろ。すぐだお前は」


ぼやくように続けるその声に、ほんの少しだけ拗ねたような響きが混ざる。

そして、リオの腕の中で動いた卵にも気づいたのか、今度はそちらを撫でるように手を滑らせた。


「……お前まで騒ぐな」


ふ、と息を吐き、体勢を整える。

そのままリオの頭に鼻先を埋めるようにして、少しだけ、息を深く吸った。


「……今日も、外か?」


問いはひどく短く、静かだった。

だがその声には、もう出ていってしまうことを許容する“覚悟”と、ほんの少しの“寂しさ”が、確かに滲んでいた。



「わはは」



背後がくすぐったくて、思わずリオがそう声を上げた。


それは、シグにとって待ちわびた、笑い声。

もう怒っていない。もう許された。それを証明するような明るさ。


「依頼行こうと思ったけどさ、アレかな、お前疲れてる?ここしばらく依頼続きだったもんなぁ。俺の食材集めに付き合わされてさ」


くるりとリオが姿勢を変えて、シグと顔を突き合わせる形になった。ギョッとシグの目が見開かれる。

卵はリオの背中側、蚊帳の外になってしまう――”またやってます?”という顔をしている気もする。


逃げられもせず、拒まれもしない、リオの突然の”甘やかしモード”に、シグの思考が停止する音がした。


「じゃあ今日は、どこも行かないでのんびりするか?」


そう微笑む顔は、……寝起きには、劇毒だった。




シグの瞳孔が、ほんの一瞬だけぶわっと開く。振り返ったのは、寝癖まじりの髪と、笑っている緑の瞳。

そして”どこにも行かないでのんびりしようか”なんて、許しどころかご褒美の一撃。


「…………」


頭の中が真っ白になる音がした。考えろ。なにか返せ。なにか言葉を……いや、今なにか言ったら致命的に間違える。口を開くな。表情も出すな。

だが、金の瞳はすでに限界だった。


リオのその無防備すぎる寝起きの顔と、その向こう側にいる卵のじとっとした”蚊帳の外ですか”の視線。

どちらにも反応しきれず、シグは咄嗟にリオの頬に手を伸ばし、むい、と軽くつねった。


「……本気で、言ってんのか」


声は低く、やっと絞り出した一言だった。

あまりにも静かで、あまりにも真面目すぎて――逆に、シグの焦りと不器用さが滲んでいた。

その指先は、リオの頬の弾力を確認するように、しかし恐る恐る。まるで“幻じゃないか”と、疑っているようだった。


「オイなぁんで疑われてんだよ!俺だって休む日くらいあるぜ~?」


おかしそうに笑いながら、シグの手首の辺りにリオの手が触れる。

頬に触れた手を引き寄せるでもなく、退けるでもなく、ただ添わせる。


「今まで休みなくどっか行ったりしてたもんなぁ?よく考えたら疲れるよなぁ。な!今日は休み!」


そう言いつつ、リオの身体が起き上がろうとする。……が、抱え込んだシグの腕がまたも動かない。

がっちりと、まるで逃げられたら二度と戻ってこないとでも言わんばかりの固定ぶり。

それに、リオが、笑う。


「わはは!行かねえ行かねえ!水差しから水飲むだけ!」

「……信じねぇぞ」


ぼそりと、耳元で呟かれた声は、ひどく拗ねたようでいて、どこか嬉しそうな響きを含んでいた。

視線だけがいまだ、夢でも見ているのかと彷徨っている。


「……水、取ってこい。戻ってこなかったら、担いで連れ戻す」

「はいはい、わかったよ」


ぺんぺん、と優しくシグの腕を叩く力。昨日までとはどこか違う、いろいろと観念したような気配。声色。

ゆるりとシグの手を解いて、リオはベッドから足を下ろした。立ち上がり、テーブルへ行き、水差しから水を二杯汲む。一杯は飲みつつ、もう一杯をシグのほうへ……当然のように、飲むだろ?という顔。

シグはベッドの上から、無言でそのグラスを受け取った。


寝癖の残るリオの髪、寝巻きのままの姿。いつもの朝の続きのようで、けれどどこか、確かに何かが変わった気配。

受け取った水を一口、喉へ流す。喉を鳴らす音と共に、ほんの少しだけ眉間の皺がほどけた。


「……お前、……いや、ほんとに今日は休むんだな」

「おう」

「……どこも行かねぇんだな」


半信半疑ながら、どこか安堵も混じった声。グラスをベッド脇に置いたシグの視線が、ふたたびリオを捉える。

まっすぐ、射抜くような眼差し。だが、今は穏やかな光を湛えていた。


そして、ふと視線を卵へ落とす。幼いそれは、ぽこり、とまた軽く揺れる。


「……こいつも、今日は休みって言ってる」


リオにも、卵にも、言い訳のようにそう言ったシグは、まだベッドの上から動かず……まるで、“戻ってこい”とでも言いたげに、隣の空間をあけていた。

……グラスをテーブルに戻し、シグを振り返ったリオが苦笑する。皆に恐れられている血風(けっぷう)のエルラントが、なんて顔をしてるんだと。


歩み寄り、空いているほうではなく、あえてシグの真上に乗っかっていく。ダイブするという方が正しい気もする。色気などは皆無である。


「はぁ~あ、そんなに休みたかったんなら言えよなぁ。シグがどこでもついてきてくれるから、俺どんどん依頼お願いしちゃったじゃん」


ぐ、と息を詰めるシグの上を、よじよじと登っていく。

登頂した胸の上、両手を組み、そこに顎をのせる。にこり、でもにやり、でもない、ただの優しい微笑み。


「……ッ……」


……す、すごい。リオの”甘やかしモード”、すごい。いつも以上にシグの感情が追い付かない。


「……っお前……」

「ほら、お望み通り、戻ってきたぜ?」


シグの身体は、もう硬直していた。それはもう……一つでも動いたら、何かを間違えてしまいそうなほどに。

胸にのしかかる体重。顎を乗せる腕。そして何より、この、微笑み。


「…………」


普段、どんな魔獣に囲まれても、剣を抜く時にも表情ひとつ変えない男が。……今、まさにその感情を処理しきれず、静かに目を逸らした。

逃げたのではない。直視したら、何かが崩れるのを本能が察知した。


(……だめだ)


思考がまとまらない。息を整える暇もない。

リオの“優しさ”は無防備なまま届く。戦場よりも危うい。それなのに、シグは何一つ、拒めなかった。


「……ずりぃぞ」


ようやく絞り出したその言葉は、苦し紛れでしかなかった。

それでもシグはどうにか腕を伸ばし、胸の上のリオをそっと支えるように抱いた。ぎゅうでも、がっちりでもない。ただ、落ちないように、そっと。


「……お前、今日ずっとそれやる気か……」

「わはは、ずっとやってやろうか!身動きとれねえシグなんて貴重だもんな!」


シグの上、退ける気配もなく、リオが楽しそうに足をパタつかせる。


「重い?降参?お前が戻れって言うから戻ったんだぜ?謝るか?」


若草の瞳が、いたずらっぽい顔をしてまくしたてる。

だがシグをからかっているというよりは、心底楽しんで、何より甘やかしている。シグの上から卵に手を伸ばし、その丸みをざらりと撫でる。


「なー?お前も聞いてたよなぁ?シグが戻れって言ったもんなぁ」


――そこでこっちに振りますか?と卵がゆらりと揺れた。

シグの顔が、これ以上ないくらい無表情になる。……だが、その眼差しの奥がめちゃくちゃに騒いでいるのは、もはや隠せなかった。


リオが上でパタつかせている足。顎をのせられた胸。

密着した腹と胸。感じる体温は、リオのほうがやや高い。

囲った腕は動かそうとすらしていない。もちろん、降ろす気など一ミリもない。


「……重くはねぇけど……許さねぇ」


ぼやきともつかない言葉を吐きながらも、口元がほんのわずかに緩む。


「……ずっとやるなら、覚悟しとけ。倍にして返す」

「うわ、こっわ」


そう言い、またリオが笑う。シグも思わず口角が緩む。

朝の、少々距離のおかしい、けれど穏やかな時間。


……だが、平和は、そこまでだった。


リオが、一通り満足したのか、どっこいしょとそのまま起き上がり、……シグに座った。


「……で、風呂入る?」




リオからすれば、昨日依頼帰りにそのまま寝てしまい、風呂に入っていない……だから今から入るか?、というただの問いだったのだが、なにぶん説明が足りなさすぎる。


シグが、固まった。びきっ、と音がしそうな勢いで。思考も止まる。


金の瞳がゆっくりとその惨状を見上げる。視界のど真ん中、あまりにも自然に、自分の腰の上に座るリオ。

場所が場所だ。ドンピシャだ。どこでナニを言ってるんだコイツは。


(なん、風呂……?なんで……?)


その一言に、数え切れない妄想と想定と過去の記憶と願望と昨晩の距離感と朝の出来事とが、全部混ざってシグの頭を駆け巡った。


全身の神経が、剣を抜く寸前のように緊張する。

動くな。何もするな。今、間違ったら――死ぬ。


「……お前、それ……」


かすれた声がようやく漏れたとき、金の瞳はリオを真正面から凝視していた。


「……誘ってるのか?」


それはもはや、尋問というより、最終確認だった。

息を呑むような沈黙。ただ、リオの問いはあまりにも無邪気すぎて……説明不足というのは、罪だった。



「え?うん。入りたいっしょ?」



――ここでリオが言う「うん」は”誘っているのか=俺を風呂に誘っているのか”に対する答えで。

ここでリオが言う「入りたいでしょ?」は当然”シグも風呂に入りたいでしょ?”なのだが。


……なにぶん言葉が足りなすぎる。


かつて東区のレストランで起こった「帰ったらデザートな!」発言の際の言葉不足がここで発揮され。

そして緋紋蛇討伐の帰り、一緒に風呂に入ったもんなという過去の記憶がここで引用され。

とどめのこの体勢で、過去最大級の説明不足と爆撃を巻き起こしている。


シグの理性が、軋む音を立てた。


(――うん、て……)


誘ってるのかと聞いた。

「うん」と返された。


(……入りたい、て……)


どう考えてもその顔、その体勢、その位置、その言い方、

それを全部込みで「入りたいのはどこにだ」になる。


金の瞳が、まばたきすら忘れたようにリオを見つめ続ける。

その腰の上、しっかりとがっちりと座るリオは、まるで散歩の誘いのように、純粋に、悪気なく。


「……い、一緒に……って、ことか……?」


声が、震えた。

“血風のエルラント”が、完全に手も足も出ない。

脳内会議が音を立てて決裂している。


(どの意味だ……!?どの風呂!?どこまで!?何がどこまで!?)


隣には、見て見ぬふりをしている卵がいた。

明らかに”子どもですので”とでも言いたげに、ふわっと丸く静止している。


「……確認させろ、リオ」


シグは、滅多に見せない本気の顔で言った。


「今、俺を……誘ってんのか」


こんなに真剣な風呂の確認が、今までにあっただろうか――真剣な表情のシグに、リオがまたも笑う。


「ええ何?だからうんって言っ――」


その瞬間、笑顔が、固まった。


恐らく今、脳内の演算装置が、ものすごい勢いで稼働している。

発言。体勢。位置。返答。


口をパクパクとさせ、みるみるうちに、首から上に赤くなっていく。


「――ッッ風呂だよ!!!!」


宿屋の朝に、またもリオの叫びが響いた。




ぱち、とシグが、目が覚めたような感覚に陥った。今一瞬、何かが走った。

雷か、閃光か――否、羞恥という名の斬撃が、真っ向から額を裂いた。


(……風呂“だよ”?)


“だよ”ってなんだ。なんだその言葉の正当化は。

こっちは死ぬほど真剣に確認した。それなのに、“風呂だよ”の一言で、この地獄のような赤面を返すとは。

しん……と静寂に包まれたその場にいるのは、赤面した料理人と、耳を赤くした用心棒と、そして”だから巻き込まないでと言ったのに……”という具合に揺れる卵。


シグは、数秒間、天井を見た。


「……殺す気か」


ごく低く、抑えた声だったが、それは相手に向けたものではなく、自分自身への警告のようでもあった。


「……風呂“だけ”だな?」


最後の確認を、凄まじい理性で捻り出す。それでもまだ、胸の奥が暴れるように熱かった。

このまま一緒に風呂に行けば、今度こそ自分の方が“落ちる”。それだけは間違いなかった。


「”だけ”ってなんだよ風呂は風呂だろ!!」


そう叫んで、ひょい、とリオがベッドの脇に飛び降りた。

もう完全なる赤面である。

その顔は、昨日の朝の”寝間着事件”とはまた違う混乱を滲ませている。


「行くのか行かねぇのかどっち!俺行くからな!」


手早くタオルと着替えを用意しながら、また半目でシグを睨む。


「……卵は毛布かけときゃ大丈夫だろ!来るなら来いよ!ったく」


吐き捨てられた言葉には、まだどこか甘やかしが残っていて。

シグの横の卵が……どうぞごゆっくり、と静かに寝息を立てていた。




くつ、と口角をあげたシグは、ベッドの端に片肘をついたまま、その一連の動きを無言で見つめていた。

赤面したまま、怒鳴って、飛び降りて、準備して、でもどこか楽しそうな顔をして。最後に「来るなら来いよ」なんて、背中を向けて言ってくる。


(なんなんだあいつ……)


脳内の思考がまとめられないまま、シグは大きく息を吐いた。

それでもやはり、口元にはごく小さな笑みが浮かんでしまう。


「……待て、行く」


それだけを言って、のしりと立ち上がる。まるで腹をくくった戦士のように、タオルを手に取った。


「風呂“だけ”だ」


念のため、繰り返す。誰に向けてかもわからないその言葉に、ベッド脇の卵がふわりとひとつ揺れた。”それが一番平和です”、とでも言いたげに。


そしてそのまま、真っ赤な顔の料理人と、真っ赤な耳の剣士が、同じ扉をくぐっていく。


――それが、今日という“休日”の始まりだった。






「……でさぁ、明日からナナシタケの依頼行こうぜ。もし時間かかって野営になったらマリーナさんに卵預けっぱにできねぇから、宿のおっちゃんに頼んでさぁ」


身体を洗いながらそう語るリオに、シグは心の底から救われていた。

明日以降の依頼の話と、それによる卵の保育先。今の精神と肉体の状態を落ち着かせるために、これ以上ない話題だった。


ほぼ無心で頭を洗う。湯気が立ちこめる大浴場の中、ただひたすら、頭を洗う。

目を閉じ、泡立った指先に集中し、あらゆる思考をシャットアウトするように。


(……ナナシタケ。毒茸。湿林。野営。卵。マリーナは不可。宿屋の親父。卵。毒対策。卵。卵……)


一見冷静に見えるその顔の下では、”卵”という単語がバッファを圧迫しはじめていた。

――ありがたかった。このタイミングで、ちゃんと依頼の話をしてくれたリオが、心底ありがたかった。


「……そうだな。あの親父なら、ちゃんと見てくれる」


湯を流しながら応える声は、意外なほど落ち着いていた。まるで先ほどの“地雷性発言群”がなかったかのように。


「明日の分の薬と解毒装備、今夜のうちに確認しとく」


自然に、いつもの口調に戻る。視線を湯船に向けると、いつの間にか身体を洗い終えていたリオが、肩まで湯に浸かって笑っている姿が、湯気越しに揺れていた。


……この光景だけは、なるべく記憶の奥底にしまっておこう。そんな決意と共に、シグは身体を黙々と洗い続けた。




部屋へ戻り、リオが手軽な朝食を作る。

ベーコン、葉野菜、目玉焼き。それをパンに挟んだだけのシンプルなもの。

ミルクスープは具も少なめに即席で。ささっと食べて、ちゃっちゃとくつろぐための布陣。


「ほい、お待ちどぉさん」


テーブルに向かい合わせに座る。そのまま片肘をつき、顎を手に乗せ、リオが正面から笑う。

幸いにも、なんとか”甘やかしモード”は継続となったようだった。


シグはパンを受け取り、ひと言も発さずに手元の朝食を見つめた。ミルクスープの湯気が、ゆらゆらと鼻先をかすめる。

特別な味付けもない、けれど“作ってくれた”という一点で、どんな料理より価値のある食事。


「……いただく」


短く、それだけ告げてかじりつく。

ベーコンの脂の塩気、焼きたてのパンの温度、卵の黄身のとろみ。噛むごとに、確かに“日常”が口の中に広がっていく。


正面のリオは、片肘をついたまま、手のひらに顎をのせてこちらをじっと見ている。

笑顔。からかいでも挑発でもない、ただ静かな笑顔。その視線を受けながら、シグの目元がごくわずかに緩んだ。


「……見んな、食いづらい」


それを照れ隠しのように言いながらも、パンの端をもう一口、齧る。

甘やかしモードは、どうやら“本物”だった。そして、その朝食は、シグにとって……勝利の味がした。




朝食も済ませ、ベッドに横向きに寝転がったリオが、ナナシタケの依頼書を開いている。

それを後ろから抱え、シグも覗き込む。

……そう、抱えている。本当にもう、リオに抵抗の意思はないようだった。


「形状変異性だって。触るとかさが開くとかかなぁ。クロヤミワラビみたいに毒菌糸撒くとか?直接採取は禁止……まぁ、どんなキノコなのか見るだけでも収穫だなぁ」


ペラペラ、というよりは、どこかトロトロと話している。

背後から抱きしめるシグにも特段警戒せず、もはや背もたれのように身体を預けていた。


シグはリオの髪越しに依頼書の文字を追いながら、胸元に預けられたぬくもりを、ただ静かに受け止めていた。


「……湿林、か。地面はぬかるむだろうな。足場の確保が先だ」


低い声でそう返しながらも、その意識は半分ほど“今の体勢”に奪われていた。


あまりにも自然に、リオが背中を預けてくる。まるでその位置が“当たり前”のように、警戒も遠慮もない。

湯上がりの香りもまだわずかに残り、衣擦れの感触も心地よい。


(……無抵抗かよ……)


そんなことを思いながらも、腕が自然とリオの腰に回り、軽く引き寄せる。拒まれない。振り払われない。


「……お前が、菌吸わねぇようにしとく。スカーフだけじゃ足りねぇ可能性ある」


呟くように言いながら、顎をリオの肩のあたりに預ける。すっかり、“背もたれの自覚”を得たようだった。

依頼書の紙の音と、ふたりの呼吸だけが、静かな午前を満たしていた。


「ん~」


同意なのか適当なのか、リオからくぐもった声が返ってくる。指が、依頼書の”解毒薬・耐毒薬装備必携”をなぞる。


「明日はシグも携帯食使うかぁ。魔樹花(まじゅか)の蜜の時、あれ結構効果あったぜ」

「ぶっ倒れてたがな」

「いやぁそりゃあ走ったからだなぁ」


笑って言いながら、リオの手がカサカサと依頼書を折っていく。それを無造作にサイドチェストに置き、空いた手で卵を引き寄せた。


「昨日やれなかったし、こいつに魔力やるかぁ」

「……ん」


リオの動きに合わせて、自然とシグの体勢も変わる。

腰に回していた腕を緩め、リオが卵を抱え込む隙間を作る。


「……、触っとく」


ぽつりと付け加え、ごく自然な流れで、リオの手に自分の手を重ねた。

もう何度目かの魔力注入。慣れた手つき、慣れた距離。それなのに、どこか新鮮で、心地よい静けさがあった。


「……魔樹花の蜜。調整して使えば、戦闘中にも役に立つかもな」

「お、だよな?俺も思ってた」

「お前……一人の時に実験すんなよ」


微睡(まどろ)むようにぼそりと漏らす声は、完全に“今”の空気に染まっていた。けれど指先から流れる微弱な魔力の流れを、ぴたりと監視する。

卵はぽこりと一度だけ揺れて、まるで”待ってました”とでも言うように、落ち着いた鼓動を返してきた。


「……やっぱりこいつ、分かってやがるな」


苦笑混じりにそう呟いた声に、リオが小さく笑った。




しばらくして、シグが手の力で合図をし、卵は本日の魔力供給を終えた。

――どうもお世話様です、と一度だけ震え、リオがその表面をポンポンと撫でる。

やがてその手が卵を離れ、頭の上まで持ち上げられた。軽く伸びをして、やんわりと弛緩する。……二度寝の気配。


そのまま身体を仰向けにしたものだから、シグからしてみれば、万歳のポーズのリオを目の前に差し出されている形になる。

捲れた半そでから二の腕が覗く。風呂上がりの香り。


「……ねみぃ」


そして色気の欠片もない言葉。

目をつぶり、手首で目元を覆っている。



シグの喉が、ごくりと鳴った。


何でもない動作。何でもない寝言。

それなのに、この位置、距離、香り、腕。


(……自衛、しろよ)


心の中で静かに叱責する。が、責めているのは自分自身だ。リオの無防備さに、腹が立つわけじゃない。

ただ、それを毎回受け止めて、飲み込んで、やり過ごす自分が、もう限界に近い。


万歳のまま無防備に寝転ぶリオを見下ろしながら、シグは一つ息を吸った。


「……寝てる間に何かされたら、どうすんだ」


そう囁く。その声は、届いているかもわからないほど、かすかだった。

それでもシグは、そっと片腕をリオの肩の下に滑り込ませ、もう一方の手で、枕の位置を調整する。

そしてそのまま、静かにリオの隣に落ち着いた。まるで、寝落ちを見守る“番人”のように。

だが金の瞳は今も、目の前の無防備なその表情から、一瞬たりとも逸らせずにいた。


「んん~……?」


聞こえていたのかいないのか、リオが遠い声で返事をする。

一拍、二拍……その時間は、気が遠くなるほど長く感じる。


「なんか……されたら……」


ぎくり、とシグの肩が揺れた。やはり……聞かれていたか?


「……シグが守ってくれるから大丈夫だぁ……」


いったい誰と話しているのか、ふわつく声は、もはやほぼ夢の中だった。だがシグはその瞬間、確実な信頼を……そう、”信頼”を、がっちりと感じてしまった。


シグの胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。


“信頼してる”なんて言葉は、これまで幾度となく態度で示されてきた。

けれど、今この瞬間、無防備の極みのような格好で、夢とも現ともつかぬ声で、あまりにも素直に、あまりにも無垢に、そして残酷に、「守ってくれるから」などと口にされては。


もう、後になど引けない。


「…………ああ」


その返事に意味はなかった。

ただ、それでも何か言葉を返さなければ、声に出さなければ、この気持ちがどうしようもなくなる気がして。


リオの額にかかった髪を、そっと指先で払いながら、金の瞳がふいに細められる。


「……お前、やっぱずるいな」


どこか呆れたような、愛おしいような独白が落ちる。


そして、そのままシグは静かに目を閉じた。






――【甘やかしの朝】

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