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【追いかけっこ、敗北】



枝に跨り、蜜が溜まるのを待つリオの足が、プラプラと揺れる。

暇だなーと、その態度が申している。


いつもなら何だかんだシグと喋るが、今朝の寝間着侵入事件後、朝食でもギルドでも道中でも、必要最低限の会話しかしてない。

まだちょっとメラメラと燃えているところもある。俺がいつでもにこにこで喋ると思うなよ、と意地になっている自分もいる。


一番の原因としては、シグがまだ謝ってこないということ。


朝に張り手を食らわせたときも、「卵だと思った」だとか「寝返りを打った」などと言い訳ばかり。

確かに男同士だし腹くらい……とも思ったが、やはりどうにも釈然としない。


よって、リオの中で出た決断は、とりあえず今日一日は優しくしない、というところに落ち着いたのだった。




下ではシグが、枝の上からぶらぶら揺れるリオの足をちらと見上げていた。

その揺れ方。明らかに“暇だ”の主張。そして、“喋るつもりはねぇぞ”の無言の意志表示。


(……チッ)


シグは黙って顔を逸らす。葉の陰に視線を移しながら、鼻で息をひとつ。


謝れ?――いや、あれは本当に、意図的じゃなかった。

寝返りの拍子に、ちょうどおさまりがよかったのだろうと思う。自然と手が滑っただけで……いや、そういうことを考えてる時点で、すでに言い訳だ。


(……さすがに、拗ねてんな)


その程度はわかる。わかるが、だからといって、“すまん”の一言が素直に出てこない自分にも、苛立ちが募る。

しかしどうにか許してほしいという気持ちが募るのもまた、確か。結局こうして、リオにだけ甘い。“安全のため”だ、“守るため”だ言うものの、とどのつまり、ただ隣で笑ってほしいだけだ。


「しょうもねぇな、俺……」


誰にも聞こえぬ声で呟いて、シグは肩の力を抜いた。見上げると、ちょうど蜜が瓶の口につたりと落ちていた。

そろそろ回収の頃合いか。


「……そろそろか」


ぼそりと呟き、枝上に視線を戻す。だが返ってくるのは、明らかに“お仕事中なので話しかけないでください”の無言のスルー。


その仕草に、シグの口角が……ごくわずか、諦め混じりに下がった。

どうやら、今日一日は、ほんとうに“優しくしてもらえない”らしい。




三本目、四本目に蜜が溜まったのを確認して、リオはまたも魔樹へ移った。

こちらも手早く回収し、四本目――リオ個人用の蜜の中には、魔樹花(まじゅか)の花弁も一枚入れておく。固く蓋を閉めた。


思いの外、携帯食の効きが良く、意識も明瞭、精神状態にも異常なし。あと二本いけそうだったが、そこは諦めた。これ以上はさすがにちょっと、後が怖い。主に用心棒の。

括り付けていた紐等を回収し、紙袋に入れて密閉する。こちらは廃棄だ。


先ほどまで待機していた枝に戻ると、大丈夫か、といった風な視線を感じた。眼下にちらりと視線を向け、――ふん、と目を逸らす。


そうして結局喋らぬまま、枝を伝って森の出口へと向かった。




風が、魔樹花の香りをさらっていく。その中で、リオの後ろ姿が、枝から枝へと軽やかに遠ざかる。

それを見上げながら、シグは一言も発さなかった。……ただ、見ていた。


花弁入りの瓶、廃棄するために丁寧にまとめられた紙袋。何もかも完璧にやってのけたその背中。

そして、自分の視線を一瞥したうえで、ふん、と逸らされたあの目。


(……まだダメか)


無言のまま、地表から並走する。リオの進む方向に合わせ、いつでもフォローできるように間合いを取る。

その動きは一切変わらず、だが口元にはほんのり自嘲の笑みが浮かんでいた。


(……街に着くころには……いや、ダメか……)


そんな、ささやかな雪解けを期待しながら――シグは黙々と、今日一番機嫌の悪い相棒の背中を追い続けた。






旧森から離れる道中、街道を歩くリオが広げていたのは、ナナシタケの群生地調査の依頼書だった。

次の目的地ではあるものの、ここから少し距離が離れているし、群生地の調査ともなれば、一日では終わらない依頼かもしれない。

蜜の採取に意外と時間がかかった。マリーナに預けている卵のことも放ってはおけない。

これは今日は見送るか、と小さくため息をつき……背後から、依頼書を覗き込んでいる視線に気づく。


「……行かねーよ」


それだけを言って、依頼書を革鞄にしまった。


「……そうか」


後ろから返ってきた声は、短く、低く。けれどどこかほっとしたような、少しだけ柔らかい響きを帯びていた。

依頼書を見つめていたシグの視線も、リオがそれをしまうのを見届けて、ようやくその手元から外れた。


足音を合わせ、いつものようにリオの背後のやや右――“守る位置”に滑り込む。その動きには、何の演出も、主張もない。ただ当然のように、そこにいる。


しばらく、森のざわめきとふたりの足音だけが続いた。

それから、不意に。


「……リオ」


珍しく重苦しい声が、肩越しに落とされる。呼ばれたリオも、ちら、と視線の端だけをそちらへ向ける。


「朝のこと、悪かった」


その声は、ほんの少しだけ低く、ほんの少しだけ迷いを含んでいた。

だがそれ以上言い訳もせず、軽くもせず――ただ、言葉だけを差し出していた。


謝罪というのは、不器用な男にとっては、剣を納めるよりも難しい行為なのかもしれない。

けれどそれでも今日は、それを言わなければ終われない気がしていた。




”今日一日は優しくしない”――そんな誓いが、ぐらりと揺らぐ。


(いや、悪かった、というか……)


リオが歩きながら、頭の後ろで手を組む。そして――考える。


(別に、嫌だったとかそういうんじゃなく……)


やはりうまく言語化できない自分の脳内を、必死に纏めていく。


(突然自分の内側に入られたような気がして、驚いたんだ、多分)


服の中とか、そういうことではなかった。

”素肌”というのは、やはり、なんだか、特別な感じがして。


(しかも寝てるときにだし。起きてる時ならまだしも……)


そこまで考え、ビタッと止まった。

後ろのシグも驚いて、動きを止める。


(……い、いや、起きてるときってなんだ俺!?)


ぐるぐると渦巻く頭が破裂しそうだった。……ない。まかり間違ってもありえない。

”起きてるときなら”とか意味が分からない。


苦し紛れに、後ろの男を振り返る。久々にしっかりと目が合う。喉から掠れた声が出る。


「くっそ……お、俺の逃げ足なめんなよ!!」


そして疾風のように駆けだす。今度は、笑う余裕はなかった。




シグは一瞬、何が起こったのかを読み取れず、ただリオを見送った。


風が巻き、足音が遠ざかる。

けれどその背中には、明らかな“混乱”と“羞恥”と……それでもどこか“許したような気配”が、同時に揺れていた。


「……あ?」


低く漏らした声には、戸惑いも、わずかな困惑もあったが――、すぐにその眉間がほぐれ、金の瞳が細められる。


「……あぁ、そうか」


逃げ足が速い。それはいつものことだ。

けれどあれは、明らかに“逃げながら、追われる気のある奴”の走り方だった。

足元の枯葉を踏み、シグはゆっくりと歩を進める。


「……今度は、捕まえる」


小さく、誰にも届かぬように呟いた。


木漏れ日が揺れる旧森の帰り道。

西陽に照らされ、ひとつの影が、笑いもせず、ただ確かな想いを追いかけていた。






それはリオにとって大きな誤算だった。


突然の疾走に跳ねる息、そして巡る血流。


先ほどまでいた森の中、密かに身体に溜まっていた魔樹花の蜜による催眠効果……。




しばらくの後、冒険者ギルドに現れたシグは、さも当然のようにリオを肩に担いでいた。

やれやれといった顔をしつつも、どこか満足そうだ。


ごつごつと革靴を木の床に響かせながら、受付に蜜の入った瓶を三つ出す。

マリーナが、頬をひきつらせながら応対する。


「おっおかえりなさい……。大丈夫ですか、リオさん……」


シグの肩の向こうから、またもへろへろになった声で、リオが答える。


「……追いかけっこ……負けた……」


負けたのか……とギルド内が静まり返った。


無言で瓶を差し出したシグは、肩の上でぐったりとしたリオの姿勢を微調整する。

担がれたままのリオの腕がぶらりと揺れ、頭は力なく垂れていたが――額に浮いた薄い汗と、ほんのり赤らんだ頬が、事情をすべて物語っていた。


「……催眠作用が、回ったらしい」

「そ、そうですか……」


マリーナにそう淡々と告げながら、シグは提出用の書類に目を通す。

だがその金の瞳はどこか穏やかで、リオが無事でいることに安堵すら滲ませていた。


「帰る。……卵寄こせ」

「あ、はい」


マリーナは唖然とした顔で頷き、シグの手に卵を戻す。ギルド内には、奇妙な静寂が広がっていた。


――負けた?リオが?逃げ足で?


受付奥、倉庫脇、観測席の各所で、(プレート)隊員たちが凍りつく。やがて、誰かが震える声で呟いた。


「……あれが、“全力”の血風……?」


その一言に、皆がごくりと唾を飲み込む。



いつものように逃げ切り、笑いながらギルドに戻ってくると思っていた。

それがまさか、肩に担がれ、敗北宣言付きで戻ってくるなど……。


「記録更新……追いかけっこ、敗北エンド……」


メモが走り、書記官の意識が飛ぶ。

そして、誰かが崇めるように呟いた。


「……リオ、やっぱり天才だよ……」


その声を背に、シグは無言でギルドを後にした。

リオの体温を肩に感じながら、少しだけ笑みを隠して。




左肩にはリオ。右腕には卵。そして仏頂面。


その用心棒は、市場の立ち並ぶ街路を、宿屋に向かってのしのしと進軍していた。

一瞬驚いたように目を見張る住民たちも、リオが眠たそうにしているのを見て、安堵の表情を浮かべる。


「あっはっは!シグの旦那!今日は暴走止められんかったか!」

「あらほんと!でもなんか微笑ましいわぁ!」


シグの口元がぴくりと動いた――が、笑うには至らない。

ただ、明らかに心中のどこかが、“負けたような気がしている”空気を纏っていた。


左肩のリオは、ぐったりと身体を預けながらも、時折ぴくりと腕を動かしている。

完全に気を失っているわけではないが、半分夢の中という様子だ。


右腕の中、しっかりと抱えられた卵は、街路の騒ぎなどどこ吹く風といった様子で、巣のような毛布に包まれて静かに揺れていた。


「……今日は、走りすぎた」


ぽつりと呟くように言ったその声は、聞こえたか聞こえないか程度。

けれど通りかかる誰もが、何となく察したように微笑む。


「うちの坊主もあんな感じで肩に担がれて帰ってきたわね~」

「ほれ見ろ、お前もちゃんと走って鍛えろって言っただろ!」

「いやいや、あんな様子のリオは初めて見たわ……あれは貴重だぞ……!」


街はにわかに色めき立ち、噂と笑い声があちこちに広がっていく。


シグはそれをすべて背に受けたまま、黙々と歩いた。

誰にも返事はせず、けれども無視もせず、視線だけを返し。

ただ、眠る料理人と小さな卵を、安全に、そして確実に家へと運ぶために。






ぼすん、と宿屋のベッドに寝かされて、背中に感じる重力に安心したリオは、ぼんやりと目を開けた。

カチャカチャと装備を外しながら、シグがこちらを窺っている。


一気に回った催眠効果は、どこか酒に酔ったかのようなふわふわとした感じだった。


「んー……俺ぁ、蜜なければ勝てた……」


そんな負け惜しみを言いつつ、脇腹のあたりに置かれた卵に気づき、ゆるゆると引き寄せる。

横向きに転がり、優しく抱え……ここ最近の”習慣”せいか、無意識に隣に大きな空白をつくる。



――その空白を、シグは無言で見つめていた。


剣帯の留め具を外す手を止め、金の瞳がリオの横顔を捉える。

ぼやけた意識の中での敗北宣言。蜜のせいにしながらも、どこか悔しげな……けれどどこか、満ち足りた声音。


「……ああ。蜜のせいだ」


そう小さく呟くと、シグは装備をすべて片付け、静かに靴を脱いだ。

ベッドの上、リオの背側に開いたその“空白”に、迷いなく身体を沈める。


隙間を埋めるように伸ばされた腕が、リオと卵ごと、ふわりと包む。


「今日は、寝とけ」


リオの頭に落ちた声は、低く、柔らかく、命令というより“願い”だった。

ふわふわとした意識の中でも、確かな温度と安心感だけが、静かに肌に馴染んでいく。


シグはそのまま、ぴったりと寄り添い動かない。


昼の喧騒も、追いかけっこも、催眠も。すべてを忘れたかのような、静かな部屋の中……ただ、小さく寝息を立てるふたりと一つの卵が、確かに“ここにある”という温もりだけが残っていた。






――【追いかけっこ、敗北】

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