【お怒りのリオ】
翌朝リオが目覚めると、やっぱり目前にシグの寝顔があった。昨日もそうだったから、ちょっと覚悟はしていた。
まぁまぁまぁ、と思って毛布の中の卵を見る。こちらもまだすやすやと眠っているかのようで、孵る気配はない。
……はた、とリオが止まった。
夜には背に回っていたはずのシグの手が、リオの寝間着の中、脇腹のあたりに落ち着いていた。
それも結構上のほう。
(…………??)
一瞬思考がフリーズしたが。
「……ッッなんっでだよぉぉぉ!!」
バチーン!!と張り手の音が、早朝の宿屋に響き渡った。
……数刻後、冒険者ギルドは、シグの頬の張り手跡の話題で持ちきりとなる。
「見たか!血風の顔にっ、ッ、張り手の跡!」
「なんで!?なにしたの!?」
「なにってお前、なにって、ナニじゃねぇの!?」
「てかリオは無事!?」
「むしろ無事じゃないからじゃね!?」
……ギルドの朝は、騒がしかった。
受付前、書記官席、応接机、物資庫の隅に至るまで、誰もが“その一点”に全集中。
マリーナは朝から対応に追われ、手帳を広げながら「記録更新ね……」と何度も呟いていた。
当のシグはというと、頬に真っ赤な跡を残しながら、今日も変わらずギルドの壁際に立っているだけ。
見慣れた立ち姿、見慣れた無表情。だが、その“赤い証拠”だけが異様な存在感を放っている。
その眼差しはただ静かに、やや遠目にいる料理人に向けられている。
「……リオ、今日の依頼、俺が選んでいいか」
いつもと変わらぬ声、落ち着いた目。
けれど、その言葉の奥にはほんの少しだけ、“布団内の自由権”に対する慎重な交渉の意図が滲んでいた。
——《魔樹花の蜜採取依頼》
【依頼内容】
南西の旧森に自生する魔樹花の花弁より、催眠成分を含む蜜を採取する作業。
※採取時、強力な催眠作用が発現するため、「同行者必須」とする。
【採取数】
指定の瓶で三本
【報酬金】
銀貨八十枚
【注意事項】
・採取時、作業者は長時間蜜に曝されるため、意識確認と拘束補助を行う同行者が必要。
・幻覚や意識混濁の報告多数。精神耐性が低いものの単独行動は厳禁。
・花弁採取時に小型寄生虫”ミツクリ”が出現することがあり。
——《ナナシタケ群生地調査依頼》
【依頼内容】
南東湿林にて発見されたナナシタケ(形状変異性毒茸)の群生地を調査し、「反応未解明の個体群」について記録採取を行う。
【目標】
ナナシタケの群生地調査
【報酬金】
銀貨九十枚
【注意事項】
・ナナシタケは”接触時に形状を変化させる”反応が確認されている。
・反応未解明の個体群につき、直接採取は禁じられ、調査記録(観察・魔力反応測定)に留める。
・調査中の誤食・皮膚接触事故に備え、解毒薬・耐毒薬装備必携。
リオはまだ若干目を据わらせたまま、無言で迫力のない睨みを利かせ、シグに二つの依頼書を見せた。
——これ以外認めない、という言外の圧が孕む。
グロサウレインの解体と行きたいところだったが、リオ自身心穏やかではなかった。
そもそも昨日、この二つの依頼書を隠していたこと。そして今朝のベッドでの暴挙。……まぁそちらは無意識下ではあるものの。
シグに断る道はなかった。わずかに苦い顔をして、一つ、頷く。
「マリーナさん、おはよう!今日も卵お願い!」
リオがパッと表情を変えて、マリーナに卵を受け渡す。はっとしたマリーナも、受付嬢根性で笑顔を作り、
「はい、お預かりします。お気をつけて」
と、何とか見送る。
シグは無言のまま、小さく息をついた。……逃げ場など、どこにもない。
“選択肢を与えられた”という体を取りつつ、事実上の詰みだった。
魔樹花の蜜。
ナナシタケ。
どちらも、掲示板に残っていた依頼。つまりは、冒険者たちが忌避していた案件。
できればリオには触れさせたくなかったはずのそれらが——今、その手中にある。
「……どっちも、俺が監視する」
そう短く言った声は、もはやただの敗北宣言かもしれない。
横を歩くリオの気配を伺いつつ、ちらと口を開きかけ……すぐに言葉を飲み込む。
“ごめん”も、“無意識だった”も、今は火に油。
代わりに、視線だけを送る。
それは、「せめて、今日中に許してくれ」という、最後の望みだった。
南西にある旧森は、どこか原始的な植生の残る森だった。
大きな羊歯科の植物。木に絡まった蔦。大ぶりな葉。苔むした地面と、岩。
何とも独特で、探検心がくすぐられる景色。
ここまで無言を貫いてきたリオが、森の入り口で、シグを振り返る。
「……俺、上に行くから」
それだけを言い、樹上を指さす。シグの視線が上に向き、またリオへ落ちる。
明らかな制止がなかったため、リオもすっと目を逸らし、そのままするりと上へ逃げていく。
一瞬その影をに追うようシグの手が揺らめくが、それもすぐに引っ込んだ。
森の奥、深く湿った空気が身体にまとわりつく。
ここは、風も音も通さぬ静寂の森……まさに“旧森”の名が似合う場所だった。
リオがするすると登っていく姿を、シグは下から黙って見上げる。何も言わず、ただ金の瞳だけでその輪郭を追い続ける。
(……距離を取ってるつもりか)
幹をつかむ指先、枝を踏む足元。どれも軽やかで、危なげはない。だからこそ、シグは何も言えなかった。
本来なら引き留めたい場面。だが止めれば、あの料理人の本日のご機嫌は、完全に氷点下を突破する。
「……」
ゆっくりと剣の柄に手を添えたまま、シグは地表の移動を開始する。
リオがどこを通っても視界に収まる位置。いざというとき、すぐに駆け上がれる角度と間合い。
それは、まるで獣が巣の周りを警戒して巡回するような動きだった。
風が流れ込むようにして開けた一角に、蜜を宿した“それ”……魔樹花の姿が現れた。
淡い紫の花弁は、ゆったりと揺れている。中心には、琥珀色の蜜がぽたり、ぽたりと滴っていた。
その香りが、風に乗って届く。強い催眠作用と引き起こすとされる、芳香。
リオがどこまでその香りに触れたか。シグの視線が、鋭く樹上へと向けられた。
一方樹上。
リオの目の前に現れた魔樹花は、独特な甘い香りをさせていた。
催眠成分を含む蜜……正直、すごく欲しい。睡眠薬。眠り罠。ごく少量を使ってリラックスティー。エキスだけを抽出して安眠効果のある香にするとか。
もう、なんにでも使えそうだった。シグがこの依頼を隠そうとしていたのが信じられない。
眼下からの視線には目を向けず、背中の革鞄から取り出した携帯食を一かけ食べた。
この携帯食、防御力上昇や俊敏が上がる効果以外に、”状態異常防御”の効果もつく。
魔樹花の蜜に対してどの程度の効果が認めるかはわからないが、これが今までリオを支えてきたのは確か。
念のため、口元にスカーフも巻く。
今いる枝から、その魔樹に飛び移る。
名前からよく勘違いされるが、植物型の魔獣で”魔樹”ではなく、魔力を多く含む植物で”魔樹”。樹皮は魔力媒体にもなるし、切り出した木材は杖の材料にもなる。
どこをとっても魔法資源になる植物だった。
目に見える、届きやすい範囲にある花は二つ。その両方から蜜が垂れている。空間魔法から瓶を取り出す。
花のすぐ根本の枝に瓶を括り付け、滴る蜜が瓶に落ちるように角度を調節する。もう片方も同様に。
いったん離れて、仕掛けた二つの瓶に蜜が溜まるのを待つことにした。
下からその一連の動作を見守っていたシグは、リオの動きが完了するのを確認しつつも、気が気ではなかった。鼻をかすかに鳴らし、空気を吸う。
……香る。あの蜜の匂いだ。風が止み、香りが滞るようになって……さっきよりも濃い。
(……近すぎだ)
それでもリオが冷静に動いているのは、おそらくあの携帯食の効果か。あれを食べてからのリオは、意識混濁どころか、むしろ集中力が増しているように見えた。
だが、あくまでそう“見えた”だけの可能性もある。蜜の香気は、想像以上に濃厚で。
森の湿度、風の通り、花の蜜量——それらの条件が重なれば、徐々に脳をぼやかしていく。
リオが花から距離を取ったのは正解だ。だがそれでも、リオの周囲には、あの香りがまとわりついている。
枝の上で、リオが身を屈めた瞬間……その動きに、ほんのわずか、ゆらりと重心の揺らぎが見えた。
シグはすぐさま腰を押さえ、宙を睨む。
(もし、リオが落ちたら——)
その瞬間には、何の迷いもなく駆け上がるだろう。
いや、もう今すぐ登っていって、リオの胴をつかんで引き寄せたい。それでも、踏みとどまっているのは。
「……信じてるからだぞ、リオ」
誰にも届かぬほど低く、地面に押し殺されたような声。
その金の瞳は、しずかに霞んだ陽光の向こうにいるリオだけを、じっと、まっすぐに見続けていた。
ほんのわずかに足元がふらついた。やはり多少は影響があるようだが、意識は明瞭ではっきりしている。
——ミツクリもほしい。強い催眠成分を含む蜜を好む寄生虫。絶対使える。
そう思い、少々不服だが、……口元のスカーフを外せる距離まで撤退する。
眼下にシグが追い付いてくるのを待つ。どうせ、何も言わずともついて来る。
……やはりというかなんというか、すぐさまリオの動きに合わせて、シグが地上を移動してきた。
「ミツクリもほしい。あと料理研究用に魔樹花の蜜も。いいよな?」
スカーフをわずかにずらし、伝えたのはそれだけ。
シグが……は?といった顔をするが、リオは気にせず、再度スカーフで口を覆う。
もう喋りません、の構えだ。
呆気と足を止めたシグは、頭上のリオを睨み上げた。
「……あ?」
間抜けな声ではない。
明らかに“確認のための問い返し”だったが、その裏にある感情は、限りなく怒気に近い警戒だった。
ミツクリ。寄生虫。蜜の中にいる、ということは、蜜に限りなく近寄るということ。それをサラリと口にしてくる。
(ほんとに……バカだろお前は)
眉間に皺を寄せ、シグは頭を掻く。
思わず靴先で落ち葉を蹴り飛ばしたのは、完全に八つ当たりだった。
だが、リオが「もう喋りません」と言いたげにスカーフを整えたのを見て……彼の肩が、ストンと少しだけ力を抜いたように落ちた。
「……まったく、わかった」
言ってしまった。
もう止められない。止めても、今のリオはおとなしく引き下がる状態じゃない。ならばせめて。
「とるなら、……俺がとる。頼むから、お前は近づくな」
シグは腰の防具の隙間から、薄手の布袋を取り出す。微細な標本を採取するために持ち歩いている応急の袋だ。
「ミツクリ、見つけたら言え。自分でとるな。ぶっ倒れて担がれたくないだろ」
既に、作業に入る気でいる声だった。
半ば呆れ、半ば諦め——それでも、リオの“やりたい”に抗わない、それがいつものシグだった。
そして、リオが喋らないまま、ひらりと手振りで返すのを見て、彼はひとつだけ息を吐いた。
「……帰ったら、覚えてろよ」
そう小さく呟いた声には、怒りでも困惑でもない、けれど“甘やかし過ぎた自覚”が、確かに滲んでいた。
花の下に設置した瓶は、すぐに満杯になった。それを確認したリオが、再び魔樹へ飛び移って回収し密閉。そのまま手際よく三本目、四本目の瓶を括り付ける。
さて、ミツクリのいそうな花はどれか……。
くるりと周囲を見回し、少し上の方に咲く花の中に、小さな影を見つけた。恐らくあれか。
半ば睨むようにこちらをみやるシグに、無言のままにその花を指さす。
——当然、取れるよね?
そんな挑発的な目を向けて、リオはまた魔樹から退避した。
シグのこめかみが、ぴくりと動いた。
あの目。あの顔。あの指差し。
——“わかるよな?”という無言の要求。そして、“できるよな?”という信頼なのか圧なのか分からないプレッシャー。
その全てを金の瞳が受け止め、明らかに何かを飲み込んだ。
「……ッたく……!」
小さく毒づきながら、シグは一歩、魔樹に向けて踏み込んだ。
甘い香気が鼻先をくすぐる。だが、彼の動きは揺るがない。幹と大ぶりの枝を足掛かりに、魔樹を駆け上っていく。
剣を抜くでもなく、音を立てるでもなく。その大柄な身体は、気配すら消して花へと近づいた。
花弁の中にいたのは、やはり寄生虫“ミツクリ”。
蜜の気配に惹かれ、花の内側に頭部を突っ込んでいる最中だった。
小指ほどのサイズ。透明感のある白い殻に、半球型の胴体。くねくねと花弁の奥を探るように動いている。
「……あっちにもいるな」
すぐ横の花にも、それを見つける。低くつぶやき、さらりと風を巻き込むような手つきで花の奥に指を滑り込ませた。
ミツクリが身を震わせた刹那、指先に絡め取られた虫は袋の中へと収められた。もう一匹も同様に。
「よし」
ひとつ、袋の口をしっかりと縛る。そして、離れた枝から見ているであろうリオに視線を投げ、ほんの一拍の沈黙の後。
「……ん」
と袋を掲げる。
その表情は完全に皮肉交じりだったが、リオの目元にかすかに笑みが浮かんだのを見て、結局シグも肩をすくめた。
……どうにも、自ら進んで手のひらで転がされている気がしないでもない、が。
もはや、“こうなる未来”は受け入れるしかないらしい。
——【お怒りのリオ】




