【卵に魔力を】
謎の騒動の末にすっかり腹も膨れ、リオとシグはクァナグールの素材をギルドに提出した。
いまだ涅槃の笑顔から抜け出せないマリーナに代わり、査定人——いや、査定皿が、それをしっかりと受け取る。
シグがギルドの扉に手をかけて外へ踏み出していく中、リオだけが思い出したように、こっそりマリーナのもとへ戻ってきた。
「……な、なぁマリーナさん」
「はえ?はい、なんでしょう」
「変なこと聞くけどさ、あのさ……だ、抱っこして降ろそうとしないのってなんでだと思う……?」
「……おい、戻るぞ」
リオがいないのに気づき、シグが入り口から声をかける。
それに、リオが振り向きながら返事をした。
「おう!今行く!……ごめん何でもねぇ!おやすみ!」
マリーナは、しばらくその場に固まっていた。
「……リオ氏が、いま、わたくしに、相談を……?」
受付カウンターの下で、両手をぎゅっと握る。
その瞳は、まるで全ての星を内包したように輝いていた。
「……っふ、ふふ……そういうのは、もう……答え、出てるじゃないですかぁ……」
机に突っ伏し、頬を赤らめながら、口元を抑える。
だが、それを見ていた別の受付係が、ぽつりと呟いた。
「……出てるんですか?」
「出てます……!確定供給案件です……ッ!」
記録係が咄嗟に走り書きを始める。
《リオ氏、"抱っこされたまま降ろされない"件についてマリーナに相談》
発生時刻:23時58分
推定意味:未告白未確定親密関係の進展示唆
現場反応:マリーナ、供給爆発にて沈黙。被害軽微。
——その夜、ギルドの壁には、新たな観測名言が書き加えられた。
”降ろされないのには、理由がある”。——翌日には取り払われていたが。
月の下、街道を並んで歩く二人の影が、静かに、そして確かに、宿へと向かって行った。
宿屋のベッドの上。
風呂を済ませたリオが、ベッドに寝ころび、隣に置いた卵を指先でコツコツとつついていた。
孵る気配はまだまだない。だが命の気配が消えているわけでもない。
「お前いつ出てくるんだろうなぁ……」
シグが風呂へ行って不在の中、自然とそう卵に話しかけてしまう。
時折、柔らかなカンテラに照らされて卵が揺らめくが、それだけだ。
シグの、あの言葉が頭の中に繰り返される。
「……なんなんだ、”言ってから抱く”って……」
呟きは部屋に溶け、何の返事も返ってこない。
南の山の空洞で雨宿りをしたときは、意地でも目を合わせてこなかったくせに。
あの森の中では、まっすぐにこちらを見据えていた。どこか満足げに。
胸の中に渦巻く感情は、未知の感情で。
「……もう、わけわかんね……」
それでも部屋の外の足音は、着実に近づいてきていた。
ギイ、と静かに扉が開く。
湿り気のある風呂上がりの気配と共に、シグが無言で部屋へ戻ってくる。
肩からタオルを抜き、おもむろに壁際の大剣を整えたあと、視線をリオの方へ向けた。
ベッドの上、リオは寝返りも打たず、ただ天井を見上げていた。
その腹のわきに置かれた卵が、カンテラの灯りでまるく浮かび上がっている。
シグはタオルで乾かすように髪をかき上げ、そのまま、何も言わずにもう一方のベッドの端に腰を下ろした。
——沈黙。
けれど、部屋の中の空気は不思議と重くない。
「……卵、動いたか?」
ぼそりと、低く投げられた問い。
何の変哲もない一言なのに、それは“間”を埋めるには十分すぎるほど、あたたかかった。
そして、まるで先ほどの“言ってから抱く”の件などなかったかのように——シグは、リオの返事を待つ。
あくまで、自然体のまま。だが、その金の瞳は……やはり、どこか静かに、狙いを定めている。
「……いやぁ、まだだなこりゃ」
ぺち、と卵をやさしく叩き、リオがにかっと笑った。
いつもと変わらないシグの様子に、どこか安堵した気配もある。
そのままざらざらと卵の表面を撫でていた手が、ぴたりと止まって飛び起きる。
「もしかしてさ!」
ぐ、とシグに顔を寄せて、閃いた!、という表情だった。
「魔獣の卵ってことは、孵化するのに魔力も必要なのかな!お、俺、魔力流してみたほうがいい!?」
シグの眉がぴくりと動く。
その横顔は、まるで「また妙なことを思いついたな」という感情が、顔を出しかけては引っ込んだような、そんな表情。
「……待て」
低く、落ち着いた声が部屋に響く。
そして、リオの手に目をやりながら、明らかに“警戒”の色を滲ませた。
「魔力の流入で反応する卵もある。とは思う。……が、何が起こるかはわからん」
腕を組み、視線を卵へと移す。
その金の目には、完全な“抑制”と“警戒”が宿っている。
「魔力の感応で中身が暴走すれば、殻ごと吹き飛ぶ」
その言葉に、リオの指がこわばる。
シグはじっと卵を見たあと——リオの方へ視線を上げる。
「……お前、魔力流しながら抱えてたんじゃないだろうな?」
静かな声音。
だがその奥にあるのは、“また変なことしてんじゃないだろうな”という、明確な疑念だった。
言い訳しようにも、既にその腕には卵が収まっており、リオの手は、いつでも魔力を通せるように卵の底を支えていた。
やっていないのに、どうにも言い逃れが難しい状況である。
「ま、まだしてねぇよ!卵になんかあったら嫌だし!もうそんなあぶねぇことしねぇって!」
「……”もう”ってお前……」
「あっ、いやほら、シグと会う前は知らねぇことはすぐにチャレンジしてたけど、……今はしねぇって」
笑いながらも、慌ててリオがそう弁明した。このやろう、といたずらっぽい笑顔を浮かべてすらいる。
「でもかなりいい線いってんじゃないかなぁ!孵る気配は全然ないけどさ、やってみよっかな、ちょっとだけ!もしあれだったらシグ俺の手触っててよ、魔力流しすぎてたら止めて!」
次々と口が回る。そう、結局のところ、思いついたことはやってみないと気が済まないのがこの男なのだ。
意気揚々とベッドから立ち上がったリオは、座るシグの足の間、その大きな身体に背中を預けて腰を下ろした。
後ろからシグの手を引っ張ってきて、リオの手ごと卵を持たせる。
「な、ちょっとだけにするからさ!」
わくわくと笑うリオを、シグはもう色んな意味で止められなかった。
シグの両腕が、リオの手ごと卵を包み込む。その体勢は、完全に“抱える”形だ。
リオの背が、シグの胸にあたるたび、体温が伝わる。だが、何よりも熱いのは——リオ自身の、無邪気な高揚だった。
「……お前……わかってんのか……」
そう呟いた声は、ため息にまぎれたが、その手にはしっかりと力がこもっていた。
リオの手のひらの動き、魔力の流れ——そのすべてを、逃さないように。
部屋の灯りが静かに揺れる。
リオの指先から、ふわりとかすかに、魔力の流れが生まれる。
腹から腕に、腕から手のひらに、そして卵へ。……ほう?とシグも、それを手のひらで感じ取っていた。
……その瞬間。
——コツン。
指の先から伝わった感触は、外から叩いたのではない。卵の内側から、確かに何かが、殻を叩き返したような……。
「……今の……」
リオの声が低く響いた。
シグの指にも、はっきりとそれは伝わっていた。
……“中にいる”。
確かな反応。確かな命の存在。
そして——まだ眠っているその中身が、ほんの一瞬だけ“こちらに応えた”気がした。
卵は、あいかわらず無言のまま。
ただそこにある、小さな命の鼓動だけが、二人の手のひらの中に、しっかりと宿っていた。
「……なぁ、今動いたよな?」
魔力の流れを止め、リオが卵を見つめたまま問いかけると、後ろで頷く気配がした。
突発的な実験のつもりだった。ほんとに反応があるとは思ってもいなかった。
急に目の前の存在に今まで以上の”命”を感じ、そうっと卵を抱きなおす。
「そっかー。じゃあこれから毎晩魔力も流してやんなきゃな、シグ……」
はたと気が付く。卵を包んでいたはずのシグの手が、リオの胴体に回っている。
改めてまじまじと自分の状況を自覚する。
(……なんで自ら抱っこされに来てんだ、俺——!)
立ち上がろうとするが、やはりビクともしない。その腕の力は、容赦がなかった。優しさの皮をかぶった、完璧な拘束力。
リオが離れようとと腰に力を込めても、びくともせず、逆に背にぴたりとシグの体温が押し返してくる。
「ちょっ、もういい、大丈夫だよ!」
「……落ち着け。お前が座ったんだろうが」
低く、ひそかに喉の奥で笑うような声。その音だけで、何故かリオの耳が、熱くなる。
「毎晩流すって決めたんだろ?なら、この体勢が一番安全だ」
まるで“当然”だと言わんばかりに、シグはリオの腰へ、さらに腕をぎゅっと回す。
「っまじお前、」
「……嫌か?」
問いの響きは、またしても真っ直ぐだった。過剰でもなければ、照れでもない。
ただ相手の気持ちを、ちゃんと聞こうとする、真剣な声だった。
リオが戸惑いながらも言葉を探す中、膝の上の卵が、まるで察したように——小さく揺れた。
まるで”お前らやってんな”とでも言わんばかりに。
(……なるほど……)
——リオは、半ば観念していた。
自分の暴走癖は自分自身がよくわかっていた。
だからこそシグにストッパーを頼んだが、その頼みの綱のシグが制止しないと、とても大変な事態になることがよく分かった。
背中全体を包まれる体温が、やけに明確に感じる。ド、ド、と鳴るのがどちらの心音なのかすらわからない。
ので、もう卵の心音ということにする。
もう一度ぎゅうと引き寄せられ、後頭部にすり、と鼻を寄せられる感覚もある。ぞくりとして肩が跳ねた。
「——っお、俺もう寝る!今日はシグが卵の添い寝当番な!だから、は、離して!」
「……離せって、お前が座ったんだろうが」
またしても低く、呆れを滲ませた一言。
シグの腕は少しも緩まない。むしろ、先ほどよりもほんのわずか、力が増していた。
後頭部に触れた鼻先が、再びすり寄るようにリオの髪に息を落とす。
やはりそれだけで、背中にざわりと痺れが走る。
リオがもがけばもがくほど、“じゃあ、なおさら逃がさない”を体現するように、その抱擁は深まっていくだけで。
「……卵も、抱いてる」
そう囁いた声は、やけに穏やかで、やけに悪い。卵も抱いてるとかじゃない、卵ごと抱かれている。
これはもう、“卵と添い寝”どころの騒ぎじゃない。シグの息が、もう一度リオの首筋にかかった。
「……今離したら、反動ですっ転びそうだしな、お前」
それは、逃げ道など与える気のない——リオの暴走癖を、最も的確に“管理”する男の声だった。
(——こ、こいつ離す気ねぇな!)
ビクともしない腕に混乱する。混乱しているだけで、嫌なわけではない、と気付くのはもう少し先である。
そして、この”戦闘においては頼りになる屈強さ”、なるほどこういうときは逃げられなくなるのかと、頭のどこかで冷静なリオもいる。
間近で喋るものだから首筋に息がかかる。低音が耳に響く。だが卵を抱えているからもがくこともできない。
どうしようもない、けど心臓が持たない。すぐそこに顔がある、絶対に振り向けない。
振り向けば、金の瞳に捕まりそうで。
「……うぅ……ちょ、調子に乗りました……離して、シグ……」
森で有効だった手を使う。俯いたが、恐らく首まで赤かった。
「……駄目だ」
だがしかし返ってきた言葉は、優しくも容赦がなかった。
低く、ゆっくりと、リオの後ろ首に吹きかけるように発される。
「卵な……暖めなきゃな」
囁きのような声は、いつもよりもさらに低く、熱を帯びていた。言い終えたあとも、シグは動かない。
ただ背中を包み、リオの鼓動と卵の温もりを、黙って感じている。
部屋の灯りが、ゆらりと揺れる。それにあわせるように、シグの腕がもう一度、リオをやわらかく引き寄せた。
リオも、卵も、もうまとめて、腕の中に入れるのだ。
「……もういいから、じっとしてろ」
その一言で、すべてが決まった。
この夜——リオが動くことは、もう、なかった。いや、動けなかった。
添い寝当番などという建前は、既にどこかへ消えて。
ただ、静かに卵から感じられる温もりと、心音の混じる沈黙が、ふたりのあいだに落ちていた。
——【卵に魔力を】




