【クァナグール討伐】
森に入った二人は、二手に分かれた。
シグはそのまま地上を。リオは樹上へ行くよう、シグから指示を受ける。
シグには、先のケズリホネ戦で、リオがいかに身軽かということがわかった。そしてそれを以てして、リオの鷹の目が遺憾なく発揮されるということも。
探索範囲が広がる。リオが狙われにくくなる。この好条件は、シグにとって動きやすいことこの上なかった。
道も何もない。かろうじて獣道のようなものはあるが、クァナグールのものとも限らない。
相手が夜行性で、もしも寝ているのであれば、起こさずに仕留めたい。声も出さず、物音も最小限に、ふたりは林の中を進んだ。
――ふと、そんな中。
樹上のリオの鼻に、嫌な臭いがまとわりついた。
クァナグールは狩った家畜を巣穴にため込む習性のある魔獣だ。恐らくその”エサ”の臭い。……腐臭だ。
その臭いに、リオの足がぴたりと止まる。梢の上、風に揺れる枝葉の中で身を伏せるようにして、鼻を鳴らす。
腐敗が進んだ肉の、酸っぱい中にも土のような、どこか湿った――いやに鼻につく匂い。
下の地面では、シグもまたわずかに顔をしかめていた。リオの動きに気づいたのか、頭上にちらと視線を投げる。音を立てぬように、手で“止まれ”の合図。
二人の間に会話はない。ただ、それで充分だった。
リオの視界の先、斜面に覆いかぶさるような岩の裂け目。苔むした岩肌に、わずかに染み出す液体が光る。獣臭と腐臭――間違いなく、巣だ。
崩れた木の幹が入口を隠すように転がっており、中は暗い。
視界に動きはない。だが、リオには“気配”が感じられた。
重く、沈んだ“生”の塊のようなものが、そこに潜んでいる。
地上のシグが、剣に手をかける。息を整え、草を踏まぬよう静かに進み出す。
リオの位置は、巣の真上――樹上からであれば、入り口の死角を広く見渡せる。合図さえあれば、いつでも援護に回れる。
――あとは、仕留めるだけ。
だが、リオが目を細めた。入り口を隠すように崩れた倒木のせいで、恐らくシグの大剣は振り切れない。
巣であろう岩の裂け目も狭く、シグが中に入り込むような余地もない。おびき出さねば、斬れない――。
シグがちらりと視線を送ってくる。
――どうした?
金の瞳がそう問いかけていた。身振りと口元の動きで、それに返事をした。
――大剣、使えない、待って。
ひとつ、シグが頷くのを確認して、空間魔法に両手を入れる。
この中なら、外部に音は漏れない。
リオはなんでもこの中に入れる。使えるものも、使えないものも、なんでも入っている。
その中に、魔ウサギの角があった。内が空洞になっていて、外側を叩くとこもった高い音が鳴る。
――使える。
リオの指が器用に動く。小さな音すら漏らさず、空間魔法の内側で即席の仕掛けを組み立てていく。
手近にあった枝を、魔ウサギの角に括り付け、角と枝の間に小枝を挟んで、つっかえにする。小枝が外れれば、角に枝が打ち付けられ、音が鳴る。
急ごしらえで――決して上等とは言えないが、簡易の音罠のようなものが出来上がった。弾けば、高音の残響が長く、鼓膜に残る癖のある音が出るだろう。音を嫌う魔獣には、十分な刺激になる。
シグは、空間の中で忙しなく動くリオの手元に、ほんの一瞬だけ目を留めた。
その意味を察し、再び岩陰へと視線を戻す。
獣の気配はまだ動かない。だが、その臭いがより強くなってきた。
――あれは、ただ寝ているのではない。満腹で、巣の奥に沈み込んでいるのだ。
となれば、こちらの仕掛けで少しでも外へ誘導できれば、勝機はある。
シグが右手をわずかに上げた。
――いつでも、いけるぞ。
それは静かにして明確な“了解”の合図だった。
リオもそれを確認し、小さく頷く。指先が器用に動き、仕掛けを枝に結びつけたまま、樹上から滑らせるように落とした。
――カィンッ!
澄んだ、高く、通る音が、林に響いた。
乾いた枝を打った魔ウサギの角が、甲高い反響をこだまするように拡散する。
その瞬間。
「グルゥゥゥ……ッ!」
巣の中から、異様な低音が漏れた。まるで喉の奥に石を詰め込んだような、くぐもった唸り声。
裂け目の奥で何かがごそりと動き、ついで、土と枯葉を巻き上げながら何かが飛び出してきた。
泥苔色の皮膚に、鋭く湾曲した爪。光を反射して光る黄緑の眼――“クァナグール”。
その姿が岩陰から完全に姿を現した刹那、風のような一閃が閃いた。
「……ッ!」
斜め上から落ちるように飛び出したシグの大剣が、魔獣の背へ、的確に――重く、深く突き立った。
クァナグールの叫びは咆哮にならなかった。
一撃で背骨を断たれたそれは、地に這う間もなく、沈黙する。
樹上の枝葉が揺れ、リオの足元に風が吹く。
戦闘は、一瞬。
それでもその一瞬の裏に、完璧な連携と、研ぎ澄まされた静けさがある。
――枝の陰から、リオの仕掛けの破片が、ひとつ、風に転がった。
何故、彼は、こうも自分の意図を、読み取ってくれるのか。
樹上のリオは一人静かに感動していた。
行動中、リオは一言も言葉を発していない。
空間魔法の中で行っていた工作のことなど、シグには知る由もない。
けれど、間違いなく”何か持っているな”という顔をして、それを確認せずに合図をよこした。
信頼を感じる。それを”どうにかしてやる”という意思も感じる。
そして、その末に魔獣を一撃で屠るほどの膂力。
地上では、クァナグールの死体を引きずり巣の外へと引きずり出したシグが、剣の血を拭いながら、ちらりと頭上を見上げていた。
金の瞳が枝葉の間を正確にとらえる。
そして、まだ降りてこないリオに向けて、ほんの一瞬だけ、無言の問いが宿る。
――降りないのか。それとも、また何かやるつもりか?
しかし、次の瞬間、シグの肩がごくわずかに動いた。
軽く、受け止めの構え。まるで、「来るなら、来い」とでも言うように。
その微細な仕草に、木の葉が風で揺れた。
あれほど無表情だったはずの顔に、ごくごくわずか――油断すれば見逃してしまうような、柔らかな気配が滲んでいた。
リオの膝に力が入る。風を読み、枝のしなりを確認し、飛ぶならここ――今なら、いける。
木漏れ日のなか、静かに漂う温もりと、戦いの余韻。
すべてが今この一瞬、リオのためにあるように感じられた。
「っわはは!」
思わず飛び降りて、がちりと抱き留められ、笑い声が溢れる。
シグの首にリオの腕が。リオの背にシグの腕が、ぎゅうと回る。
止まっていた口も、回りだす。
「シグ!!シグすげーな!なんで俺が音罠作ってんのわかったの!?
しかもクァナグール一撃で仕留めてさ!かっけぇ!!――っあ、ごめんっ」
シグの耳元でつい大声を出してしまい、すぐ口をつぐむ。
「ああ」と短く返事を返され、シグがすぐにリオを地面におろ――さなかった。
両足が、ぷらんと宙に浮いたまま。
そうしてリオの背中に回っていた腕の片方が、どっこいせとでもいうように、腿の下から再度持ち上げてくる。
完全なる、”抱っこ”である――。
「……っえ、ええ、いやいやいや!お、おろしていいよシグ!!ごめん大丈夫!!」
シグの顔は、いつもの無表情そのまま。
だが、耳の先だけがほんのり赤い。
「うるさい。足元、不安定だ」
それだけを――低く押し殺したような声で、ぶっきらぼうに言い放つ。
だが、リオの体を抱える腕には力がこもっている。
肩から背、そして腰を支える手――どこか、いつもより慎重で、決して“すぐに降ろす気配”はない。
クァナグールの死骸は既に巣から引き出され、辺りは静まり返っていた。
鳥の声さえ遠ざかった森の中、ひときわ目立つのは、抱き上げられたリオの戸惑いと、それを抱え込む大男の、“静かな満足”。
しばしの沈黙のあと、シグがぼそりと呟いた。
「……お前の罠がなきゃ、仕留め損なってた」
本当にそう思っているかどうか、わからない。
けれど、耳元に落ちたその言葉は、やけに素直で、やけに照れくさい。
褒められて、リオはぐう、と言葉を詰まらせた。
抱えあげられている分、いつもよりシグの顔が近い。
その低音も、いつもよりすごく近くに感じる。
――なんだか、すごいいけないことをしている気分に……なる。
「……っま、まぁ、うん!罠は、うん、よかったけど、その前に俺も一応大人だしちょっと恥ずかしいんだけど!!
そうだ、巣!巣穴見ようぜ!生きてるの残ってるかも!!」
シグはリオの反応にわずかに目を細めた。
その金の瞳は――まるで「逃がすか」とでも言いたげな、獣じみた執着が滲むものだったが、それもほんの一瞬。
「……巣なら、俺が見る。お前はそのまま」
平坦な声。なのに、妙に有無を言わせない圧がある。
一歩、森の地面を踏みしめながら、リオを抱いたまま巣の裂け目へと歩き出す。
倒木を乗り越え、入り口に膝をつくと――岩の間に、まだ鼻先をぴくつかせている羊が一頭。震えてはいるが、明らかに生きていた。
「……生きてるな。外に出せる」
そう呟いて、リオをちらりと見下ろす。
この姿勢のままじゃ、当然動きにくい。だがそれでも、シグの腕は緩まない。
「……どうする」
問うその声は、まるで“このままでも作業するぞ”と暗に言っているようだった。
巣の臭気――いやそんなものよりも、息のかかる距離のシグ。
どちらも、逃げ場はなかった。
リオはといえば、大変困っていた。
たかだか片腕で抱きかかえられているだけなのに、びくともしない。
ぎりぎりときつく拘束されているわけではない。が、本当に微動だにしない。
そして、シグがちょっとまんざらでもない顔をしているのが、なおさらたちが悪かった。
「お……おろしてください……調子乗りました……」
樹上からジャンプしたのがすべての原因だと悟る。まだクァナグールの死骸を空間魔法に入れてすらない。
何より、このままでは依頼人のもとへ帰れない。
そしてなんと、羊にも見られている。
恐らく一番の被害者であろう羊は、巣穴の奥でぷるぷると震えながら、抱っこされたままのリオと、それをまるで当然のように抱えるシグを見ていた。
そのつぶらな瞳には「命を救ってくれた二人」と「何か別のことが始まってる二人」が同時に映っている。
リオの懇願に、ようやくシグが息を吐く。
「……わかった」
短い一言。
だがその手は、そっと慎重にリオを地面へ降ろす――かと思えば、ほんの数秒だけ、わずかにその手が躊躇った。
そして、ようやく足が地についた瞬間。
リオの腰に手を添えたまま、シグが低く囁く。
「……お前が飛び込んできたのが悪い」
見事な責任転嫁。声音は低く、どこか満足げだった。
まるで何事もなかったかのように、クァナグールの死骸を片手で持ち上げ、リオのほうへ差し出す。
その間も、羊はじっとこちらを見ている。……リオはもう何も言い返せず、はい、と大人しく頭を垂れた。
クァナグールを収納していると、巣穴の奥から羊がそろそろと顔を出してきた。
もういいんですか、と言っているような気すらしてくる。
そしてそのまま、足の力をなくし、リオの足元にへたりこんだ。毛もべたべたに汚れていて、何よりかわいそうなほどに怯えていた。
リオがしゃがみこんで手で顔を包んでやる。まだ若い個体だ。
「あーあー、怖かったなぁ。一緒に帰ろうな。村の人たち心配してたぞ~。お前一頭だけでも帰れれば、皆喜んでくれるよ」
言いながら、リオの手が羊の身体中に触れていく。食材としての価値――ではなく、怪我の有無をチェックする手つきだった。
「衰弱してるだけで歩けそうだな。いこ、シグ……あ、そうだ」
言いかけたリオの目が、巣のほうを再び向いた。
「もう、中に何もいないんだよな?見てきていい?」
シグはリオの問いに、黙ってひとつ頷いた。
巣穴の入り口近くまで歩み寄り、体をわずかに斜めにしてその中を覗き込む。
岩と枯葉が堆積した薄暗い空間。空気はまだ生温く、血と腐敗の匂いが残っているが、気配はない。
「……中は狭いが、もう何もいない。行くなら、俺が入り口にいる」
シグは剣を収めることなく、岩に背を預けるように立ち位置を確保する。その構えはもう、とっくにただの用心棒ではなかった。
――「リオが中を見たいなら、誰が何を言おうと、それを通す」。
そんな無言の覚悟が、確かにそこにあった。
――【クァナグール討伐】




