【ふたつの依頼】
朝の光が斜めに差し込む演習場は、まだ湿り気を含んだ冷たい空気に包まれていた。
六体のケズリホネは、ちょうど並べ終えたところで、血の匂いがわずかに立ち込めている。
粗削りな骨の輪郭が浮かぶその死骸のそばに、シグは無言で立っていた。肩にかけた外套を外し、袖をまくり上げると、腰のナイフを抜く。
今回は食材に使う部分がないこと、素材の剥ぎ取りはリオよりもシグが慣れていたこともあり、リオはギルドのホールで卵と留守番をすることになった。
「じゃ、シグよろしくな。俺あっちの方で待ってるから!」
ホールを指さすリオに振り返ることなく、シグは右手をわずかに上げて応え、……それきり黙々と解体の準備に入った。
肉はほとんど使い道がなく、狙うは硬質化した骨と特殊な牙。どれも一筋縄ではいかぬ代物ばかりだ。
ナイフが骨の隙間を滑るたび、乾いた音が響く。誰もいないはずの演習場の隅、ぼそりと囁くような声がした。
「――今、始まった……!」
気づかぬうちにホール裏の窓や柱の陰に、ひそかに集まる数人の影。
受付嬢に書記官、そして冒険者まで。
「あ、あれが……シグ氏の本気解体モード……」
「外套脱いだ……!前髪が汗で……!」
「……え、ちょ、もうちょっと右に寄って……っ、今の角度最高……」
いつの間にか、演習場は――否、彼らの中では“神域”と化していた。
皿隊、密かなる観測開始。供給は、すでに始まっていた。
そして――そのことを、当の本人は一切知らないまま。
ただ、黙々とナイフを振るい続けていた。
ギルドのホールでシグの解体を待つリオは、暇つぶしに依頼掲示板を眺めていた。
シグに示されたクロヤミワラビ、スナヤドリ、ケズリホネ。
その三種しか目を通していなかったが、それ以上に膨大な数の依頼書が所狭しと並んでいる。
そのさまは圧巻で、様々な”解決”を求める誰かの願いが貼られているのだと、改めて実感した。
峠道を超えるための護衛依頼。危険地域の薬草採取依頼。新たに見つかった遺跡の調査依頼。家畜を襲う魔獣の駆除依頼。
全てがリオにとっては新鮮で、全ての背景に人々が見える。
「……冒険者ってすげぇな……」
そんな人々を、救っているのだから。
中でも、とりわけ気になった依頼が二つあった。ホワイトウルフの群れの討伐と、グラフドラゴンの撃滅。
どちらも高難易度で、討伐隊を組んで挑まなければいけなかった。
――食材として、興味がないわけではない。だが、今の自分には到底手の届かない依頼だった。
困っている依頼主のため、いつか誰かが達成してくれるだろうか。
そんな漠然とした、願いのような感情がひとつ、リオの心に広がるのだった。
リオの背に、演習場の扉が静かに開かれる音がした。
ホールがざわめくでもなく、けれど妙に皆が視線を送ってくる気配にリオが振り向けば――シグだった。
袖をまくったまま、外套もつけず、少しだけ額に汗を滲ませたままの姿。
血や骨片を丁寧に拭った後らしく、作業を終えた者だけが持つ独特の静けさが、彼の全身に漂っていた。
「お、シグ。お疲れさん」
「ああ」
一つ返事をしてリオのほうへゆっくり歩み寄り、片手に持っていた布包みを差し出す。中には、丁寧に仕分けられたケズリホネの牙と骨。
食材ではなく、あくまで素材。それでも、リオにとっては見惚れるほどの“戦果”だった。シグから嬉しそうに布包みを受け取る。
シグの金の瞳が、掲示板へと向く。依頼書に向けられていたリオの眼差しに、ただの興味以上のものが宿っていたことを、彼は察していたのだろう。
「……気になる依頼でもあったか」
低く抑えた声が、静かにリオへ投げられる。シグは深くは問わなかった。ただ、リオの隣に立ち、黙って掲示板を見やる。
それが、シグなりの「共にある」という答え方だった。リオもまた、掲示板に視線を戻した。
ホワイトウルフ。寒冷地に棲息する魔獣。
群れをつくり、リーダー個体のもと、組織的に狩りをする。
グラフドラゴン。十メートル級の巨体でも中型とされ、岩盤に沿って移動する。
好戦的で人間やほかの魔獣に対して、長い尾や突進で襲い掛かってくる。
大丈夫、いつか誰かが、きっと達成してくれる。
そう信じることにした。
「ううん、なんもねーよ。どんな依頼があるのかなって見てただけ!」
努めて明るく、そう笑う。今は腕の中にある、卵の温もりを守らなければ。
シグもその笑顔を見て、わずかに眉を緩めた。だがその眼差しは、リオの言葉の奥にある“何か”をしっかりと捉えていた。
掲示板から目を離さず、リオの後ろに立つ。まるで、背を預けられるように――いや、そうしてくれることを望むかのように。
「……帰るか」
短く、それだけ言ってホールを振り返る。掲示板に貼られた紙のひとつが、かすかに風に揺れていた。その端には、依頼主の手による筆跡が残る。
『家畜を、また失いました。けれど――どうか、村だけは……』
シグはそれを一瞥したが、口には出さない。ただ、リオの肩が小さく揺れたのを感じ取ると、何も言わずに歩みを合わせる。
ギルドの大扉の向こう、穏やかな昼の日差しがふたりを包み込んでいた。
――《家畜襲撃魔獣討伐依頼》
【依頼内容】
近隣農村にて家畜(羊・山羊・豚)を襲撃する魔獣が複数回目撃されています。対象は単独行動を好む中型魔獣で、夜間に家畜小屋を襲撃し、持ち去る行動を取ることが確認されています。被害の拡大を防ぐため、討伐を至急要請いたします。
【討伐対象】
家畜襲撃魔獣 一体(周辺に潜伏の可能性あり)
【報酬金】
銀貨十五枚
【特記事項】
・体長約百五十センチ前後、鋭い鉤爪と顎力を持ちます。
・俊敏な動きと狭所への潜り込みを得意とします
・威嚇音として咆哮ではなく低い唸り声を発し、相手を揺さぶります。
【備考】
・素材は査定後追加報酬を支給します。
・家畜の損失に対する損害補填の一種として、討伐者には農牧管理組合より銀貨五枚の謝礼金を別途支給予定。
・魔獣の持ち去った家畜が生存していた場合、保護報酬として追加銀貨を進呈します。
――ギルドを出る直前。
シグの目線の先にあった依頼書。リオの目は、確かにその依頼に留まっていた。
家畜の被害――その家畜が食用目的にしろ副産物目的にしろ、失うのはかなりの痛手だろう。それは料理人としても、強く思うことだった。
依頼主は農牧管理組合となっている。きっと数頭の被害ではないのだ。
(助けたい)
討伐に直接関われなくとも、何かはできるかもしれない。街路を歩きながらシグを見上げる。
シグもまた、そんなリオの様子に、気がついていた。その視線の動きと、指先のわずかな力の入り方――そこに込められた想い。
街路に出ると、風が穏やかに通り過ぎ、リオの髪を撫でた。卵を抱える腕のあたりを、陽がぬくもりとして包み込む。
そんな中でリオがシグを見上げると、彼は、まるでその視線を待っていたかのように足を止めた。
金の瞳がまっすぐリオを見る。無言のうちに問う。
――行くか?
ぱ、とリオの表情が明るくなる。言葉はなくとも、その意志ははっきりと届いていた。
そして数歩、先を歩きながらシグが低く呟く。
「農牧管理組合なら、街の西門の近くだ」
「……シグー!」
それは、確かな肯定だった。リオが何を思い、どうしたいのか――それをすでに理解して、背を預ける隙を残すように、ゆっくりと歩き出す。
冒険者としての肩書きはまだ浅くとも。リオが“料理人”として持つ、確かな眼と心を、シグは誰よりも信じていた。
翌日――、装備を整え、ギルドに卵を託し、二人は被害のあった農村地区に来ていた。
村へ立ち寄り話を聞く。魔獣を目撃した村人がいたが、何の魔獣かはわからないということだった。
「苔色で、暗闇に目が光ってました……」
「確か一匹だけだったよなぁ?」
「前足の爪が長くて鋭かった……家畜を捕まえて引きずっていったんだ」
シグがこちらを見てくる。……なんとなく、知識を問われているような気もする。
「……クァナグール……?」
確信はなかった。どこかの街で見た、魔獣の資料集にあった名前。だが。
「だろうな」
そう返ってきた答えに、安堵と自信を覚える。
泥苔色の体色に、鋭い鉤爪、同じく鉤状の歯。夜行性で極端に人間を避け、家畜を狙って巣へ持ち去る習性のある害獣だ。
そして、追い詰められると凶暴化し、喉元を狙って襲い掛かってくることもある。
「夜行性だよな?昼間は巣で寝てっかな」
「ああ……」
リオの呟きに、シグが小さく頷いた。
農家の納屋の影に、風が吹き込む。草が擦れる音の向こうで、羊が不安げに鳴いた。
村人たちは不安げに様子をうかがっていたが、リオとシグが落ち着いて動いているのを見て、徐々に口数を減らし、場を預けるように距離をとる。
シグは静かに腰の剣帯に手をやりながら、村の外れへと視線を送る。
「……痕跡を探す。巣の場所が分かれば、夜を待たずとも叩ける」
その低い声に、村人たちがはっとして道を開ける。リオの知識を肯定するように、シグは迷いなく一歩を踏み出した。
畑の脇、小道の土の上には、かすかに擦れた跡が続いていた。
幅は狭いが、重いものを引きずったような線。足跡の周囲には、爪痕が点在している。
「……これだな」
シグがしゃがみ込み、泥をすくうように跡をなぞる。獣のものにしては静かすぎる移動。間違いなく“狩り慣れて”いる動きだった。
そのまま跡は林の方角へと伸びている。木々の合間に、岩陰や倒木が点在しており、隠れ家にはもってこいの場所だ。
シグが立ち上がり、リオの方へと目をやる。一度、深く頷くと――すぐに森へと足を向けた。
――リオと共に。
この魔獣が持ち帰った“命”が、まだ間に合ううちに。
――【ふたつの依頼】




