【ケズリホネ】
それは、瞬く間に街中に広まっていた。
あの料理人のリオが、卵を食材とせずに持ち歩いているらしい、と。
そしてその傍らでは例の用心棒が、リオごと卵を守るように目を光らせているらしい、——と。
リオが街路を歩くと、露店の商人や子供たちが親しげに声をかけてくる。
「リオ!卵本当だったのか!食うなよ!」
「おはよう!食わねーよまだ!」
「まだ!?」
そんな応酬に、また笑いが広がる。誰もがわかっている。
リオは”全てを食材として見る”が、”全てを食材にはしない”ことを。
途中、露店の女性が二人を呼び止める。
「おはようリオと旦那。ずっと卵抱えてちゃ不自由だろう?これあげるわ」
そういって、赤ん坊用のおくるみを渡される。帯がついていて、肩から下げられるタイプのものだった。
「えっいいのかよ!ありがとう!」
「いいのよ。うちの子はもう大きくなって使わないからね」
リオがそれに卵を入れて、シグへ手渡す。
きょとん、とした顔をして、シグがそれを受け取った。
「俺今日露店開くからさ、シグが抱いててよ!そろそろ飯食いたいって皆に言われてたし!」
——それは、そうか……、とシグは卵を見下ろした。
露店で料理をしながら配膳をして、軽口を飛ばし客をさばくリオに、確かにこの卵を抱いている余裕はない。
だが、俺がこのおくるみを——?と逡巡をする。
目の前には笑顔のリオ。そして周りには、少しにやける街の人々。
「……俺、が?」
思わず漏れた低い声に、リオはこくこくと頷く。
その様子があまりに自然で、“頼ってる”ことが全身から伝わってきて——シグは何も言えなくなった。
街の人々がにやにやと視線を送ってくるのがわかる。それでも、断るという選択肢はなかった。
無言のまま、ゆっくりとおくるみの帯を肩にかける。
赤ん坊用の作りのため、どう見ても“抱っこしてる”ような姿になってしまう。
大柄な男の胸元にぴったり収まる形で、布に包まれた魔獣の卵が揺れていた。
リオがにこっと笑いながら親指を立て、「じゃ、いってくるな!」と元気よく露店へ駆けていく。
その背を見送りながら、街のあちこちでざわつきが始まる。
「見た!?今の!?あの血風が……ッ!!」
「お、おくるみだぞ!?もう“あれ”は完全に家族じゃないか……!」
「これが……これが“保護”という名の供給……!」
──即時、拡散。それはギルドの外でも、止まる気配がない。
街の通りを歩くシグの姿は、普段と何一つ変わらない。ただ一点、“おくるみを抱いている”以外は。
通り過ぎる人々が、遠慮がちに挨拶していく。
「お、おはようございます旦那……」
「お加減は……?その、卵の……」
「……ああ」
ぶっきらぼうな返事しかできない。
だがその背に、揺るぎない“守る意思”が確かにあった。
露店の方では、すでにリオの屋台が列を作り始めている。
その中心で、笑顔で腕を振るう料理人を、金の瞳が黙って見守っていた。
翌日昼、冒険者ギルド、依頼掲示板前。
リオは卵を抱え、シグと依頼書を覗きに来ていた。
目的は、初日にシグが提示してくれた、魔獣素材のひとつ。
——《ケズリホネ討伐依頼》
【依頼内容】
近郊の森林地帯に夜間にて目撃されている魔獣”ケズリホネ”の討伐をお願いします。本種は夜行性で、動物の死骸や時には人間の骨までも削り取って巣材とする習性があります。最近では複数体が行動を共にしているとの報告があり、住民への被害が懸念されています。
【討伐数】
ケズリホネ 複数体(群れ壊滅を目標)
【報酬金】
銀貨三十枚
【注意事項】
・ケズリホネは鋭利な牙と前肢を使い、”骨”を好んで削り取る習性があります。武具や防具を齧られないよう十分に注意してください。
・夜間行動が基本ですが、群れの警戒度によっては薄暮時間帯にも活動が確認されています。
・複数体で行動する際は、連携して包囲・追い詰める習性があり、単独行動は危険です。必ず複数人での行動を推奨します。
【備考】
・ケズリホネの牙や削骨片は工芸品や魔術媒体として利用価値があり、破損の少ない状態で回収すれば高額買取が行われます。
・巣穴の位置特定および破壊に成功した場合、追加報酬金を支給いたします。
リオがシグを見やると、大したことない、という顔をしていた。
難易度もそこそこ。夜行性だから闇に紛れてしまうのが難点だが、巣穴を見つけてしまえば群れの壊滅は早い。
——問題は。
「いやぁ、さすがに卵は連れていけないよなぁ」
リオが抱える卵のことだった。周囲の冒険者たちが、そわそわひそひそと、その様子を見守る。
そんなことにも気づかず、リオが冒険者たちを振り返って一言。
「なぁ、誰か手空いてるやつ、温め頼んでもいい?」
その一言は、ギルドの一画に保育室を作るのに十分すぎる威力だった。
掲示板前に、風がざわっと吹いたような錯覚が走る。いや違う。風ではない。空気そのものが——変わったのだ。
「……な……!」
「い、今なんて……」
「温め……っ!?卵を!?」
一人、二人、三人と。
掲示板を離れていた冒険者たちが、まるで何かに吸い寄せられるように戻ってくる。
そこにあるのは、卵。リオが抱える、灰褐色の魔獣の卵。
それを——“温める”という栄誉。
「俺……手、空いてるぞ……!?」
「わ、私もっ!今日の依頼、終わってて!ほら、手、あったかいよ!?」
「待て、ここは俺が——」
「貴様、昨日皿落としただろ!信頼性が足りん!」
殺気なき殺意が飛び交い始めたその場に、シグの金の眼光がぴしゃりと走る。
「……整列しろ」
——たったの一言。それだけで、冒険者たちはぴたりと動きを止め、本当に——整列した。
「抱卵希望者は、名乗れ。順に能力と、保温耐性を申告」
受付嬢がどこからともなく書記官を呼び、臨時の“抱卵管理簿”が作られていく。
そして、ふと気づく。
——これ、依頼じゃない。
ギルドの、業務じゃない。
ただの、“温め希望”。
なのにこの秩序、真剣さ、空気の熱量……。
リオが苦笑して見守る中、第一陣が選ばれる。
「昼:ミーナ、手温度平均高め、布持参」
「夕:ミサラ、腕筋太くて安心、語りかけ係」
「夜:受付嬢……」
「なんで!?」
「いやこれはもう俺らでは敵わないだろ!」
こうして、卵はギルド内での“当番制保温体制”が敷かれた。
——その中でも、最も信頼を得た者だけが得られる称号が生まれるのは、もう少し先の話である。
それは、《育ての皿》と呼ばれたとか呼ばれていないとか。
夕暮れが去り、空に藍色が広がるころ。
リオとシグは街の外の森林付近にまできていた。
携帯食を食べながら、リオが隣を見上げる。
「卵預かってもらえてよかったな!ケズリホネに齧られたりしたらたまんねぇもんなぁ!」
快活に笑うその顔に、シグも静かに頷いた。
木々の間から覗く空は、深く澄んだ藍に染まりつつあった。風が木の葉を揺らし、遠くで鳥の声が一つ、消えていく。
シグは、携帯食の小片を口に運びながら、その横顔をちらと見た。
笑っている。全身で夜の探索を楽しむように。卵を手放したことで軽くなったはずの身体よりも、ずっと軽やかな気配。
「……その前にお前に食われそうだがな」
「っわはは!」
軽口を返し、夜に慣れた金の眼が、ゆっくりと森の奥を見据えた。
「目的地までは、あと少し。そろそろ灯りは落とせ」
言うが早いか、自身の持っていたランタンを覆い、視界を闇に預ける。
森の奥、空気が冷たく締まってきた。湿った土の香りに、どこか金属のような匂いが混じる。
シグの指先が静かに剣の柄に添えられた。——この辺りだ。気配が、変わる。
リオの位置も確認済み。視線を一度だけ送ると、彼はすでに音を殺していた。
その目だけが、夜でも変わらずに光を宿している。
「……動くなよ」
シグが、低く囁いた。
すぐそこに、何かを“削る”ような音が、聞こえてきていた。
瘦せこけた身体、煤けた土色の毛皮に浮いた骨。
長い口吻を持ち、歯は獰猛な”削り刃”のように発達している。
ケズリホネは、その退化しかけた赤い点眼で、周囲をチラチラと警戒しながらそこにいた。
前肢の鉤爪が異様に長く、骨を抉るのに特化した形状だろうことが分かった。
「……可食部少なそうだなぁ」
呟くリオの声を聞こえないふりをして、シグがその動向を観察する。
音や匂い、振動で獲物を探知するその魔獣は、首を掲げて森の匂いを感じ取っているかのようだった。
スナヤドリとは違って、今回は討伐。巣穴さえ見つけてしまえば早い。
シグの傍ら、声を潜めたリオが顔を寄せてくる。
「露店で使った肉の骨、俺持ってるぜ。それでおびき寄せる?お前が何とかしてくれるなら、俺木の上から巣穴探せるよ」
藍色の空の下、森は一層静寂を深め、風の音すら潜むようにしていた。リオの囁きに、シグがゆっくりと頷く。
その視線はケズリホネの動きを逃さぬまま、視界の端でリオの手の動きも見ていた。
「……骨、渡せ」
低く言って右手を差し出す。すぐに、空間魔法から取り出された乾いた骨が手渡された。
露店で剥いだ獣骨、それも匂いの強い部位だ。ケズリホネの感覚をくすぐるには、申し分ない。
手の中で骨を一度転がしてから、ふいと森のやや開けた箇所へ投擲した。
——カラン、と乾いた音。
すぐにケズリホネが反応する。鼻先をわずかに震わせ、ずるりずるりと前進した。
赤い点眼が光を求めるように明滅し、鉤爪を土に埋めながら、慎重に接近していく。
シグはその動きを見届けると、すぐにリオへと振り返る。
「樹上へ行け。巣穴を見つけたら、指笛か何かで知らせろ。短く二回。……落ちるなよ」
その一言とともに、リオの背中をそっと押した。
すぐに気配が軽くなり、リオは静かに枝を登っていく。その身のこなしはさらりと軽く、葉を揺らさぬまま、高所へと身を潜めた。
下ではケズリホネが骨に夢中になり始めている。シグの指が、剣の柄をゆっくりとなぞった。
——あとは、合図を待つだけだった。
わずかなとっかかり、小さな窪み。
森の木の幹にある些細な足場は、身軽なリオをなんなく樹上へと導いた。
眼下ではケズリホネが草をかき分ける音が聞こえる。
シグが投擲した骨に、本能のままに引き寄せられていく獣。
また別の個体が、草むらから現れた。同じように、また一匹。
(——巣穴はあっちか)
ケズリホネが出てきた方へ、枝から枝へ渡っていくように移動する。
注意深く眼下を観察すると、一部、背の高い草が折り重なって、その下の地面が抉り掘られている場所を見つけた。ここだ。
——ピィッ、ピィッ——
人差し指と親指で輪を作り、短く二度、鳴らした。
笛の音が、夜気に紛れて鋭く響く。
短く、二度——リオからの合図だ。
シグの金の目がすっと森の奥へと向く。
低くかがみ込み、気配を消すように一歩、また一歩と踏み出す。音を殺し、呼吸すら抑えるようにして。
骨に食らいついていた一体目のケズリホネは、顎を鳴らしながら夢中だ。
二体目は背後から様子を伺っている。まだ油断はならないが、注意が分散している今なら——。
シグは一瞬、脚の力を溜めた。
——跳ぶ。
木の幹を蹴り、剣を抜かぬまま、そのままの勢いで一体目の背に乗る。
重量が一気にのしかかり、ケズリホネが呻き声を上げた。
そのまま腕を回し、首に肘をかけ、後肢を拘束するように押さえ込む。暴れるが、重心は完全に奪った。
もう一体が振り返った。牙を剥いて突進してくる——その刹那、シグの上方から葉がひとひら、ひらりと舞い落ちた。
——来ることを知らせる、合図。
それだけでシグの身体が動いた。掴んでいた個体を地に叩き伏せ、その身を盾にするように反転。
衝突と咆哮。
ケズリホネ同士が激突し、混乱をおこす。
その隙を逃さず、シグが身をかえす。金の目が巣穴の方向をとらえる。
「リオっ」
低く鋭い呼びかけだけを残して、今度は三体目の個体の出現に備えるよう、木々の影へと身を移した。
リオは戦況に合わせて、木々の間を移動していた。
常に見えるように。
シグの視界と合わせて、死角を最小限に。
三体目がシグの前方に迫っている。
シグはもうそれを視界に捉えている。
異変を察知した四体目が音もなく巣穴から飛び出してくる。
また短く指笛を吹く。シグがそれに気づいた。
木々の間を跳ね渡る気配とともに、二度目の指笛が夜気を裂いた。
すぐに、その意味をシグは理解した——四体目、背後から来る。
闇に沈む森。一瞬の静寂、そして——シグの身体が、真横へと跳ねる。
地を蹴る音もなく、風のように身を翻したその直後、後方から牙が閃いた。
鋭利な鉤爪が、ほんの一瞬前までシグがいた空間を裂く。
「——チッ」
舌打ちと同時に、背の柄へと手が伸びる。
抜き放たれた剣が夜を裂く閃光となり、飛び出してきた四体目の頸を掠めた。
浅い。だが、牽制には十分だ。
そのまま滑るように後退し、三体目と四体目を正面に収めるように立ち位置を調整する。
見上げれば、リオの位置。
確実に動向を把握している。指示も出せる。何より、背を預けられる。
シグの瞳が光る。
剣を構え、前方の二体へと、今度こそ斬撃を——そのとき。
巣穴の奥から、軋むような咆哮が響いた。
「…………まだいるな」
呟く声が、闇に沈む。獣の足音が重なる。群れは、五体以上だ。
威嚇のような咆哮……間違いなく、リオの耳にも届いていた。
五体目、六体目が巣穴から顔だけを出しているのを、リオが確認する。
完全に警戒している。あの巣穴の二体は守りの態勢だ。
ならば今のシグの脅威は、目前に相対している三体目と四体目。
巣穴の二体の注意を一時的に引ければ、シグの邪魔にはならない。
リオは空間魔法から、もうひとつ魔獣の骨を取り出した。それを巣穴のほうに投擲する。その役目は二つ。
巣穴の五体目と六体目の気を引くため。
そして、シグに巣穴の位置を知らせるためだった。
ゴトッ——。
闇の中、乾いた骨の音が巣穴のすぐそばに落ちた。
わずかに湿った地面を転がり、骨が半端な月明かりを弾く。
リオの投擲は正確だった。音も、光も、臭いも。
巣穴の五体目と六体目が、同時に小さく鳴く。
警戒を保ったまま——しかし、鼻先をわずかに投げられた骨のほうへ向ける。
シグの位置からも、その動きがはっきりと見えた。
前方の獣を牽制しながら、斜め奥——森の斜面下、草をかき分けるように口吻を突き出している影。
あそこが巣穴だと、ひと目で分かる。
一瞬、シグが目だけでリオのいる枝のほうを見た。
“十分だ”。
目でそう返し、剣を構え直す。
三体目が咆哮と共に突進してくる。そこへ、刃を滑らせるようにシグが踏み込んだ。
——叩き潰すのではない。切り伏せるのではない。
“斬り裂く”のだ。
金色の瞳が冴える。夜の静寂に、ひと筋、鮮やかな音が走った。
次は四体目。そして、巣穴の中に控える獣たち。
枝上のリオの衣が、風でわずかに揺れた。
森の闇の中、頼りない月の明かりが、それでもシグの大剣に光を落としていた。
ひらり、ぎらりと刀身を閃かせる。そのたびに、ケズリホネの断末魔が森に響く。
夜の森に、鉄と血の匂いが混じりはじめていた。
四体目が、森の土をえぐるようにして跳ね上がる。鉤爪が闇を裂く。骨を求めて。喰らうために。
それに応じるように、シグの剣が流れる。吸い込まれるような軌道。
ガキィッ——!
獣の爪と鋼が交錯する。火花が散り、次の瞬間には、斬り裂かれた影が地に伏した。
リオの視線は、その一部始終を逃さずに追っていた。声を出せば、シグの邪魔になる。——だから、息を呑む。
つらい。——つらい。きっと、初めて森で出会う前、シグはこんな風に戦っていたんだ。
あの晩、何十体もの魔獣の死骸が転がっていた。あとから街の住民に話を聞けば、しばらくこの近辺を荒らしていた魔獣群がいたそうだ。
シグは強い。けれども、無敵ではない。”特級認定冒険者”……それがどんなものなのかは知らないが、”血風”と声をかけてきた感じの悪いあの男も、その底にあるのは”尊敬”の念だった。
それが、まるで、あの森で命を捨てたように、目を閉じていた。
——そうか、俺が拾ったのか。
ならば、一身に託すまで。
シグは振り返らない。
だが、リオの視線の存在を確かに感じている。その信頼の重みが、剣の一閃を支えている。
巣穴の中、最後の気配がうごめく。
残ったケズリホネたちも、仲間の死に気づいたのだ。
静かにシグの体が沈む。
一歩。二歩。
巣穴へと歩み寄るその姿に、枝上のリオが、思わず両の拳を握った。
——何か、できないか。
リオは木の上から、ケズリホネの巣穴へ接近していくシグを見下ろしていた。
五体目と六体目は、いまだ鼻先を出しているだけで姿を現さない。
シグを完全に侵略者とし、最大限の警戒を保っている。
巣穴から出てこないことには、討伐もできない。事態が硬直することは、目に見えて明らかだ。
リオが、はっとして空間魔法に手を差し入れた。
そうだ——クロヤミワラビ。少しでも刺激を与えれば、毒胞子をまき散らす厄介なその性質。
これを、巣穴に投げ込めば。
「——シグッ」
囁くように声をかけると、金の瞳がわずかにこちらを向いた。
紙袋に厳重に包まれたそれを掲げる。
自分用にとっておいた二株だが、そんなことより今この場を切り抜けるのが先だ。
音もなく、眼下のシグに向かってそれを投げた。
紙包みを、シグが片手で受け止める。
布越しでも伝わる、湿り気と独特な香りを帯びた草の息遣い。
——クロヤミワラビ。
リオが一瞬で判断を下したことが分かる。そして、自分を信じて託したことも。
シグは軽く鼻を鳴らすと、その包みを巣穴へと滑らせた。
低い弾道、音を立てずに地を這うような投擲。
見事、巣穴の前——五体目と六体目の鼻先すぐに、紙包みが転がり込んだ。
カサ、と包みがほどける。
次の瞬間、ふわりと黒煙のような胞子が漂い始めた。
——シュッ……
一拍の静寂の後、二匹のケズリホネが同時に反応した。
ギッ——ギャッ!
鋭い叫び声を上げ、鼻先を振り払うようにして巣穴の外へ飛び出してくる。
反射的な逃避行動だ。
その瞬間を、シグが逃すはずがなかった。
構えていた剣が、夜の帳を切り裂く。地を蹴る。空気が爆ぜる——一閃。
そしてもう一閃。
空中でぶつかりかけた二つの影が、無音のまま地に伏した。
リオの方にだけ、小さく返される視線。
言葉はない。ただ確かに、終わったぞという眼差しだった。
器用に樹上から飛び降りてきたリオが、素早くクロヤミワラビに別の袋を被せた。
回収して使うためではない。
この森に、もともと群生していない毒胞子を、撒くわけにいかなかった。
袋の口を麻ひもで硬く縛り、廃棄のためにしまい込む。後ろではシグが、大剣を背に収めながら歩み寄ってくる。
「わはは!クロヤミワラビ、わかってくれてありがとう、シグ!」
振り返った顔は、用心棒を誇らしげに思う顔だった。
シグは、大剣の柄に手を添えたまま、ぽつりと歩みを止めた。
「……当然だろ」
言葉少なに返した声には、静かな満足が滲んでいた。
リオの視線が眩しい。誇らしげに、まるでシグの手柄のように笑っている。
だがその笑みの裏には、あの場の状況を一瞬で見抜き、手札を選び、託してきた判断と信頼があった。
——無茶はするが、無茶の仕方は心得ている。
シグはちらと足元の地面を見やる。毒胞子が触れた地面には、うっすら黒い跡が残っていた。
リオがそれを残さぬよう、しっかりと後処理をしていたことが分かる。
巣穴は空になっていた。魔獣の残骸は、夜の露に濡れながら沈黙している。
シグは一歩、リオの隣に並ぶと——ほんの少し、唇を緩めた。
「……回収急ぐぞ。夜が深くなる」
月明かりが、ふたりの足元を照らしていた。
リオはケズリホネ六体を、空間魔法に放り込んだ。やはり何度見ても可食部はない。
生き物の死骸、とりわけ骨を好んで削り取る習性から、なんらかの疫病を持つ可能性もある。
初日にシグが、「こいつはやめとけ」といった意味が少しわかった。
「もう遅いし、ひとまず帰ろうぜ」
「ああ」
連れ立って歩き出す足並みは、ぴったりと息があっていた。
森の中、夜の空気は冷たく湿っていたが、足元を照らす月明かりは柔らかい。
ふたりの足音だけが静かに続く中、シグはちらりとリオの横顔を見た。
疲れた様子もあるが、どこか満足げで、達成感の滲んだ顔をしている。
「……卵のやつ、ぐずってなきゃいいが」
ぽつりと呟いたシグの言葉に、リオが小さく肩をすくめて笑った。その声は夜の森に吸い込まれていく。
徐々に、街の灯りが見えてくる。街門を越え、中央通りを進めば、石造りの冒険者ギルドが街路灯に淡く浮かび上がる。
冒険者二人の帰還を、街が静かに迎えようとしていた。
リオとシグが帰路についているころ——。
冒険者ギルドでは、受付嬢によって抱かれた卵を見守る冒険者たちが、目を糸のように細めて見守っていた。
さながらご神体である。
「卵……それはすべての可能性……」
「ああ……俺らの希望だ……この街の希望だ……」
「皆さん、依頼が終わったのなら帰られては?」
受付嬢の笑顔にもひるまず、見守り隊はただひたすらに見守り続ける。
「これが……抱卵の構えか……」
「受付嬢、抱き方が安定してる……さすがだ……」
「いやあれは“母性”だ、冒険者じゃ敵わん……」
ひそひそと交わされる声にも、受付嬢は動じない。
優雅な微笑のまま、ひたすらに“この命”を護る覚悟を滲ませていた。
その周囲では、既に小さなついたてが設けられ、柔らかな布を敷き詰めた即席の“卵保育室”が設営されている。
「温度、問題なし……湿度も良好……」
「いや次の当番、俺だろ。さっき抽選で決まったぞ」
「くっ……また俺の卵ローテーションが弾かれたか……!」
一部の冒険者たちは既に“育成当番表”なる謎のメモを作成しており、それをこっそりカウンター横の壁に貼ろうとしては、受付嬢に睨まれて剥がされていた。
「……リオさんたち、きっともうすぐ帰ってこられますよ」
その言葉に、一同がざわりと反応する。
「……始まるな」
「ああ……親の帰還だ……」
そしてその瞬間を、今か今かと息を潜めて待っていた——この卵が、誰のものでもなく、“街の希望”であると信じて。
ギルドの大扉が静かに開く。シグを見上げ、にこやかに談笑をしながら、リオが歩を進める。
夜のギルドに太陽が——それだけで数人が目を焼かれる。
「ただいまー!依頼達成の報告お願いしまーす!」
「おかえりなさい、リオさん、シグさん。お預かりします」
そう答える受付嬢のもとへ、リオが駆け寄ってきた。
依頼書をカウンターに置きつつも、受付嬢の膝に抱かれた卵を撫で、笑顔を向ける。
「ただいま!お利口にしてたかー?」
その一言が、すべてだった。
ギルドの空気が——止まった。
石像のように固まる者、感極まって壁を抱きしめる者、深々と膝をつき、天を仰ぐ者。
「…………はぁっ……ッ……!」
「い、いま……『ただいま』って……卵に……」
「言った……言ったよな……あの太陽が……」
「“ただいま”って……」
ざわり、と波紋のように広がるその余波。
「……ああ、俺たちが見守ってきたのは間違いじゃなかった……」
「俺は……もう思い残すことは……」
「おい待て、逝くな、起きろ」
騒然とする中、受付嬢だけがその余波を知ってか知らずか、微笑を深め、リオに静かに頷いた。
「ええ、お利口にしてましたよ。とても」
そうして、リオの腕に返された卵を抱く姿に、シグの隣でまっすぐに笑うその姿に——、誰もが確信した。
この街に、希望はある。未来は、ある。いやむしろ、爆誕した。
「なあ、あの卵って……名前、もうあるのかな……?」
「……つけるなら、俺は“ギルド希望”を推す……」
「やめとけ、それだけは絶対血風に怒られる」
——混沌と歓喜の夜は、静かに、しかし確かに更けていった。
ケズリホネの解体は明日に回し、ひとまずリオとシグは宿屋へ帰った。
夜の討伐依頼は疲れた。だが、胸に抱く温もりが、その疲れを癒してくれる。
シグもまた、そんなリオを見て、——悪くない、という顔をしている。
宿屋へ帰り、夕飯を食べよう。風呂に入って、また卵を抱こう。
自由に動けることは極端に減ったが、リオ自身、この不自由も悪くないと思っている自分に気づく。
「シグ、夕飯なにがいい?」
そんな日常の語りかけに、応えてくれる相手がいる。その事実が、なによりも尊かった。
シグは、街路灯に照らされた中央通りを歩きながら、リオの問いに一瞬だけ考える素振りを見せた。
「……肉がいい」
それだけ言って、視線は前を向いたまま。けれど、その声はどこか緩やかだった。
横にいるリオが、顔を明るくしながら笑う気配を感じて、シグの口元も少しだけ、形を崩した。
宿屋の灯りが見えてくる。
ふたりにとって、ただ帰ってくる場所でしかなかったその場所が、
今は確かに——"誰か"を抱いて帰る、居場所になっていた。
ドアをくぐり抜けると、宿の主人がいつものように声をかけてくる。
「おかえり、旦那、リオ。飯の準備すぐにしてやらあな。今日は二人と……ひとつ、か?」
リオが笑い、シグが卵を少し持ち上げてみせると、店主はにやりと笑って厨房に消えていった。
夜が訪れる。
風呂の湯気に包まれ、あたたかい食事を囲み、布団の中で小さな命を抱える夜が——今日も、ふたりとひとつに訪れる。
言葉少なな、けれど確かに幸せな、そんな夜だった。
——【ケズリホネ】




