【新しい荷物】
雨が上がり、二人はやっと岩壁の空洞から出ることができた。
随分長いこと足止めを食らった気もするが、そんなに長い時間は立ってなかったようだ。
服も大体乾き、リオはまた外套を羽織る。
「やー、思ったより早く晴れてよかったなー。この調子なら、スナヤドリ行けそうかな?」
空を仰いでいたシグは、風の流れと雲の切れ間をひと通り確認してから、短く頷いた。
「……まだ陽は高い。湿気が残ってるうちに動いた方がいい」
そう言って、外套の前を片手で留める。
雨上がりの山道には、湿った草の匂いが濃く漂っていた。
土の感触もやわらかく、足音すら吸い込まれるように静かだ。
「斜面を下りきった先、尾根沿いに移動すれば奴らの縄張りが見えてくる」
声はいつも通りだが、振り返った顔にあったのは――静かな集中。
雨が上がり、再び“任務”に戻った男の顔だった。
南の尾根沿い、その魔獣の群れは確かにいた。
百二十センチほどの体高に跳ね上がった尾。
嘴も鋭く、あれなら確かに積み荷や木箱は一発だろう。
その中に、一回り大きめの個体もみとめる。なるほど、あれが指導個体――群れの長だ。
シグの手の合図で、並んで岩陰に潜む。
「討伐じゃなくて追い払うんだよな?群れの長、どうにか罠にかけらんないかな」
リオが小声で相談をする。そう、討伐なら、シグにとっても楽だった。
だが今回は少々事情が違う。
シグはわずかに顎を引いて、前方の地形を見渡した。
南尾根の傾斜は緩やかだが、岩や低木が点在し、風が通るたびに砂が舞う。
それを受けてスナヤドリたちが羽をばたつかせ、小さな渦があちこちに生まれている。
「……罠は可能だ。だが、動きが速い。地形を使うしかない」
指導個体は、他の群れよりも警戒心が強く、周囲の変化に敏感だ。
だが逆にいえば、それを逆手に取れば、動きを読ませずに誘導することもできる。
「……あの岩の先、窪地になってる。罠をそこに仕掛けろ。俺が誘導する」
視線とともにそう伝えると、腰の短剣を確認しながらシグが静かに身を引いていく。
シグ自身は群れを散らさぬ程度に接近し、最小限の動きで指導個体を窪地へと誘導するつもりだった。
「風の音に紛れて動け。走られる前に囲む」
短く、正確に。
この場の指揮権は、完全にシグが握っていた。
リオの手元では、すでに捕獲用の罠具が展開されている。
縄と錘の構造はシンプルながら、一度かかればそうそう逃れられない。
リオが深く息を吸うのを見届けてから、シグの大きな背が、静かに岩陰を離れた。
風が変わった。スナヤドリたちが一瞬、首を巡らす。
始まった。
――リオは、逃げ足が速かった。
それはかつて、一人で活動をしていたころの生命線。
猫のように音もなく、小鹿のように軽やかに、魔獣の目を盗み、潜み、逃げる。
そうして培われた”逃げ足”は、警戒心の強いスナヤドリにも気づかれないほどだった。
ひらりと草陰に入り込み、シグの指定した位置まで移動する。
確実に罠を設置し、シグが待機している方向へ視線を飛ばす。
――やったか、そう問いかける視線に、仕掛けた、と頷いた。
シグはその頷きを確認するや否や、躊躇なく前へ出た。
砂煙が上がる。
スナヤドリの群れが一斉に羽をばたつかせ、細かな砂と風が舞い上がる。
視界が揺らぐ――が、金の瞳は濁らなかった。
狙いはただひとつ。群れの長。
その一体は、周囲のざわつきに一歩遅れて反応するも、すぐさま首を伸ばし、空気を読むように周囲を見渡した。
だが、既に遅い。
シグの気配が一瞬で前方に現れる。
獲物に対する殺気ではない、だが確実に“害意”をもった存在――それが、スナヤドリの本能に火をつけた。
警戒音のような鳴き声が上がる。群れが散り始める。
だが、指導個体は――動かない。
(……来るか)
踏み出したシグのわずかな一歩。
それに反応して、ついに指導個体が羽ばたいた。
勢いよく跳ねる――が、逃げではない。追う動き。
この個体は、縄張りを“守る”性質の強いタイプだ。
シグの後退、ひとつ。
魔獣の足が地を打つ、ふたつ。
そして、みっつ目の跳躍――それが、窪地の入口。
(……いいぞ)
声は出さない。だが、リオの罠がそこにはあった。
罠が鳴る音が、風の中を切り裂いた。鈍く低い音と、スナヤドリの甲高い声。
動きが止まり、羽ばたきが暴れる――けれどもう逃れられない。
「……仕留めたな」
シグが地を蹴り、窪地へ駆け寄る。仕掛けられた罠が、完璧に牙を噛み合わせていた。
群れが地鳴りを響かせて遠ざかっていく。砂煙に巻かれ、リオが軽く咳をした。
振り返れば視線の先、群れの長と対峙していたシグは、そのスナヤドリの胴体に跨って首元を掴んでいた。
――ドキッとする。一応、任務の目標は”捕獲”だった。
けれどリオの目標として”料理素材の入手”。
これは、どっちだ、とリオの目が、シグとスナヤドリを交互に見る。
が、シグに首元を掴まれたスナヤドリの長が、鋭い鳴き声を上げて遺憾の意を示した。
「い、いきてた……」
どこかほっとして、リオはそばへ駆け寄っていった。
シグは、がっしりとした手でスナヤドリの首根っこを押さえたまま、ちらりとリオの方へ視線を向けた。
「捕獲だ。……生きてる」
短く言い放ちつつ、拘束の力をわずかに緩めると、スナヤドリの長は不満げに羽をばたつかせたが、抵抗は弱かった。
怒ってはいる――だが、力は抜けている。降参の合図だ。
「お、おつかれシグ」
「ああ」
シグの膝の下、砂で汚れた魔獣の体がかすかに震えていた。
だが、目は閉じていない。気高い意志を宿したまま、こちらを見返している。
「……誇り高い魔獣だ。下手に手を出すな」
静かな声には、どこか敬意すら混じっていた。
リオが近寄って来た気配に、シグは少しだけ身体をずらして獣との距離を空ける。
捕獲は成功。それは討伐よりも難しく、そして意味のある選択だった。
「……尾羽、少しだけなら抜かせてもらえるかもな。損傷がなければ売れる」
金の瞳がリオに向けられる。
“お前のやり方で、素材を得てみろ”……そんな無言の許可。
そして何より――その横顔には、どこか満足げな安堵の色もあった。
目の前でリオの罠が決まり、目的が果たされ、今こうして隣に立っている。
それが、何よりも重かった。
その視線を受けて……リオは、まじまじとスナヤドリを眺めた。
シグが言った尾羽――すらりと長く、美しく跳ね上がり湾曲している。
装飾品や魔術道具の材料として、高価な値がつけられる。
「綺麗だなー……」
口をついて出た言葉にも、スナヤドリが抗議の声を上げるかのように鳴いた。
羽毛の一つもやるものか、という強い誇りを感じる。
だが、リオの悪意なき探求が、スナヤドリを恐怖へと陥れることとなった。
「スナヤドリは素材価値高いよなー。羽毛の風紋なんて、綺麗な装飾品になるよ。
骨も軽くてよくしなるから、確か細工素材とか楽器の一部に使われたはずだし。あとは肉と砂袋だなぁ」
どこかおかしいリオの目がスナヤドリの身体を見る。いや、恐らく身体の”中”を見ている。
「肉は確か赤身肉じゃなかったかなぁ。燻製……蒸し煮……香草焼き……いやぁ迷っちゃうよなぁ。
砂袋はこいつらのエサの関係ですっげぇいいスパイスになるんだよなぁ。
すごく珍しいから市場でも滅多に出回らないし、……でもそうか、俺が作ればいいんだもんなぁ」
”捕獲”だということはわかっているが、思考を止める必要はない。
手に入らなくとも、想像するのは自由なのだ。多分。
リオの視線に、口をつぐんだスナヤドリが、――おずおずと尻を差し出した。
尾羽で勘弁してほしい、というところらしい。リオが面喰った顔をした。
「えっ、何だどうしたんだよ!いらねぇよ抜いたらいてぇだろ!」
シグは一瞬、何が起きたのかわからずにスナヤドリとリオを交互に見た。そして、すぐに察する。
スナヤドリが、しずかに、しかし確実に“降伏の構え”を取っていた。
尾羽の根元がぷるぷると震え、何かに怯えるように――だが、それでも誇りを守ろうとするように――差し出されている。
「……こいつ、リオに命乞いしてるな」
低く、呆れすら混じった声。リオの瞳の奥、素材というより、もはや“解体図”を思わせる情熱の火。
そこに悪意はない。ただ、どこまでも純粋で――だからこそ、恐ろしい。
「命乞いってお前、ちょっと想像しただけじゃんか」
「おい、やめてやれ。怯えてる」
小さく眉尻を下げながら、シグの手がスナヤドリの首元を離れる。解放されたスナヤドリも、もう逃げる気力もなさそうだ。
リオが慌てて「いらないってば!」と肩を振って否定すれば、スナヤドリはがくりと頭を垂れた。
生きた心地がしなかったのだろう。まるで「助かった……」と言いたげに。
「……尾羽、数本だけもらっとけ。証明にもなる」
そう言って、シグがそっとリオの肩を叩いた。
それは素材確保の許可であり、そして“もうそれ以上考えるな”という牽制でもあった。
スナヤドリの誇りに敬意を払いながら、その隣で“命を奪わず、価値を見出す”リオの探究が、ほんの少しだけ形になった。
そして、今日もまた――誰かがリオの視線に、震えながら救われた。
群れの長が、砂を巻き上げて去っていく。
最後までどこか納得いかないリオと、同情の目を向けるシグに見守られながら。
「……俺なんもしてねぇのになぁ。シグのほうがよっぽどこえーじゃん」
そりゃ怖いのベクトルが違うんだろうよ、と言いかけて、シグは口を閉じた。
もうそのままでいいと思ったからだ。
尾羽を空間魔法に収納し、罠も回収し、リオは草むらを覗いていた。後ろからシグが呼ぶ声が聞こえる。
おう、と返事をし、次の瞬間、うわ!と声を上げた。
何事かと慌てて飛んできたシグが見たのは、十五センチほどの灰褐色の卵と、それを抱くリオ。
どうやら、リオがそれにつまずいて転んだらしかった。
その殻はざらついており、薄く霧のような模様が浮かんでいる。まぎれもなく、スナヤドリの卵――それも、産みたてに近い。
「お前……つまずいた先で、なんでそれを抱えてんだよ……」
シグは額に手を当てて、肩を落とした。
「わ、わかんねぇ!転んだらあって、なんか……咄嗟に!」
言い訳がましくも、本当にその通りなのだろう。リオの服は草まみれだが、卵は割れてもいなかった。
シグがしゃがみ込み、卵の様子を一瞥する。重さ、温度、表面の汚れ――どれも状態は良好だった。
「……孵るかは微妙だな。温もりが足りなければ、すぐ死ぬ」
そう言いながらも、シグの声にはどこか、選択を委ねる響きがあった。
持ち帰るのか、ここに置いていくのか。それを決めるのは、リオだといわんばかりに。
風に乗って、遠くでスナヤドリの群れが鳴く声がする。
ひとつ、山の静けさに溶けていったその声を、シグは黙って聞いていた。
リオは――呆気にとられていた。
シグの口調からして、どうやら持って帰るのは良さそうだ。
だが卵。卵だ。完全栄養食。レシピの可能性の塊。そしてこの大きさ。しかも魔獣の卵。
見開いた目を閉じられず、そのままシグを見やる。
金の瞳が、まさか、という顔をしている。自分でもまさかと思う。
しかしもう一つの考えも生まれる。孵れば生体が手に入る……?
まるで思考を読んでいるのか、シグの表情も険しくなった。自分も険しくなる。
そこでまた、もう一つの考えが出てきた。
もし孵ったら自分が育てるのだろう。――食えるのか?と……。
「……どっ、どうしよう……」
捨て置く選択肢だけが、なかった。
対するシグもまた、じっとリオの顔を見つめていた。
魔獣の卵を前に、明らかに思考が暴走している。目は泳ぎ、頬はひくひくと引きつっている。
さっきまでの興奮と混乱と、未知への欲望が綯い交ぜになって――今、リオは自分で自分が制御できていない。
(……だろうな)
深く息を吐き、額に手を当てた。
「……捨てねぇなら、持て」
短く言い放ち、懐からくしゃりとした布を取り出してリオの手元へ投げる。
それは、何事かに備えて常に持ち歩いている布の切れ端だった。保温にちょうどいい。
「衝撃は避けろ。冷やすな。……あと、勝手に焼くな」
最後の一言には、妙な圧がこもっていた。これは、料理人への警告である。
リオはハッとして卵をそっと布で包む。
その顔には、まだ迷いがあったが――それ以上に、守ろうとする気配があった。
「……で、名前でもつけんのか?」
シグの声は低かったが、どこかからかうような響きがあった。
リオが真顔で固まり、その横でシグは初めて小さく笑った。
そして、ふたりの旅に――新たな“荷物”が加わった。
孵るか、育つか、食べるか。それは、まだ誰にもわからない。
――【新しい荷物】




