【雨宿りの距離】
南の山にたどり着いたのは、やや昼を回ったあたりだった。
シグの案内で、足場をしっかり踏みしめながら、確実に群生地まで登っていく。
急な斜面だったが、シグが示した地面はビクともしなかった。
これも冒険者としての経験則か、と感心して、リオが顔を見上げる。
シグは振り返りもせずに、片手を後ろに差し出す。その無言の仕草に、リオも笑いながら手を取る。
ごつごつした岩肌に、陽光が斜めに差し込んでいた。
乾いた風が草の匂いを運び、遠くでは鳥の声がひときわ高く響いている。
ふと、シグが斜面の一角を指差した。
「あそこだ」
指差された先――くすんだ黒紫の羊歯、クロヤミワラビが、群生していた。
葉はやや反り、触れずともかすかに漂う薬草特有の苦い匂い。
その一帯だけ、土の色が妙に乾いて見え、周囲よりも風の流れが鈍い。
「……胞子帯だな。風が抜けにくい分、溜まりやすい」
そう言って、シグはゆっくりと防毒面を装着し、リオの方にも顎で促した。
すでに空気がかすかにざらついていた。
不用意に動けば、あっという間に霧のような毒胞子が舞い上がる。
リオの目元を見やると、すでにその顔には“わくわく”が滲んでいた。
それを横目で見ながら、シグは肩をすくめる。
「……十株まで俺がやる。残りはお前がやれ」
あくまで冷静に、だがそれは一種の信頼の表れでもあった。
シグは背中の袋から採取道具を取り出すと、慎重に足を進めていく。
その背には、用心棒としての揺らがぬ意志と、絶えぬ付き合いの覚悟が滲んでいた。
リオも一つだけ頷き――、放射状に広がるクロヤミワラビを、株の根元からきゅっとまとめて麻ひもで縛る。
上から紙袋をかぶせ、胞子の飛散を最小限に。株元をナイフで切り、採取をする。
いつもの軽口を挟まず、淡々と真剣に事に当たる。
リオの手つきは、シグの見様見真似にしては滑らかだった。
これも料理人だからか、とシグが一人で納得する。
リオが採取したのは、全部で七株。五株は納品用。残りの二株は”リオの私物”とする許可を得た。
斜面に並んだ紙袋の口を結び、リオがそっとひと息ついた。
ごく自然な動作で、毒胞子の帯を乱さぬよう身体を後ろに引く。
横目でシグを見れば、大柄な背がすでに別の株へと手を伸ばしていた。
力任せに見えるが、その動きはどこまでも正確だ。必要以上に根を傷つけず、飛散も最小限。
リオが小声で「……よし」と呟きながら、私物用の株を別の袋に収める。
慎重に空間魔法に入れようとしたそのとき――背後から低く声が届く。
「……七株か、上出来だ」
いつもの調子ではない。その声は、素直な評価だった。
リオが振り返れば、シグの足元にも綺麗に整った紙袋が積まれている。一切の無駄もなく、無理もない、実直な仕上がり。
「……終わりだ。ここは風が変わる、長居は無用」
そう言って振り向いたシグの金の瞳が、ほんの一瞬だけ緩んでいた。
リオの収穫を見届けた安心か、はたまた――別の何かか。
ともかく、ふたりは必要数をそろえた。クロヤミワラビは、無事採取完了。
――風を起こす、鳥たちのもとへ。
シグの先導のもと、急な斜面を一歩一歩下っているときだった。
湿った風が肌をかすめる。
雨雲が急激に空を覆い、遠くで、そして近くで、雷鳴が轟く。
――それは突然の通り雨だった。
空を見上げたシグが、小さく舌打ちをする。
リオの手を少し乱暴に引き、軽々と小脇に抱える。
「ええっ!!シグ大丈夫、俺歩けるよ!」
慌てるリオをよそに、シグが岩肌を大きく蹴った。
――瞬間、ほぼ自由落下。
十数メートルは飛んだ。思わずリオも口を抑え、舌を嚙まないようにする。
その頃にはバケツをひっくり返したような雨で、二人とももうびしょぬれだった。
斜面からかろうじて山道と呼べるところまで下り、そのまま岩壁にできた空洞へ、リオを抱えたままのしのしと歩いていく。
「……あ、ありがとう……」
シグは無言のまま、空洞の奥へと歩を進めた。
背後から打ちつける雨音が岩肌を叩き、まるで滝のように響いている。
空洞の内側は意外にも広く、かろうじて立っていられるほどの高さがあった。
奥は乾いており、岩棚のような段差がひとつ。
そこでようやく、シグはリオをそっと下ろした。
「……歩ける、な」
低く呟いてリオの足元を見やる。
濡れて崩れそうな足場で転ぶよりは、抱えてでも確実に運ぶ――ただ、それだけの判断だった。
が、雨に濡れたリオの髪が額に張り付き、服が身体にぴたりと貼り付いている様は、思いのほか無防備で。
ぐっと息を詰め、思わず金の瞳が逸れる。
「……もう少し、ここで待つ」
雨音にまぎれるようにして、ぽつりと言った。
リオの方を見ないように、背を向けて濡れた装備を点検する。
だがその肩先には、少しだけ――熱を帯びた気配が残っていた。
ぱちぱちと焚き火がはじける音だけが、空洞に響いた。
シグがこちらを向いてくれない。あの雨の中、自分を抱えて一気に山を飛び降りた。
いや、飛び降りさせた。やはり足手まといだっただろうか。
「いやーすげぇなシグ。あんな崖飛び降りちゃうんだもん。やっぱ地の身体能力の差だよなぁ」
努めて明るく振る舞って、肌に張り付いた服を一枚一枚脱いでいく。
外套。上着。ベスト。シャツ――まで脱ぐとさすがに裸なので、そこは控えた。
「シグも服脱いで乾かそうぜ。雨やむまで動けねぇし、休憩だ休憩!」
焚き火の赤い光が岩壁にゆらゆらと揺れている。
湿気を帯びた空気の中で、パチ、と薪がはぜた瞬間、シグの肩がわずかに動いた。
背を向けたまま、長い沈黙の後。ようやく、ぎこちなくシグがこちらを振り返る。
目に入ったのは、焚き火の灯りに照らされたリオの肌。
濡れた衣が岩にかけられ、本人は肩を抱きながら、笑っていた。
無邪気な声。けれどその奥に、どこか不安げな色があるのを、シグは見逃さない。
「……あれは、判断だ。足手まといじゃない」
低く、けれど確かに言い切ってから、濡れた外套をようやく脱ぐ。
銀灰色の髪から滴る雨が、肩を伝って落ちていく。
「お前が怪我すりゃ、そこで探索は終わる。……それだけだ」
上着を無言で岩にかけ、焚き火のそばへ近づく。
火を挟んで向かいに座りながら、ちら、とリオの方を見る。その頬には、ようやく少し安心したような笑みが戻っていた。
「……おう」
――シグの言葉に、ほっとして頬が緩む。
空間魔法からポットと茶器を取り出した。野営にも持ち込みやすい、シンプルなもの。
雨に当たってだいぶ冷えた。きっとシグもそうだから、お茶でも飲もう。
あっ、と思って、リオはもう一度、空間魔法に手を入れた。
するりと暖かそうな布を取り出す。
「わはは、毛布あるの忘れてたぜ!服乾くまで時間かかるし、シグもこっち来いよ」
ばさり、と自分の肩にかけた毛布の、片側を広げて見せた。
どう見ても、隣に入ってこい、のポーズだ。
シグが、やや神妙な顔をする。しばらく、動けなかった。
焚き火の光が金の瞳にちらつき、じっとリオの顔と、その差し出された隙間を見つめる。
そのままひと呼吸、いや、ふた呼吸ほどの静けさ。
岩壁を伝う水の音だけが、空洞を満たしていた。
「……ああ」
ぽつりと、そう言って立ち上がった。
重い足取りで焚き火を回り込み、リオの隣へと腰を下ろす。
近い。
距離を測り損ねたのか、あるいはわざとなのか――肩がほんの少し触れた。
シグは黙って毛布の端を手に取り、肩にかけ直した。その手の甲が、わずかに温かかった。
視線は相変わらず前の火へと向けられたまま。
だが、リオの側にいるその姿は、あきらかに静かで、落ち着いていた。
雨は、まだ止みそうにない。
けれどこの一枚の毛布の下だけは、ふたりの息がぬくもりを分け合っていた。
空洞の入り口、天井から規則的に落ちる水滴が、時が過ぎるのを刻んでいた。
リオに誘われて毛布に入り込んだものの、あまりの距離に二度と横を向けない気すらする。
真正面をじっと見据えたまま――シグは、ただひたすらに時が過ぎるのを待っていた。
「――で、この茶葉はその時のお礼にもらったやつでさ、……シグ聞いてる?どうした、寒いか?」
お茶トークをしていたのであろうリオが、シグの様子に気づいて、腕にそっと触れてくる。
それがさらに、シグの表情を険しくした。
「えっ、なんでそんな眉間にしわ……は、腹減った……?なんか作るか?」
心底不思議そうな声を上げ、なおもリオが接近してくる。
無自覚にも、ほどがあった。
「……ちがう」
ようやく絞るように吐き出された声は、低く、少しだけ掠れていた。
それは怒りでも、苛立ちでもない。むしろ――耐えている音だった。
シグは動かぬまま、ただ眉間に皺を刻み続けている。
視線は真正面、焚き火の奥。絶対に横は見ない。
(なんで、こいつは……)
寒さでもなく、空腹でもない。
隣にある無防備さと、何の躊躇もなく距離を詰めてくる距離感。
リオの手のひらがまた、ぽん、と腕に触れた。それだけで、脳裏に熱が昇るようだった。
毛布の下、肩が寄る。そのぬくもりが、ごく自然なものとして隣にあるのが――たまらなく不意打ちだった。
「……いい。動くな。あったまってろ」
それだけ言って、シグは腕をそっと組む。
だが、その力は妙にぎこちなく、まるで自分の手の置き場を見失っているようだった。
雨音と水滴の音に混じって、静かに、お茶の香りが広がっていく。
毛布の中の熱は、焚き火の温度とは違うかたちで、じわりと空洞を満たし始めていた。
「お、おう……?」
急にそっけなくなったシグに戸惑いつつ、リオは焚き火をつついた。
またひとつ、ぱち、と火がはじける。
シュンシュンと湯が沸いている。ポットを火から外し、茶葉を入れて蒸す。
――しばらくすると、スパイシーな香りが漂ってきた。
「なんかな、異国のお茶なんだって。身体温める効果あるらしいから、ちょうどいいなーと思って」
ポットに向いていた目が、微笑みながらシグを見る。
んん、と半ば唸るような返事をして、受けた視線から逃れようと天井のほうを見る。
腰を浮かせて茶を入れていたリオが、カップを二つ持って、ストン、とまた横に座った。
今度は距離を見誤ったのか、肩がぴったりとくっついている。
が、当の本人は何も気にしていないようだった。
「ほい、熱いから気をつけてな!」
快活な笑顔が、今だけは突き刺さる。シグはカップを受け取りながら、視線を合わせることができなかった。
――いや、合わせてしまえばきっと、もう平静ではいられない。
受け取った湯気立つカップをそっと口元に寄せ、ひと口。ピリッと舌に乗る香り、鼻へ抜ける熱いスパイス。
確かに、身体の芯からじわじわと熱が立ち上ってくる。
それでも――
(……温まるどころか、火に投げ込まれてる気分だ)
視界の隅で、リオが満足そうに湯をすする。その頬は焚き火に照らされて、ほんのり赤い。
「……まったく、お前は……」
ぽつりとこぼれた声に、リオが「ん?」と振り返る。
だがシグはすでに、そっぽを向いていた。
(その距離で、笑うな)
(何も知らずに、隣にいるな)
(こっちは今、どうしようもなく、困ってるんだよ)
熱いお茶の湯気が、毛布の内側でふわりと混ざる。
心臓の音まで聞こえてしまいそうな距離で、それでもリオは変わらず笑っていた。
シグは、ふぅ、と長く息を吐いて、毛布の端を握り直す。
逃げるでもなく、抗うでもなく。ただ静かに――その隣に、いた。
――【雨宿りの距離】




