第一章 祈りの殻の子 ⑤ 揺れる日常と、外から来た影
ツノオオカミに襲われてから、三日が経った。
朔の右脇腹には、まだ鈍い痛みが残っている。
リーネの癒しの術と、自分の中の“何か”が、ぎこちなく引っ張り合いをしているような違和感。
「サク、もうちょっとだけゆっくり歩き」
村の道を歩いていると、隣でハルがやたらと気を遣ってくる。
「大丈夫だって。走りはしないから」
「ほんまに? 痛なったらすぐ言えよ。絶対我慢すんなよ」
「お前、いつから看護師になったんだ」
「勇者見習いやからな。仲間の体調管理も仕事や」
胸を張るハルに、朔は苦笑するしかなかった。
あの日以来、ハルは露骨に朔から離れなくなった。
水汲みも、薪割りも、畑の手伝いも、「サクと一緒にやる」と言って譲らない。
(罪悪感、根深いな……)
それが分かるからこそ、朔も強くは突き放せない。
***
「ほな、今日はここまでやな」
村の外れ、小さな丘の上。
ミナトが鍬を土に刺して、腰を伸ばした。
傷が癒えてきた朔は、畑仕事の軽い手伝いから復帰している。
まだ全力では動けないが、じっとしている方がよほど性に合わない。
「サクはそこで一回休め。ハル、お前は井戸まで水汲んでこい」
「え、サクは?」
「サクは“見張り”や。怪我人に全部やらせる阿呆がおるかい」
そう言われると、ハルは渋々桶を持って歩き出した。
丘の上から見るツヅリ村は、相変わらず穏やかだ。
小さな畑と、家々から上がる薄い煙。
遠くには森の濃い緑の線。
それなのに——胸の奥のざわつきは、あの日から消えてくれない。
耳の奥で、時々ノイズが鳴る。
ほんの一瞬だけ、世界が“別の色”で塗り替えられるような感覚。
(未来か、別の場所か……。どっちにしても、ろくなもんじゃないよな)
「サク、立てるか」
ミナトの声で、朔は顔を上げた。
「ちょっとだけなら。何か?」
「“足の置き方”の練習、また見せたってくれや。ハルに」
そう言われて振り返ると、井戸から戻ってきたハルが、桶を置いてこっちを見ている。
「俺も、サクみたいに“避けられる足”覚えたい」
その目は、家畜小屋の夜以来、少しだけ変わった。
憧れと、悔しさと、決意が混ざったような色。
「……じゃあ、今日は“逃げる勇者の足”だな」
「なんか名前ダサい!」
「うるさい。強い奴ほどよく逃げるんだよ」
朔は笑って立ち上がり、ゆっくりと構えを取った。
右脇腹に負担をかけないよう、足の運びだけに意識を集中させる。
「ハル。いいか。
前に出るより先に、“下がる足”を覚えろ」
「前じゃなくて、下がるん?」
「うん。前に出る勇気は、お前、もう持ってるからな」
ハルが一瞬、目を丸くした後、照れくさそうに鼻をこする。
朔は地面を軽く蹴り、後ろへすっと滑るように移動した。
「さっきミナトさんに言われたろ。
“サクは死にやすい身やから、足掻け”って」
「うん」
「お前も一緒だ。
死なないために、退く。
退くために、ちゃんと足を鍛える」
ハルも真似をして、後ろへ下がろうとする。
最初は土に足を取られてよろけ、しりもちをついた。
「いたっ!」
「そこだよ。
土の柔らかさと、自分の重さ。
それが分かるようになるまで、何回でも転べ」
「転んでええん?」
「今のうちならな。
本番で一回だけ転んだら、そのまま二度と起きられないかもしれない」
ミナトが横で腕を組みながら見ていた。
「……サク」
「はい」
「お前、ほんまに前の世界で“戦い”ようけやっとったんやな」
「まあ、それなりに」
「ようけ負けてもきた顔や」
「その言い方ひどくないです?」
軽口を叩きながらも、朔は内心で同意していた。
勝ち方より、負けたときにどう立つか。
リングも、現実も、そこは大して変わらない。
***
その日の午後、ツヅリ村に珍しい客が来た。
荷馬車を引いた中年の男。
腰には短剣、肩には大きな荷袋。
村の入り口に姿を現したとき、子どもたちが一斉に走っていった。
「行商人のリオや!」
「リオさんや!」
ミナトが畑から顔を上げる。
「おお、リオか。よう来たな」
「ミナト親父、生きとったか。
ツヅリの野菜は今年も出来がええって噂聞いとるで」
そう言って笑う男の目は、しかし少しだけ疲れていた。
広場に荷馬車が止められ、村人たちが集まってくる。
塩、布、鉄の道具、乾燥肉。
村では手に入らないものを、それぞれが必要な分だけ買っていく。
朔とハルも、ミナトに連れられて様子を見に行った。
「誰や、その坊主」
「ワシの孫……みたいなもんや」
「“みたいな”ってなんやねん」
ミナトの曖昧な紹介に、ハルが突っ込み、リオが笑う。
「サクです。ツヅリでお世話になってます」
「おう、お前が“殻の子”か」
その一言に、周囲の空気が少しだけ変わった。
朔は一瞬、息を飲む。
「……殻の子?」
「この村の祠の“殻”から出てきた子どもやって、噂になっとるで。
わしらの世界の言葉で言うたら、“勇者候補”やな」
リオはそれ以上詮索せず、ひょいと肩をすくめた。
「勇者候補は、最近どこも探しとるらしいわ」
「どこも、って?」
ミナトが眉をひそめる。
「森の奥の村も、川沿いの町もや。
“殻”がある場所、ひとつ残らず。
王都の連中が兵士回して、片っ端から調べとる」
ハルが、ごくりと唾を飲む。
「勇者さがし……?」
「まあ建前はそうやろな」
リオの笑い方が、少しだけ濁った。
「ほんまは“魔物の元”探しとるって噂もあるけどな」
広場のざわめきが、一瞬だけ静まる。
「魔物の……元?」
「最近、殻の近くでよう出るんや。
ワンアイだけやあらへん。
背中から木が生えた鹿みたいなんとか、
半分溶けた熊みたいなんとか……」
朔の背中を、冷たいものが走った。
(“混ざりもん”だ)
ミナトが森の中で言っていた単語が、頭の中で繰り返される。
「この村の殻はどうや」
リオの問いに、ミナトは腕を組んだ。
「今んとこ、祠の殻は静かなもんや。
“中身”が出てきたのは、こいつが初めてや」
「そうか……」
リオは祠の方角をちらりと見る。
その視線の先で、朔の耳の奥に、またノイズが走った。
——ざざっ。
祠の石壁に刻まれた紋様が、一瞬、別の形に見えた。
数字の列。
回路図。
会議室のプロジェクターに映っていた、エクセルのマクロのような。
(……やっぱり、“何か”が繋がってる)
朔は無意識に右脇腹を押さえた。
そこにある“異物”が、何かを訴えかけている気がする。
「それともうひとつや」
リオが声を潜めた。
「北の方で、“殻の祠が黒う染まった”って話、聞いとるか」
「……黒う?」
ミナトの声色が変わる。
「殻の真ん中にな、墨みたいなもんがじわじわ広がって、
その村、夜のうちに魔物の群れに襲われたらしい」
広場の空気が、一気に冷たくなった。
ハルが、朔の服の裾をぎゅっと握る。
「……全部、噂や。
本人から聞いたわけやない。
せやけど——」
リオは小さくため息をつき、肩をすくめた。
「道中で見た魔物の数は、間違いなく増えとる。
それだけは確かや」
***
その夜、ツヅリ村の空はやけに星が少なかった。
朔は布団に入ってもなかなか眠れず、家の外へ出た。
祠の前まで歩いていくと、そこには既に先客がいた。
「……ミナトさん」
月明かりの下で、ミナトが祠の前に座っていた。
昼間の行商人の話を、何度も頭の中で反芻しているような顔。
「寝つき悪いんか、サク」
「まあ、そんな感じです」
朔も祠の前に腰を下ろす。
石に刻まれた紋様が、淡い光に照らされて浮かび上がる。
「……リオの言うこと、全部信じてるわけやない」
沈黙のあと、ミナトがぽつりと言った。
「噂は噂や。
大きゅうなるほど、話もようけ盛られる」
「でも、魔物が増えてるのは、本当なんですよね」
「ああ。
森の奥だけやったはずが、最近は村の近くでもよう見かける。
ツノオオカミが出てきたんも、その一つや」
ミナトは、祠の“殻”を見上げる。
「ワシらは、この“殻”に祈って生きてきた。
“中の誰か”が見とってくれる、守ってくれるって信じてな」
朔も、同じように石を見つめる。
白く摩耗した円形の中心。
あの日、自分が目を開けた場所。
未来の技術。
ナノマシン。
ORPHES。
それを知っているのは、この世界で今のところ朔だけだ。
(守ってくれるどころか、火種持ち込んでるの、俺じゃないのか?)
そんな皮肉な考えが、頭をよぎる。
「サク」
「はい」
「お前、自分のこと、よう責めるやろ」
横からの声に、朔は少しだけ肩を揺らした。
「顔に出とる。
ワシらの祈りを“騙してる”みたいに思っとるんやろ」
「……少しだけ、そう思いました」
否定できない。
ミナトは、ふっと笑った。
「殻の中身が人やったんか、魔物やったんか、
それともよく分からん“何か”やったんか。
そんなもん、ワシらにはよう分からん」
祠の石を、指の背で軽く撫でる。
「せやけどな。
“出てきたもん”が何をするかは、そいつ自身が決める」
その言葉は、思った以上にまっすぐ胸に刺さった。
「サク。
お前が殻から出てきた。
ワンアイも倒した。ハルも助けた。
それだけで、ワシはこの殻に祈ってきたことが無駄やったとは、よう言わん」
朔は言葉を失う。
「これから魔物が増えようが、殻が黒う染まろうが。
お前がおるかぎり、“全部悪い方”には傾かんと、ワシは信じたい」
祠の前に座る老戦士の横顔は、炎のない夜でも不思議と温かかった。
耳の奥で、またノイズが鳴る。
——ざざっ。
今までより少しだけ長く、少しだけはっきり。
誰かが、遠くの暗い空の下で同じ星を見上げているような感覚。
その誰かが、自分をじっと見ているような。
(社長……か。
それとも、未来の“俺”か)
闇の向こうから伸びてくる手が、
敵なのか味方なのかすら、まだ分からない。
ただ一つだけ分かるのは——。
(どっちにしても、ここは守らなきゃいけない)
ハルの笑い声。
村人たちの暮らし。
夜の祈り。
この温度を知ってしまった以上、
ここを焼き払われる未来だけは、どうしても受け入れられない。
朔は静かに目を閉じ、祠の前で手を合わせた。
祈りの相手が、神でも、殻の中の誰かでも、ナノマシンでもいい。
この平穏が、少しでも長く続きますように——と。
そして同時に、その平穏がいつか壊れる日が来ることもまた、
どこかで覚悟していた。




