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第一章 祈りの殻の子 ④ 血のにおいと祈りの手


 ツヅリ村には、小さな祭りがある。


 春と秋、年に二度だけひらかれる「からの夜」。


 村の真ん中にある共用の広場に、子どもたちが拾ってきた小枝が積まれ、

 日が沈むころ、村長がそこに火を灯す。


 その炎を囲みながら、皆で食べて、歌って、祈る。

 “殻”に眠る誰かが、ちゃんとこの世界を見てくれますように——と。


 朔がツヅリ村に来てから、初めての殻の夜がやってきた。


***


「サク、これ! これ旨い!」


 焚き火の明かりの中で、ハルが串を突き出してくる。


 こんがり焼けた肉。

 さっきまでミナトたちが解体していた、山鳥の腿だ。


「お前、もうそれ三本目だろ」


「勇者は食わな力出えへんの!」


「勇者見習いは胃も鍛えるのか……」


 呆れながらも、朔は一本受け取ってかじる。


 肉汁と、軽く振られた塩の味。

 ブラック企業の休憩室でかじっていたコンビニパンとは、まるで別の食べ物だった。


 周りでは、女たちが簡素な笛を吹き、男たちがそれに合わせて手拍子を打っている。

 子どもたちは走り回り、時々火に寄りすぎて怒られる。


 ミナトは村の中央、祠の前に座り、静かに杯を傾けていた。


 この数週間で、朔はだいぶ村の顔と名前を覚えた。

 畑を一緒に耕す年配の男。

 薬草に詳しい、しわだらけの老婆。

 ハルにいつも余計なスイーツを渡してくるおばちゃん。


(……世界の終わりって、案外こんな場所から遠いのかもしれないな)


 そう思えるくらいには、ここは温かかった。


***


 夜もだいぶ更けてきたころ、祭りは少しずつ終わりに向かう。


 焚き火の火は小さくなり、子どもたちは一人、また一人と家に連れて帰られる。


「サク、今日はうち泊まっていき」


 ミナトが言う。

 もともと村長の家の一角を使わせてもらっているので、泊まるも何もないのだが。


「火の番はワシと何人かでする。お前ら子どもは先に寝ぇ」


「子どもちゃうし」


 朔が反射的に返すと、ハルが笑った。


「サク、見た目は完全に子どもやって」


「中身の話をしてるんだよ」


「中身おっさんでも関係ないわ!」


 ハルに背中を押されながら、朔は家に向かった。


 そのときだった。


 ——「メェェェエエエエッ!」


 鋭い鳴き声が、村の外れから響いた。


 羊の、張り裂けるような悲鳴。


 空気が、一瞬で冷える。


「……家畜小屋や」


 ミナトが杯を置き、立ち上がった。

 焚き火の周りに緊張が走る。


「男手、三人ついてこい! 女と子どもは家の中や!」


 ミナトの声に、数人の男が即座に動く。


 当然のように、ハルも一歩踏み出した。


「俺も——」


「ハル!」


 ミナトの一喝が飛ぶ。


「お前は家族連れて家入れ! 今日は殻の夜や、何が出るか分からん!」


 ハルは悔しそうに唇をかんだ。


 朔は一瞬迷ってから、ミナトの背中を追うように足を踏み出しかけ——そして止まった。


 子どもの身体には、まだ力がない。

 ここ数週間で森を歩き回り、ワンアイ一匹殴り倒したくらいだ。

 あのときだって、ミナトがいなければ危なかった。


(行っても足手まといかもしれない。でも——)


 羊の悲鳴が、もう一度。


 ハルの顔を見る。

 悔しさと、不安と、焦りが全部混ざった表情。


(……ああ、くそ)


「ミナトさん!」


 朔は叫ぶ。


「俺も行きます!」


 ミナトがこちらを振り返った。

 一瞬、眉をひそめる。


 だがすぐに、短く頷いた。


「サクは後ろや。ええな、前には出るな」


「分かってます!」


 焚き火の明かりを背に、朔は走り出した。


***


 家畜小屋は、村のいちばん端、森との境に近い場所にある。


 近づくにつれて、鉄と血のにおいが強くなった。


 既に扉は開いている。

 中から、羊のうめき声。

 男たちの怒鳴り声。


「中入るな! 外回れ!」


 ミナトの指示に従い、朔は小屋の裏へ回り込んだ。


 そこで、見た。


 月明かりの下。

 小屋の裏側の柵をぶち破り、黒い影が一つ、こちらを向いた。


 狼ほどの体格。

 だが体表の毛はところどころ焦げており、背中には骨のような角が二本突き出ている。


 口の端から、羊の血が糸を引いていた。


「……ツノオオカミか」


 聞き慣れない声が横からした。


 朔が振り向くより早く、影が柵の影から飛び出した。


「——っ!」


 反射的に半歩下がる。


 前足が地面をえぐる。

 その勢いのまま、ツノオオカミが低い姿勢で突っ込んでくる。


 目の奥が爛々と光っていた。


(距離が近すぎる)


 ワンアイのときより速い。

 しかも、真正面じゃない。斜めから抉るような軌道だ。


 朔は体をひねり、ギリギリで軌道を外した。


 ツノオオカミの肩が、空を切る。

 背中の角が、朔の頬をかすめた。


「くっ——!」


 皮膚が裂ける感覚。

 ぬるいものが頬を伝っていく。


 ツノオオカミは勢いのまま、家畜小屋の角を蹴って向きを変えた。

 今度は、村の方角へ。


 その先に——。


「……ハル?」


 小屋の端。

 闇と月明かりの境目に、小さな影が立っていた。


 息を切らせ、こちらを見て目を見開いている。


 村から駆けてきたのだろう。

 ミナトの言うことを聞かずに。


 ツノオオカミの視線が、まっすぐハルを捉える。


「やべ——」


 考えるより先に、朔の足が動いていた。


「ハル、伏せろ!!」


 叫びながら、横からタックルする。

 ハルの体を抱え込むようにして地面に倒れ込んだ。


 次の瞬間、背中に重い衝撃。


 焼けた鉄で引っかかれたような激痛が、右脇腹を走った。


「——ッ!!」


 声にならない声が喉から漏れる。


 ツノオオカミの爪か、角か。

 皮膚どころか、もっとその奥まで何かが食い込んだ感覚。


 視界が一瞬、白んだ。


「サク!!」


 頭のすぐ横で、ハルの叫び。


(動け。ここで止まったら——)


 朔は歯を食いしばり、ハルだけでも押し出すように体をひねった。

 その拍子に、さらに傷口が裂けた。


 熱いものがどっと溢れ出す。


「ぐっ……!」


 ツノオオカミが再び身構える音がする。

 喉の奥から、濁った唸り声。


 そのとき——。


「どけぇぇぇええ!」


 野太い怒鳴り声とともに、槍が一本、闇を裂いた。


 ミナトの短槍が、ツノオオカミの首根っこを貫く。


 獣の体が、ぴくんと跳ねた。

 背中の角が震え、少し遅れて、どさりと地面に倒れる。


 血と土のにおいが、さらに濃くなった。


「サク! ハル!」


 ミナトが駆け寄ってくる。

 その顔を見上げようとして、朔の視界がぐらりと揺れた。


 右脇腹から、温かい液体が止めどなく流れている。

 自分の服が、じわじわと重くなっていくのが分かる。


「サク、サク! しっかりせぇ!」


「サク!! ごめん、俺、俺——!」


 ハルの手が、震えながら朔の袖をつかむ。


 その声だけは、はっきり聞こえた。


(ああ……こいつのこういう顔、見たくなかったな……)


 視界が暗くなりかけた、そのとき。


 ——ざざっ。


 耳の奥で、あのノイズが弾けた。


 同時に、傷口のあたりで何かがざわつく感覚。

 火花が皮膚の下を走るような、奇妙なチリチリした痛み。


(……オルフェか)


 意識が、暗闇と現実の境目で揺れる。


 ミナトの怒鳴り声が遠くなっていく。


***


「——目ぇ覚ましたか」


 重たい瞼をこじ開けると、見慣れた天井があった。


 村長の家の、朔にあてがわれた一角。

 夜なのか昼なのか、薄暗い。


 座っている体勢から、半身を起こそうとした瞬間——

 右脇腹に鋭い痛みが走り、朔は顔をしかめた。


「無理に動くな」


 声の方を見ると、ミナトが椅子に腰かけていた。


 いつもより、少しだけ疲れた顔をしている。


「……ツノオオカミ、は?」


「ワシが突き殺した。心配せんでええ」


「羊は?」


「何頭かやられたが……人間は、お前だけや」


 ミナトはそう言って、ふうと息を吐いた。


「……ハルは?」


「外で寝落ちしよる。泣き疲れたんやろ」


 ミナトが顎で指す方を見ると、扉のところに丸まった小さな影が見えた。

 毛布にくるまったハルが、目を赤く腫らしたまま眠っている。


(……見られたくない顔、見せちまったな)


 朔は苦笑しかけて、腹の痛みに顔をしかめた。


「傷、結構深かったんや。

 ……普通やったらな」


 ミナトの声が、少しだけ低くなる。


「どういう意味です?」


「リーネを呼んで、治癒術かけてもろたんや」


 リーネ。

 村の小さな祠を預かる女性で、この村で唯一「癒しの術」を扱える人だ。


「光はちゃんと出とった。

 傷の上にも、確かに“降りた”。」


 ミナトは、朔の右脇腹を見やる。


「けどな——」


 少しだけ、言葉を選ぶように間を置いた。


「お前の身体、“光”が染み込みにくいらしい」


「染み込み……にくい?」


「表面はくっつくんやと。皮も、血もな。

 せやけど、奥の方がまるで弾いとるみたいやって」


 朔の皮膚の下で、あのチリチリした感覚が、ほんのり蘇る。


 リーネの癒しの光に触れたとき——

 傷の部分で何かが暴れるみたいにざわついて、そのたび耳の奥でノイズが鳴った。


(……オルフェ)


 ナノマシン。

 未来の技術。

 自分の血の中を流れる、見えない“何か”。


 光を拒むように、傷の奥で蠢いているのだとしたら——。


「リーネが言うとった。

 『この子の中には、別の“祈り”がすでにおる』ってな」


 ミナトの声には、責める色はなかった。

 ただ、事実だけを伝えている感じだった。


「ワシらの“癒しの術”は、

 “殻の中の誰か”にちょっと手ぇ貸してもらってるもんや。

 けどお前の身体には、すでに別の“術”が根ぇ張っとる」


「……だから、効きにくい」


「ああ。

 完全に効かんわけやない。時間かければ表面は治る。

 せやけど、今後もこういう傷負ったら——」


「死にやすいってことですね」


 朔が先に言うと、ミナトは少しだけ目をすがめた。


「……その言い方は嫌いやけど、間違いではない」


 静かな沈黙が落ちた。


 ツヅリ村に来てから、初めて実感する“自分だけの欠損”。


 殴ることはできる。

 逃げることもできる。

 頭を使って、戦い方を工夫することだってできる。


 けれど——致命傷を負った時、

 この世界の人間なら助かるかもしれない一線を、

 自分だけは越えてしまうかもしれない。


(……殴る勇者、ね)


 ハルの顔が浮かぶ。

 泣きながら、袖をつかんでいた小さな手。


「ミナトさん」


「なんや」


「もしまた、同じようなことがあったら——」


 朔は、自分でも驚くほど冷静な声で言った。


「俺より先に、ハルを助けてください」


 ミナトの眉がぴくりと動いた。


「冗談ちゃうぞ、サク」


「冗談じゃないです。

 俺は、多分、死にやすい。

 けど、多分——死ににくい身体でもある」


 ナノマシン。

 ORPHES。

 自分が選ばれた理由。


「簡単には死なせてくれない気がするんですよ、あいつら」


 朔が笑うと、ミナトはしばらく何も言わなかった。


 やがて、椅子から立ち上がる。


「ハルが聞いたら、絶対怒るやろな」


「……そうですね」


「ワシも、正直腹立つわ。

 自分のこと軽う言うやつは、昔から嫌いや」


 そう言って、ミナトは朔の頭を軽く小突いた。


「けど——」


 その声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「“誰かを守るために死ねる奴”より、

 “誰かを守るために生き残ろうと足掻く奴”の方が、

 ワシは好きや」


 朔は、返す言葉をなくした。


「死なんでええ。

 死ににくい身体ならなおさら、足掻け。

 ハルも、村も、お前自身も、全部守るためにな」


 その言葉は、

 リングでセコンドにかけられたどの台詞よりも重く響いた。


***


 しばらくして、扉のところの影がもぞもぞと動いた。


「……サク……?」


 寝ぼけ眼のハルが、毛布をずるずる引きずりながら近づいてくる。


「大丈夫か?」


「ああ。ちょっと痛いけど、生きてる」


「生きててよかった……!」


 次の瞬間、ハルは朔の布団に突っ込んできた。

 傷を避けるようにして、胸のあたりに顔を押しつける。


「俺のせいや……俺が走って出て行かへんかったら……!」


「ハル」


「サクが庇ってくれへんかったら、俺……!」


「ハル」


 朔は、まだ力の入りにくい左手で、ハルの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。


「お前が死ぬとこ見るよりは、これくらいマシだよ」


 ハルが顔を上げる。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。


「でも——」


「約束しただろ」


 朔は、殻の夜の焚き火の光を思い出しながら言った。


「“大事なものを守るためにしか、殴り方を使わない”ってさ」


 その“大事なもの”の中に、

 お前が一番最初に入ってたんだよ——とは、言わなかった。


 代わりに、少しだけ意地悪く笑う。


「それにほら、俺、殴る勇者なんだろ?」


「……うん」


「勇者はそう簡単に死なないんだって、じいちゃんに伝えといてくれ」


 ハルは、涙を拭いながら笑った。


「分かった。

 サクは死なん、“殴る勇者で、生き残る勇者”や」


 その言葉を聞きながら、朔はゆっくりと目を閉じた。


 耳の奥で、微かなノイズが鳴る。


 ——ざざっ。


 どこか遠くで、別の誰かが同じように血の匂いを嗅ぎながら、

 同じように「生き残る理由」を探している気がした。


 殻の夜の火は、とっくに消えているはずなのに、

 胸の奥の小さな火種だけは、前よりもずっと強く燃えていた。

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