第一章 祈りの殻の子 ③ 殴り方を教える理由
ツヅリ村の朝は、だいたい鶏よりハルの方が早い。
「サク! 起きてるかー!」
まだ外が青い時間から、窓の外で声がする。
朔は布団の中でため息をつき、半分だけ顔を出した。
同じ家の中から、ミナトの渋い声が飛ぶ。
「おーいハル。人んちの窓の外でどなったらアカン言うたやろ」
「だってさ! サクに今日、“アレ”教えてもらうねん!」
“アレ”。
最近、ハルがそう呼ぶものが一つ増えた。
——“魔法じゃない殴り方”。
***
「まず、走る」
村の外れ、小さな丘の上。
草むらに朝露が光る中、朔は腕を組んで立っていた。
目の前には、ハルがいる。
木の棒も何も持たず、ただ息を弾ませながら。
「なんで走るん?」
「逃げられないと死ぬからだよ」
即答すると、ハルはぽかんと口を開けた。
「勇者ってさ、逃げへんもんちゃうん?」
「逃げる“前に”死ぬ勇者はな。俺はそんな勇者、やりたくない」
リングで学んだことの半分は、「真正面から殴り合うこと」じゃなくて、
「本当にヤバいパンチのときは、そこにいないこと」だった。
朔は自分の足元を指さした。
「いいか、ハル。
この世界には魔物がいて、たぶんこれからもっと強いのが出てくる。
そのとき一番大事なのは——」
「……殴ること?」
「違う。死なないことだ」
ハルの顔から、一瞬、子どもっぽさが抜けた。
朔は続ける。
「死ななかったら、もう一回考えられる。
どうやったら勝てるか、どうやったら守れるか。
けど、死んだらそこで終わりだ」
「……そりゃ、そうやけど」
「だからまず、足。
“殴り方”より先に、“逃げ方”を覚えろ」
そう言って、朔はハルの前に立った。
「さっきから言ってる“距離”な。
相手に殴られないギリギリの場所。
今から俺が前に出るから、お前は“当たらないところ”まで下がれ」
「え、でもサク、今子どもの身体やし——」
「関係ない。いくぞ」
軽く足を踏み込む。
子どもの脚でも、重心の移動は身についている。
朔が一歩踏み込むたび、ハルは慌てて下がる。
最初は下がりすぎて尻もちをつき、
次は下がるタイミングが遅れて、朔の手が肩に触れた。
「いった!」
「今のが、ワンアイの牙だと思え」
「……うっ」
三度目。
ハルは歯を食いしばって、朔の足元を凝視した。
つま先がわずかに浮いた瞬間——
ハルの体が先に動いた。
朔の“攻撃範囲”から、一歩だけ後ろへ。
ギリギリで、指先が届かない。
「……お」
「今のや」
朔は思わず笑った。
「今の感覚、覚えとけ。
怖くなって下がるんやなくて、“ここにいたら死ぬ”って場所から一歩だけ外に出る感じ」
「……“怖いから逃げる”んやなくて、“死なんように退く”んやな」
「そう。それを続けてるうちに、
“ここからなら殴れる”って場所も見えてくる」
ハルは何度も頷いた。
「サク」
「ん?」
「俺、やっぱ勇者になりたい」
唐突な言葉に、朔は瞬きをした。
「じいちゃんが昔から言うてる勇者な。
“殻”から出てきて、魔物からみんなを守ってくれる人の話。
正直、今まで半分くらい作り話やと思ってた」
ハルは拳を握りしめる。
「けど、この前のワンアイ見て……怖かったけど、
サクが殴ったら、ちゃんと倒れてくれたやん」
「あれはたまたま——」
「ミナトが言うとった。
『たまたまより、ちゃんと考えて殴れる方がええ』って」
あのときのじいさんの目は、本気だった。
「俺、サクみたいになりたい。
殴れる勇者ってより、“守れる勇者”になりたい」
その言い回しが、朔の胸に突き刺さった。
(“守れる”勇者、ね)
守れなかったものの方が、多い人生だった気がする。
仕事も、家も、父親との記憶も。
それでも——。
「……分かった」
朔は、ハルの前にしゃがみ込んだ。
「だが一つだけ、約束しろ」
「なに?」
「俺が教える“殴り方”は、
“数字を取るため”とか、“偉そうなやつ殴るため”に使うな」
社長の顔が、一瞬よぎった。
「本当に誰かが死にそうなときだけ。
それか、お前の大事なものを守るためだけに使え」
ハルはその言葉を、ゆっくり咀嚼するみたいに繰り返した。
「大事なもの、守るためだけに……」
「そうだ」
「……分かった! 約束する!」
子どもの全力の返事。
そのまっすぐさが羨ましいくらい、真っ直ぐだった。
***
しばらくして、丘の下からミナトの声が飛んできた。
「おーい、“勇者見習い”ども! そろそろ森行く支度せぇ!」
「はーい!」
ハルが手を振り返し、朔も続く。
森へ入る道すがら、ミナトが横目で朔を見た。
「……教えとるな」
「勝手に弟子入りされました」
「ええことや」
ミナトはにやりと笑う。
「ワシも昔、“殴り方”教えてもろたことある。
——殴るのは最後の最後にせぇって、よう言われたわ」
「ミナトさんも、戦士だったんですか」
「おう。若い頃は剣も槍もそこそこな。
けどな、一番むずかしいんは“殴らんで済むように頭使うこと”やった」
「……それは、分かる気がします」




