第一章 祈りの殻の子 ②
ツヅリ村での暮らしは、驚くほど単純だった。
朝、陽が昇る。
畑を耕し、家畜の世話をし、森で木の実や薬草を集める。
日が沈めば、火のそばで飯を食い、眠る。
ブラック企業で働いていた頃の朔からすれば、
「やることは多いのに、誰も数字を怒鳴らない世界」だった。
「サク、こっち持って!」
畑の端から、ハルの声が飛んでくる。
両手で抱えきれないほど大きな籠を、少年はよろよろと持ち上げていた。
「お前、それは欲張りすぎだろ。半分こっち寄こせ」
「大丈夫やって! 勇者見習いは、これくらい——うわっ」
足をもつらせて、ハルが前のめりに倒れかける。
朔は反射的に駆け寄り、子どもの短い足で地面を蹴る。
まだ歩幅の感覚が掴みきれず、少しつんのめりながらも、どうにか籠ごと抱きとめた。
「だから言った」
「……ありがと」
ハルは、照れくさそうに笑った。
手のひらに伝わる重みが、昔スパーリングで受け止めた後輩の体重を思い出させる。
(まあ、あいつらより軽いけどな)
朔は苦笑し、籠を片腕で支えながら畝の上を歩いた。
子どもの身体はまだ勝手が違うが、足の置き方さえ意識すれば、バランスは取れる。
リングで覚えた“足の置き方”は、畑でも森でも、意外と役に立った。
***
村での生活が始まって、数週間。
朔は、ハルと一緒に森へ行くのが日課になっていた。
木の実や薬草を集めるのが表向きの目的だが、
村の大人たちはそれ以上に「森の歩き方」をふたりに覚えさせたがっていた。
「森はな、知ってれば味方やけど、知らん奴には牙を剥く」
そう言って、ミナトはよく二人を連れていった。
獣道の見分け方。足跡の新しさ。風の匂い。
そして——「獣の気配」。
「ハル。サク。ここで、いっぺん止まってみ」
ある日、森の少し奥。
ミナトが手を上げ、合図した。
「……何か、いるんですか?」
「おる。耳すましてみい」
朔は息を殺した。
葉擦れの音。
小さな虫の羽音。
それとは違う、低く湿った「くちゃ、くちゃ」という音が聞こえる。
「なんか、食べてへん?」
ハルが囁く。
「ああ。食べてる。“肉”や」
ミナトが、腰の短槍を構えた。
「ほな、今日の獲物や。いつも言うてるやろ、森の獣はな——」
「獣でもあり、“魔物”でもある、ですね」
朔が続けると、ミナトは少しだけ目を細めた。
「よう覚えとるやないか。……サク、お前はここおれ。ハル——」
「俺も行く!」
即答だった。
「サクもおるし! 三人なら平気やろ!」
「いや、サクはまだ——」
「大丈夫です」
朔は自分でも驚くくらい、はっきりと言っていた。
リングでは、怖いと思ったことは何度もある。
だが、一度上がってしまえば逃げ場はない。
ここも、似たようなものだ。
ミナトは少しだけ考えるような顔をして、それから頷いた。
「ようし。せやったら、サクはハルの“後ろ”につけ。何があっても、目ぇ離すな」
「分かりました」
「分かった!」
ハルは短い木の棒を握りしめ、前傾姿勢になった。
朔は、その背中を追う形で一歩後ろに付く。
低い茂みをかき分けると、匂いが強くなった。
血と、獣脂と、湿った土の混ざった、嫌な匂い。
視界が開ける。
そこにいたのは——。
「……なんだ、あれ」
大きさは犬ほど。
だが、背中には硬そうな骨の突起がいくつも伸びている。
毛はまだらで、ところどころ皮膚が剥がれ、黒ずんだ肉が覗いていた。
頭部には、目が一つしかない。
その目が、ぐるりとこちらを向いた。
足元には、小さな獣の死骸。
どうやらそれを食っていたらしい。
「“一つ目の犬”やな」
ミナトが低く言った。
「こいつはまだマシな方や。群れんし、足もそこまで速うない」
そう言うと、ミナトは二人を一瞥した。
「ハル。さっき言うた“距離”覚えとるか」
「う、うん」
「サク。お前は、あいつが“飛びかかった瞬間”だけ見とれ。そこでハルが踏ん張れるかどうか——それを見極めろ」
言われて、朔は自分の心臓が早鐘を打ち始めているのに気づいた。
(飛びかかる瞬間……ジャブの入りと一緒だ)
相手が腰を沈める。
肩が動く。
視線がぶれる。
(でも——“見極めるだけ”じゃ、間に合わない距離だ)
リングの中では、「様子を見る」余裕がある時もあった。
けれど、本当に危ない距離では、迷った瞬間に倒れるのは自分の方だ。
(踏ん張らせる前に、位置をずらす。こいつのスピードなら、それしかない)
ハルが、小さく息を吸った。
「いくで」
ミナトが一歩、地面を踏む。
その音に反応して、ワンアイが背中の骨を逆立てた。
喉の奥から、濁った唸り声が漏れる。
次の瞬間——。
地面を蹴る音。
獣が、低く、地を滑るように飛び出した。
(来る)
前足が縮む。
重心が前に沈む。
背中の突起が揺れる。
朔の体が勝手に動いた。
「ハル、左!」
叫んで、ハルの肩を引き倒す。
(踏ん張らせるんやない。今の距離なら、倒してでも“線”から退ける)
ワンアイの牙が、さっきまで少年の喉があった空間を噛み裂いた。
空振りに体勢を崩した獣の頭が、朔の目の前に落ちてくる。
(近い)
考えるより先に、足が動いた。
左足を半歩引き、腰を捻る。
短い腕にめいっぱいの力を込め、右の拳に、全身の体重を乗せる。
——ストレート。
乾いた音がした。
拳に伝わる感触は、サンドバッグでも人間の顎でもない。
硬い骨と、ぶよぶよとした肉が、嫌な具合に混ざっている。
ワンアイの頭が跳ね上がった。
片目がぐるりと回り、空を見上げる。
ミナトの槍が、その喉を正確に突き抜いた。
獣が痙攣し、やがて動かなくなる。
静寂。
朔は、自分が息を止めていたことに気づいた。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
「ぷはっ……!」
隣で、ハルも同じように息を吐いた。
「さ、さっきの……サク、今の……」
震える指が、朔の拳を指す。
「あれ、“魔法”ちゃうのに……あいつ、頭、ぐらって……!」
「ただのパンチだよ」
朔は、震えをごまかすみたいに笑った。
「魔法じゃない。ただの、殴り方の問題だ」
「ただの、って……!」
ハルは何か言おうとして、言葉を失ったようだった。
代わりに、ミナトが顎をさする。
「……サク」
「はい」
「お前、今のは“たまたま”か?」
「たまたまじゃありません」
朔ははっきりと首を振った。
「前の世界で、こういう“殴り方”を、教わりました。
どうやったら、人を倒せるかっていうやつです」
ミナトは少しだけ目を細め、それから低く笑った。
「気に入ったわ。たまたまより、ずっとええ」
そう言って、ワンアイの死骸を足で転がす。
「お前ら、よう見とけ。これが“魔物”や。けどな——」
槍の穂先で、ワンアイの皮膚の剥げた部分を軽くつつく。
黒ずんだ肉の奥で、細かい黒い粒子が、ざわ、と揺れた気がした。
その瞬間、朔の耳の奥で、一瞬だけノイズが走る。
——ざざっ。
「——こいつらも、元は“普通の獣”やったんや」
ミナトの声は、どこか遠くを見ていた。
「空から落ちた“殻”が増えてからや。森の奥で、こういう“混ざりもん”が増え始めたのは」
ハルが、ごくりと唾を飲む。
「殻って……サクが出てきたとこも?」
「そうや。あそこも、“昔の誰か”が使うた器や」
ミナトは槍を引き抜き、血を振り払った。
「いつかお前らも、あの殻の話を、ようけ聞くことになるやろ。勇者の伝説も、魔物の正体もな」
そう言って、朔の肩をぽんと叩く。
「サク。お前がどうするかは、お前が決めぇ。けど——」
ミナトは笑った。
「今日の分だけで言うたら、お前は十分“勇者向き”やったで」
ハルが横で、ぶんぶん頷いている。
「サク、やっぱ勇者や! 殴る勇者や!」
「殴る勇者って響きやめろ」
朔は頭をかきながらも、どこか否定しきれない自分がいた。
拳に残る、骨を打ち抜いた感触。
倒れた魔物。
それを見て、目を輝かせる少年。
(俺が、本当に“勇者”なんかじゃないってことは、
一番分かってるのは俺自身のはずなのに)
胸の奥の、小さな火種が、さっきより少しだけ大きくなっている気がした。
***
その夜。
村長の家の前の小さな祠で、ミナトがひとり、静かに手を合わせていた。
朔は声をかけるのをためらい、少し離れたところからその背中を見ていた。
祠の石には、摩耗した奇妙な紋様が刻まれている。
文字とも、図形ともつかない線の組み合わせ。
(……回路図みたいだ)
一瞬、エクセルではなく、工場見学で見た制御パネルの配線図が頭をよぎる。
その瞬間、耳の奥でまたノイズが弾けた。
——ざざっ。
首筋の薄い痕が、じんわりと熱を帯びた気がする。
どこかで、誰かが同じ祠を見上げているような、奇妙な錯覚。
未来なのか、過去なのか。
それとも、別の“自分”なのか。
まだ朔には、その正体を知る術はない。
ただ、この世界のどこかに散らばった“殻”を巡れば、
いつか自分が失ったものの行方に、指先が触れるかもしれない。
そう思うには、十分すぎる一日だった。
朔はそっと踵を返し、家の中で騒いでいるハルの声に向かって歩き出した。
——この温かな日々が、壊れる日が来るとも知らずに。




