第一章 祈りの殻の子①
——冷たい。
背中に触れているものが、骨の芯まで体温を奪っていく。
湿った土の匂いと、鉄が錆びたような酸っぱい匂いが、鼻の奥に重たく張りついた。
(……ここ、どこだ)
まぶたを持ち上げると、ひび割れた“天井”が視界いっぱいに広がった。
コンクリートとも、金属パネルともつかない灰色の板。
白かったはずのそれは煤でくすみ、ところどころ青黒い斑点が、焦げ跡みたいにまだらに散っている。
天井の亀裂から、細い光が差し込んでいた。
その向こうの空は、記憶にあるどんな青とも違う。
海底みたいに深すぎる、濃い青。
「……健診の天井じゃ、ないな」
思わず漏れた自分の声に、朔は小さく息を呑んだ。
高い。
聞き慣れた、くたびれた低音じゃない。
声変わり前の、少し頼りない高さだった。
上体を起こそうとして、腕に力を込める。
「……っ」
身体が、ふわりと浮いたみたいに前につんのめった。
慌てて床に手をつく。手のひらと肘に、ひやりとした衝撃が走る。
(重さが……軽い? 感覚と合ってない)
腕が細い。
ひと回りどころか、ふた回りは小さい。
視線も低い。座ったままなのに、天井がやけに遠く見えた。
下を見ると、伸びている足も短い。
スーツもワイシャツもない。粗い布で作られた簡素なシャツとズボンだけが、自分の体にぴったり沿っていた。
試しに立ち上がろうとして、一歩。
足が、いつも通りの“感覚”よりも前に出すぎて、危うくよろける。
壁に片手をついて、なんとか倒れずに済んだ。
(歩幅も違う……子どもの身体、か)
鏡はないが、それでも分かる。
重心の位置も、筋肉の付き方も、知っている自分のそれとはまるで違っていた。
壁に手を這わせながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
ここは全体が円形の“器”のような形をしていた。
壁はゆるやかにカーブし、腰の高さまで黒く焦げついている。
ただ真っ黒なわけじゃない。
何度も何かを焼かれたような、重なり合った焦げ跡。
ところどころには、液体が流れた筋のような跡も、うっすらと残っていた。焼けた血の痕と言われても信じてしまいそうな色だ。
鼻をくすぐる焦げ臭さは、時間が経った今でも完全には消えていない。
足元には、粉々になった透明な欠片が散らばっていた。ガラスか、樹脂か。
いくつもの金属片も転がっている。どれも焼けて歪み、元の形を想像しづらい。
真ん中だけが、不自然に白く円形に擦り切れていた。
まるでそこだけ、何度も何度も上から磨かれ続けたみたいに、周囲の汚れや焦げが“削り取られて”いる。
踏んでみると、つるりとした、異様な滑らかさが靴底(と言っていいのか怪しい簡素な靴)越しに伝わった。
(ここに、人を寝かせて……何かを、繰り返した)
安全講習で見せられた工場爆発の資料写真が、ふと脳裏をよぎる。
熱と衝撃で焼けただれた壁。吹き飛んだ機械の残骸。
ここも、“何か”を何度も試して、壊してきた場所——
そんな直感が、背筋をひやりと撫でていった。
その時、首の後ろを細い寒気が走った。
ぞわ、と皮膚の上を何かが這い上がるような感覚。
思わずうなじに手をやると、指先が、微かにざらつく部分に触れた。
首筋から肩にかけて、うっすらと走る細い線。
切り傷とも、注射痕ともつかない、何度も何かを刺されたあとのような痕が、かすかに盛り上がっていた。
触れた瞬間、耳の奥でノイズが弾ける。
——ざざっ。
古い機械の電源を入れたときの、あの一瞬の雑音。
それと同時に、記憶の断片が浮かび上がる。
白い健診センターの天井。
味の分からないバリウム。
「サービスでやっときますよ」と軽く笑って勧められた追加オプションの液体。
——ディープスリープ、オルフェ開始。
眠気に落ちる直前、耳元で響いた、無機質な機械音声。
(……ORPHES)
ブラックなオフィスも、満員電車も、夜中のエクセルも、あの声のあとで一気に闇に沈んだ。
代わりに、ここだ。
現実感はある。
床の冷たさも、焦げた匂いも、借り物みたいな身体の頼りなさも、夢にしては生々しすぎた。
(夢でもいいし、現実でもいい。とりあえず——ここから出られるかどうか、だ)
朔は、壁のカーブに沿って歩き始めた。
いつもの感覚で一歩踏み出すと、また少し前につんのめり、慌てて足を引き戻す。
歩幅と足の長さが合っていない。
“自分の身体じゃない”という事実が、一歩ごとにじわじわと実感になってくる。
円の一部が崩れ落ち、外へ通じる穴になっているのが見えた。
そこから、土の匂いを含んだ風と、柔らかい陽の光が差し込んでいる。
朔は、穴の縁にそっと近づき、外を覗こうと——したところで。
砂利を踏む音がした。
ぴたりと足を止める。
条件反射みたいに、拾える範囲の金属片をひとつ掴んだ。
小さな足音と、少し重い足音。二つ。
それが、ゆっくりと近づいてくる。
「……じいちゃん、今日も殻、開かへんの?」
子どもの声。
そのすぐ後に、低い男の声が続いた。
「毎日開いとったら、村ん中寝不足や。祈りの“殻”はな、そうそう気まぐれ起こさんのや」
聞き慣れない訛り。
柔らかい響きなのに、言葉の意味はまったく分からない土地の言葉——そんな感じだ。
朔は呼吸を浅くして、穴の方をじっと見つめた。
いつでも投げられるように、子どもの指で金属片を握りしめる。
穴の外で、誰かがくすっと笑った。
「でも、ちょっとだけ……期待してもええやろ?」
「しゃあないやっちゃな。ほな、今日もお参りだけはして帰——」
そこで、足音がぴたりと止まる。
「……あ」
光が、ひときわ強く差し込んだ。
黒ずんだ入口の向こうから、初老の男が顔を覗かせた。
日焼けした肌、深い皺。厚い胸板に、つぶれたような指。
その後ろから、少年がひょこっと顔を出す。
朔より、ほんの少しだけ背が高い。
茶色い髪がぼさぼさで、目だけがやたらと大きい。
朔と、少年の目が合った。
「……開いとる」
少年が呟く。
初老の男が、崩れた入口をぐっと押し広げた。
焼けた金属と石の軋む音が、狭い空間に響く。
「——ほう」
男はしばらく、朔をじっと眺めていた。
敵意はない。ただ、何かを確かめるような目。
沈黙がひりつき始め、朔は両手で金属片を握ったまま、絞り出すように声を出した。
「あの……ここは、どこですか」
かすれた、自分でも聞き慣れない高さの声。
男はふっと目尻を緩めた。
「喋れるんやな。そらそうか。“殻の子”が全部赤子とは限らんわな」
「……殻の、子?」
「そうや」
男は片腕を広げて、この円形の空間全体を示した。
「ここは“祈りの殻”や。昔、空から落ちてきた器やと伝わっとる。中から出てきた者は、村の者にとって——」
そこで一拍置き、少年の方をちらりと見る。
「“勇者”や、“星の子”や、いろんな呼び名で呼がれてきた」
少年が、堰を切ったみたいに前へ出てきた。
「ねぇ、名前は? 勇者なん?」
大きな瞳が、期待と好奇心でぎらぎらしている。
距離が近すぎて、朔は思わず半歩後ずさった。
(勇者、ねえ……)
残業続きの営業管理。
エクセルの画面と、プロジェクターに映された赤い数字。
「なんで取れへんねん」と怒鳴る社長の声。
あの世界には、“勇者”なんて肩書きは一ミリもなかった。
朔は手の中の金属片から、そっと指を離した。
「……黒川、朔。くろかわ、さく」
「サク!」
少年はすぐに繰り返し、にかっと笑った。
「おれ、ハル! ハル・ミナト! じいちゃんがツヅリ村の長やねん!」
元気すぎる自己紹介。
どこか懐かしい種類のうるささだ。
初老の男——ミナトと名乗るべきその人が、軽く咳払いをした。
「わしはミナト・ゲンザや。この先にあるツヅリ村のまとめ役や。まあ村長やな」
そう言って、朔の立っていた白い円を足先で軽く指した。
「サク。そこが“祈りの殻”のまんなかや。ずっと昔にも、そこから人が出てきた——ちゅう話が古い書きもんに残っとる」
「ずっと前にも……?」
「せや。殻は昔から、たまに“子”を吐き出すんやと」
“祈りの殻”。
ミナトの口からその言葉がこぼれた瞬間、朔は奇妙な違和感を覚えた。
祈り。
誰が、何に祈って、これを落とした?
この焦げ跡と、焼けた金属と、爆ぜたような壁の中で。
祈りというにはあまりに、事故現場の匂いが濃すぎる。
(祈りの殻——実験の殻、って言う方がまだしっくりくるけどな)
そんな言葉が喉まで出かけて、朔は飲み込んだ。
「サク」
ミナトが、まっすぐにこちらを見る。
「記憶は、あるんか」
「……あります。ここに来る前のことも。でも、その……」
朔は、ひび割れた天井を一度振り返った。
「そこからこっちに来るまでが、よく分かってません」
「ほう」
ミナトは「やっぱりな」とでも言うように、目を細めた。
「昔話やけどな。殻から出てきた者はみな、“違う世界の記憶を持っとる”て言われとる」
ハルが、わくわくを隠しきれない顔で言う。
「じいちゃんの本にも書いとった! 殻の子はな、遠い空ん上から落ちてきた勇者なんやって!」
「だから勇者ちゃうって」
朔は即座に否定してから、自分でも驚いた。
声が、思った以上に強く出ていた。
ハルはきょとんと目を丸くする。
「ちゃうん?」
「……俺は、ただの人間だよ」
ブラック企業のオフィスで、蛍光灯の光に焼かれていた一介のサラリーマン。
勇者なんかじゃない。
ミナトは何も言わず、その言葉だけを受け止めるみたいに頷いた。
「ええやろ。勇者かどうかは、今決めんでもええ」
そう言うと、穴の外へと手を差し伸べてくる。
「とりあえず、ここおったら冷える。ツヅリ村に来い。腹、減っとるやろ」
その言葉に合わせるみたいに、朔の腹が情けない音を立てた。
ハルがくすくす笑う。
「サク、勇者かどうかはともかく、お腹は正直やな」
「だから勇者じゃないって」
そう言いながらも、朔は差し出された手をじっと見つめた。
焦げ跡の残る“祈りの殻”。
ここが入口なら、どこかに出口もあるはずだ。
元の世界に“戻る”ためのものか、それとも——。
まだ分からない。
それでも、ここに立ち続けるよりは、前に進んだ方がいい。
朔は、子どもの小さな掌で、ミナトの手を握り返した。
歩き出した瞬間、また足が少し前に出すぎて、つんのめりそうになる。
ミナトの腕がさりげなく支え、何事もなかったかのように前を向いた。
「気ぃつけや。今のお前の足は、昔とちょっと違うやろ」
何でもないように言われて、朔は思わず苦笑する。
(……やっぱり、“借り物の体”ってことか)
祈りの殻をあとにして、朔は最初の一歩を踏み出した。
この世界で自分が“何者として”生きるのかも、
元の世界とどう繋がっていくのかも、まだ何も知らないまま。




