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プロローグ 深淵のORPHES(オルフェ)

 ——あの頃の朝は、もうずっと夜みたいだった。


 目覚ましを止めて、スマホを見る。




 未読メールの数字だけが、やたら元気よく増えている。


 黒川朔くろかわ・さく、二十九歳。




 ブラック企業と呼ばれても仕方のないリフォーム会社の、営業管理部所属。


 仕事は、数字と、人を管理すること。


 誰が、今日どのエリアを回って、




 どの家のチャイムを何件鳴らして、




 どれだけ“数字”——契約件数と売上——を積み上げられるか。


 朔の朝はいつも、その「人の動きを記号にした表」と向き合うところから始まる。


 エクセルのシートには、名前とエリアと見込み度を組み合わせた無数のマス目。




 色付きのセルと矢印で、今日のルートが視覚化されている。


 そして、その表がプロジェクターで壁一面に投影されている会議室。


「——おい、ここ。なんやこれ」


 社長の怒鳴り声が飛ぶ。


 皺ひとつない真っ白なシャツ。妙に光沢のあるネクタイ。




 健康診断の結果だけは毎年A判定の、無駄に元気な五十代。


 ミカドホールディングス代表取締役、三門みかど社長。


 プロジェクターに映し出されたエクセルの数字を指さしながら、




 白く細い指が、赤く塗られたセルをコンコンと叩いている。


「ここ、昨日“確度高”って言うとったよな? なんでゼロやねん。なぁ黒川」


「……訪問はしてます。ただ、奥さんの体調が——」


「体調? 関係あるかいな。家おるんやろ? 出るやろ、チャイム鳴らしたら」


 乾いた笑いが、会議室のあちこちで起こる。




 誰も本気で笑ってない。


 朔は、マウスを持つ手に力が入りすぎているのを自覚しながら、




 言葉を飲み込んだ。


(じゃあお前が行けよ、って言ったら終わりなんだよな)


 ゴングが鳴る前のリングを思い出す。




 セコンドの声。客席のざわめき。




 そして、対角線の向こうに立つ相手の視線。


 ——そこには、まだルールがあった。


 ここには、ない。


 数字が悪ければ、人格ごと否定される。




 「昨日までできてたよな? なんで今日はできへんねん」




「やる気ないんか? やれよ」


 やる気でどうにかなるのなら、とっくにどうにかしている。


 けれど、ここではそれを口にする権利すらない。


 昼の休憩は「電話が鳴っていないとき」に立って飲む缶コーヒー。




 まともな休憩時間なんて存在しない。


 トイレに行くのもタイミングを計る。




 社長の視界から外れた瞬間を狙って席を立つ。


 それでも、終電ぎりぎり。




 家に着く頃には、妻と生まれたばかりの子どもはもう寝静まっている。


 暗闇の中、子どもが泣いたら起こさないように抱き上げ、




 スマホのライトだけで寝室までたどり着く。


 そんな日々の繰り返し。


 ある朝、エレベーター前の掲示板に、新しいポスターが貼られた。


『社員の健康は、会社の資本!




 ——ミカドホールディングス提携 総合健診プログラム ORPHESオルフェ


 青と白を基調とした、やたら爽やかなデザイン。




 眠っている男女のイメージ写真の上に、小さな英字が踊っている。


 Optimal Regulation Program for Human Efficiency & Sleep。


(仕事効率と睡眠の最適化プログラム、ね……)


 もっともらしい英語と、それらしい略語。




 どうせ、どこかのグループ会社が始めた新規事業だろう。


「ええやんORPHES。ワシも受けたけどな、目覚めがちゃうわ」


 社長が朝礼でにやにやしながら言った。


「ストレスチェックも細かいしな。身体データは全部“うち”で管理できる。これからの会社は、人材もちゃんと『メンテナンス』せなアカンからなぁ」


 その「管理」という言葉に、朔の背中を冷たいものが撫でた。


 ——けれど、拒否権はない。


 社長の「おすすめ」は、会社にとっては命令と同じだ。


***


 健診センターは、新しくて、やたら白かった。


 待合のソファも、壁も、床も。




 まるで全部、エクセルの未入力セルみたいにのっぺりしている。


「黒川朔さーん」


 番号札と一緒に名前を呼ばれ、朔は立ち上がった。


 採血、血圧、心電図。




 バリウムの検査が終わるころには、口の中がすでに粉っぽい。


「はい、お疲れさまでした」


 白衣の看護師が、感情の抑揚のない声で言う。




 笑顔はマニュアルで決められた角度通り、という感じだ。


「このあと、ORPHESオルフェの追加プログラムのご案内がありまーす。会社からのお申し込み済みですので、こちらのお部屋へどうぞ」


 断るという選択肢は、最初から提示されていない。


 案内された小さな個室には、リクライニングシートがひとつ。




 壁には、さっきのポスターの縮小版。


『深層睡眠で、あなたの脳と心をメンテナンス』


 下の方に小さく、英語と略語。ORPHES。


「ORPHES液を服用していただきます。




 甘いような、すっぱいような味がしますけど、すぐ慣れますからねー」


 看護師が透明なカップを差し出す。


 液体は、ほんの少しだけ濁った透明。




 光にかざすと、粉のようなものが舞っている気がした。


「このあと仕事に戻っても大丈夫なんですかね」


 朔が聞くと、看護師は一瞬だけ目を伏せた。


 ほんの一瞬の“間”。


(……やめとけ、ってことか?)


 喉より先に、胃のあたりがきゅっと縮む。




 理屈じゃなく、身体のどこかが「これは飲むべきじゃない」と言っていた。


(こんなよく分からん液体、飲んだらダメだろ。




 でも——ここで『やめます』って言ったら?)


 社長の顔が浮かぶ。




 プロジェクターの前で、赤いセルをコンコンと叩く白い指。


『なんでお前だけ受けへんねん』『協調性ないなあ』




 その先に続く言葉は、想像するまでもない。


(明日の会議で、あの前の席に立たされて、




 また“数字”と一緒に人格まで殴られるのか)


 看護師の声が、戻ってくる。


「個人差はありますけど、だいたいの方は一、二時間ほどお休みいただいたら大丈夫ですよー」


 抑揚のない声。




 さっきの“間”なんて、最初からなかったみたいに。


(社長に怒鳴られるか、よく分からない薬か。




 どっちか選べって言われたら……)


 どちらも「嫌だ」とは言えない仕事を、ずっとしてきた。




 結局、選べるものなんて最初から多くない。


 朔はカップを受け取った。


 口に含んだ瞬間、安っぽいジュースみたいな甘さと、人工的な酸味が舌を刺す。




 そのすぐ後ろから、金属を舐めたような苦味が追いかけてきた。


 飲み込むと、喉の奥を冷たいものが滑り落ちていく。


 みぞおちあたりで、一度すうっと冷えたかと思うと、




 そこから今度は、内側から氷が溶けていくような不快な温度が広がった。


 心臓の鼓動と同じリズムで、ごくごく弱い振動が、血管の中を流れていく。


(なんだこれ……)


 脳の奥が、指でつつかれたみたいにじんじんする。


 その時。


 ——ざざっ。


 耳の奥で、古いラジオの雑音みたいなノイズが弾けた。




 そこに、男女どちらともつかないささやき声が紛れ込む。


 英語とも、日本語とも違う。




 意味が結ばれる直前で、砂を噛んだみたいにほどけていく。


 きき取れたのは、最後の一文だけだった。


『……ディープスリープ、ORPHESオルフェ開始』


 機械音声のように冷たい声。


 視界の端から、色が抜け落ちていく。




 看護師の白衣も、壁も、ポスターも、




 さっきまでうるさいくらい白かった世界が、ゆっくりと無機質なグレーに沈んでいく。


 そのグレーが、どこかで見たひび割れた天井の色に重なる。


(やば……このまま寝たら、また怒鳴られる——)


 社長の顔が浮かぶ。




 プロジェクターの赤いセル。




「お前、なんでその程度も管理できへんねん」という声。


 それなのに、まぶたはもう、持ち上がらなかった。


 音が遠のく。




 白い部屋とグレーの世界の境目が、溶けて混ざる。


 意識が落ちていく、その途中で。


 どこか別の場所の天井が、一瞬だけ見えた気がした。


 ひび割れた灰色の板。




 その向こうの、深すぎる青。


 海底みたいに、底が分からない青。


 そこで、音も光も、すべてが途切れた。


 ——次に目を覚ましたとき。


 天井は、もう白くはなかった。

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