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第2話 基本ですよ

◆ プロなのか?


今日のメニューを頭の中で組み立てる。


柔軟、基礎、サンドバッグ、ミット。1時間の体験で彼女の何を見極めるか、慎重に考えなければならない。

簡単すぎても興味を持たれないし、逆に最初から難しい事をやると、今後やっていけなさそう、そんな不安を与えることになるだろう。


「それでは雪谷さん。最初は柔軟体操から始めますね」

「はい。宜しくお願いします」


前屈や開脚を通して彼女の柔軟性の高さが伺えた。何かしら運動でもしていたのだろうか?それほど彼女の動きは良かった。


「はい。OKです。それでは基本となる構え方をお教えしますね。両手を顎より高い位置で構えましょう」

「こうでしょうか?」

「ええ、いいですね。そして足の位置ですが、後ろの右足はつま先の向きが斜め45度を向くようにしましょう」

「分かりました。これで大丈夫ですか?」

「ええ。とても上手です」


今しがた教えたばかりの構えはとても綺麗だ。それに柔軟性もある。直ぐに出来たという事は経験者なのだろうか?


それに体験を始める前の浮かべた微笑み……もしかしてプロか?同業の偵察なんてのも考えられる。


「では、まずこれが基本の攻撃となるジャブです。前足のステップと同時に、前の手を出します。最初はゆっくりで大丈夫ですよ」


だとしたら会長に進言すべきか?


「それではやってみて下さい」


俺の言葉を聞き、彼女は真剣な表情で頷く。左足を僅かに踏み込んだ、次の瞬間!


ステーン!と転んだ。


『あうっ』と声を漏らした後、彼女はのそりと立ち上がると構え直した。


「しし、仕方無いですよ。次は前足の踏ん張りを意識してやってみましょうか」


明らかに声が震えていることは自分でも理解していた。ちょっと待て、今どうやって転んだんだ?


『マエアシ、フンバルワタシ』


呪詛のように、彼女はぶつぶつと何かを唱えている。


「行きます!」


そして、急にスイッチが入ったように合図を出す雪谷さん。


「ええ!頑張って下さい!」


セイ!と掛け声をつけた彼女は、異様に大きく左足を踏み込んだ。教えを意識して実行してくれたのだろう。


踏ん張り過ぎた左足はつっかえ棒の様に、彼女の下半身を固定した。対して、上半身は慣性により止まることを知らず、勢いよく前方へと移動していく。


その結果。コケた、顔の方から。


「ちょっ!雪谷さん、大丈夫ですか!?」

「な、中々の難易度のようですね」


ムクっと立ち上がると、中々奥義を習得できない主人公みたいなセリフを彼女は吐いた。


「いえ、基本ですよ」

「成程。基本が一番難しいと……深いお言葉です」

「いやいや!そんな哲学的な話じゃないですから!」


思わず大きな声でツッコミを入れた俺に対し、キッ!とこちらを睨みつける。いや違う……これは?


彼女の目には悔しそうで恥ずかしそうな、そんな涙が薄っすらと浮かんでいた。


「ぐすっ、ありがとうございました。今日は帰ります」


そのまま更衣室に入り荷物を抱えて出てきた彼女は、運動着のままトボトボとジムを後にした。


この間、実に7秒である。


「……ええーっ?」


俺は状況が掴めずに、戸惑い立ち尽くすことしかできなかった。ただ、わずかに開かれた扉から入ってきた風は異様に冷たかった。



◆ 雪谷さんを探せ


「レンジ、オンナノコ、ナッカセタヨー」


サマー先生(タイ人。37歳独身のイケメン)が男子小学生みたいなノリでジム中に言い廻る。


さっと周りを見渡すと『ないわ〜』、という冷たい表情の会員さん達がこちらを見ていた。


「ム・ラ・セ・ク~ン?」


呼ばれた方へと振り返ると、凄い形相の会長がそこにはいた。こめかみに浮かぶ青筋は、ピクピルと痙攣したかのように小刻みに動いている。


(あ、これヤバいやつだ)


「馬鹿者おおお!さっさと追いかけんか!!もし彼女を入会させられなかったらクビにするからな!?」

「しょ、承知しました!」


会長の圧に負けた俺は、出入口へと猛ダッシュ。

Noirノワールと白く印字された、スタッフ用の真っ黒な半袖のTシャツに、太もも丸出しのムエタイパンツ、そして裸足に革靴という奇天烈な格好で、雪谷さんを追いかけることになった。


外にでた瞬間、冷たい風に全身をぞわっと撫でられて身震いしてしまう。さぶッ!!


「着ていけ!」


会長の温情で、サウナスーツの上だけを顔面に投げつけて貰えた。


ジムを出て直ぐに2本の別れ道。駅なら右。左は確か公園くらいしかなかったはず。ここで間違えたら、恐らくもう雪谷さんを見つけるのは難しいだろう。


考えろ。俺が彼女ならどうする?俺なら……少しだけ考えた後、一気に駆け出した。



◆ 強くなりたい理由


「探しましたよ。雪谷さん」


ジムに来た時の格好で、彼女は公園のブランコに座って黄昏れていた。


「……よく、ここが分かりましたね?」

「今は少し寒いですからね。流石にさっさと着替えたかったかなと思いまして。特に運動の後、汗が引くと底冷えしてインナーも着替えたくなる。だったら、この公園の公衆トイレが一番近いかなと。それに、半袖短パンで人通りの多い駅方面に行くのは少し恥ずかしいでしょう?」


彼女の了承を得ずに、空いていた隣のブランコへと腰掛ける。


「先ほどはすみませんでした。何ていうか、泣かせるつもりは無かったんです」

「いえ、良いんです。こちらこそ御免なさい。あの後、大変だったんじゃないですか?」

「分かります?」

「はい。その恰好を見れば……足、寒そうですね」


彼女の視線の先には、鳥肌がたった俺の生足。


「「はあっー」」と、二人同時にため息を吐く。


「本当にすみませんでした。さっきは取り乱してしまって。思わず泣いてしまったのは、貴方のせいではなく、自分の不甲斐なさからでして‥‥‥実をいうと、ああやって体験するのは初めてじゃないんです」

「そうですよね。構えに入るまでがスムーズでした。あの時は、ひょっとしたら経験者なのかなって思いましたよ」


雪谷さんは、フッと自嘲気味な笑みを浮かべた。


「ですが、私は極度の運動音痴でして。何度やってもあんな感じになるんです。前回お伺いしたジムは、マンツーマンではなく集団レッスンに混ざるというスタンスだったので、私のせいで一向にレッスンが進まずご迷惑を掛けてしまいました」

「そうでしたか……でも、どうして格闘技なんですか?他にもスポーツは色々あるのに」


沈黙の彼女を尻目に言葉を続ける。


「僕が言うのもあれですけど、格闘技なんて真剣にやるほど怪我は増えますし、練習は地味でつまらないものですよ。ヘッドギアなんてすんごい蒸れます。健康とかダイエット目的なら他にいくらでもあるのに」


彼女は、マジで?という顔を一瞬浮かべたが、直ぐに元の表情へと戻っていった。


「どうして強くなりたいのか?……格闘技をやっている人の気持ちを知りたいんです」


どうしても。と、小さく続けた。その眼差しと表情からは決意みたいなものが伺えた。一体、彼女は何を背負っているのか。


「そうですか。どうしても、ね」


それならば、既に答えは出ている。


「なら、戻って練習を続けましょうか。まだ時間はあります!」


勢いよくブランコから立ち上がると、彼女に手を差し出した。


「そんな、あんなにご迷惑をお掛けしたのに」

「そんなのは些細な事です。格闘技を知りたい人が目の前にいる。そんな人に格闘技を教える。それが僕の仕事です」


クスっと彼女は微笑んだ。


「いいんですか?知っていると思いますけど、私は相当ですよ」

「勿論。それに僕も相当でしたから。慣れっこですよ」


今度はあっけに取られる彼女。そして、力強く差し出された俺の手を取った。


「宜しくお願いします。村瀬コーチ」


肌寒いこの季節。しかし、握られた右手は確かな熱を帯びていた。

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