第1話 アルバイト先
◆スマッシュブラザーズ
「お前等!もうすぐ若い女が来る!絶対に入会してもらうぞおおお!!」
「「「うおおおおおおおおお!!!」」」
男達はホワイトボードの前に立つと、とてつもない熱量を発しながら叫んでいた。
「書記は新田!司会はこの俺、三田が務める!意見のある奴は挙手してガンガン発言してくれ」
「はい!」
「はい!福井くん、言ってみろ!」
「清潔感が第一だと思います。つまり、今から皆で清掃活動を行うのはどうでしょうか?」
男達は周りを見渡すと首を横に振った。
「うちのジムは清掃は行き届いているからな。これ以上綺麗にしようと思ったら、設備を刷新するくらいだろう」
「ん〜、確かにですね。コーチ陣が清掃に力を入れているしなあ……ありがたいですね」
なんて、嬉しいことを言ってくれた。そう、会長の考えで、うちのジムはとにかく清掃に力を入れている。掃除機だのアルコールスプレーは当たり前。
ハタキや松井棒、最新のハンディクリーナーも総動員させて一日に3回は清掃をしている。
「他にはないか!?」
「はい!清潔感のない男。つまりブサイクをジムから追い出すのはどうでしょう!?」
「いい案だ!」
三田さんは周りを見渡してから、大きくため息を吐くと、長めの前髪をかき上げた。
「何だ……俺以外は失格か」
「「「テメエが真っ先に表出ろやあ!!」」」
そうして始まる場外乱闘。
俺はといえば、次々と舞い散る埃をハンディクリーナーで、ブオオッと吸い上げていた。
何故、男達はこんなにも醜い争いをしているのか?
それを説明するためには、話を数十分だけ遡る必要がある。
◆無料体験
─20分前─
「アイッ!!」
たるんだ腹を揺らしながら、中年の男性がミットに渾身の右ストレートを叩き込む。その度に「パン!」と、空気の潰れる破裂音が響き渡った。
ジムの片隅に吊り下げられたサンドバッグは、どれも長年の激闘の証として、ところどころ黒いテープで補修されている。それらを叩く度に「ウーラッ!」「ッシャア!」と野太い雄叫びが上がった。
ここは『ノワールキックボクシングジム』
黒木会長曰く、ただの『黒木道場』では格好がつかないから、フランス語のノワールを採用したらしい。ちなみに現役時代のリングネームは『ブラックツリー黒木』。意味が重複してんじゃん!と当時ひっそりツッコんだことを思い出す。
そんな男臭さでむせ返るような空間───ここが、俺のアルバイト先だ。
「お疲れ様でした!ミドルキックが半端ないですね。ぶっ飛ばされるかと思いましたよ」
ミットを打ち終えた会員さんが、肩で息をしながらも嬉しそうに笑う。その顎からは、ポタポタと汗がリングに滴り落ちていた。
「ありがとうございます。でも、もっと踏み込みを意識したほうがいいですかね?」
「はい!そうしたら本当にぶっ飛んじゃいそうです」
そう言って笑い合った。
俺はトレーナーとして、会員さんに適度な負荷をかけつつ、達成感を感じてもらうことを大切にしている。誰かが嬉しそうにしている顔を見るのは、純粋に嬉しいものだしね。
「おい、村瀬。ちょっと来てくれ!」
一息つこうとしたところで会長から声が掛かり、小走りで近寄る。
「どうしました?」
「いや、急で悪いんだけど、この後の無料体験、お前が担当してくれんか?」
「それは構いませんが……」
いつもなら会長が自ら担当しているはず。体験者としても、その方が安心だろうに。
「これを見ろ」
会長がスッと差し出したタブレットには、お問い合わせフォームが表示されていた。
「……25歳、女性?マジっすか」
「そうなんだよ!若い女を前にすると極度に緊張するのは、お前も知っているだろう?」
客商売をやっていながら、いまだに若い女性とまともに話せないらしい。いや、無理もないか。会長が現役の頃は女性会員など皆無だっただろうし、このジムに今もいるのは会長と同い年くらいの婦人だけだ。
「しっかし、この雪谷椿姫さん?……よく来る気になりましたね」
ジムを見渡す。汗と熱気のミルフィーユ。普通の女性が足を踏み入れる空間ではない。
「実は、ホームページをリニューアルしてくれた担当が、『女性にも検索してもらいやすいようにしましょう!』って言ってたんだ。その成果かもしれない」
「なるほど」
そう言って頷く俺だったが、気がかりが一つ生まれた。
今しがた、会員の新田さんが邪悪な笑みを浮かべながら、俺達の会話を盗み聞きしていたような?何でか、皆でホワイトボードの前に集まっているし……。
疑問に思った俺は、テクテクと彼らの方へと歩みを寄せた。
◆雪谷さんのご来店
そして現在に至るわけだ。
「「オオオオオオッッ!!」」
男達の不毛な争いは激化の一途を辿っていた。互いが互いの容姿を余りにも的確にこき下ろしあったことにより、皆のライフは限りなくゼロである。
それでも男達は口を止めなかった。泣きそうになりながらも、互いの悪口を言い合っては傷つけ合う。その光景はさながら───特に思いつかなかった。うん、普通に見苦しいわ。
そんな時、チリン!と扉を開ける鈴の音が響き渡る。そこから出てきたのは、この場に最も相応しくない人物だった……勿論、いい意味で。
『あっ……』っと、全員が息を呑む。
「こんにちは。体験をお願いしていた雪谷です」
透き通った美しい声。その声に、ジムの男たちが一斉に動きを止めた。誰もがその女性に釘付けになる。
雪のように白い肌。美しく長い黒髪に、彫刻のように通った鼻筋。そして、深く、底の見えない黒い瞳。
『綺麗』という言葉を体現したような彼女が、そこに立っていた。
固まる男たち。そして、口を開けたまま目をパチパチさせている会長。それはまるで太陽を見てしまったモグラみたいだ。
(目をやられたか……!!)
会長は使い物にならないと判断し、俺は一人で最後までやり遂げる決意を固めた。
「はじめまして。本日担当させていただきます、トレーナーの村瀬蓮司です」
「はじめまして。本日は宜しくお願いします」
彼女は凛とした瞳で、真っ直ぐに俺を見つめてくる。気恥ずかしさを感じ、足早に話を続けた。
「あちらが女性用更衣室です。お着替えが終わったら、こちらまで来ていただけますか?」
「はい、分かりました」
彼女が更衣室に入っていく。その瞬間、男たちが一斉に俺の元へと詰め寄ってきた。
【ダダダダダダダダッ!!!】
「おい、あの別嬪さんは誰だ!?女優か!」
「普通に無料体験の方です!いいですか、くれぐれも変なちょっかいは出さないように!」
俺が語気を強めると、男たちは無言で頷く。そして、互いの身体にファブリーズを掛け合っていた。
「うおおお!口に入ったあ!?」
「何度も股間にかけてくんな!……えっ、臭くないよな?」
なんて会話をしながら。
そんな茶番を繰り広げていると、ガチャリと更衣室のドアが開かれた。
その音に、男たちが再び動きを止め、固唾を呑む。彼らの視線が、一斉に更衣室の入り口に集中する。
そして、その奥から彼女が姿を現した。
スカイブルーのハーフパンツから伸びる、細く白い足。シンプルな黒いTシャツ。簡素な装いだからこそ、彼女のスタイルの良さが際立っている。
現在の彼女の髪型は、一つにまとめられたポニーテール。歩く度に揺れるその尻尾を、男たちは馬の前にぶら下がるニンジンが如く凝視する。
それは俺も例外ではなかった。
(やばい、意識が持っていかれる……!)
俺は頬を数回ペチペチと叩き、どうにか集中を取り戻す。周囲を見ると、会長は相変わらず口を開けて固まっている。会員さん達は彼女の一挙手一投足をキマった目で追っていた。
「あの、着替え終わりました」
彼女の声が、静まり返ったジムに響き、その凛とした声に皆が我に返った。
俺もプロだ。相手がどれだけ美人でも関係ない。そう自分に言い聞かせながら彼女の前に立つ。
「雪谷さん。それでは体験を始めましょうか」
「村瀬さん。お手柔らかにお願いしますね?」
彼女は妖艶に微笑む。その瞳からは、強い決意と圧倒的な自信が見て取れた。
(これは一筋縄ではいかなそうだな……)
俺はギュッと拳を握り締めながら、今から行う体験の内容をフルスロットルで練り上げていった。
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