第12話 お兄ちゃんとの出会い
◆デートよね?
心臓がドキドキと高鳴るのを、私は抑えられずにいた。
自分からレンジの手を握っちゃったけど、嫌がってないよね?
そんな不安をかき消すように小指だけ握っていた手をそっと開くと、改めて薬指と一緒にギュッと握りしめる。整った温和な顔立ちに似合わず、ごつごつとした無骨な指先を。
勿論、今までも手を触れたことはあったけど、それはキックボクシングの練習でのこと。こんな風にプライベートでレンジの手を握るのは初めての事だ。
私がこれだけ恥ずかしがっているというのに、レンジと云えば、どこ吹く風という表情で私の横を歩いている。
そんな彼が一瞬顔色を曇らせた事が気になり、視線の先を追うと、そこにあったのは交番だった……この馬鹿!
大方、私とこうして歩いていることが犯罪なのではないか?と、真剣に頭を悩ませているのだろう。
堂々としてなさいよ。別にやましい事をしている訳じゃないんだし……人によっては、こ、恋人同士だと思うわよね?
そんな私の内心に、一切気が付いていないであろうレンジが口を開いた。
「そういえばさ。前にも、こんな風に手を繋いで歩いたことがあったよね?」
「え?……あ、あれはノーカンよ!忘れなさい」
「恥ずかしがることないのに。美香ちゃんが、一人でジムに来ようとして迷子になった時だったよね?いや、懐かしいなー。あの頃の美香ちゃんは本当に可愛くてさ」
「悪かったわね!今は可愛くなくて」
何なのよ……人の気も知らないで。今日だって可愛いと言って貰いたくて、服選びだって時間をかけて頑張ったのに何も言ってくれなかったし。
もうイヤダ……レンジといると私は情緒不安定になる。今だって泣きたい気持ちを何とか堪えている。
私はただ、褒めて欲しかっただけなのに。そんな私の耳に、素っ頓狂な驚く声が聞こえた。
「えっ!?……今だって可愛いって思ってるよ。ただ、今日の格好を見ていたらさ。何ていうか、綺麗になったなって」
少しだけ照れくさそうに、ポリポリと頬を掻いていた。
ツッッーーー//
本当に何なの?そんな風に言われたら、何て言えばいいか分からなくなるじゃない。
私はレンジの胸に目掛けて頭突きをすると、ぐりぐりと頭をねじ込んだ。
「うわ!どうしたの、急に?」
「……うっさい。バカ……」
こんな顔を見られたくない。
私は、にやけ切った表情がおさまるまで、ここに避難することにしたのだ。
相手の懐が一番安全、という格闘技の言葉を実践したまでよ。
レンジと初めて会った日の事だって、私は今でもはっきりと覚えている……。
◆初めて彼と会った日
あれは9歳の時。ママに手を引かれ、パパが経営している格闘技ジムに連れていかれた日の事だった。今までも何度か遊びに行った事はあったけど……
この日は、少しだけいつもと違った。
「シアアッ!!」
そんな声と共に、ズドン!とサンドバッグが縦に大きく揺れ動いた。サンドバッグは横に揺れるものだと思っていた私は、ギョッとしてその男の人を見続けていた。
(す、すごい……)
これは後でパパに聞いた話だけど、この日は出稽古に来ていたそうだ。だから、普段は別のジムで練習をしているらしい。
その人は鬼気迫る表情というか、誰も寄せ付けないような雰囲気を放ちながらひたすらサンドバッグに攻撃を繰り出している。
事実、一緒に練習している誰一人として彼に言葉を掛ける人はいない。彼もまた、この空間に自分しか居ないように目の前だけを見ている。
只でさえ幼かった私は、その男の人が凄く怖かった。けれど同時に目が離せずにいた。
だって、その人の攻撃は強くて速くて……何より凄く綺麗だったから。人って、あんな風に動けるんだと幼いながらに感嘆させられたのだ。
休憩のインターバルで、汗まみれのその人が大きく呼吸を繰り返す度に、胸のあたりがドクドクと大きく躍動する。
当時は勿論、今の私でも表現するのは難しいけど、『生きているんだ』そんなシンプルな感想が頭を過ったのだ。
彼の技を、彼の事をもっと近くで見てみたい。そんな衝動に駆られた私はママの制止に耳も傾けず、トタトタとその男の人のすぐ横へと移動した。
悪い意味で、この環境に慣れてしまった私が悪かったのだと思う。ここの会員さん達は、みんな私に優しかったから。
だから、この人も私に対して優しく接してくれるだろうと高を括っていたんだ。でも……
「あっち行ってろ。怪我しても知らねーぞ」
こちらを一瞥して、ニコリともせずに冷たく言い放たれたその言葉は、幼い私にショックを与えるには十分だった。
私は今、この人に嫌われてしまったのだと。
「ご、ごめんなさい」
そんな謝罪の言葉を出しても、彼は何も言ってくれない。悲しくてトボトボとシャドー用の大きな鏡の前を移動して、ママの元へと戻ろうとした時だった。
鏡の前でダンベルを持ってシャドートレーニングをしていた人が、汗で滑ったのか右ストレートを放った時にうっかりダンベルを手離したのだ。
ブオン!!という風切り音を発しながら、それは勢いよく私の眼前に迫ってきた。
「イ、イャ!」
私は向かってくるダンベルへの恐怖心から目を閉じた。もしも直撃していたら?と、思い返すとゾッとする……それほどの速度だった。
けれど、いくら経てども痛みが襲ってくることは無い。恐る恐る目を開けると、私の直ぐ目の前には、あの人が立っていた。
どうやって私を守ってくれたのかは分からないけど、彼の足元には先ほどのダンベルが無造作に転がっていた。
「痛って」
そう短く零すと、彼は私に鋭い視線を向ける。
「危ないから気を付けな」
彼は怒っている様な、困惑したような表情を浮かべていた。私に怪我をさせずに済んだという安堵感なのか。不注意にもダンベルを落としてしまった練習生に対する憤りだったのか。それは、結局分からず終いだ。
でも、これだけは分かる。彼は最初から、私の事を心配してくれていたのだ。
大の大人が密集して激しく動いている最中、私みたいな子供がうろちょろしていれば、何かしら怪我に繋がるかもしれないと。
だから、私がママの元に無事に戻れるように、さりげなく後ろにいてくれたんだろう。
そして、未だに泣きだしそうな私を見ると、彼は無理やり笑って見せてくれた。それは全然温和じゃない笑い方。
何だか、野生の狼が頑張って犬歯を隠しました、みたいな不器用な微笑み。けれど、そんな表情を見せてくれた事が嬉しくて……。
「うん!ありがとう。お兄ちゃん!」
私は満面の笑みを浮かべて感謝を述べた。
それから色々あって、私たちは今の様な関係に落ち着いたわけだけど、彼の不器用な優しさはあの頃から変わらない。
昔の彼を知る人の中には、優しくなった、と表現する人もいる。でも、私から言わせれば何一つとして良いところは変わっていない。
あの後、社会に出たりして彼なりに表現を変える努力をしたんだと思う。そうした積み重ねが、大衆に理解しやすいものへと姿を変えただけだ。
私だけは、それを知っているんだ。
「あっ」
そんな風に過去に思いを馳せていた私は、歩いている最中に地面に転がっていた大きな石に足を取られてしまった。
前のめりになって転びそうになった瞬間、繋いでいた手が強く引かれ、私はそのまま彼の胸の中にスッポリと収められた。
「危ないから気を付けな」
彼の顔を見上げると、思わず笑って吹き出しそうになってしまう。そんな私を、彼は怪訝そうな表情で覗き込んでいた。
仕方ないわよね?
だって、彼はまるで、あの時みたいな表情を浮かべていたのだから。そして、きっと私もあの時の様な表情をしている。
だから、今度もこう言うのだ。
「うん!ありがとう……レンジ!」
ほら、やっぱり変わってなんかいない。あの頃からずっと、私の大好きな人のままだ。