第9話 マススパーリング
◆一線を超え……
「ねえ、村瀬さん。早く来て」
ベッドの上、一糸纏わぬ姿で雪谷さんは俺にそう言った。胸元を布団で覆ってはいるが、隙間から見える彼女の真っ白な谷間から目が離せない。
潤んだ瞳と短く漏れる吐息が官能的で、気が付いたら彼女に覆いかぶさっていた。
「ほ、本当にいいんですか?」
「……恥ずかしい事を言わせないで下さい」
堰を切った様に彼女と肌を重ねようとした時、彼女は俺の唇にピタッと人差し指を当てた。
「ねえ。まずは、こっちから」
「こ、こっちって何ですか?」
「もう、分かっている癖に意地悪ですね」
「キ、キス?ですか?」
ゆっくりと彼女は首を横に振る。
「ピ、ですよ。」
「ピ?」
「そうです。ピピピピ」
「……雪谷さん?」
「ピピピピ!ピピピピ!ピピピピピピ!」
「ゆ、雪谷さーーーーん!」
ピピピピ!
そうして、スマホから聞こえてくるアラーム音で目を覚ました。
「……死にてえ」
最悪だ。あんな事があったにせよ淫夢を見るって、どれだけ俺の脳と下半身は単純なんだよ。
昨晩バーで俺に甘えてくる雪谷さんを何とかやり過ごし、少々強引ではあったがタクシーを捕まえ彼女を帰宅させた……彼女は最後まで抵抗していたけども。
「しかしなあ。雪谷さん、酔っ払うとあんな感じになるのか」
俺も男だしね。美人に甘えられるのは悪い気がしないというか嬉しい。凄く嬉しい。
そこに邪な感情が介入していたことも素直に認める。
逆にあのタイミングでタクシーに乗せる事が出来なければ、理性が崩壊して彼女とそういう関係になっていたかもしれない。
そう思える程、昨晩の雪谷さんは積極的で煽情的だったのだ。
ぴたりと身体を密着させて、甘くて柔らかい声を発する彼女の破壊力はかなりのものだった。今でも、彼女の体温が残っているような錯覚すら覚えた。
しかしだ。ナンパに絡まれて怖い思いをしたから、その反動でああなったのではないか?と思うと最後の一線を越える様な真似は出来なかった。
何というか、人の弱みに付け込んでいるかの様な気がして。
加えてこれは俺自身の問題だけど、果たして俺は彼女が好きなのだろうか?という疑問が頭の中を駆け回ったのだ。
仮に彼女のことが本当に好きで今後もずっと一緒に居たい。本気でそう思えるならば、俺からしっかり告白すればいい。
まあ、そもそも彼女は俺の事を男として見ていない可能性も盛大にあるわけで。
何ならここまで彼女が俺に惚れている事を、さも前提みたいに考えていたこと自体、死ぬほど恥ずかしい。
ただ、もしも彼女が美人という理由だけで性欲に結び付けての勘違いだとしたら、それはお互いにとっていい事はないと思うわけで……。
はあ。次にどんな顔して彼女に会えばいいのだろうか。
『あああああっ!!』
どうせ答えは考えても出ないんだ。それならばと、スポーツバッグにキックパンツやバンテージを詰めると早々に家を出た。
◆出稽古
本日は出勤日ではないがジムに足を運ぶことにしたのだ。
目的は自主練である。こういう時は思いっきり汗を流して頭をすっきりさせるに限る。
そうすれば一人でうだうだ考えるよりも、少しはマシな答えが出ると、経験則で分かっていた。
ジムまでは自宅から徒歩20分程度。バスを使った方が多少は早く到着するが、運動も兼ねて毎回こうやって徒歩で通っていた。
「こんちわーっす!」
勢いよく扉を開けて挨拶すると会長がこちらを見て明るい顔を浮かべた。
「お~!村瀬。丁度良かった」
「どうかされました?」
「休みの日で悪いんだけどよ。彼とマスして貰えないか」
「彼?……ああ、出稽古の方ですか」
会長の視線の先には、ズバン!といい音を立ててサンドバッグを叩く若者がいた。大学生くらいだろうか?身長は俺より高く180センチはあるだろう。体格がしっかりしていてパワーがありそうな子だった。
ちなみにマスとは、マススパーリングの略称だ。寸止めや凄く軽く攻撃を当てる実践練習のことを指す。力の目安は3割以下くらいだろう。
「専門学校に通っているっていったかな?年は二十歳で、近い内にプロデビューが控えているそうだ。階級は70キロ周辺だし、お前と同じくらいだ」
「……構いませんよ。キックルールですよね?」
「おう、助かるわ。首相撲と肘は無しな」
「了解です。それでは準備してきますね」
脛当てや膝パッドを付けていると、出稽古の若者がこちらへと近付いてきた。
「どうも田辺っす。宜しくお願いします」
「……村瀬です。こちらこそ宜しくお願いします」
若さ故か、彼はとても自信に満ち溢れていた。というより、少々見下されている気がして悲しい。
口調こそ丁寧だが視線や表情が物語っているのだ。
『俺の方が強い』と。
防具をつけ終えると、水を一口含んでマウスピースを噛み締めた。マスとはいえ攻撃が当たれば口内を切ることもあるしね。付けるに越したことはない。
大きな16オンスのグローブを嵌めるとリングへ上がり、ロープに背中を預けて背中を伸ばした。
「そんじゃあ、始めるぞ」
会長の声に俺達が頷く。そうしてマススパー開始のブザーが鳴り響いた。
それと同時に、ダダダッ!と闘牛の様にリングサイドから一気に距離を詰めてくる。
「シッ!」
「おっ」
そして、俺の顔面に向けてジャブを放ってきた。その攻撃は中々鋭いもので、実践練習が久し振りの俺は少々面食らってしまった。
「シシッ!!」
俺が腕でブロックをすると直ぐにワン・ツーを打ってくる。
おおー、いい動きをするな。フォームも綺麗だし中々圧力もある……さてどうしたものかな。
立場上はお客さんの練習相手を勤める身でもあるわけだし、何かお土産を持たせて上げないといけないだろう。
「シッシッ!シアッ!」
勝ち気な性格みたいだ。先程からワン・ツー・フック・ローキックなど基本的なコンビネーションをガンガン繰り出してくる。
こういう時に焦って打ち返すと相手に隙を与える事になるから注意が必用だ。
パンチに対しては、パリングとブロッキングの組合せで対処し、キックには足を上げてカットする事で防いでいく。
互いの足が交差し、ガッ!という音を立てた。
「ッ……!シッシッ!!」
中々攻撃が通らない事にイライラしているみたいだな。技のキレはあるが、残念なことにリズムが単調なのでタイミングが分かりやすい。このままでは、少し強い相手に勝つのは難しいだろう。
そろそろ指摘してあげるか。
彼が大きく踏み込んで右ストレートを打つ瞬間。
「スッ!」
前に出ている左足に右のローキックを放った。過剰に体重が乗った状態でのカットは不可能だ。
そのローキックが膝の真横にポスッ!と当たると、彼の顔はみるみると焦燥感に包まれていく。
伝わって良かった。マスだから強くは打てないけど、本来ならば急所にカウンターで入ったローキックだ。
プロの試合は素足同士。その状態で貰ったらダウンを喫していたかもしれない。
しかし田辺君はまたしても大きく踏み込み、パンチ勝負を仕掛けてきた。意地になっているのか偶然だと高を括ったのか?
「アシッ!アシッ!」
彼のパンチが俺の腕に当たる度にドスドス!と鈍い音が鳴る。
その勢いは段々と強くなっていき、マスの範疇を明らかに超えたものになっていた。というより全力じゃね?
こうなると、口で言っても無駄だろうし仕方がないか。
俺はまたしても、彼の踏み込みに対してキックを放つ。今度のは相手の足を掬い上げるようにして、ふくらはぎを蹴り上げた。
「あれっ?」
スイープにより左足が持ち上げられ、体制を崩した田辺君は、フワリと宙に舞った直後にドスン!とマットに尻餅をついた。
「クッ~……!!」
余りにも簡単にこかされた事で、彼の顔は羞恥に染まっていく。こちらを睨みつけるようにして立ち上がると、今度はジリジリと距離を詰めてきた。
うんうん良かった。これが本番なら焦って試合どころではなかったはずだ。
彼の弱点は、攻撃が一辺倒になり重心が前に行き過ぎたり、足元への意識がお留守になるところ。実力差があればゴリ押しでも勝てるだろう。
しかし、技術力を持った相手にそれをやっても簡単に試合を支配されてしまう。
(勝つ為には攻防のバランスが必要不可欠だ)
ビッー!ビッー!ビー!
そうして、3分間のマスは終了した。
「……ハアッ、ハアッ……ありがとう御座いました」
「いえ、こちらこそ。試合頑張ってくださいね」
ペコリと無言で頭を下げた彼は、そのままリングを降りるとレガース等を外していた。
それを確認した後、リングロープに寄り掛かっている会長に声を掛ける。
「あんな感じで良かったですか?」
「おお、上等上等!彼んとこの会長さんからお願いされてな。攻撃ばっかで相手を見ていないから気付かせてやって欲しいって。お前が来てくれて良かったよ。サマーに頼んだらトラウマ植え付けるだろうし。他の連中だと、勝手にガチスパーに移行しそうだしな」
「そうでしたか。なら良かったです……彼、きっと伸びますよ」
田辺君はシャドーへと移行して自分の動きを細かく確認していた。口にこそ出さなかったけど、しっかりと課題が見えたようだ。
「……本当に良かった」
俺は小さく呟く。
「村瀬、なんか言ったか?」
「いえ、何でもありませんよ」
俺と会長がそんなやり取りをしていると、チリンと鈴の音を立てて扉が開かれる。
「こんにちは」
扉を開いたのは、セーラー服に身を包んだ女子高生だった。
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