白い花は夢に咲く
その日は雪が降っていた。
山の上の小さな屋敷。その窓辺から見える庭は、今では白く閉ざされ、誰の足跡も残されていない。
かつて、花が咲いていた場所だった。春にはユリが揺れ、夏にはダリアが咲いた。幼い頃はよく遊んだものだ。
その景色は今、ただ雪に覆われ、静かに眠っている。
――今度の冬は越せないかもしれない、と医者は言った。
家族はその言葉を聞いて、少しだけ悲しそうな顔をして頷いた。それきり、もう部屋には来なくなった。
ネーヴェは、白い布団の中で膝を抱えて、窓の外を見つめていた。
冷たい雪の先に、咲いていない花を思い出す。
けれど――夜が訪れるたびに、彼女はもう一つの景色を知るようになる。
それは夢の中。ほんのわずかに白い蕾をつけた、誰も知らない花畑。
◇ ◇ ◇
「今日も外に出られそうにないな……」
俯き、悲しそうに呟くネーヴェ。
さらりとした銀の髪が揺れる。薄紅の瞳は窓の外を見ていた。
陽の光が雪に当たりキラキラと反射している。最後に雪で遊んだのはいつだったか。
「今は14歳。次が、15……」
15歳になる頃には元気になっているだろうか。
医者には今度の冬は越せないと言われている。両親は元々そっけない態度だったが、医者の言葉を聞いてからは全く会いにこなくなった。
「……今日は、良い天気」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
ネーヴェは一人きりの部屋で窓から空を見上げる。
今日の空は、透き通った綺麗な青をしていた。
◇ ◇ ◇
何をするでもなく、時は過ぎていく。
気がつけば昼の青はすっかり夜の闇に溶けていた。
「お嬢様、夕食をお持ちしました」
コンコンと扉を鳴らし、トレイを持った使用人が部屋に入ってくる。
両親が会いに来ない今、使用人だけがネーヴェの支えになるはずだった。
「ありがとう!今日の夕食は何かしら?あっ、ねえ、お父様とお母様は元気にしている?それと……」
逸り気味にお喋りをするネーヴェだが、それを遮るように使用人は口を開く。
「夕食はお持ちしましたので。それでは」
軽く頭を下げてドアを開け、出ていってしまう。
今日もか、とネーヴェは肩を落とす。
使用人が冷たいのは今に始まったことではない。病を繰り返すようになった頃からだ。
なぜ素っ気ない態度を取られるのかネーヴェにはわからない。だが、それでもネーヴェは皆の事が好きだった。
目線を落とすと、テーブルの上にビーフシチューが置かれていた。
とろりと煮込まれた深い赤茶色のそれは、ネーヴェが昔から好んでいたものだ。
しばらく食べることがなかったビーフシチューを前に、ネーヴェの眼差しがかすかに和らいだ。
「いただきます」
ネーヴェはスプーンを手に取り、ビーフシチューを掬う。
ゆっくりと煮込まれた肉は、ほろほろと崩れるほど柔らかく、ソースにほんのりとした甘みと重なり合う旨味があった。
一口、また一口と食べ進めるネーヴェ。
思い出すのは、幼い頃の食卓だった。
「あの時も、お母さんがビーフシチューを作ってくれたんだったな」
風邪を引いて寝込んでいた冬に食べた味と変わらなかった。そこにある確かな愛情を感じて、ネーヴェは嬉しそうに微笑む。
暫くして食べ終えた食器を下げてもらい、ネーヴェは再び寝床についた。
好物を食べたおかげで、胸の奥がじんわり温かい。
外は相変わらずの雪だが、心は少し穏やかだった。
今日はいい夢が見られそうだ、とネーヴェはひとりごつ。目を瞑ったネーヴェの意識は、ゆっくりと微睡んでいく。そして、ネーヴェは夢を見る。
その頃、ネーヴェの母は使用人と話をしていた。
「ねぇあなた、ネーヴェは今日もご飯を完食できたかしら?」
「はい、奥様。いつも通り、完食しています」
「そう!よかった……まだそこまで身体は悪くないのね」
「はい。今日も窓辺で外をご覧になっていました。良いことでございます」
それはごく普通の、娘を心配する会話だった。
ネーヴェは冷たくはされているが、嫌われてはいないのだ。
「しかし、奥様。あまり情が移るようなことは……」
「わかってるいるわ。私達町長夫妻が娘を失って仕事が手につかなくなるようではだめだもの。わかっているのよ」
ネーヴェは覚えていないだろう。
母が優しく毛布をかけてくれたこと、ネーヴェを思って毎日ご飯を作ってくれたこと。
ネーヴェは知らないだろう。
街の人がネーヴェの病気をなんとか治したくて募金を募っていること、その募金を使って父が医者を訪ね、たくさんの薬を用意してくれていることを。
皆、ネーヴェを愛しているのだ。
それ故に、傷つきたくない、悲しみたくないという思いが強く、冷たくしてしまう。関わりを持たなければ悲しむこともないだろうと、部屋に行かなくなってしまった。
それが、ネーヴェを苦しませることになるとわかっていても、そうしなければ皆の心は耐えられないのだ。
◇ ◇ ◇
見たことのない花畑。そこにネーヴェは立っていた。
まだ蕾だが、白い花がぽつりぽつりと咲いている。これはユリの花だろうか、ネーヴェはしゃがみ込み、蕾に触れようと手を伸ばす。
その時、背後に人の気配がした。
ネーヴェが慌てて振り返ると、そこには黒髪の背の高い青年が立っていた。
「こんばんは。君を待っていたんだ」
青年はそう言った。だがネーヴェは彼の姿に見覚えがない。
「ええと、私、貴方とどこかであったかしら?」
「いいや?初めてだよ。でもこれからたくさん会うことになる」
青年は当然のような顔をしているが、ネーヴェはわけがわからないといった顔をしている。
初めてあった男に、これからたくさん会うと言われても意味がわからないのは当然だ。それに、これは夢。また同じ夢を見るとは限らない。今後会うことはないだろう。
だが、ネーヴェはこう尋ねた。
「じゃあ、名前を聞いておかないと。貴方の名前はなんていうの?」
「僕はノクス。君はネーヴェだね、会えて嬉しいよ」
ノクスはそう言うと手を差し出す。
初めてあったはずなのに、その声はまるで昔から知っているかのように懐かしく響いた。
ネーヴェは手を取って立ち上がり、まじまじとノクスを見つめる。
夜の闇のような黒い髪に、黒い瞳。この地方ではあまり見ない色だ。珍しい色にネーヴェはすっかり魅入ってしまっていた。
「そんなに僕が気になるかい?」
ノクスは少し恥ずかしそうに頬を赤らめて目線を逸らしている。
「ええ、この辺りでは黒は見ないから」
でもこれ以上見つめるのも失礼か、と代わりに目を向けた先では白一色の風景が静かに広がっていた。
「ここは白い花しか無いのね」
「ここは君の夢の中だからね。君が望んでいるものが反映される。白い花が好きなのかい?」
淡々と、だが優しい声でノクスはそう言うと、花畑に寝転がる。ぽんぽんと隣を叩かれ、ネーヴェは戸惑いながらもノクスの隣に寝転がった。
見上げた空はいつか見たような、きれいな澄んだ青だった。
「昔一度だけ家族で遊んだことがあるの、庭にある白い花畑で」
ネーヴェが5歳の頃だ。突然両親が、庭で遊ぼうと言い出した。これまで一緒に遊んでくれたことなんてなかったというのに。
だからこそネーヴェは鮮明に覚えていた。
「きれいな青空の下、白いユリが咲き誇る春のことだったわ。あの頃は今より身体の調子が良かったの。追いかけっこをして、花冠を作って……日の終わりには栞も作ったわね。懐かしい」
今はもう一緒に遊ぶなんてことないけれどね、と自嘲気味に笑うネーヴェを、ノクスは何を考えているのかわからない真っ黒な瞳で見つめていた。
「君は、その思い出をとても大切にしているんだね」
しばしの沈黙の後、口を開いたノクスはそう言った。
「思い出は、忘れたくないの……でも、思い出に縋ってばかりじゃだめよね」
そう言うネーヴェの声は少し震えていた。
「無理に前を向かなくてもいいんだよ」
ノクスの声が雪のように静かに降ってくる。その答えにネーヴェは顔を上げた。
「君が夢を見続ける限り、僕はここにいられる。一緒にいてあげられるよ」
ノクスは微笑む。ネーヴェは目を見開きこう言った。
「また、会えるの?」
「もちろんさ、ここは君の夢の中。君が望めばいつだって会える。この花畑に花を咲き誇らせることもできるよ」
また会いたいと思った。こうして人と話すのは数年ぶりだから。
見てみたいと思った。庭の花はすべて枯れてしまって、春になっても咲かないから。
「どうやったら花を咲かせられるの?」
早く見たい、と言うようにネーヴェはノクスを急かす。
ノクスはゆっくりとネーヴェの頭を撫でながらこう言った。
「それはまた次の機会に、もうお目覚めの時間だよ」
「え、まって、まだ……」
言い終わることもなく、ネーヴェの意識は落ちてゆく。
「また、ここで待ってるよ」
その言葉が耳に入ってきた頃には、もう既に夢から目覚めようとしていた。
そして、夜が明けた。
◇ ◇ ◇
カーテンの隙間から少しばかりの朝日が差し込んでいた。今日の天気は曇りのようだ。
目が覚めたネーヴェは、窓際にある一輪挿しを眺めていた。季節外れのユリの花だ。街では季節問わず花を咲かせる技術があるらしい。ユリが好きなネーヴェのためにと、街の人が持ってきてくれたものだ。
(もう少しお話をしていたかったのにな)
ケホケホと咳き込みながらゆっくりと起き上がる。今日は昨日より体調が悪い。起き上がるのも一苦労だ。
身体全体の倦怠感と戦いながらなんとか机まで移動する。
机の上にはすでに朝食が置かれていたが、まだ温かかった。いつも起きる時間が同じだから、合わせて作ってくれているのだろう。
「いただきます」
手を合わせてそう言うと、朝食を食べ始めた。
今日の朝食はふわふわのロールパンにベーコンエック。オニオンスープにフルーツサラダもついている。
全てネーヴェの好物だ。だが、全然手が進まない。胃が食べ物を拒否してしまっていて中々飲み込めないのだ。
「今までこんな事、無かったのに……」
今まで出された食事は完食していた。
ネーヴェは急に不安になってきた。自分の身体は思っている以上に弱っているのではないか。本当に次の冬を越せないかもしれない。
なんだか泣きそうになってきたが、ぐっと堪える。
諦めてはいけない。いつかきっと病気が良くなって、家族仲良く暮らせるはず、そう信じてネーヴェは頑張って食事を摂る。
結局、半分ほどしか食べられなかった。
残してごめんなさい、と頭を下げて残りは処分してもらった。
使用人は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに出ていってしまった。
「今日もお話出来なかった……あ、でも」
夢の中でノクスが待っている。それを思い出し、ふふ、と笑顔になった。
「今日はこの体調だと外を眺めに行くのも大変だし、ずっと横になっていよう……」
倒れないようにテーブルに手をついてゆっくりと立ち上がり、壁を支えに寝台まで歩く。
今までは何とも思っていなかったこの寝台が、今では希望に見えた。
ノクスとまた会える、話せる。花を沢山咲かせて遊ぶことだって出来るかもしれない。
その希望を胸にネーヴェは眠る。
窓際のユリには目もくれずに。
◇ ◇ ◇
目を開けると、そこは白い花畑だった。
また来れたのだ。だが昨日とは少し様子が違った。
「あれ、咲いてる花が増えてる……?」
昨日は蕾がほとんどだったのだが、何故かちらほらと花が咲いていた。それに、蕾の数も増えているように思える。
ネーヴェは不思議に思いながらもノクスの姿を探して周りをキョロキョロと見渡す。
ノクスの姿はすぐに見つかった。
「ノクス!本当にまた会えたわね、なんだか嬉しい」
子うさぎのようにぴょんぴょんと駆けよるネーヴェ。
「やあ、ここでは元気そうだね」
「夢の中だから、かしら?現実では思ったより弱っているみたいで心配なの」
どうしたらいいのかしら、と頭を悩ませるネーヴェに、ノクスはあの優しい声でこう告げる。
「心配する必要はないよ。君が望めばすぐにでも楽になれるからね」
どういう意味だろうか。望めば病気が治る……?だとしたら現在治っていないのは自分が心から望んでいないから?それとも――
「それは、私が死んでしまうという意味?」
自分でも驚くほどあっさりした声だ。
心のどこかではわかっているのだろうか、病気が治ることはないのだと。
「そうとも取れるね。ただ、今後君は大変な目に合うだろう。そのとき、どういう判断をするのかは君次第だよ」
「ふぅん?もっと病気が悪化するのかしら。今日も大変だったし、これから大変そうね」
ノクスは何か誤魔化しているように思える。だがそんなことはネーヴェにはどうでもよかった。
たとえ夢の中だとしてもこうして自分と話をしてくれる、一緒に花畑で遊んでくれる存在は現実にはいない。
それほどネーヴェは人恋しかったのだ。
ノクスはそれを聞いて少し困ったような笑みを浮かべながら歩いていく。
「どこへ行くの?」
「いつも僕がいる場所さ。風のよく通る丘だ」
ノクスが向いている方を見ると、先程までは無かった大木のある丘が現れていた。
ネーヴェはふわりとスカートを揺らしてノクスの後をついていく。
夢の中とはいえ、走ると息が切れそうなので並んで歩くことにする。
「今日はね、昼食にオニオンスープが出たの。私の好きなもの」
「そうなのか、それは良かったね。たくさん食べられたかい?」
「ううん、半分くらいしか飲めなかったの。今までこんなことなかったのに……」
俯きはしないが、目線を下にやりしょんぼりしながら歩いているネーヴェを意味有りげに横目で見るノクス。
しかしその視線にネーヴェは気づいていなかった。
「誰しも食べられないときはあるよ。あまり気にしないほうがいい」
暫しの無言の後、ノクスはそう言った。
「そう、そうよね。人間だもの、不調なときはあるわよね」
「そうだとも。ほら、着いたよ」
そう言われ後ろを指さされたので振り返ってみると、一面の白い花畑を一望できるほどの高さになっていた。
ネーヴェとノクスは並んで白い花を見下ろして、眩しさに目を細めていた。
その横顔があまりに優しくて、ネーヴェは少し悲しくなった。
「ねぇ、1つ聞いてもいい?」
「いいとも。なんだい?」
「私がいなくなったら、あなたはどうなるの?
この夢も、花畑も無くなってしまうの?」
ノクスは一瞬時が止まったかのように口を開けたままフリーズしていたが、すぐに空を見上げ、こう答えた。
「それはね、君が決めることだよ」
「わたし?」
「うん、君が望むなら最後まで僕はここにいるよ」
この夢が終わるその時まで、ノクスはここで自分を待っていてくれる。それだけでネーヴェの心は少し温かくなった。
「あ……そろそろ時間なのかも」
せっかくいい景色を見ているのに、とネーヴェは口をとがらせる。
「あっという間だね。でもまた来ればいい、明日も待っているよ」
「えぇ、今日もありがとう。また、明日」
明日も待っていると言われたネーヴェは顔をほころばせ、孤独な日々に目覚めに行った。
◇ ◇ ◇
ノクスの手はいつも温かかく、ネーヴェは隣にいるだけで心が落ち着いた。夢の中の花畑は少しずつ白く満ちていき、ネーヴェの心の声に応えるように咲き始めていた。
来る日も来る日も、ネーヴェは夢の中のノクスに会いに行った。
そして、いつしか季節は春になっていた。
その日は、とても穏やかな日だった。
桜の木からは、はらはらと花びらが舞い、小鳥がぱたぱたと飛んでいく。青い空に白い雲、絵に描いたような青空だった。使用人が開けてくれた窓からは緑の爽やかな香りのする風が入ってくる。
ネーヴェは、もう、全く動けなくなっていた。
こんなに急激に悪くなるなんておかしい、少なくとも秋までは生きられるはずだったと医者は言う。
使用人達は皆、死神に呪われているのだと噂する。
だがネーヴェはこれでいいのだと思っていた。
誰からも必要とされず、冷たくあしらわれるよりはこのまま死んでしまったほうが楽だと思ってしまっていた。
動くことも、食事を取ることも難しくなってきた今、楽しみなのは夢の中だけ。
ネーヴェは陽の光できらきらと輝く窓ガラスを見つめていたが、次第に眠たくなり、最後の夢を見る。
窓際の一輪のユリが、そっと花を落とした。
◇ ◇ ◇
「ノクス!」
夢に入りすぐにノクスの姿を見つけ、手を振りながら駆け寄っていくネーヴェ。
なんと、思いっきり走っても息切れもしないほど体力が戻っているのだ。
「やぁ、ネーヴェ。ようやく君の春が来たね」
そこは満開になった花畑だった。
ひとつの蕾もなく、春の心地よい風に揺られる白いユリの花。
圧巻だった。ネーヴェは言葉を失い、花畑を眺めている。
「君の願いが、ようやく叶ったね」
「ええ、本当にきれい……」
うっとりと、心の底から嬉しそうな笑顔を見せているネーヴェには、現世への未練は全くない。
「私気づいたの、あなた死神なんでしょう?」
「……」
ノクスは黙っていたが、否定はしなかった。
事実だからだ。ノクスは人の魂を冥界へと導く死神だった。夢を見せて現世への興味を無くすのがノクスの仕事だった。
「私ね、夢を見るまでは生きたいと、病気を治したいと思っていたの。でも、あなたに会ってたくさんお話をしていたら、そんな気持ちはなくなってしまった」
ノクスは優しく微笑みながら黙って話を聞く。それを見てネーヴェは話を続けた。
「それでも、私はあなたに会えてよかったと思っているの。だって、嬉しかったの。話をするのも遊ぶのも、笑えたのもこんなに久しぶりで……本当に楽しかった」
ノクスの瞳がかすかに揺れる。嬉しいからか、罪悪感か、ネーヴェにはわからない。
ノクスはゆっくりと手を差し出した。
「行こう、ネーヴェ。君はもうひとりじゃない」
その手を取り、ネーヴェは屈託のない笑顔でこう言った。
「やっと幸せになれる……私の春は、ここなのね」
二人は手を繋いて歩き出す。心地よい風が二人を送り出す。
白い花は、夢に咲き誇っていた。