第4話「囁きより始まる」
春、朝露の降りた庭を、小さな足音が踏みしめる。
メイナードは二歳と数か月。ひとより早く言葉を覚え、ひとよりも早く歩いた少年だが、何よりも先に覚えたのは、「風の匂い」だった。
母の書斎で出会った魔術の本は、彼に世界を感じるということを教えてくれた。
風は語りかけてくる。火はうずき、水は囁き、土はただ、黙して構えている。
キャロルはわざと教えなかった。
彼に本物の魔術を授けるのではなく、魔術と“出会う”ための余白を与えていた。
メイナードは、その余白のなかで、自分なりに魔術と向き合うことを選んだ。
母から許され、魔術書を毎日読むことを習慣にしたメイナードは、書斎の隅に小さな椅子と机を与えられ、自分だけの学びの空間を持つようになった。
「魔術っていうのはね、力じゃないの。言葉と想いを、自然に手渡すものなのよ」
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『うーん、全く上手くいかない…』
そう言ってキャロルが微笑んだあの日から、俺は毎朝、小さな声で詠唱を唱えていた。
最初に練習したのは、灯のささやきだった。
「ほのかに灯れ、小さな陽よ」
だが、初日は何も起こらなかった。
どれだけ息を整えても、どれだけ丁寧に言葉を選んでも、木片の先に火は灯らない。
「……むずかしい」
呟いたその声が、誰にも届かない風の中に消えていった。
けれどここで諦めるわけにはいかない。
翌日も、またその次の日も、机の前に座った。
声がかすれても、手が震えても、諦めなかった。
三日目、ふいに木片の先が赤く染まった。
それはすぐに消えてしまったけれど、確かに“応え”があった。
「……できた……!」
たった一瞬の灯火。それでもその一瞬の煌めきがにより、意気消沈していた俺のやる気に火がともった。
その夜、キャロルは焚き火の前で俺に言った。
「火はね、怖がっていると逃げちゃうのよ。だから、あたためるつもりで呼んであげるといいわ」
翌朝の詠唱は、まるで歌のように響いた。
「ほのかに灯れ、小さな陽よ!灯のささやき!」
小さな光が、二度、三度と灯るようになった。火を見ると何か安堵する。まだまだ小さな火だが、大きな前進だ。この調子で頑張ろう。
次に挑んだのは、水の指先。
「澄みて来たれ、静けき雫」
これはさらに難しかった。
水というものは、気まぐれで形を持たず、心のざわつきにすぐに反応してしまう。
俺は何度も失敗した。
乾いた手のひらには、なかなか雫が宿らなかった。
それでも一週間ほど経ったある朝、小さな音が“ぽたり”と掌に響いた。
まるで涙のようなその水滴が、俺の指をつたって落ちた。
その日、キャロルは特別に蜂蜜入りのパンを焼いてくれた。
「魔術も、パンも、手間がいるのよ。手をかけるって、そういうこと」
そして風。
風の魔術──風のまどろみは、少し違った。
風を呼ぶのではなく、“静まって”とお願いするものだった。
「風よ、羽を休めて静まれ」
これは不思議な魔法だった。
呼びかけるたびに、部屋の空気がふわりと落ち着いていく。
木の葉が揺れをやめ、カーテンが沈黙し、あたりが静けさで満たされていく。
「風はね、言葉の端に宿るのよ」
キャロルがそう言ったのは、まさにその現象を見届けたときだった。
そして、癒しの雫、芽吹の願いにも、メイナードは挑戦していった。
小さな鉢に種をまき、水を呼び、土に願いを込める。
「眠る土よ、夢に芽を宿せ」
芽はなかなか出なかったけれど、それでも種に語りかけ続けた。
やがて、小さな緑の双葉が顔をのぞかせたとき──俺は声を上げることすら忘れ、ただ見つめていた。
──こうして日々が過ぎていった。
午前は練習、午後はキャロルと一緒に読み書き、夜はウィリアムと薪を割ったり、火を焚いたりした。
ウィリアムは魔法を使わなかったが、木の折れ方、風の通り道、焚き火の燃え方を教えてくれた。
「自然は目で見るもんじゃないんだ。肌で感じて、骨で覚えるんだ」
その教えもまた、魔術と同じように、俺の内に刻まれていった。
ある夜、星がきらめく空の下で、両親と一緒に俺は空を見上げながら呟いた。
「……いつか、もっとすごくなれるかな。」
その声に、キャロルはそっと答えた。
「ええ、きっと。だけどね──魔術は、誰かを守るためにあるのよ。自分ひとりのためじゃないの」
魔術とは、命との対話である。
火は力、風は想い、水は癒し、土は忍耐。
俺はそれを、自らの手と心で少しずつ掴んでいった。
まだ幼い。だがもう、見習いとは言えない。
世界の“声”を聴こうとする者として、メイナードは確かな第一歩を踏み出したのだ。
キャロルは、息子の背をそっと見守っていた。
ウィリアムも息子を見て、かすかに口角をあげた。
「……あいつ、どこまで行くんだろうな」
キャロルは肩をすくめて言った。
「さあ。けど、風が導くなら……どこまでも行けるわよ」
風は彼に最初の囁きを、
火は灯す力を、
水は心を、
土は支える足場を。
メイナードの魔術はまだ始まったばかりだ。
けれどそれはもう、確かな“力”として彼の内に根付き始めていた。