第3話「風が頁をめくった日」
二階への階段は、俺にとって“世界の境界線”だった。
ようやく一歳半になり、しっかりと歩けるようになった俺は、ある朝、母キャロルが目を離したすきに、よちよちと小さな足取りで階段を登った。
一段一段、板のきしむ音に緊張しながらも、彼の目は輝いていた。ようやく2階も探検できると。
ようやく登り切ると、廊下には四つの扉が並んでいた。空気はほんのり乾いていて、昼の光が木の壁を優しく撫でていた。
最初の扉を押すと、冷たい空気と鉄の匂いが鼻をかすめた。
父ウィリアムの部屋だ。そこは、まるで戦士の記録庫のようだった。壁には弓、剣、短剣。棚には小さな瓶や革の手入れ道具。窓辺には獣の牙で作られた首飾りが吊られている。
だが何より目を引いたのは、壁一面を覆う“標本の壁”だった。
猛禽の首、黒狼の牙、角の折れた山鹿――それらが美しく、けれどどこか冷たく飾られている。
前世ではこんな部屋を見たことがなかった。俺は圧倒されたように、しばらく黙って立ち尽くした。
『ウィリアムは……こんな戦いをしてきたのか』
強い、というより、重い。そんな言葉が頭をよぎった。
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二番目の扉は、拍子抜けするほど何もなかった。
壊れかけの椅子、くるまれた布団、古いカゴや木箱。
だがこの静けさが、かえって心地よかった。たまに風がすり抜け、埃の匂いが微かに漂った。
物の影に隠れる小さなクモを見つけ、しばらくそれを眺めていた。風が止まると、時間が凍るようだった。
三つ目の扉を開けた瞬間、俺は思わず足を止めでしまった。
そこはまだ誰も住んでいない「空の部屋」だった。
けれど、小さなベッド、木製の棚、色あせたぬいぐるみ――それらが、誰かのために整えられていた。
壁には、親指大の星の飾りが貼られていた。窓辺には風鈴が吊るされている。カラカラ……と揺れる音が、胸の奥に触れた。
ふと、前世の記憶がよみがえった。幼少期、親と死別し妹と施設で暮らしていた記憶。
金属のベッド、殺風景な壁、隣の子のすすり泣く声。
『……こんな部屋、もらったことなかったな』
静かに胸があたたまった。足元に転がる木の積み木を拾い、手の中でころころと転がした。きっとこの部屋が、自分の“未来”になるのだと思った。
子供部屋をあとにし最後の部屋の前へと立つ。
二階の最後の扉の前に立ったとき、俺はひときわ深く息を吸い込んだ。
幼いながらも、わかっていた。この先にあるのは、父の部屋や物置とはまったく違う“気配”。
ドアノブに小さな手をかけ、ゆっくりと押し開ける。
そこは静謐な世界だった。
棚に整然と並ぶ本たちが、まるで長く深い眠りの中にいたように、柔らかな気配をまとっていた。
木の机、窓際に吊られたドライハーブ、燻された紙の香り。魔術師キャロルの気配が部屋中に溶け込んでいる。
部屋に入った瞬間、空気が変わった。
ざわり……と見えない風が足元を撫で、天井近くの紙が微かに揺れた。
“ようこそ”
そんな声が聴こえた気がした。
視線が引き寄せられたのは、棚の中央。
他よりほんの少しだけ低い位置にあった、色あせた背表紙の一冊だった。
その本だけ、まるで息をしているかのように、周囲の空気を微かに振動させていた。
近づき、手を伸ばす。触れた指先にぴり、と微弱な感覚が走った。
だが痛みはなかった。むしろ懐かしいような、どこか切ない、優しい呼び声。
パタン……と本は自然に開いた。
ページには、詩のような言葉が散りばめられていた。
風は声なき精霊。耳ではなく、心で呼べ。
火は踊る魂。恐れるな、同じ熱を抱いているのだから。
水は記憶。流れに身を委ね、澱みに触れよ。
土は祈り。その沈黙に、命は芽吹く。
文字を読むごとに、彼のまわりの空気が変化した。
窓辺に吊られた風鈴がひとりでに鳴った。
机の上のインク壺が微かに波打つ。
ランプの芯が、灯っていないのに赤く一瞬、きらめいた。
そして足元、床板の下から、鼓動のような静かな“重み”が伝わってきた。
彼は思った。
すべてが生きている。
そのとき、後ろからドアが軋む音がした。
キャロルだった。
彼女は口元に指をあてて、静かに言った。
「…あら、ここで何をしてあるのかしら?小さなど泥棒さん?」
キャロルは俺の横に膝をつき、本のページをそっと撫でた。
「この本はね、私が最初に“魔術”ってものに出会った時のものなの。まるで精霊たちが、私に語りかけてきたようだったわ」
俺は小さく彼女を見上げた。
キャロルは続けた。
「風だけじゃないのよ。火も、水も、土も……この世界には、たくさんの“声”がある。でもね、魔術が使えてもそれを聴ける人は少ない。だから、本が語りかけてきたのなら、それは──」
彼女はふわりと笑い、手のひらで俺の胸元に触れた。
「──あなたが聴く準備ができたってこと」
再びページに視線を戻すと、そこには魔法陣のような図が描かれていた。中央に円があり、その周囲に四つの記号――風、水、火、土。
その瞬間、どこか遠くから、風が優しく吹き抜け、窓の外の木々が揺れた。
風に重なるように、小さな水音が床を伝い、足元にひんやりとした気配が走る。
それと同時に、芯のように熱を孕んだ空気が喉を通り、体の奥で灯りかけた。
静かに、けれど確かに。
彼の中に「魔術」という言葉が根を下ろし始めていた。
「……勝手に部屋に入った罰として、その本は預けるだけ。貸してあげるわ」
キャロルが笑いながら言う。
「ただし返すのは、“魔術”って言葉がどういう意味か、ちゃんとわかってからよ?」
俺は頷き返事をした。
本を持った時に、本は再び風に揺れ、小さく震えた。まるで祝福のように。
そして彼の胸の奥、まだ言葉にできない小さな種が、静かに芽を出したのだった。
それは、風でも、火でも、水でも、土でもなく、
「出会い」そのものが生んだ、最初の“魔術”だった。
ナレーションの部分と主人公主観の表現が入り混じっておりましたので、修正致しました。2025/5/6