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第11話 「方舟の継承」

 家から少し歩いた所にある丘に春の陽が、やわらかく差し込んでいた。

まだ朝の気配を残す草は、夜露を宿してきらきらと光っている。


俺はいつも通り魔術の練習をしていた。


「そよげ、みどりの衣をまとうもの」


今詠唱した魔術はただ風を吹かせる初級魔術だ。

無詠唱でも使えるが、基本は大事だから最近はしっかり唱えるようにしている。


普通に詠唱しただけでも、丘の風たちは優しく応えてくれるからそれが心地良い。


草がそよそよと揺れて、小鳥が一羽、近くの枝にとまった。


そこへ、フィリアルネアがやってきた。

藤色の髪に垂れ目、長袖からのぞく指先は、まだ心許なさげ。

でも、今日はちゃんと一歩を踏み出して、丘へ入ってきた。


「こんにちは、フィリ」


「……こ、こんにちは……メイナードくん……」


彼女は俺の名前を呼ぶのが、ちょっとだけ苦手らしい。


「今日は風の魔法、いっしょにやってみようよ」

「……できる、かな……」

「大丈夫。風は優しいから」


俺は彼女の前に小さな葉を一枚置いた。


「手をかざして。風に、声を届けてみて」


フィリアルネアは、おそるおそる手を差し出し、俺と同じように詠唱を口にした。


「……そよげ……みどりの衣……まとう……もの……」


風が、ほんのわずかに葉を揺らした。

ふたりで顔を見合わせて、同時に笑った。

丘が、ふたりの秘密の場所になった瞬間だった。





 翌日も、春の光が降り注いでいた。


フィリアルネアは、昨日よりちょっと早く家に来て、照れながら笑った。

今日は、袖から手が少しだけのぞいていた。


 俺たちはまた、風を呼んだ。

フィリアルネアの風は、昨日よりずっと優しかった。

そのたびに、彼女の目がきらきらと光る。


「次は水をやってみよう」


「……水は、ちょっと苦手」


「どうして?」


「昔、鼻に入ったのが痛くて怖いの…」


確かにあれは妙につーんと来るから俺も苦手だな…


「そっか。じゃあ、ぼくが先にやるね」


俺は小さな器に水を汲んで、詠唱した。


「光をうつす澄んだこころ。そっと、ゆれて」


水面が、わずかにきらりと揺れる。


フィリアルネアも、こわごわ手をかざし、小さな声で同じ詠唱をくり返した。

水面が、ふわりと揺れた。

花びらが、一枚、その上をすべっていった。


「……やさしかった……」


「うん。水は、やさしいよ」


俺たちはただ、静かに座っていた。


「ありがとう、メイナード」


何気なく言ったであろうその言葉が、俺の胸をあたたかくした。




 午後、陽が傾きはじめたころ、白銀の髪が揺れてフィナリア先生が現れた。


「ふふ、いい顔をしてるわね、フィリちゃん。今日はずっと笑ってる」


「……風も、水も、やさしいから……」


「じゃあ今日は、ごほうびに“草のささやき”を教えてあげるわ」


フィナリアは、小さく歌うように詠唱した。


「日がしずみ 風がとまるとき 静けさが土にしみこむように 草たちよ、目をとじて」


草が、ほんの少し身を縮めたように揺れた。


「草が……眠ったの……?」


「きっと今ごろ、夢を見てるわ」


「すごいな、フィナリア先生の魔法……」


「ありがと!でも……そろそろ、あなたたちだけでも大丈夫かもしれないね〜」


「……それって……」


「まだ少し先の話よ。でも、魔法を教えるっていうのは、いつかお別れすることでもあるの。……でも大丈夫。心に残った魔法は、ずっと消えないから」


風が、三人の間を通り抜けていった。

草の上の影が、夕陽の中で細く長く伸びていった。





ーーーーーー





 森の空気は湿り気を帯びながらも、夏の終わりを告げる甘い匂いを孕んでいた。まだ緑の濃い葉の間から、陽の光がゆっくりと降り注ぐ。村の南に広がる小さな丘の上、一本の古木の下に、二人の子供が並んで腰掛けていた。


「フィリ、今日は火の魔法をやってみよう」


俺はそう言いながら、手のひらに意識を集中させた。小さな赤い火花が、ふっと瞬き、すぐに消える。


「……火、こわくない?」


フィリアルネアは僕の横で膝を抱え、首をすくめる。細い肩にかかる藤色の髪が、風にそよいだ。


「大丈夫だよ。怖い時は、ちゃんと止めるから。ほら、見てて。僕も最初は怖かったけど、火ってあったかいんだ」


俺はもう一度、手を広げる。今度は少し大きめの火の玉が、手のひらに灯った。風の精霊が囁くように、それはふわりと浮かび、青空の下で揺れていた。


「わあ……」


フィリの瞳が、ぱっと見開かれる。驚きと、ほんの少しの憧れ。俺はその表情を見て、にっと笑った。


「やってみる?」


「……うん。やってみたい」


彼女はおそるおそる手を差し出した。俺はそっと自分の手を重ねる。


「フィリの中にある“あたたかいもの”を思い浮かべてみて。……お母さんの手とか、朝のスープとか、そういうの」


フィリは目を閉じ、深く息を吸った。しばらくして、かすかに、彼女の手の中に淡い光が集まり――


「……あ」


ぽつん、と、火の粒が生まれた。


それはすぐに消えてしまったけれど、確かにそこに“火”は存在した。


「できた!」


「うん、ちゃんと火だった。フィリ、すごい!」


拍手をすると、フィリはもじもじと袖の中に手を隠しながら、小さく笑った。


「……メイと一緒だと、こわくないの。不思議だね」


「それは、僕もだよ」


風が吹いて、木の葉がざわめく。まるで祝福するように。



 それからの日々、俺とフィリは毎日のように魔法の練習をした。もちろん昼からの剣術をサボったりはしていないが。


朝の魔術訓練が終わると、昼食の後にこっそり丘に行く。最初は火の魔法だったけど、次第に水や風、小さな植物の芽生えにも挑戦するようになった。


「フィリ、最近すごく上手になったよね。最初は恐る恐るって感じだったけど今は全然そんな風には見えない」


「……メイがそばにいてくれるから。安心できるの」


その言葉が、胸に温かく響いた。そんな言われたら照れちゃうじゃないか!


フィリアルネアは、内気で、自分に自信がなかった。でも、彼女の魔法には優しさがある。火は穏やかに灯り、水は静かに流れ、風はそっと肩を撫でていく。


ある日、俺はふと思った。


――この時間が、いつまでも続けばいい。


でも、変化の時は、静かに忍び寄っていた。




ある冬の夜、キャロルが産気づいた。


家の中は慌ただしく、ウィリアムが湯を沸かし、助産婦さんが呼ばれ、フィナリア先生は俺とフィリを別室に避難させた。


「メイ、フィリ。キャロルが頑張っているわ。しばらく、静かにしていましょうね」


俺たちは並んでソファに座った。フィリの手は、震えていた。そっと指先を絡めると、彼女もそっと握り返してくれた。


そして、明け方――双子の赤ちゃんが産まれた。


二人の女の子。キャロルは少し疲れていたけれど、元気だった。


「メイ、あなたにも、妹ができたのよ」


その笑顔に、俺は胸がいっぱいになった。こちらの世界でも妹が出来たのだ、しかも二人も。なんだが嬉しくなってつい目頭が熱くなった。




そして、数日後。


フィナリア先生が、静かに言った。


「そろそろ、旅立たなければなりません」


部屋の空気が、すうっと冷えるのを感じた。キャロルとウィリアムは以前から知らされていたのか、表情を変えることはなかったが、少し寂しそうだった。


「どうして……?」


以前少しその事を言っていたが俺は思わず問いかける。


「長く逗留しすぎました。次の地で、待っている者がいます。それに――キャロルも、あなたも、もう大丈夫だから」


「そんな、嫌だ……!」


思わず立ち上がってしまったがフィナリアはやさしく微笑む。


「メイ。私は、あなたの始まりを見届けるためにここに来たの。あなたはもう、自分の足で歩き始めているわ」


その言葉が、心にずしんと沈んだ。


フィリは、俺の袖をぎゅっと掴んだ。


「……わたし、まだ……ひとりで魔法、こわい……」


「大丈夫。あなたには、メイがいるわ」


その瞬間、俺は決めた。


「僕が、フィリに教えるよ。ちゃんと、最後まで」


フィナリア先生は、少し涙ぐみながら、深く頷いた。


「メイ、私が旅立つ前に卒業試験をしないとね!まあ今のあなたならもしかしたら出来ちゃいそうだけどね」


少し茶目っ気を含んだ言い方はいつも通りのような気もしたが、俺にはなんだが寂しそうに見えて仕方がなかった。





ーーーーー





 フィナリアが旅立つと告げた日から三日が経った。


俺とフィナリアは卒業試験をする為に森の中へと歩みを進めている。まだ試験の内容は知らされていないが、卒業試験と言うぐらいだ。きっと簡単な事ではないだろう。


昔から試験とかそういった類のものは緊張して上手くいった試しがないから、情けない事にとても緊張している。震えているのは緊張からではなく、寒さから来るものだ、うん、きっとそうだ…



 暫く歩いているうちにあることに気付いた。

以前俺の誕生日の日に森の中にある丘にフィナリアに連れて行ってもらった事があるが、その道をまた歩いている。前来た時とは景色が違っていたので気付かなかった。


「ふふ、どこに向かっているか気付いたみたいね!忘れられていたらどうしようかと思ったわ!」


「忘れたりはしませんよ!ただちょっと…景色が違っていたので…」


「あらー?ウィリアムに森の歩き方また一から教わった方がいいんじゃないかしらってうわあぁッ…?!」


俺の方を見ながら歩いていたフィナリア先生は盛大にずっこけた。たまにドジな所があってそれも彼女のいい所なのだ。


「もーどこ見て歩いたんですか?父様に森の歩き方教わった方がいいんじゃないですかね?」


「うぅ、弟子にこんな所見せてしまうだなんて…」


和気藹々と話している内に目的の丘へと到着した。


以前来た時は秋で、葉が赤や橙色で鮮やかに色づいていたが今は冬。丘から見える景色は少し寂しい気もする。


「さっ、着いたわね。早速卒業試験を始めたいと思います」


そう言った彼女からはいつもとは何か違うような雰囲気を感じた。


「試験内容は簡単です!私が見せる魔術を真似するだけで結構。でもちょっと危ないかもしれないから、私が危険と判断したら終了させるわ」


「そんなに危ない魔術なんですか?」


「使いようによっては、ね?」


俺はごくりと生唾を飲み込んだ。ただでさえ緊張したいるのだ、そんなに危ない魔術をいきなり真似しろだなんてプレッシャーでしかない。


今の気分は就職前の面接試験を待つ時間のようだった。


「大丈夫!悔しいけど…メイは今まで見てきた魔術師の中でもとびっきりの才能を持っているわ!私なんかよりもよっぽど凄いよ!だからきっと出来る!」


フィナリアにそこまで言われたら嬉しいが俺には全くそんな気がしない。彼女の魔術には無駄がなく、美しさすら感じるものがあるが、俺のにはそれがない。


ただ魔力量が平均より多く、無詠唱で使えるところしか優れている所がないぐらいだ。


「まあいいわメイ、この卒業試験ではあなたにもっと自信を持ってもらう為にも行う目的もあるのよ。あなたは出来ないと思っているかもしれないけど、私は出来ると思っているわ。」


今までにないぐらいに真剣な表情をしてこちらを見つめ話してくれたので、不思議と出来るのではと思ってしまう。だが肝心な時にやらかすのが俺だ。不安と緊張で胸が張り裂けそうだ。


「だってメイは私の弟子だもの!私が教えたんだがら間違いなく出来るわ!自信持って!」


先ほどの真剣な表情とは打って変わり、いつものフィナリア先生になってしまった。

だが俺からしたらこの方がやり易くていい。少し緊張もほぐれた気もするしな。


「さあ、いい加減始めましょうか!メイ、もう一度言うけどあなたなら出来るわ。絶対に」



 そう言ってフィナリアは丘の中央へと歩き始めた。


彼女が丘の中心に一歩、すっと足を踏み出した。


その足音が、まるで森全体に鳴り響くような錯覚に陥る。

 

 風が一瞬止み、空気が張り詰めた。


 「――聴け、森羅万象の囁きよ。命を宿す大地よ、古の律動を我に貸せ。風よ、舞え。雨よ、降りそそげ。天地を満たす調べとなりて――我が詠に応えよ、

森羅の方舟(アルカ・シルヴァ)!」


 その言葉が落ちた瞬間、空が割れた。


 黒雲が渦巻き、光を閉ざし、空が重力を持ったかのように沈んでいく。

 

 そして大地を揺らすような轟雷が森を震わせた。

白く裂けた雷が空を貫き、空気の匂いが一瞬で焦げる。


 雨が降る。


 それは滴ではない。滝のような奔流。

葉に当たり、枝を叩き、地面を泥に変えながら、怒涛の水が森を洗い流す。


 だが――そこから逃げる生き物の姿はなかった。


 むしろ、冬だというのに鹿たちが木立から姿を現し、雨の中に立ち尽くしていた。

 

驚くことに、彼らは恐れていない。

その目はまっすぐに、フィナリア先生を見つめていた。


 小さな狐が、俺の足元の陰から顔を出し、しとしとと濡れたまま、その魔術を見上げている。

 雷に驚くどころか、その光に目を細め、まるで何かを思い出すように。


 そして風が吹いた。無数の鳥たちが、風に乗って舞い上がる。羽を濡らすことなく、嵐の空を踊るように舞い、渦を描いて光へ吸い込まれていく。


 光――雲間から差し込む太陽の柱。


 自然が、戻ってきていた。


 それは、自然の怒りではない。自然そのものの目覚めだ。森の命が、彼女の魔術によって一斉に立ち上がり、眠っていた世界の記憶を呼び起こしているようだった。


 俺は、ただ立ち尽くしていた。


 膝が震えていたけれど、目は逸らせなかった。

こんな魔術、ただの人間が扱っていいものじゃない。

だけど俺は、これを越えなければならない。


「どうだったかしら?私のとっておきの一つ!凄かったでしょ?」


さあ次はあなたの番と、フィナリアが言っているのが聞こえるが、森がそう言っているような気がした。


俺は以前誕生日プレゼントで貰ったお守りーーフィナリアからのロッドを握りしめ、一歩、丘の中央へと歩き始めた。


 森は静かだった。


 さっきまでフィナリアが見せてくれたあの魔術の記憶が、まだ空気の奥底に漂っている。


 自然が目覚め、命が呼吸していたあの光景を、俺ももう一度、呼び起こしたい。


 「……僕に、できるだろうか。」


 震える手を見つめる。

 でも、一歩、森の中心に足を踏み出すと、不思議と風が背を押した。


 森は、俺の声を聞こうとしている。


「聴け…」


 なら、俺も応えよう。


「森羅万象の囁きよ。命を宿す大地よ、古の律動を我に貸せ。風よ、舞え。雨よ、降りそそげ。

天地を満たす調べとなりて――我が詠に応えよ、

森羅の方舟(アルカ・シルヴァ)!」


 魔術の名を口にした瞬間、空気が張りつめた。


 上空に渦巻く雲が、黒く染まり始める。

 葉の先を湿らせるような微かな風が、やがて強くなり、森全体をざわめかせる。


 そして、雷が鳴った。


 空の高みで閃光が走り、ひときわ大きな轟雷が森を揺るがす。鳥たちがばさばさと枝を飛び立ち、小動物たちが地面へと身を潜める。


 そして――雨。


 細かく冷たい雨粒が、ぽつり、ぽつりと降り始め、

それが一気に滝のような風雨へと変わっていく。木の葉が音を立て、枝がしなり、風に舞い、森全体が、水と風に洗い流されていく。


 でも、どこか優しい暴風雨だった。


 風が木々の間を通り抜けるたび、古びた枝葉や枯れ葉が吹き飛び、地面に溜まっていた水がゆっくりと根へ染み込んでいく。


 生命を脅かす嵐ではなく、命を整える嵐。


 気づけば、何頭かの鹿が雨の中から姿を見せていた。逃げるでもなく、ただ俺の方を見ていた。まるで、何かを確かめるように。


 小さなキツネが、木の陰から顔を出し、びしょ濡れの体で僕を見つめる。 


 その瞳が「お前がやったのか?」と問いかけているようだった。


 風が収まり、雨が緩んでいく。黒雲はまだ空を覆っていたけれど、雷の光はもう遠くに消えていた。


 魔術は、終わった。


 両足が重い。息が苦しい。

でも俺は、確かにこの森と対話し、力を借りて、魔術を完成させた。


 「……ありがとう。」


 俺の言葉に、最後の風が一度だけ森を撫でた。


 それは、まるで返事のように。


 振り返ると、フィナリア先生が静かに頷いていた。

優しい微笑みを浮かべて、まるで――旅立ちの前に、安心したように。


雨はいつの間にか止んでいた。木々の葉がまだ雫を滴らせ、森の空気は湿り気を含みながらも、どこか透き通っていた。


 俺はただ、その場に立ち尽くしていた。


 自分の体に、自然の力が宿っていたあの一瞬の感覚が、まだ抜けきらない。


 「……やり遂げたわね」


 その声に、ゆっくりと顔を上げる。


 フィナリア先生が、傘も差さずに濡れたままの姿で立っていた。

 風に揺れる白銀の髪も、藍色のローブも、雨に濡れてしっとりとしている。

 でも、その瞳だけは、まるで雨上がりの空のように澄んでいた。


 「すごかったですよね、今の……本当に……」


 息を切らしながらも、俺は笑った。どこか頼りない笑みだったけれど、それでも心からのものだった。


 フィナリアは小さく首を横に振って、それからゆっくりとこちらに歩いてきた。


 「すごかった、じゃあないわ……立派でした、メイナード」


 その一言に、胸がいっぱいになる。


 「ただ模倣するのではなく、あなた自身の感性で、森に語りかけ、力を引き出した……それこそが、この魔術の本質です」


 その手が、僕の肩に触れた。


 「これで、あなたは森羅の方舟(アルカ・シルヴァ)を習得しました。……そして同時に、私の教え子としての時間も、終わりを迎えます」


 その言葉が、どこか寂しく響いた。


 「卒業……なんですね」


 俺は目を伏せる。覚悟していたはずなのに、言葉が胸に刺さる。


 「ええ、卒業よ」


 フィナリア先生は微笑んだ。それは、いつかの春の日に初めて会ったときと同じ、優しい笑顔だった。


 「だけど卒業とは別れではないわ。旅立ちの始まりよ」


 「……はい」


 目の奥が熱くなって、何かがこみあげてくる。

 でも今は泣く時じゃない。胸を張って、感謝を伝える時だ。


 「先生、今まで……本当に、ありがとうございました」


 「こちらこそ。あなたの成長を、そばで見届けられて幸せでした。……メイナード」


 名前を呼ばれるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「そうそう、さっき使った魔術は王級魔術よ!これであなたも今日から私と同じ、王級魔術師と名乗れるわ!」


「え、王級ですか…?そんな魔術を簡単に教えいいものなんですかね…」


途轍もない魔術だと思ったら王級だったらしい。そんなに簡単に発動しても大丈夫なのか…?


 そんな疑問が残る中、どこかで一羽の鳥が啼いた。


 それを合図にしたかのように、木々の葉が揺れ、雨上がりの匂いが風に乗って流れてくる。


 森が静かに祝福しているようだった。





ーーーーー




ー翌朝ー


朝霜の中に、森が静かに目覚めていた。

陽はまだ高くなく、淡い光が木々の間をすり抜け、霧と混ざり合って淡い銀色の世界を作っていた。


 その小径の先に、彼女は立っていた。

 フィナリア先生――いや、もう「先生」と呼ぶのも、今日で最後かもしれない。


 荷をまとめた背には小さな旅鞄、いつものローブに、藍色のフードを被っていた。

 その姿は、どこかいつもより遠く感じた。


 俺は無言のまま、その背中を見つめた。この数日で、何度もこの瞬間を想像してきた。けれど、いざ目の前にすると、何も言葉が出てこなかった。


 気づいたのか、フィナリアがゆっくりと振り返る。

淡い朝光の中で、その瞳だけは変わらないまま、僕を見つめていた。


 「……起きてきてくれたのね」


 「……見送りに来ないと、一生後悔すると思って」


俺の声は思ったよりもかすれていた。

 

少し笑って、フィナリアが近づいてくる。


 「あなたらしいわね」


 そう言って、彼女は胸元から小さな包みを取り出した。


 「これは、旅先の文通用の封蝋印。私の刻印が入っているから、どこかの郵便塔に持っていけば、私に手紙が届くわ」


 そっと僕の手に握らせてくれる。冷たい金属の感触に、心が少し揺れた。


 「……書きます。絶対に」


 「ええ、私も」


 鳥たちのさえずりが、森に柔らかな音を添える。

あれほど騒がしかった雷雨も、今では遠い昔の出来事のようだった。


 「もう、行くの?」


 問いかけながらも、俺はその答えを知っていた。


 「ええ。森の外れまで迎えが来ているはず……。もうすぐ、あの丘の向こうへ」


 寂しさが胸に広がる。けれど、不思議と涙は出なかった。

 それほどまでに、心は満ちていた。


 「ねぇ、先生」


 最後に、どうしても聞きたかったことを口にする。


 「僕、ちゃんとやっていけるかな……? これから、ひとりで」


フィナリアは小さく微笑んだ。それは、迷いを包みこむような、深く静かな笑みだった。


 「あなたはもう、一人じゃないわ。……森が、風が、水が、命が、いつもそばにいてくれる。そして、学んだことは、ちゃんとあなたの中にある。私が教えたすべてが、ね」


 そっと、額に手をあててくれた。

幼いころに何度もそうしてくれた仕草。懐かしくて、温かい手。


 「さよならは言いません。次に会うときまでの……ほんの少しの、旅の途中です」


 そのまま背を向けて、森の小道へと歩き出す。


 その足取りは迷いがなく、でも一歩ごとに、僕の胸がぎゅっと締めつけられた。


 彼女が霧の中に溶けていく――

それでも、背を向けずに最後まで見届ける。それが、俺のけじめだった。


 風が、ふと頬を撫でる。

 その風の中に、聞き慣れた声が確かに響いた気がした。


 「……頑張ってね、メイナード」


 俺は小さくうなずいた。

 そして、そのまま森の空を見上げる。雲は少しずつ晴れ、淡い光が差し込んでいた。


 彼女が旅立った朝――

 俺は大人になるための、最初の一歩を踏み出した。






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