見て、月だよ
すぐ戻れるかと思っていたのに、半年近くも拘束されてしまった。
とにかく聴取が細かい。
アパートの間取りから、情勢、どんな勢力がいるのか、どんな生活を送ってきたのか。細部はごまかそうと思っていたのに、あまりにしつこいのですべて喋ってしまった。管理組合に怒られるかもしれない。
いよいよ解放されるかとなったとき、特務官はこう告げた。
「すでに日暮という人物と接触があったと言ったな? 彼はうちの工作員だ。今後は日暮と連絡を取り合い、内部の情報をこちらへレポートするように」
ガッデム!
あのピンハネ野郎、政府の人間だったのか。
順法精神の欠片も感じられなかったが。
「了解しました」
「君はもう、ただの日本人ではない。この特務機関のエージェントだ。その職責を忘れず、日本国に貢献したまえ」
「お任せください、特務官どの」
なにが特務機関のエージェントだ。
戸籍上死んだことになってしまったから、ほかに扱いようがなかっただけだろう。ま、無期懲役の脱走犯でいるよりはまだマシか。
べつに俺の罪が許されたわけじゃない。書類上、うやむやになっただけだ。
*
入口は、かつて見た緑の草原だった。
水鏡のようなゲートを通じて、本館の最上階に入れるはず。
検査官――。髪も肌もまっしろな巫女さんが、そこまで案内してくれた。
「普通は術で送り出すのですが、式見さんならそのまま入っていけると思います。もう普通の人間ではないので」
「普通ですよ。生きてます」
「そこが不思議なんですよね」
「はぁ。まあ、いいですけど。とにかく、お世話になりました。もう会うこともないと思いますが」
「でもレポートは出してくださいね? 特務官どの、怒っちゃいますから。どうかお元気で」
最後までつかみどころのないお姉さんだった。
*
本館の最上階。
みんなここからスタートしたのだろう。
だが、俺が初めてここへ来たとき、目を覚ましたのは別館の一室だった。どこをどう経由してそうなったのは知らない。おそらく粒子化していたのだろう。
きっと死亡扱いでなくとも粒子化できるということだ。
リスクは異なるかもしれないが。
「わ、人間だ」
子供が驚いて声をあげた。
「怖がらなくていい。すぐ行くよ」
「うん」
食べ物に飢えている気配はない。
管理組合は、強制排除とやらを実施しなかったらしい。あるいは御所と折り合いをつけたのか。
*
いくらか襲撃はあったものの、あきらかに危険度は減っていた。
そして二十六階。
「失礼。少し通りますよ」
「ええ、どうぞ」
クモ女が、まったく気にした様子もなく通してくれた。
まあこの人は、話が通じるからいい。
だがあきらかに、治安が向上している。
二十階。
暗い目をしたアミキリが、ひたすら壁を斬りつけていた。
「お前……あのときの人間か……」
「式見令だ。悪いけど、戦闘はナシにしてもらえると……」
「分かってる……。もう……人を斬ってはいけないんだ……。だから……こうして壁を斬っている……。行け、人間……。いまは……生きてるヤツを見たくない……」
「失礼」
誰かが戦いを禁止したのか。
十三階は無人。
十二階のカニも、表には出てこなかった。
罠を慎重に回避しながら、俺は下を目指した。
*
「失礼しまぁーす。誰かいますか?」
事務所のドアを開くと、生倉さんと赤尾さん、それにナツさんがぎょっとした顔になった。
「き、霧島くん? 生きてたの?」
「はい……。あ、バックレじゃないですよ。どっちかっていうと遭難に近いっていうか」
「もー! 心配したんだから!」
生倉さんはデスクに突っ伏してしまった。
「借金を苦に逃亡したんじゃないかって、みんなで噂してたんだ」
赤尾さんは相変わらず飄々とした調子だ。
まあ確かに、借金はあったな。
90万も。
だが生倉さんは顔をあげた。
「ああ、そのことなら気にしなくていいですから」
「いや、でも……」
「べつに温情でナシにするわけじゃありません。奥さまを自称する女性が、全額お支払いになったので」
「えっ?」
そういえばセンさん、ネコキャバの売り上げの半分をハネていたっけ。
あれから半年だ。
90万くらいはすぐに返せるだろう。
ナツさんが「えがったね」とお茶を出してくれた。
無邪気な笑顔に癒される。
「ありがとうございます」
*
食堂でメシを食ったあと、公園に寄った。
量は少し物足りなかったが、飢えるほどではない。
「戻ってきたようだな。心細かったぜ」
サングラスの男が、一人ぶんあけてベンチに腰をおろした。
「特務官から聞きましたよ、ぜんぶ」
「誰にも言うなよ。俺たちだけの秘密だ」
「もう二度と手を組むことはないと思ってたのに」
「ま、仕事だからな。イヤでも長い付き合いになる」
「お手柔らかにお願いしますよ、上官どの」
話はそれだけかと思いきや、彼は遠くを見つめながら言った。
「多賀峰から伝言をあずかってる」
「なんです?」
「あんたとの面会を希望しているそうだ。彼女はいま、刑務所にいる」
「はい?」
*
刑務所――という扱いの一角がある。
俺はそこで手続きを済ませ、多賀峰と面会することにした。
「仕事は終わったのかしら?」
多賀峰はいつものスーツ姿ではなく、ボロボロの囚人服だった。檻の中に入れられている。
「終わったよ。成功させた」
「けど残念ね。約束を守ることはできないわ」
「は?」
契約を破るってのか?
こんなヤツ、契約を守らなかったら、すぐに人間性を消失してしまうぞ。その結果、獣にさえなれず肉体を失う。
「見て分からないの? 逮捕されたのよ! 独自通貨を使って他者と貸し借りするのは禁止だそうよ! ふざけてるわよね? だからポイントなんて、もうゼロよ! ゼロ! 私の苦労、全部水の泡! あはは! バカみたい!」
所詮、こいつの使うポイントは、他者を支配するツールでしかなかった。
新たな火種になる。
別館の議会はいい仕事をした。
「ゼロなんじゃ、半分にしてもゼロだな……」
「次の命令よ。私をここから出しなさい。あなたが身元引受人になるのよ」
「メリットは?」
「稼がせてあげる! 女子校の連中なんて、特に騙されやすいんだから! あなたの好きにできるわよ? ね? 手を組みましょう? あなたの力と私の頭脳があれば、なんでもできるんだから! なんでも手に入るの!」
こいつは正気じゃない。
人を支配することしか考えていない。
「興味ないな」
「は?」
「俺はいま、すごく満足してるんだ。悪いヤツが檻にぶち込まれて、悪いことができなくなってる。それっていいことだろ?」
「式見……」
檻にしがみついて凄まじい形相をしている。
いい眺めだ。
*
その後はまっすぐ、ふうちゃんの部屋に戻った。
こっちは大袈裟な出迎えではなく、ごく平然と受け入れてくれた。来るのが分かっていたかのように。
「お帰りなさい」
笑顔で出迎えてくれるふうちゃん。
センさんは三味線を弾いている。誕生日の歌。夜明けの歌。
「たまことマリカは? 学校?」
するとお姉さんは、少し寂しそうな顔になった。
「うん。でも、もうたまちゃんとは一緒に住んでないの」
「えっ?」
「お母さんが、帰ってきちゃったから」
「ああ……」
たまこはスエさんと合流できたのだ。
そして一緒に暮らしているのだ。
*
たまこの新しい部屋を教えてもらった。
そこは、俺が最初に住んでいた部屋だった。
それはいいのだが、ドアの前に、包丁を握りしめた吊りスカートの少女が立っている……。
「憎い……親子水入らずが憎い……」
血走った眼をしている。
自称ジュリエットだ。
「えーと、ここでなにをしてるんだ?」
「ああ、霧島さんですか。ここのトイレだけ入れないんですよ。結界が強すぎて。こんなことって許されます? 私、どこのトイレにも入れるのに」
そもそも、どこのトイレにも入るんじゃない。
人の家だぞ。
俺はドアをノックした。
「霧島です。ご挨拶に来ました。もしよろしければ……」
スッとドアが開いて、スエさんがぬっと顔を出した。
「待ってた……。入って……。そっちの子供も……」
子供と言われた少女は「ジュリエットです」と抗議した。どこからどう見ても子供だが。
間取りはほかと変わらない。
ただ、あったかい印象はあった。ゆりかごがあって、赤ん坊が寝ている。いや、赤ん坊? なんだかウーパールーパーみたいな……。
スエさんはかすかに笑みを浮かべた。
「ああ、その子。やっと会えたんですよ。本館でずっと泣いていました。私の最初の子ども。永遠の子供」
抱き上げて、よしよしとあやした。
ウーパールーパーも「ぴゃあ、ぴゃあ」と喜んでいる。きっと本館を荒らしていた主だろう。巨大だった身体も、こんなに小さくなって。
「ただいまー! あ、霧島だ! 遅かったじゃないか! 心配しただろ!」
クソガキが騒がしく帰ってきた。
かと思うと、いきなり抱き着いてきた。抱き着くというか、ほとんどタックルだったが。こいつは異様にスピードがあるから、受け止めるのにも少々力がいる。エネルギーは、質量と、速度の二乗に比例する。
「よう、元気だったか?」
「うん! みんなと一緒だったし! 見て! この赤ちゃん、あーしの姉ちゃんなんだ!」
「そうだな」
たまこは指先で主の頬をつつき始めた。
こうしていると本当の姉妹みたいだ。
実際、本当の姉妹なのだが。姉と妹が逆に見える。
それはいいのだが、この感動的な再会の隙をついて、ジュリエットがそそくさとトイレに入り込んだのは、見なかったことにしておこう。
彼女のトイレへの執着はなんなのか……。
「なんか、よかったな。家族で暮らせることになって」
「なに言ってんだ。全部オマエのおかげだろ! 感謝してるゾ!」
いや、全部じゃない。
生命の樹からスエさんを切り出したのは先生だ。あんな芸当、おそらく他の誰にも不可能だっただろう。おそろしいほどの才能を、人のために使いやがって。ついうっかり未来が明るいもののような気がしてしまう。
スエさんは窓を開いた。
「見て、お月さま……」
薄紫の空に浮かんだ真円の月――。
目を奪われた。
おぼろに輝いていた。
忌むべき満月を、こんなに素直に見つめられる日が来るとは。
俺は過去を清算していない。
罪を忘れることもない。
ただ、それでも心が満たされてしまった。
目の前の幸福を、ムリに拒絶しなくてもいい。
スエさんは、そう言っているような気がした。
俺は幸福になりたかった。だから必死にもがいた。自分の気持ちを否定できなかった。
そして、それと同じくらい、他人の気持ちも大事だと知った。
失ったものは多い。奪ったものも多い。与えることができたのは、ほんの少し。
誰かは許してくれた。誰かは許さなかった。誰かは忘れてしまった。誰かは忘れたフリをしてくれた。それでいまが成立している。
俺は立派な人間じゃない。他人もそうだ。
人と関わると不快な思いをすることもあるが、そうでないこともある。そうでないどころか、こうして幸福を共有してくれることさえ……。
いまはただ、小さな部屋で、みんなと平穏な日常を分かち合っていたい。
願わくば、この幸福が末永く続きますように。
(終わり)




