マンダリン
時間だけが過ぎた。
多賀峰は姿を現さない。
俺は寝て起きて飯を食い、そして神社でプリンをオーダーしまくった。ドアを開けるたびにクーラーボックスが置かれていた。中身はすべてクソガキへ。
もしかして、多賀峰はもう獣になってしまったのでは?
他の住人に殺されてしまったのでは?
すべては手遅れなのでは?
そんな考えが何度も頭をよぎった。
さりとて策もなく……。
ある日、俺は食堂のカウンターで、ぼんやりと蕎麦をすすっていた。
ここの婆さんは、いったいどこで蕎麦粉を手に入れたのか。大量の蕎麦をひとりで打ったのか。あらゆる疑問がわいては消えた。いまはどうでもいい。
ふと、くすくすと笑う声がした。
「やめなよ、舞。気づかれるって」
「えー、でも」
数名の女子高生が、こちらを見て笑っていた。好意的な笑いじゃない。
彼女たちは、食事のときだけ学校を出てここへ来る。
俺は無視して蕎麦をすすった。
「ねえ」
「ぶっ」
いきなり声をかけられて、俺はむせた。ちょうど蕎麦をすすっているタイミングだった。
「うわ、きったな……」
「急に話しかけるからだろ。それより、なにか用か?」
「多賀峰さんに会いたいんでしょ?」
「えっ?」
生意気そうな態度のガキだ。
丸出しのデコまで俺を小馬鹿にしているように見える。
「先生、言ってたよ。津邑を殺したかもしれない男が、今度は多賀峰さんまで狙ってるって。だから気をつけろってさ」
あの女、そんなことまで生徒に吹聴してるのか。
生徒を守るためかもしれないが、注意喚起にしては度が過ぎている。もはや対立を煽っているレベルだ。
俺は手で口元をぬぐった。
「そうかよ。じゃあお互い、距離をとるべきだろうな」
「なにそれ? あたし、ケンカしたくて話しかけたんじゃないんだけど?」
後ろで友人たちが「やめなよ」やら「ウケるんだけど」やら言っているが、彼女は完全に無視していた。
「悪かったな。それで、どんなご用だ?」
「多賀峰さんに会いたいんでしょ? あたしが仲介してあげようと思って」
「仲介?」
「その代わり、条件あんだけど」
「金ならないぞ」
俺はジョークを言ったつもりだった。
このアパートでは、そもそも金の出番はない。メシは食い放題だし、神さまの無料の宅配サービスまであるからだ。まあ過去には、独自の通貨を発行して、エリアを牛耳ろうとしていたヤツもいたにはいたが……。
女子高生はすっと真顔になった。
「殺して欲しいのがいんの」
「断る」
「最後まで聞いてよ。その人、もう獣になってんの」
「獣……」
それは殺してもいいヤツだ。
いや、むしろ殺すべきヤツだ。
多賀峰のツテは欲しい。
この提案には乗ってもいいかもしれない。
「それでも断るの?」
「いや、待ってくれ。もし獣なら引き受けてもいい。もう少し詳しく話を聞く必要はあるが」
「あたし、三千穀舞華。おじ……お兄さんの名前は?」
「霧島直人だ」
もちろん偽名だ。
それより、いま、おじ……って……?
*
結局、彼女の仕事を引き受けることにした。
なんでも、獣に変化した生徒が、女子校の寮に閉じ込められているというのだ。外から追い込んだのではない。変化の予兆があったので、中にいるうちに閉じ込めてしまったらしいのだ。
もちろんずっと閉じ込めておくという手もある。
だが、いつかは対応するつもりでいたらしい。なのに対応しないまま、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。
食事を済ませて、そのままみんなと学校へ向かった。
出くわした西那さんは、ひどく渋い顔をしていた。
「なんですか? なぜまた学校へ?」
俺が返事するより先に、三千穀舞華がこう応じた。
「違うんです。あたしらがお願いして来てもらって」
「はい? 三千穀さん、自分がなにを言っているか分かってるんですか? 校則違反ですよ?」
「真由を殺してくれるって」
「……」
西那さんはひゅっと息を吸い込んだまま、黙り込んでしまった。
特別な人物なのか?
まあ俺としても、できれば殺す前に個人情報を知りたくはないのだが。もとが人間なのは知っているが、その人物の輪郭がハッキリしてくると殺しづらくなる。
三千穀舞華は、睨むような表情になった。
「先生、あの子がああなっちゃったのって、あたしら全員の責任ですよね? でも、誰も責任をとらないまま今日まで来て……」
「ですが、なにもいまやらなくても……」
「じゃあいつやるんですか? 真由、きっと苦しんでます。あたし、もうあの声聞きたくない……」
ときおり慟哭とも嗚咽ともつかないような声をあげるらしい。
西那さんはあたふたしている。
「し、しかし……なぜ霧島さんなの? きちんとした人に頼むならともかく」
きちんとしてなくて悪かったな。
三千穀舞華は、ぐっと西那さんへ距離を詰めた。
「この人じゃダメなんですか?」
「許可できませせんね。不適切です。まだ殺人の疑いが晴れたわけじゃありませんから」
「じゃあ、誰ならいいんですか?」
「それは……先生がちゃんとした人にお願いしますから。あなたは勝手なことをしないように。彼にも帰ってもらってください」
これだ。
先生は、生徒の言うことを、聞かない。
もちろん全員がそうじゃないとは思う。だが、基本はこうだ。
もちろん教師にも言い分はあるだろう。なにか問題が起きた場合、責任を負うのは教師なのだ。そうである以上、状況をコントロールする主導権は教師にある。
すると三千穀舞華は、ふっと鼻で笑った。
「そうやってずっと逃げ続けるんですか?」
これには彼女の友人たちも「もうやめようよ」と弱腰になっている。
西那さんはぐっと眉をひそめた。
「逃げる? どういう意味です?」
「私、真由がああなったの、自分たちの責任だと思ってます。真由の方言を面白がって……。でも、真由はバカにされてると思ってた。みんなそれに気づいてたはずなのに。事あるごとに笑いものにして。先生も止めなかったですよね? みんなの責任ですよ。どっちにしろ殺す以外に選択肢はないんです。いつまでも先延ばしにしないでください」
すると西那さんは、あろうことか平手でパァンと横っ面を叩いた。
「あなたね! 大人の事情も知らないで、自分の都合ばかり言わないで頂戴! 人の命に関わる問題なんです! そんな軽率に答えを出そうとして! 先生は、そういうところを問題にしてるの! だいたいあなたは……」
話が長くなりそうだったので、俺は刀を抜いた。
「結論は出たようだな。獣の場所を教えてくれ。できるだけ苦しまないように済ませる」
すると西那さんは目を丸くしながらも、頑張って苦情を申し付けてきた。
「ま、待ちなさい! そうやってすぐ暴力で解決しよと……」
「おかしいな。俺の見間違えか? あんた、言葉で説明すべきところを、暴力でねじ伏せようとしたよな? その時点であんたの負けなんだよ。あんたがスイッチを入れたんだ。ここからは暴力で解決するフェイズだ」
「なぜ理解できないの……?」
理解できるわけないだろ。
理解して欲しかったら、次からはきちんと言葉で説明するんだな。
*
「真由はこの先です。声がするから、行けば分かると思います」
「了解。みんなは危ないからさがっててくれ。終わったら報告する」
学校では、休憩所を校庭として使っている。
校舎として使われているのもその近辺。
寮はやや離れた場所にある。
俺は刀を抜いたまま廊下を進んだ。
本当は槍が欲しかったのだが、アパートで振り回すには向かないと思い、やむをえず刀にしたのだ。とはいえ、このアパートの廊下は、意外と大きめに作られている。あきらかに人間以外の生物を考慮に入れたサイズだ。槍でもよかったかもしれない。
歩を進めるにつれて、グーという重低音が聞こえてきた。
寝ているのではあるまい。グルグルという唸り声だ。俺の気配を察したのかもしれない。
ドアの前に立った。
ドアというより、バリケードだ。何枚もの板が、釘で固定されている。釘目を見ると、なんの工夫もなく、ただまっすぐ打ち付けてある。
俺はなんとも言えない気持ちになった。
もしかすると、中にいる獣は、いつでもバリケードを突破できるのかもしれない。こんな釘、バカみたいな力で押せば抜けてしまうからだ。なのにそれをしないということは、強固な意思で部屋に留まっているということだ。
「あーう、あーう……」
小さな声で、誰かを呼ぶように鳴いていた。
もしかして「舞」と言っているのか?
いや、いい。
同情などすべきではない。
俺は板に刀を突き込んで、てこの原理で強引に引きはがした。普通の刀ならこんな扱いすべきでないのだろうが、この黒曜石みたいな刀は、信じられないほど頑丈だ。
バキ、バキ、と、板がはがれてゆく。
もろい木製のドアも、すでに亀裂が入っていたので、簡単に穴が開いた。人が通れるようになるには、少し作業が必要だが。
中の獣と目があった。
毛羽毛現という妖怪を彷彿とさせる外見だ。それは長い毛をしたバケモノだ。オランウータンのような……。
だが、彼女の瞳は美しかった。
まっすぐにこちらを見つめていた。
俺の作業を、ただじっと待ちながら。
一通り作業が終わるころには、俺は汗だくだった。これから戦闘をする人間のコンディションではない。ともあれ、穴から手を突っ込んで、カギを解除して思いっきり開いた。
毛の獣がたたずんでいた。
じっとしている。
普通、獣になった人間は、獲物を見たら狂喜するものだ。あるいは狭い部屋から出られるのだから、それも嬉しいはずだろう。
なのに彼女は、まるで死を受け入れたかのように弱気だった。
俺はあえて笑って見せた。
「おいおい。なにをもう終わったみてーなツラしてんだよ。いまから始まるんだ。俺は俺の都合であんたを殺しにきた。その代わり、俺を殺せばあんたは自由だ」
「あーう……」
気の滅入る鳴き声だ。
これを毎晩聞かされるのはつらい。
いや、一番つらいのは、この獣のほうか。
俺は力いっぱい踏み込んだ。
フェイントだ。ただ踏み込んで、ダンと床を踏んだだけ。獣はびくりともしなかった。無闇に他人を威圧しているみたいで自分が滑稽に思えたが。
獣は、生前の記憶をいくらか引きずる傾向にある。
だがある種の執着に従っているだけで、会話が成立するわけではない。放っておくと人間を殺し始める。人間社会にはなじめない。
「行くぞ」
俺は余計な宣言をして、いちど身体を右に振ってから、左へ切り上げた。
刃は鋭い。
触れたものは容赦なく切り裂いてしまう。
俺の攻撃は浅かった。
その代わり、獣の爪をギリギリで回避できた。
そうだ。
こいつは獣なのだ。
人間が近づけば、本能的に攻撃を始める。
本人にその意思があろうとなかろうと。
「あーう! あーう!」
胴体から激しく出血していた。
一撃で仕留めたかったのだが。
爪をぶん回してきたので、俺は腕ごと切断した。それから側面へ回り込み、おそらく頸動脈と思われる部位へ一撃。
手ごたえはあった。
獣は膝から崩れ落ちて、短くなった腕で首をおさえようとして宙を掻いた。
噴出した血液が、壁にまで飛散した。
「あーう……あーう……」
地べたに伏せながら、獣は最期まで鳴き続けた。
*
「終わったよ」
俺がそう告げると、三千穀舞華はうなずいただけで返事をくれなかった。泣くのを我慢している様子だった。
「今日はこのまま帰るよ。あとはみんなで処理しておいてくれ」
女子生徒たちはざわざわしていたが、誰も俺を止めようとはしなかった。
*
血まみれで歩いていると、すれ違う住人たちがぎょっとした顔でこちらを見た。
まあ正常なリアクションだ。
俺もいちいち腹を立てたりはしない。
自室に戻ると、まっさきにシャワーを浴びた。
こびりついた獣の血がかわいてしまうと、なかなか落ちない。石鹸が小さくなっている。神さまに新しいのをもらうか、どこかの商店で物々交換して手に入れるしかない。
浴室から出ると、ソファにクソガキがいた。
「見てたゾ? 大活躍だったな」
「茶化すなよ。そうやって冷笑してると、ロクな大人にならないぞ」
「そうか? でも残念だけど、あーしは大人になれねーんだな」
そういえばこいつも妖怪だったな。
俺はコップに水をそそぎ、一気に飲み干した。
「で? 多賀峰は現れたのか?」
「全然だゾ。面倒だから、姉ちゃんに聞いた」
「おい……」
それがなにを意味するのか、もう忘れたわけではあるまい。
いや、こいつのことだから、もう忘れたのかもしれないが。
「姉ちゃん、また来るってさ。こないだのお詫びもしたいって。あ、でも安心していいゾ。もう変なクスリ入れねーって言ってたから」
「来なくていいよ」
「なんで? でけー乳してるのに?」
「そこは問題じゃないって言っただろ」
するとクソガキは足をバタバタさせて大笑いした。
「な、なんだオマエ! そんなカッコマンみてーなこと言える顔か? 鏡見たことねーのかよ! おかしくて死ぬゾ! ぴひぃ!」
「そのまま死んでいいぞ」
ちなみに鏡を見たことはある。
別に悪くない。
俺は自分の人生と向き合ってきた。よくも悪くも自分というものを受け入れている。特になにも問題とは思わない。
クソガキはパタリと動きを止めた。
「オマエ、最終的になにになりたいんだ? 大物にでもなるつもりか?」
「それもいいが。おそらく大物になる前に、獣になるだろうな。すでに一人殺してるし、このあとも一人分の予約が入ってる」
するとクソガキは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「人を殺したくらいじゃ獣になんてなんねーゾ。本当の問題は、そいつが自分の人間性を疑ってるかどうかだ」
「なんだよそれ」
だが、もし事実だとしたら?
自分を疑わないサイコパスみたいなヤツだけが、いつまでも人として生き続けることになる。
いや、そんなのを人と呼んでいいものか……。
もしかすると、このアパートでは、人の姿でいることのほうが「間違い」なのではなかろうか。
自分を疑って獣になることのほうが、俺はむしろ人間的であるように感じる。
(続く)