その頂にあるもの 六
意外なことに戦闘はなかった。
ただ、脇道からじっと見つめてくるヤツはたくさんいた。不安そうな顔をしていた。
そして問題の三十階――。
出迎えたのは、小柄な坊主頭の若者だった。
「来ちまったか……」
顔立ちは例のサルにそっくり。
一族はみんなこの顔立ちなのかもしれない。
日暮さんが先頭に立った。
「どの件かは理解しているようだな」
「兄貴はどうしたんだ?」
「兄貴ってのは……あのサルのことかな? まだ生きてるよ。いまは下でおとなしくしてもらってる」
「分かった。長老から話がある。来てくれ」
罠かもしれない。
だが、どうにも敵意のようなものを感じなかった。
*
案内されたのはアパートの脇道だった。
奥には老婆が背を丸めて座っていた。顔立ちからするに、彼女も猿の一族だろう。
「太郎はどうしたえ?」
「下にいるって」
「そうかえ。で、こちらは?」
老婆は目を開くのも億劫な様子でこちらを見た。
「日暮です。供物横領の件で調査をしています」
「ふぁあ。横領かえ。よう言うわい。まるで犯人扱いだの」
横領を否定しない。
やはり犯人だろう。
朽拿は指の隙間から老婆を見て、うなずいた。
彼女が術の使い手で間違いあるまい。
「皆さんが供物を横取りしているせいで、階下のものたちが困っております。やめていただけませんか?」
「困る? はて……。わしらが困っておったとき、下の連中はなんかしてくれたことがあったかえ? ん?」
「それは分かりませんが、あなた方の行為はあきらかに規約を違反していますので」
「下で独占しておったものを、上で独占する。それのなにが違う?」
どちらも譲る気はなさそうだ。
俺は壁に背を預け、リラックスすることにした。
この話は長くなるかもしれない。
*
要約すると、老婆の主張はこうだ。
供物はあるのに、この上階には決して回ってこなかった。
御所や別館で独占しているせいである。
自分たちはこれまでの借りを返してもらっているだけだ。
自分たちだけで独占しているのではなく、近隣の住民にも配布している。おかげで周囲の治安は回復しつつある。
これを悪というのなら、等しく御所も罰してみせよ。
*
だが、日暮さんはまるでマニュアル作業員のように冷徹だった。
「もともと本館にも神社があったのに、それを徹底的に破壊したのは猿王朝だったはず。それで食料がないなどと言われても知りませんよ。分配に関しても、御所が決めることであって、我々にはどうすることもできません。とにかく、迷惑行為をやめてくれないのなら、強制排除の手続きに入ります」
老婆の表情に変化はなかった。
ただ、静かに、ゆっくりと、溜め息だけが漏れた。
「歴史も知らぬ童では話にならんの。所詮、ぬしらにとっては他人の命。どうでもいいんだろうの」
「私は個人的な感情で動いているわけではありません。規則に従って行動しています。とにかく、自主的に停止してくれないのなら、強制排除という結論は変わりませんので」
強制排除、か。
具体的にどうするつもりやら。
すると、ぞろぞろと近所の連中が集まってきた。
「婆さま、わしらどうなるんだ?」
「もう、メシ食えんようなるんか?」
「また地獄に逆戻りじゃねーか」
ざっと見た感じ、猿以外の連中もいるようだ。
婆さんの言う通り、この辺のみんなに食料を配っていたというわけだ。
もしいま事を起こせば、ここにいる全員を敵に回すことになるだろう。
日暮さんは溜め息をついた。
「皆さん、静粛に。いますぐどうという話ではありません。今回はあくまで調査が目的。話をいちど持ち帰り、組織の判断を待ちます」
かくして強制排除は実施される、というわけだ。
不命者を殺したところで意味はないから、この婆さんはどこかに幽閉されることになるんだろう。
老婆は大儀そうに片目を開いた。
「帰るんか、童ども? せっかく来たんだし、一番上まで見て来たらいいわえ。ぬしらにとっては、なつかしいものが見られるだろうさ」
*
人々の視線は厳しかったが、それでも治安はよかった。
歩きながら、余計なお世話とは思いつつ、俺はこう尋ねた。
「日暮さん、本当にやるんですか?」
「本当に、とは?」
「強制排除ですよ。彼らにも事情があったみたいだし……」
「上階に分配されないのは、あくまで本館の問題だ。横領していい理由にはならん。俺たちには、食糧の供給を正常に戻すという役目がある。これはアパートの利用規約なのだ。規約を破ることは許されん」
まあ管理組合には管理組合の理屈があるのだろう。
俺たちはそれに助けられている。
「規約を破ってるなら、いずれ獣にならないんですか?」
「なる。だが、その蓄積はごく緩やかだ。罪の重さに比例せず、な。それがこのアパートなのだ。スエの感情が強く作用している」
スエさんか。
だが、いまはもう一人の価値観が加わっているかもしれない。
進むにつれ、なんだか不思議な雰囲気に満ちてきた。
明るい?
いや、実際の明るさではなく、空気が軽い気がする。
草花の……においがする……。
*
三十二階――。
住人はいなかった。
その代わり、優しい光に満ちていた。
外だ!
人間界が見える!
「え、これ出口じゃないですか?」
俺は我が目を疑った。
廊下の先に、草原が広がっている。
小さな山花も咲いている。
駆け寄ってみると、それはドアではなく、水面のようになっていた。いや、水面というにはカタ過ぎた。通過できない。
朽拿が溜め息をついた。
「ムダだ。向こうから入ってくることはできるが、こちらからは出られない」
術の心得のあるものが言うのだ。おそらくそうなんだろう。
日暮さんも呆然とした顔で近づいてきた。
「ああ、なんてことだ。目の前にあるのに、行くことができないとはな」
新鮮な空気。
やわらかな陽光。
以前は気にしたこともなかったような景色。
でも、ずっと触れることのできなかった光景。
「え、ちゅみみ、あっち側に住みたいっちゅ……」
感動でぷるぷるしている。
もしここで生まれたのだとしたら、初めて見る光景だろう。
*
どれだけ見ていたかは分からない。
ただ、飽きるまで見ていた。
重い腰を上げたのは、日が傾いてきて、やや空に赤みがさしたころだった。
帰り際、猿から握り飯をもらった。
たくあんもついていた。
わけも分からず涙が出そうだった。
田舎に帰ってきたような……。
*
二十六階――。
クモの巣まみれのフロアに戻ってきた。
「どうだった? 私の言った通りだったでしょ?」
クモ女は勝ち誇った顔でそう告げた。
少しイラつくが、その通りだ。
和木巡査は生きていたが、マネキンのように直立していた。
たぶん会話に困ってフリーズして、そのままなんだろう。
命に別状はない。
俺はつい頭を抱えた。
「ただ……」
「ただ?」
「なんだか、あいつらを責める気にはなれなくて……」
「あらあら。お優しいのね、人間さまは。もしかしてこのおサルさんも助けて欲しいとか言わないよね?」
聞かれたくないことを聞いてくる。
俺は抜刀し、サルが会話できるよう繭を裂いた。
「あんたの意見も聞きたい」
「ぜんぶ見たんだろ? 俺たちはただの泥棒じゃねぇ。ただメシが食いたかっただけなんだ」
このサルは、もしかすると国家転覆など狙っておらず、食料をぶんどって上階を救いたかっただけなのかもしれない。その動機が義憤なのか、朝廷への対抗心なのかは判然としないが。
ここは力がすべてだ。
いや、ここだけでなく、まともな法があっても、その法を守らせるだけの力が必要だ。
結局は力なのだ。
俺はあきらめた。
「話は理解できる。けど、すまん。分からない。判断できない」
このサル野郎は悪人じゃないのかもしれない。
かといってサルを救えば、クモ女を裏切ることになる。
クモ女は、おそらく力づくで全員食うこともできたかもしれないのに、交渉に応じてくれた。
誰かを守れば、別の誰かを傷つける。
日暮さんは鼻で笑った。
「約束は約束だ。そのサルは餌にしてもらって構わん。俺たちはもう行く。ほら、霧島さんも行くぞ」
「はい」
俺は自分を利己的なタイプかと思っていたが……。比較にならないほどドライなヤツもいたものだ。いや、意外と一般的な人間というのは、こんな感じなのかもしれない。
クモ女に頭をさげて、俺はその場を退去した。
サルがその後どうなったのか、おそらく知ることはあるまい。
*
散発的な襲撃を受けつつも、十六階のジュリエット宅に到着。
「ごめん。また御厄介になるよ」
「あのサルは?」
「クモの餌になった」
「そう」
ジュリエットはそれだけ言うと、トイレのドアを閉めてしまった。
不命者は死んでも生き返る。
だからサルにとっては終わりじゃない。
そう考えて自分を納得させるほかない。
*
ゴールは、本館の食堂にある汚い厨房だった。
「調査は成功だ。約束通り、報酬を支払おう」
日暮さんはそう言って札束を取り出した。
そうだ。
金のために働いたんだ。
せめて支払いくらいはぽんと気前よくやって欲しい。
「ここに100万ある。これを、五人で分ける」
「えっ?」
俺たちの声が重なった。
まず、「分ける」の意味が分からない。
ひとり100万ではなかったのか?
しかも人数にも疑問がある。
五人!
俺、ちゅみみ、朽拿、和木巡査。そこまではいい。だが、あとの一人は? まさか日暮さんまで報酬を受け取るつもりでいるのか?
ちゅみみが地団駄を踏んだ。
「どういうことっちゅか! これじゃ20万しかもらえねーっちゅ! 100万ってのはウソだったっちゅか!」
「ウソは言ってない。全体の報酬が100万。それを五人で分けるんだ。フェアな話だろ?」
このグラサン野郎……。
よく平然とドデカいウソをぶちかましてくれたものだ。
朽拿も眉をピクピクさせている。
「せ、説明と違うのでは……」
「こちらとしては、きちんと説明したつもりだ」
和木巡査はフリーズしているからいいとして。
俺にも言いたいことがある。
「なるほど。あんたに言ってもムダなら、管理組合に問い合わせるしかなさそうだな」
「それだけはやめてくれ……」
極秘任務だったはずだ。
問い合わせがいったら困るのはこの男だ。
こんなウソつき、とっとと獣にでもなってしまえばいいのだ。
ともあれ、俺は20万だけつかんで厨房を出た。
この心の傷は、ネコキャバで癒してもらうしかない。幸い、ポケットには金がある。命もある。キャバらない理由がない。
(続く)
 




