アコースティック・キティー
だが、多賀峰との接触は難航した。
西那さんの協力を得られなかったからだ。
「え、多賀峰さんを紹介して欲しい? こんなときに女性あさりですか? お断りします。そんなこと、ご自分の立場を考えたらできないと思いますけど?」
それが彼女の回答だった。
人の思考を勝手に決めつけて勝手に怒っている。まあそれはいつものことだが。これでも学校の先生が務まっているのだから複雑な気持ちだ。
ともあれ、いちおうもうひとつ手がある。
たまこのお姉さんに探してもらうことだ。
彼女はなぜかアパート内の状況を把握している。
しかしお姉さんに依頼するとなると、代わりに俺がズボンを脱ぐハメになる。べつに恥ずかしくはないし、個人的にはいいのだが……。社会通念上、応じるべきではないと考える。
俺は法律さえ守れない人殺し野郎かもしれないが、決して人間社会を破壊するために活動しているわけではない。
やはり自力で探すしかなさそうだ。
西那さんを張っていれば、いつか接触してくるはずだ。女子校には二度と近づきたくないが。それ以外の場所ならマークすることができる。
「プリンあるか?」
俺がひとり黙考していると、壁の穴からクソガキが入り込んできた。
当然なにかもらえるといった態度だ。
「ねーよ」
「ねーよ? オマエ、あーしにそんなこと言える立場なのか?」
「なんだよ? お前に優しくしたら、なにかメリットでもあるのか?」
「あるゾ。言わねーけどな!」
クソガキは今日もクソガキぶりを全開にしている。
俺はやむをえず棚から煎餅を取り出し、何枚かくれてやった。
「煎餅でいいか?」
「いい!」
そしてソファを占拠して食い散らかすクソガキ。
いや、いいのだ。
クソガキの無邪気な姿を見ていると、なんだか幸せな気分になる。煎餅ごときで簡単に喜びやがって。イヌかネコみたいだ。
「水もくれ!」
「おう……」
俺はこいつをもてなすウェイターなのかもしれない。
言われるままに水を出してやるとしよう。
「それにしても、お前はいつも、なんでそんなに飢えてんだ? お姉さんがおいしい料理を出してくれるんじゃないのか?」
「えっ? まあ出してくれるけど、姉ちゃん小食だからなー。だから足んねーぶんは自分で探すしかねーんだゾ」
この「自分で探す」には、俺の提供する煎餅も含まれているのだろうか?
クソガキの脳内では、自力と他力が高度に融合しているようだ。
俺はクソガキが煎餅を食い終えるのを見計らい、こう切り出した。
「よし、食ったな? じゃあ役に立ってくれ。なにかメリットがあるんだろ?」
「ん? 勘違いすんな。あーしがここにいること自体がオマエにとってメリットだゾ」
「デメリットの間違いじゃないのか?」
俺は皮肉を飛ばしたが、おそらく理解していないのであろう、クソガキはニヤリと笑みを浮かべた。
「しょーがねーな。好きなだけなでていいゾ」
「は?」
「いつもやってるだろ。お前はなで方がうまいからな。好きにしていいゾ」
「バカ言うな。俺はそんなことしない。なんなんだよ『いつも』って。いったいいつのことだ?」
すると彼女は、すっと素に戻った。
「あ、そっか。オマエ、知らないんだっけ?」
「なにを」
「お前がいつもなでまくってるネコ、あーしだゾ」
「は?」
「だから人間じゃないって言っただろ。あのネコ、あーしなの」
「……」
致命的な栄養不足が、脳に深刻なダメージを与えているのかもしれない。
このクソガキは、どこからどう見てもただの人間だ。ネコに似ているのは、風呂に入ってないという点だけ。いや、じつは入っているのかもしれないが。いつも意味不明に汚れている。
かと思うと、いつの間にかクソガキの姿が消えていた。置き去りにされた服の中から、ネコが出てきた。
「にゃあ」
「えっ?」
廊下でよく見る野良ネコだ。
西那さんが餌付けして囲っているネコ。
そのネコはこちらに近づいてきて、頭をこすりつけてきた。
本当に?
「お手」
「にゃあ!」
俺が手を出すと、イラついたようにネコパンチをしてきた。
こいつは……。
するとネコは、ぷいとあっち側を向いて、壁の穴から隣室へ消えてしまった。
かと思うと、今度はクソガキが顔だけ出してきた。
「すっぱだかになっちまった。服とってくれ」
「ほ、本当にお前……なのか?」
「いま見せただろ。早く服よこせ。泣くぞ」
「おう……」
俺はソファの服をかきあつめ、穴に放り込んでやった。
しばらくすると、ちゃんと服を着たクソガキが戻ってきた。
「つまりこういうことだゾ。あーしはネコなんだ。人間じゃない。普通のネコでもねーけどな。どうだ? すごいだろ?」
「ま、まあ……確かにすごい……か……」
ここに住んでいるのは人間だけじゃない。
そういう話はよく耳にする。
まさかこんな近くに実在するとは思わなかったが。
クソガキはソファにふんぞり返った。
「それで? 女を探してるんだよな? ガッコのババアを見張りたいんだろ? あーしに頼んだほうがいいんじゃないのか?」
「ババアはやめろ。そんな歳じゃない。いや仮にそんな歳だったとして、もっと言い方ってモンがあるだろ」
「おぉん? あーしにお説教か? いいのか? あーしの力が必要なんだよな? あーしの機嫌を損ねるような発言は、控えたほうがいいんじゃないのか? ん?」
このクソガキ……。
「なにが目的だ?」
「プリンだゾ。それも、ひとつやふたつじゃねー」
「まさか、無限のプリンか?」
俺がそう尋ねると、クソガキはびくっと身を震わせた。
「無限はダメだゾ。神さまに殺されっちまうからな。適度な量を希望するゾ」
「お前、ネコの状態でいろんな人から餌もらってんだろうが。どんだけ食う気だよ」
「食えるだけ食うに決まってんだろ! なんせこっちは食堂を出入禁止になってるんだからな!」
どうせ食堂でつまみ食いでもしたんだろ。
お姉さんは小食、食堂は出禁、だから自力でメシを集めている、というわけだ。
「分かった。プリンだな。できるだけ提供しよう」
「約束破ったらおまえんちの前で泣き叫ぶからな」
「分かった」
子供を泣かせたなんてことになれば、俺はこのエリアを追放されるだろう。
ここらの住人を愛しているわけではないが、しかしここの治安のよさは捨てがたい。できればよそへは行きたくない。
話はまとまった。
それでもクソガキは帰らない。
ニヤニヤしている。
「やー、でもオマエ、なかなか幸せなヤツだゾ」
「なにがだ?」
「姉ちゃん、ずっとオマエの話ばっかしてるんだ。あれは絶対好きになったゾ」
「ホントかよ? 好きになる要素なかっただろ」
怪しい薬の入ったアップルパイを食わされ、身体の自由を奪われた。そのあと運よく逆転できた俺は、彼女を縛りあげ、説教して追い出した。
恋愛に発展しそうな要素はひとつもない。
「気にするな。姉ちゃん、男と会うとすぐ好きになるんだ。結局のところ、どんなヤツでもいいんだゾ」
「つらい現実を突きつけるな」
どうでもいい男と、誰でもいい女。
それは最悪の組み合わせだ。
それに、俺は彼女を許したわけじゃない。
いかに胸がデカくて顔がよく、なおかつ料理が上手かろうと、彼女はまぎれもなく悪人だ。
仮に悪意がなかったとして、やっていることが悪なら、俺は悪人として扱う。
クソガキはじっとこちらを見つめてきた。
「嬉しくねーのか? 姉ちゃん、乳だけはでけーゾ?」
「人間の価値ってのは、そんなことじゃ決まらないんだよ」
「カーッ! いっぱしの人間みてーなこと言ってるゾ。オマエ、意外と真面目なのな」
「曲げちゃいけないものがあるんだよ。特に、俺の人生においてはな」
俺たちの社会は法によって成立している。
だから本来、復讐などすべきではないのだ。もし問題が起きた場合、あくまで公的機関が、しかるべき処置をする。被害者は、それをもってよしとせねばならない。
あくまで建前上は。
俺は建前を破って逮捕された。無期懲役。死刑でもよかった。主犯の命を奪ったのだ。そう思い込んでいた。
なのにまだ多賀峰がいた。
そいつが波谷志をけしかけて、一二三を襲わせたのだという。
一二三はずっと泣いていた。
俺に助けを求めていた。
だが、俺は動けなかった。恐怖で動けなかったわけじゃない。頭を鉄パイプでぶん殴られて、そのあとメチャクチャにやられたせいで、物理的に動けなかったのだ。あのとき俺は助からないと思っていた。
五人が去ったあと、一二三が手当てをしてくれた。
傷ついているのは一二三も同じなのに。
警察へは行かなかった。
一二三とその親が、警察沙汰にしたくないと主張したからだ。
子供のケンカということで片付いてしまった。
ケンカなんてレベルじゃなかったのに。
一二三は、明らかに以前の元気を失っていた。
気がつくと泣いていた。
俺にはどうしようもなかった。
そして秋が終わるころ、一二三はこの世を去った。
ぽっかりと心に穴が空いたような、という表現があるが、まさにそれだった。そしてその穴は、やがて憎悪で満たされた。
俺は絶対に、あの五人を殺そうと心に決めた。
長いこと計画を立てて、運よく三人を始末できた。
だが、その後の展開がなかった。
*
俺は自宅近くの休憩所へ向かった。
ここは治安がいいから、付近の住人が溜まっている。つまりベンチは埋まっている。俺はフェンスに寄りかかり、景色に溶け込もうとした。
普段いない俺がいるせいか、住民たちは不審そうにジロジロ見てきた。いちおう頭をさげて挨拶はしたのだが。
なにか苦情でもあるのだろうか?
失礼としか言いようがない。
確かに俺は、このコミュニティにとってフレンドリーな存在ではない。みんなと意見が合わないときは、素直にそう言う。ウソをついてまで悪い意見に賛同しても仕方がないからだ。
だがこいつらは、自分たちがここを仕切ってるつもりでいる。自分たちになじまないものを許容せず、異物として扱う。
どこへ行っても「田舎」は形成される。都市部であろうが関係ない。根がそうなのだから、どこに住んでいようが同じことをする。
今日は学校が休みらしく、西那さんもいた。そこへ野良ネコが近づいてゆく。
「あらぁ、みゅーちゃん。今日は自分から来てくれたの? んー? もしかして、うちの子になりたくなっちゃった?」
年甲斐もないネコなで声で、ネコに餌を与え始める。
勝手に名前までつけやがって。
与えているのはペット用の缶詰。神さまにお願いして手に入れたモノだろう。そこまでしてネコを独占したいのか。
しかも勝ち誇った顔でこちらを見てくる。
きっと彼女はこう言いたいのだ。
「ネコちゃんは、あなたではなく、私を選んだのよ」と。
呑気なものだ。すべてこちらの作戦通りとも知らずに。
思う存分ネコと戯れるがいい。
それが許されるのもいまだけだからな。
さて、俺はずっと休憩所にいるわけにはいかない。
多賀峰は俺の存在を認識している。だから、俺がいる間は、彼女も姿を現さないだろう。
もし多賀峰が姿を現したら、クソガキが彼女を追跡することになっている。そうして自宅を特定する作戦だ。
多賀峰もまさかネコがスパイだとは思うまい。
問題は、多賀峰が近いうちに獣になるかもしれないということだ。
彼女は津邑を八つ裂きにしている。
そんなヤツが、いつまでも人の姿でいられるとは思えない。
まあ獣になってくれたら殺す理由はできるが。そうなる前に、当時の状況を聞き出しておきたい。
時間との勝負になる。
ふと見ると、ネコは仰向けになり、西那さんになでられまくっていた。とても満足そうな顔だ。
大丈夫なんだろうな?
自分の任務を忘れてないよな?
いや、中身はクソガキなのだ。
過度に信用すべきじゃない。
念のため、別の策も考えておいたほうがいい。
問題は、その別の策とやらがまったく思いつかないことだが……。
こういうとき、一人でいることの限界を感じる。どう考えても複数の知恵があったほうが強い。仲間がいないよりも、いたほうが効率的だ。
俺はここでの生活を見直したほうがいいのかもしれない。
だけど、いまさら?
損得のために?
目的を見失っている気がする。
そもそも俺はなにをしたくて、そのためになにをすべきなのか。一度しっかり考え直したほうがいいのかもしれない。
(続く)