スニーキング
クレープ屋でお土産を買って帰った。
それはいいのだが、いつまで経っても肝心のたまこが帰ってこなかった。なので自分で食べて寝た。たまこと話すのは明日になってからでいい。
眠っていると、かすかに三味の音が聞こえた。
ここは御所に用意された俺専用の部屋だ。外部の者が勝手に入ってくるとは考えにくい。入ってくるとしたら、内部の者。
いや、外部の者……なのか?
狭い畳敷きの和室。平安貴族のような眉をした髪の長い女が、聞こえるかどうかの音で三味線を弾いていた。一見、亡霊にも見える。暗闇にうっすら浮かび上がる幽玄な姿だ。俺は目を奪われた。
「おや、起こしてしまいましたか」
「なぜここへ……」
御所へ入るには許可がいる。彼女には、その権限は与えられていないはず。
勝手に入ってきたとしか考えられない。
俺を尾行していたというのも、きっと彼女なのだろう。
念のため、俺は上体を起こした。
刀はすぐ脇に置いてある。なにかあればいつでも斬れる。
センさんは耳まで裂けた口でにぃと笑った。闇でもそれと分かる黒い歯が見えた。
「寂しかったから、会いに来たのですよ。ダメですか?」
「いや、それは……」
俺がよくても、御所がダメだろう。管理上の問題がある。
彼女はほっそりとした指で、静かにするようジェスチャーをした。
「じつはお話ししておくべきことがございまして」
「重要な話?」
「でなければ、このように危険をおかしてまいりませぬ。警備をかいくぐるのに苦労しましたぞ」
俺を殺すつもりならば、楽器などいじらずとっとと終わらせていたはず。
本当に重要な話なんだろう。
「内容は?」
「それはとても入り組んでおりましてな……。ですので、簡単なところだけ申しますぞ。別館にて、不審な動きがあるようです。お戻りになったほうがよろしいかと」
「別館……?」
先生はまだ主の腹の中のはず。ほかに問題を起こしそうなのは旧共和国の連中だが……。問題を起こせるほど元気なのがまだいたというのか?
俺は目をつむり、指でまぶたをもみほぐした。
「たしかに古巣だけど。俺が戻ってどうこうできる話なんですか?」
「さあ。けど、わたくしが頼れそうなのは、旦那さまだけですから」
「まだ旦那じゃない」
からかって言ってるだけだとは思うが。
たぶん。
彼女も、気にしたふうもなく続けた。
「気乗りしませぬか?」
「だいたい、別館のことをセンさんが……。いや、気にするなとまでは言わないけど。なにか思い入れでもあるんですか?」
本館の上階に一人で住んでいた女だ。
別館に興味があるとは思えない。
彼女はヘビみたいな目で、じっとこちらを見てきた。神秘的で美しい眼球だ。
「放っておけば、このアパートが滅びますゆえ」
「はい?」
「主の腹の中で、陰陽師がのたうっておりますな。あの男の置き土産が、生命の樹を蝕んでおりまする」
それは雲外老師から提供された情報と一致する。
「ずいぶん詳しいようだけど……」
「少しばかり術の心得が」
少しじゃない。
結界で守られた探偵事務所の場所を簡単に突き止めたのだ。かなりの範囲が見えているに違いない。
「けど、先生の置き土産を……。危険性は理解してる。俺たちはもう流すつもりはない」
「別のものが流しております」
「え、誰が?」
「高田言説と申すもの」
「えーと、誰です?」
聞いても分からない。
少なくとも俺の知り合いではない。
彼女は控えめに音を鳴らした。
「近ごろ湧いて出たカルトの教祖ですよ。妖術を否定して、科学の力で人間社会を再建しようともくろむもの。まあそれ自体は、わたくしにとってはどうでもよいことではあるのですが。しかしあのよからぬ水を、次々下水道に流しておりまする」
事務所は行方不明者の捜索を依頼されていた。
だから発見した聖水の所在は、伝えられる範囲ですべて依頼人に伝えた。いまや聖水の存在は、周知の事実といっていいだろう。
問題は、その後の扱いだ。
俺たちは、聖水の管理を、依頼主に一任した。どう扱うかはご自由に、ということだ。まさか生命の樹を傷つけるようなものだとは思っていなかった。
俺たちが流したあとも、さらに下水に聖水が流されているのだとすれば……。
生命の樹が回復するどころか、さらにダメージを受け続けることになる。
雲外老師が俺に妙な情報をくれたのも、もしかするとそれが原因か。
別館の始末を、別館の人間につけさせようと誘導したのだ。たぶん。いや違うかも。なにも断定できないが。
ともあれ、いまのところ、俺はこのアパートを破壊させるつもりはない。
そのカルトの教祖とやらに危険性を伝えれば、やめてくれるかもしれない。分からないでやっているのなら、だが。
もし分かっててやっているのなら……。利害が対立する。
「分かった。今度、別館に行ってちょっと様子を見てきますよ。話でなんとかできそうならそうしますし、そうでなければ……まあ考えます」
「ふふ。頼もしい。それでこそわたくしの旦那さま」
「旦那じゃないです」
本当に不命者の方々は、すぐに他人を好きになる。殺し合うときも躊躇がないし。人間よりも感情が表に出やすいようだ。
いや、人間が隠しすぎているのか。
だが……。
会話が終わったのに、センさんは帰らなかった。
じっと座したままこちらを見ている。一見、美しい和装の女だが、細部は人間と違う。それでいてバランスがいい。絵になるというか。
「ええと……。俺、もう寝るけど……」
「はい」
「そこにいるつもり?」
「はい。帰りはヘビの姿になりますゆえ。恥ずかしくてお見せしとうございませぬ」
なるほど。
たまこみたいに、ヘビになって入ってきたのか。道理で警備を突破できたわけだ。いや、ここは不命者だらけの御所なのだから、その手の対策もなされているはずなのだが……。それさえかいくぐって入ってきたのだろう。やはり只者ではない。
*
寝ている最中にうっすら気づいたが、センさんは帰らなかった。
布団に入り込んで寝ている。
寝相がいいから、邪魔にはならなかったが……。
「ふふ、おはようございます」
「おはよう」
長い髪をまとめてひとつにしている。
朝の眠たげな顔さえ美しい。
俺は思わず笑って布団から出た。
「まさか帰らないとは思わなかった」
「はい。こちらも、まさか本当に寝てしまうとは思いませんでした」
目を細めて笑っていたが、どこか威圧するような雰囲気も感じた。
俺は眠かったのだ。
仕方がない。
寝ながら体をまさぐってしまった気もするが……。まさか他人が同衾しているとは思わなかったのだから仕方がない。
「このあと、どうするの?」
「旦那さまが部屋を出たら、身支度をして帰りまする。旦那さまはご自由に」
「そう」
ヘビになるところを見てみたいような、見たくないような。
ジャージからスーツに着替えている途中、背後から声をかけられた。
「ひとつだけ言い忘れておりました」
「なに?」
「ネコにお気をつけください」
「えっ?」
振り向くと、彼女は笑っていなかった。
表情の読めないヘビ顔でこちらを見ているだけ。
「なんでもありませんよ。ちょっとした冗談ですから。そんなに深刻そうな顔をしないでくださいな」
*
朝食を済ませ、詰所に入った。
一時的な仮の事務所なのに、デスクには書類が山のように積まれている。いったいなんの資料なのだろうか。
すでに生倉さんが来ていた。黒のスーツをピシッと着こなして、資料の整理をしている。
「おはようございます」
「おはようございます。今日ちょっと出たいんですけど、大丈夫ですか?」
俺がそう尋ねると、彼女は不審そうに顔をあげた。
「どの件です?」
「いえ、どの件でもないんですが。別館の様子を……見ておいたほうがいいという予感がしまして」
不法侵入者の存在を暴露するわけにはいかない。
生倉さんはかすかに溜め息だ。
「別館? まあ、どうせ依頼はありませんが……。いちおう身辺警護の名目でここにいるわけですから、なるべくふみこさんの近くにいるべきだと思いますが」
「どうしても気になるんです」
「私にも言えないような話ですか?」
「あとで説明できると思います」
もし別館での話がこじれた場合、事務所の力を借りることになるだろう。
そのときどうせ説明するハメになる。
生倉さんはうなずいた。
「分かりました。その代わり、ひとつ頼まれてくれませんか?」
「なんなりと」
「赤尾さんを叩き起こしてきてください。たぶん寝坊ですから」
「かしこまりました」
キャバクラにも行っていないのに寝坊とは。
部屋で飲んでたのか?
どこで酒を手に入れたのか、俺にも教えて欲しいな。
*
赤尾さんを叩き起こして事務所まで連行し、俺は御所を出た。
門番はなにも言ってこなかった。
さて、別館へ向かうとしよう。
いつ以来だろうか。
ずいぶん長いこと顔を出していない。
道順はおぼえている。
以前はどんよりした空気の、おどろおどろしい雰囲気の廊下だったが、いまはそこそこ活気がある。みんな楽しそうだ。
働けばお金が入る。そのお金で買い物もできる。血を奪われる口実に過ぎなかった時代とはえらい違いだ。治安もよくなった。
かつて本館を支配した猿の一族は、神社を破壊し、食堂での食料供給を停止させたらしい。
なぜか。
住民たちが互いに奪い合うよう仕向けたのだ。決して連帯させないために。そうして分断しておけば、支配しやすくなる。
猿はあらゆる富を独占し、自分にとって都合のいいものにだけ分配した。みんなが猿に媚びを売り、顔色をうかがうようになった。
文車一族は、そんな猿の横暴を止めるため、レジスタンスと協力して猿を追放した。
ところが皇帝に即位した文車一世は、レジスタンスを切り捨て、猿と同レベルの暴政を続けた。
その後は、俺たちが見てきた通りだ。
「また勝手にコソコソなんかやってんな。よくねーゾ、霧島」
背後から急に声をかけられた。
クソガキだ。
半袖半ズボンという見慣れた格好で近づいてきた。
「なんだよ? 今日はキャバクラの仕事はお休みか?」
「オマエ、もっとあーしに優しくしたほうがいいゾ。オマエが部屋で女と寝てたのは知ってんだからな」
ネコに気を付けろ、か。
こいつ、いつも俺の部屋を覗いてるのか? まあ勝手に布団に入り込んでくることもあるし、いまさらだが。俺にプライベートはない。
「ほう。では、たまこさま、この愚かな男はいったいいかがすればよろしいか?」
「あーしも連れてけ」
「邪魔するつもりだろ?」
「するかもな、そんな態度じゃ」
「悪かったよ」
こいつは戦っても普通に強い。
足もすばしっこいから、ピンチになったら逃げ切れるだろう。
そういう意味では足手まといにはならない。
だが、俺は今回の問題を、調査と対話で解決するつもりでいる。
たまこが役に立つとは思えない。
むしろ逆。
なぜかまれにお行儀のいいときもあるが……。
たまこは大袈裟に溜め息をついた。
「ところで霧島、オマエにはガッカリしたゾ」
「なんだよ」
「あんなヘビみたいな女、どこがいいんだ? あーしのほうが百倍はかわいいゾ」
このネコ、自己肯定感が強すぎる。
「美人だろ。大人だし」
「でもヘビだゾ」
「俺、ああいうミステリアスな雰囲気の人、けっこう好きなんだよな」
「いや、オマエが好きなのは男だろ?」
「だから違うって言ってんだろ」
いや、違わないのかもしれない。
俺は一二三に好意を抱いていた。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
ただ、本当にそういう関係になってしまったら、その先どうなるのか分からなかった。すべての価値観が壊れるような気がした。未来が見えなかった。怖かったのだ。
「おい、そんなマジになるなよ。悪かったからさぁ」
こいつ、ネコのくせに人を気づかうこともできるのか。
できれば最初から言わないで欲しかったが。
「俺、意外と傷つきやすいんだよな」
「わーった。わーった。また今度店に来ていいゾ。あーしが慰めてやるから」
本当に行ったら怒るくせに。
「そういや、あのネズミとはどこで知り合ったんだ?」
「ちゅみみか? なんかタコに食われそうになってたから、助けてやった。それ以来の仲だゾ。あいつ、苦労人なんだよな。ちっちゃい弟と妹が七人もいて」
「タコ……」
いまは商売で成功しているからいいが、彼はあきらかに被害者だった。
本館の秩序が回復して、彼のような被害者が減るといいが。
「タコだゾ。なんか脚だけ置いてったから、あいつと分け合って食ったんだよな。意外とウマかったゾ」
「……」
秩序が回復したら、今度は学校を作ったほうがいいだろう。
ここには最低限の教育が必要だ。
「ごめんな、たまこ。お前が最低限の教養を身に着けられなかったのは、大人の責任なんだ。ひと通り片付いたら、俺がモノを教えてやるからな……」
「は? もしかして、あーしいまバカにされてる?」
「ごめんな」
「なんだその顔! すっげームカつくゾ……」
そうだ。
大人がしっかりしなくては。
たまこを立派な大人にする責任が、俺にはある。いや、ないか。まあできる範囲で。とにかくこのままではマズい。二足歩行して人の言葉をしゃべるだけの畜生だ。トイレもまともに流せないしな。最悪だ。
(続く)
 




