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見て、月だよ  作者: 不覚たん
第一部 青
5/82

敵じゃない

 頭がぼんやりしている。


 部屋が四角いのは分かる。

 テレビが明滅しているのも分かる。

 女性が顔を覗き込んでいるのも分かる。

 だが、彼女はいったい誰だったか……。


「ふぅ。うまくいきましたね。安心してください。あなたの体を傷つけたりはしませんから。もしかすると心は傷つくかもしれませんが……」

 勝ち誇った表情でこちらを見下ろしている。

 俺の体は動かない。


 ああ、シナモンのいいにおいがする。

 アップルパイだ。

 もっと食べなくては。


「動けませんよね? ムリしないでください。もう食べなくて大丈夫ですよ」

「なにを……する気だ……?」

 自分の声が、自分の声じゃないみたいだ。

 誰か他人が喋っているような。

「体を確認させていただきます。大丈夫です。すぐ終わりますから。私を否定したあの女に勝利しなければならないんです。私、絶対に間違ってませんから。穴はあるんです」

「穴……?」

 まったく意味が分からない。

 頭が回らないせいか。


 女は「失礼しますね」と言いながら、俺のズボンを引っ張り始めた。俺は引っ張られるままにソファからずり落ちた。頭を打った気がする。だが、さいわいこの床板は腐食が進んでいて、さほど硬質ではなかった。

 女は「えっ?」と困った顔をしている。


「あの、動かないでください」

「……」

 動いていない。

 そもそも動けない。

「えっ、ていうか重いんですけど……。待ってください。これどうやって脱がすんですか? あ、ベルトかな……」

「……」


 この女は、俺になにをするつもりなのだろうか?

 穴とは?


「そこまでだゾ」

 隣の部屋から、クソガキが現れた。

 まさか、俺を助けに来たのか?


「たまちゃん、どうして……」

「姉ちゃんが料理をしてたのは知ってんだゾ。そして完成したアップルパイを持ち逃げしたこともな。それを見逃すあーしじゃねーゾ」

 アップルパイを食べたかっただけかよ。


 お姉さんは歯ぎしりしている。

「なら好きなだけ食べなさい。けど、霧島さんのことは手を出さないで」

「ムリだな。そいつはダメな人間だけど、あーしのマブダチだゾ。姉ちゃんの好きにはさせねーゾ」

「お姉ちゃんに逆らうの?」

「あーしにだって許せねーことはあるゾ」

 ああ、なんて素晴らしいクソガキなんだ。

 いままでクソなクソガキだと思っててすまなかった。

 お前は最高のクソガキだよ。


 お姉さんは深い溜め息をついた。

「分かった。じゃあやめる。私だって、たまちゃんとケンカしたくないもん」

「本当か?」

「本当よ。仲直りのしるしに、一緒にアップルパイを食べましょう」

「やったゾ! さっきから食べたくて仕方なかったんだ」

「いっぱいあるから、好きなだけ召し上がれ」

「うん!」

 いや、うんじゃないだろ……。

 俺はなんとか「やめろ」と声を絞り出そうとしたが、かすれてしまってほとんどなにも言えなかった。


 クソガキはパクパクとアップルパイを食べ始めた。

「なんだこれ! うめーゾ! いつもよりうめーゾ!」

「愛情たっぷり、お砂糖たっぷりだからね」

「やっぱ姉ちゃんは天才だゾ!」

「うんうん」

「アップルパイ……うめーゾ……」

 勢いよく食い始めたクソガキだったが、動きがだんだん機械のようになってきた。かと思うと、フォークも持てなくなってソファでぐったりしてしまった。


 クソガキは頭の中までクソガキだ。

 五七五になった。


「姉ちゃん……なんだか眠いゾ……」

「ごめんね、たまちゃん。でもね、お姉ちゃん、どうしても『やおい穴』を見つけなきゃいけないの。絶対にあるはずなのよ。それをいま証明する必要があるの」

「やおい穴……」

「私、あの人を許さない。私の漫画は間違ってない。絶対にあるんだから。だって私が集めた資料にもそう描いてあったんだもの。間違ってるのはあの女のほうよ!」

「……」

 クソガキは口を半開きにして、虚空を見つめている。

 もはや返事もできないようだ。


 お姉さんは深い溜め息をともに、どっとソファに腰をおろした。

「なんだか急に疲れちゃった。少し休憩にしましょう」

 そして持参した紅茶をひとくちやって、また溜め息。

「ようやく私の念願がかなうんだわ。男の身体に備わっているという『やおい穴』。それを発見する日が来たのよ。いわば人類の記念日。後世はこれを大発見時代として歴史を語り継ぐ必要があるわ」

 甘いものが欲しくなったのか、アップルパイを食べ始めた。

「んー、我ながらいいデキね。甘いものを食べるとやる気が出てくるわ……」

 小さくガッツポーズ。

 だが、そのガッツポーズも長く続かず、手足をだらりと投げ出して動かなくなってしまった。


 いま、この部屋にはバカしかいない……。


 *


「ま、待って! なにするの? ま、まま、まさか乱暴するつもりですか?」


 最初に行動可能になった俺は、ぐったりしていたお姉さんの両手と両足をタオルで縛り上げた。

 まだ少しふらふらする。


「俺にそんな趣味はない。だが、あんたを自由にするとどんな危険な目に遭うか分からないからな。いったいなんの目的で俺を攻撃したのか説明して欲しい」

「ご、誤解です! 攻撃じゃありません! ただ、学術的な研究に協力して欲しくて……」


 姉が追い詰められているというのに、クソガキは部屋の隅でプリンを食うのに夢中だ。姉を助ける気は微塵もないらしい。


「学術的な研究? あんたが言ってた『やおい穴』とかいうヤツか?」

「あるはずなんです! 見ればすぐ確認できます! ちょっとズボンを脱いで見せてくれれば、二秒で終わるはずだったんです!」

「正気を疑う発言だな」

「わ、私だって自覚してます! だから眠ってる間にそっと済ませようと思ってたのに! たまちゃんが邪魔するから!」

「妹のせいにするんじゃない」

 人の自由を奪って服を脱がすとは。

 最低の人間のやることだ。

 よくこいつが獣にならずにいられるものだ。


 彼女はいいわけがましく目を泳がせている。

「で、でもっ、私だってタダでそれをしようとは思ってないです! 五人目の人の居場所を見つけてきたんですから! そ、そう! これは交換条件ですよ!」

「クソ……」


 こいつが本当に津邑の場所を特定したのだとしたら、もちろん知りたい。

 だが、こんな交換条件を飲んでいいのか?


 個人的にはいい。

 ズボンを脱ぐだけで欲しい情報が手に入るのだ。

 だが、俺の軽率な行動が、このコミュニティを「そういう場所」にしてしまう可能性だってある。誰かがそれを続ければ、ここがそういう交換条件の成立する場所になってしまうのだ。

 秩序が壊れる。

 このアパートは秩序がすべてだ。秩序を破壊する行動は、他の住民にも影響を与える。


 俺はソファに腰をおろした。

「いいよ。情報はいらない。今日ここで起きたことは、なかったことにしてやるよ。その代わり、もう二度と関わらないでくれ」

「学校です……」

 お姉さんはキマリ悪そうに目をそらしたまま、そんなことを言い出した。

「学校?」

「合唱部ありますよね? 少し前に、そこに男の人が乗り込んで行ったのおぼえてます?」

「ああ。そういえばどこかの野郎が、女子校に乗り込んで行ったんだっけ。歌がうるさいとか言って。でも返り討ちにあってはりつけにされたんだよな」

「それがあなたの探している男性です」


 津邑……。

 やはりクソ野郎は、どこにいてもクソ野郎らしい。


 俺は立ち上がり、お姉さんのタオルをほどいてやった。

「情報ありがとう。代わりにズボンは脱がないけどな」

「いいんです。悪かったのは私のほうですから」

 まあそうだ。

 一方的にこの女が悪い。

「もう二度と軽率なことはしないでくれよ」

「はい……」

 彼女は身を起こしたが、まだ立ち上がれないのか、ぺたんと座ったまま床を見つめている。


 クソガキはプリンを食い終えた。

「あーしは帰るぞ」

「お姉さんは?」

「知るか。自分の足で歩けるだろ」

 そんなことを言ったクソガキだが、数歩歩いたところでどたっと転倒してしまった。

「あぎゃっ!」

「ムリするな。しばらく座ってろ」

「うぅ……。なんなんだあのアップルパイ。絶対許さねーゾ……」

 体に力が入らないのか、地べたにはいつくばったまま動こうともしない。

 俺はコップに水を入れて脇に置いてやった。

「まあ飲めよ」

「ん」


 お姉さんにも「どうぞ」と水をやった。

 俺もコップの水を飲み、またソファに腰をおろした。

 疲れているときは、ただの水でも体に染みる。

 深く呼吸をする。

 栄養も大事だが、水と空気も同じくらい大事だ。


 ふと、お姉さんが地面を見つめたまま言った。

「ひとつ問題があります。あのエリアは男子禁制になっているので、霧島さんは近づけないということです」

「そういえばそうだったな」

 あの一角は女性が支配している。

 ここはいろいろ物騒だから、自衛のために女性だけで集まり始めたのだ。それがだんだん武装するようになり、堅固な要塞のようになっていた。

 津邑は相手が女だと思ってナメていた。


「ただし、学校関係者が同伴していれば、話は別です」

「学校関係者?」

「はい……」

 お姉さんは自分で言い出したわりに、気乗りしない態度だ。

「誰なんだ?」

「私の先生……。いえ、先生だった人です……。ですが、もう、いまは……」

 いろいろあった、というわけか。

 まあいい。

 居場所は分かったのだ。

 ツテは自分でなんとかする。


 クソガキが身を起こし、ごくごくと水を飲み干した。

「ぷはー。いや、ちっともマジメな話じゃねーゾ。先生ってのは、姉ちゃんにホモ漫画を教えたババアで、そいつとホモ漫画のことでケンカしただけだゾ」

 ホモ漫画、とは……。

 お姉さんは血走った目になった。

「BLって言って!」

「どうせ男同士でえっちしてるだけの漫画だろ」

「だけ? あのね、たまちゃん、言っていいことと悪いことがあるよね? 繊細な問題だから、気を付けて発言するようにいつも言ってるよね?」

「もー。わーったゾ。あーしが悪かったゾ。姉ちゃんこの話になるとすぐ怒るから困るゾ」

「たまちゃんが怒らせるからでしょ?」

「そうそう。全部あーしが悪いゾ」

 あきらめたように大の字になってしまった。


 詳細はよく分からないが、いまお姉さんと先生は対立しており、その関係は修復不可能ということだ。

 だが俺の個人的な都合のために、関係を修復しろなどと要求するつもりはない。


「大丈夫だ。情報をもらった以上、ここからは俺自身の問題だ。あとは自力でなんとかする」


 *


 その翌日、女子校を訪れた俺は、問答無用で磔にされていた。


「表にも書いてありますよね? 男子の立入は禁止だって!」

「漢字が読めなかったんじゃない?」

「下半身でモノを考えてるからこうなるのよ」

「変質者!」

「クソオス!」


 身動きの取れない状態で、女子高生たちからありとあらゆる罵詈雑言を投げつけられる。

 事情を説明すれば協力してもらえると考えた俺がアマかった。エリアに近づいただけで武装集団に取り囲まれて、十字架に縛り付けられた。


 隣の十字架には、やつれた津邑もいた。

 もともと痩せた男ではあったが、かなり衰弱しており、ほぼ骨と皮だけになっていた。


「あんたもバカだな。ここの女どもは男を憎んでる。関わるだけ損だってのによ」

 自分から乗り込んでいったバカに説教されるとは。

 まあ俺も「自分から乗り込んでいったバカ」ではあるが。

「あんた、津邑さんだろ?」

「えっ?」

「いや、同郷でな。ちょっと見かけたことがあったから」

「お前、式見か?」

「……」

 あっけなく正体がバレた。

 津邑はいきなり大声でわめき始めた。

「た、助けてくれ! こいつは人殺しだ! 俺を殺しに来たんだ!」

 女子高生たちもざわざわし始めた。


「人殺し?」

「なにそれ? ヤバくない?」


 だが、俺に言わせれば、ヤバいのはここの女子高生も一緒だ。

 軽率な行動に出た津邑はともかく、ただ話を聞きに来た俺まで磔にしやがって。


 すると教師らしき女が部屋から出てきた。

「なにを騒いでるの!? そろそろ授業が始まりますよ!」

 見知った顔だった。

 いつも俺を敵視する中年女性。

 ネコを独占する女。

 クソガキがババアとか言っていたからもっと年配の女性だと思っていたのに。まだババアという年齢ではなかった。子供から見たら、大人はすべてジジイとババアなのかもしれないが。


 生徒が「あ、西那にしな先生」などと出迎えた。

 そうそう。

 確か西那とかいう名前だった。


 西那さんはうんざりした顔で近づいてきた。

「霧島さん、いったいなぜここへ?」

 すると俺より先に、津邑が見苦しくわめいた。

「助けてください! こいつ人殺しなんです!」

「人殺し?」

「俺、知ってるんだ! こいつが比企地を殺したんだ!」

「……」


 おいおい。

 それは間違いなく事実だが、公表していいとは一言も言ってないぞ。


 西那さんはうんざりと溜め息をついた。

「証拠は?」

「えっ?」

「証拠はあるんですか? あなた、自分が助かりたい一心でウソを言っているのでは?」

 意外というべきか、西那さんは至極まっとうな疑問を口にした。

「ち、違う! こいつは人殺しなんだ! 俺を殺しに来たんだ!」

「ですから証拠は? 津邑さん。これは重大な告発ですよ。事実なら追及すべきとは思いますが……。ですがあなたは、まずは私たちの信用を得るところから始めなくてはなりません。思いつきで喋られたら困るんです」

「しょ、証拠……証拠は……」


 あるはずがない。

 目撃者はクソガキだけだからな。


 代わりに俺が言葉を続けてやった。

「なんでそんなに比企地さんにこだわるんですかね。俺が犯人じゃないと困るんですか? それとも、まさかあなたが……」

「お前……お前よくもそんな……!」

「西那さん、じつは俺たち同郷の出身で、顔見知りなんです。それで、ちょっと様子を見に来ただけでして。この学校にトラブルを持ち込みたいわけじゃないんです。おろしていただけると嬉しいんですけどね」

 すると彼女は、ギロリとこちらを睨みつけてきた。

 好意的な回答は期待できそうにない、か。


「事実ですか? 本当に彼はなにも?」

 西那さんがそう尋ねると、女子高生たちは互いに責任をなすりつけ合うように視線を泳がせ、黙り込んでしまった。

 そうだ。

 トラブルもないのに磔にされたのだ。


 西那さんは盛大な溜め息だ。

「確かにここは男子禁制ですよ。けれども、話も聞かずに磔にするのは間違ってます。いますぐおろしなさい」

「はぁい」


 助かった。

 まさか敵に救われることになろうとは。

 いや、敵などと安易に決めつけるのはよそう。

 人間関係をそう簡単に片付けてしまうからトラブルに発展するのだ。仮に仲間でも対立することはある。対立したからといって必ずしも敵じゃない。それを忘れてはいけない。


(続く)

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