足跡をたどって 四
十四階、十五階とのぼっていった。
戦闘もあった。
もうまともに動けないと思っていたのに、意外と戦えた。いや、とっくに殺されているのに気づいていないだけかもしれない。よけそこねて刺された気もする。
それでも体は動いた。なにをどう戦ったのかすら記憶にない。背中がぞわぞわする。
次の階段をのぼきりったところで、俺はネコを見つけた。
ただちょこんと座っていた。どんな表情かは分からない。ビー玉みたいな目で、じっとこちらを見つめていた。
にゃあとも鳴かない。
「たまこ……」
「……」
俺は近くに腰をおろした。
ネコは逃げなかった。
なんと声をかければいいのか、思いつかなかった。
頭がまっしろだ。
身体が疲弊していた。
俺は呼吸を繰り返した。
しばらく、言葉も交わさずそこにいた。
薄暗い廊下が遠くまで伸びている。
しんと静まり返っている。
「会えてよかったよ」
「……」
彼女にとっては余計なお世話だったかもしれない。
ただ、もしそうだとして、放ってはおけなかった。
「一緒に帰ろう。あんまり遅くなると、オバケが出るぞ……なんてな」
オバケが出る。
それは少年時代、大人たちに言われた言葉だ。
非科学的だと思った。
とはいえ、田舎の夜は暗い。早く帰ったほうがいいのは事実だ。
早く帰らないと、よからぬことが起こる。
田舎だからか、錆びついた古い看板がいつまでも残っていた。
小さな池には、雑な河童の絵とともに、赤い文字で「危険」と書かれていた。河童だ。いるわけがない。俺たちは笑っていた。
ごく小さな池だ。池というか沼だ。
むかし、そこで子供が溺死したらしい。その「むかし」というのもいつのことやら分からないが。看板だけがいつまでも残されていた。
とにかく大人たちは、オバケで怖がらせておけば、子供たちがまともに行動すると期待していた。
少年時代の俺たちは、そんな大人を滑稽に思っていた。
互いに互いを愚かだと思っていた。
いまにして思えば、空疎としか言えないコミュニケーションだった。
アパートのスピーカーが、ブ、ブ、と、ノイズを出し始めた。
割れんばかりの音で「通りゃんせ」が流れだした。
俺は立ち上がり、ネコを抱えた。それからドアノブを銃でふっとばし、手近な部屋に入り込んだ。
「お邪魔します」
先客がいるかどうかは知らない。
危なそうならもっとぶっ放すだけだ。
それにしてもこの銃、意外と体力の消耗が激しい。一発撃つだけで虚脱感に襲われる。疲れているから余計に。
「たまこ、外に出るなよ。あいつが出てくるからな」
「……」
返事はないが、いちおうおとなしく座ってくれた。
家具はない。
ぽつんと置かれているのはテレビだけ。
ドアノブをぶっ壊したせいで、もう鍵はかけられなかった。
ドアは廊下側に開くから、モノでふさぐこともできない。
襲われないことを祈るしかない。
「なあ、なんでこんなところまで来たんだ?」
人間の姿になったたまこが、勝手に押し入れをあさりながら言った。服でも探しているのだろう。
俺はそちらを見ず、なんとか返事を考えた。
「なんでって……。なんでだろうな。お前に、いなくなって欲しくなかった」
「オマエ、あーしがなにから生まれたかもう知ってんだろ?」
「知ってる」
「……」
たまこは、古くて地味な着物を着て、俺の近くに腰をおろした。
時代劇に出てくる農村の娘みたいだ。
表情は冴えないが……。あまり絶望しているようにも見えなかった。分からない。彼女自身、心の整理がついていないのかもしれない。
俺はジャケットを脱ぎ、ネクタイをとり、ワイシャツの袖をまくった。
今日は本当に疲れた。
人生で、こんなに疲れたのは……。月夜の晩に襲われたときと、一二三の訃報を聞いたときと、三人に復讐したときと、逮捕されたときと、裁判のときと……。まあ、意外とあるな。
「オマエ、腕」
「えっ?」
「ヘビみたいになってる」
「ああ、これか……」
正当防衛とはいえ、かなり殺しまくった。
肘のあたりまで鱗になっていた。
ただ、これは獣になろうとするエネルギーを、外側に逃がすために起きた変異だ。問題ない。たぶん。
「あーしのせいか?」
「いいや。俺は好きでやってるんだよ。お前が無事だったことのほうが何倍も大事だ」
「バカだな……」
「俺もそう思うよ」
廊下からドタドタと巨大生物の足音が響いた。
主だ。
あんなデカいのがいるのに、腐りかけた床板が割れないのは不思議だ。
ともあれ、勝手に誰かの家に不法侵入してよかった。
ふと、トイレから誰か出てきた。
オカッパ頭の、目の細い少女だ。包丁を手にしている。
俺は慌てて刀をつかんだ。
「誰だ!?」
「それは……こちらのセリフではないでしょうか……?」
完全にそう。
悪いのはあきらかに俺たちのほう。
「申し訳ない。主から逃げたい一心で、勝手に……」
「ドア、壊しましたよね?」
「はい……」
「ごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
淡々と詰めてくる。
彼女はごくさめた目で告げた。
「言葉だけですか?」
「あの、紙切れでよければ……」
紙幣を何枚か差し出すと、彼女は片眉をつりあげた。
「あるじゃないですか」
「足りますか?」
「5000? まあいいでしょう。その部屋、好きに使っていいですよ。私、基本的にトイレから出ませんから。その代わり、トイレは貸しません。絶対に。どうしてもというときは、お風呂を使ってください。もちろん流してくださいね。流さなかったらさすがに殺しますから」
「はい」
トイレの花子さん的ななにかか?
まあいい。
不法侵入だったものが合法になった。
たまこがすっと立ち上がった。
「じゃ、さっそくしょんべんするゾ」
「流してくださいね」
「おー」
大丈夫か?
絶対に流せよ、たまこ。
お前たまに流さないことあるからな。
お姉さんにもいつも言われてるよな? な?
*
結局、たまこは流さなかった。
こいつはあきらかに世界をナメている。
少女が凄まじい顔でトイレから顔を出してきたので、俺は全力で風呂場に駆け込み、盛大に流した。平謝りして。
「私、言いましたよね?」
「もう二度といたしません。慰謝料もお支払いします」
「追加で5000」
「お納めください」
「次からは気を付けてください。こんな紙切れ、本来、ここらじゃ無価値なのですから。私の寛大さに感謝してください」
「感謝いたします」
もはや土下座だ。
ドアノブを破壊して無断で入り込み、衣服を盗み、風呂で小便をして流しもしなかったのだ。家主は怒って当然。これでもかなり優しい対応だ。
たまこは半笑いだ。
「あんなにペコペコして、情けねーな」
「誰のせいだと思ってんだよ……」
ムカつくクソガキだ。
だが、こうして笑顔を見せてくれると、それだけで嬉しくなる。もう、こいつの笑顔は見られないと思っていた……。
疲れた身を横たえると、たまこが背中に寄り添ってきた。
「なあ。あーし、ホントは嬉しいんだからな」
「よかった。迷惑じゃなかったならなによりだ」
「迷惑なんかじゃねーゾ。勢いで走り出したのはいいけど……だんだん、どうしていいか分からなくなってたし」
後ろから服を引っ張ってくる。
心細かったのかもしれない。
「どこに行こうとしたんだ?」
「どこでもねーゾ。誰もいないところに行こうって……。でもこのアパート、出口がどこにもねーのな……」
そうだ。
出口がない。
本館のどこかにはあるはずなのだが。
たまこは溜め息をついた。
「あーし、薄々気づいてたゾ。どうせロクでもねー親なんだろうなって。親のこと聞いても、姉ちゃん教えてくれなかったし」
「そんなふうに言うなよ」
「でも事実だろ。あーしはメシのなりそこないなんだ。誰かに食われるために生まれてきたんだ。だから……」
「こんなこと言うのはなんだが、誰だって食物連鎖からは自由じゃない。俺だって、主から見れば餌でしかない。俺もお前もなにも違わないぞ」
「なんだよそれ。もっと優しく言えよ」
「優しく言っても、どうせ受け入れないだろ」
「まあ、な……」
バン、と、トイレのドアが開いた。
「え、待って? そういう関係? 始まるんですか? ねえ? 始まるんですか? 私、見てていいですか? 邪魔しませんから! ほかに娯楽もないので! ね?」
血走った目でまくしたててくる。
包丁を持っているから普通に怖い。
俺は上体を起こした。
「え、なんのこと?」
「えっちですよ! えっち! するんでしょ? そういう雰囲気でしたよ! 私の目はごまかせませんから!」
「しませんけど……」
こいつの頭の中、どうなってんだよ……。
たまこもあきれたように仰向けになってしまった。
「あーしとこいつはそんな関係じゃねーゾ。オマエはトイレにこもってろ」
「なんですか、失礼なネコですね。おしっこも流さないし。あなた、まともな教育受けてないんじゃないですか?」
「そーだ、そーだ。まともな教育なんか受けたことねーゾ」
「んまぁ、野蛮な……」
包丁持ってるヤツに言われたくない。
少女はトイレに戻ると、また顔だけを出した。
「あ、でもするときは事前に言ってくださいね。見ますから。私は本気ですよ。絶対に見ます。隠れてこそこそやってても見ます。天に誓います」
そんなことを誓うな。
天も迷惑だろ。
*
しばらく寝た。
もちろんなにも起きない。
少女は何度もトイレから顔を出して、こちらの様子をうかがっていたようだった。
「あのー、なんでやらないんですか? 普通、やりますよね? こっちは一晩中確認してたんですよ? おかげで寝不足です。どうしてくれるんですか?」
「やらないって言ったでしょ」
やつれた顔で包丁を構えているので、本当に怖い。
こちらを殺してこないのが不思議なくらいだ。
「で、どうするんですか? 帰るんですか?」
「帰りますよ。本当に、ご迷惑をおかけしました。お詫びします」
「まあ、それはいいですよ。お金を受け取ってしまったので……。それにしても、あなた、バケモノになりかけてますよね? 大丈夫なのですか?」
「まあ、たぶん」
妖怪にまで心配されるとは。
そのうち全身鱗まみれになるのかもしれない。
大人しくしていないと。
「あのー、非常に迷惑でしたけど、また来てもいいですよ? ドアさえ壊さなければ」
「ありがとう。もしまた来ることがあれば、そのときは」
たぶん来ないとは思うが。
*
帰路は、意外と楽だった。
というより、本性を隠さなくなったたまこが、襲ってくるヤツを片っ端からぶっ殺してしまった。信じられないほど俊敏に動く。爪で急所を切り裂く。
「お前、けっこう強かったんだな」
「そうみたいだな」
こんなに強いのに、多賀峰には捕まったのか。
よほど油断してたんだろうな。
「それにしてもオマエ、さっきからなにをキョロキョロ探してんだ?」
「いや、どこかに三味線のお姉さんがいたはずなんだが……」
「は? 浮気か?」
「途中で世話になったんだよ。挨拶してから帰りたかったんだが……。まあいい」
そんな女、最初から存在しなかったのかもしれない。
このアパートではなにが起きてもおかしくない。
廊下に転がっていたカニの死骸も片付いていた。
おそらく主が食ったのだろう。
先生はどうしているだろうか?
胃液で溶かされながらも、呪いで再生を続けているのだろうか?
*
ネコ耳お姉さんのいる「ネコキャバ 快楽」の前を通り過ぎ、御所へ向かった。
ここまで来ればもう安全だ。
脇道から覗き込んでくるヤツはいるものの、積極的に手を出してきたりはしない。ただ小声でぶつぶつ言ってくるだけ。
御所の前では、生倉さんと赤尾さんが待ち構えていた。
「お帰りなさい。まさか生きて戻って来るとは思いませんでした」
「最初から君に任せておけばよかったな」
赤尾さんは相変わらずの軽口だ。
「運がよかっただけですよ」
鱗に助けられた。
背後からの攻撃を何度かよけそこねたのに、ダメージにならなかった。本当に運がよかった。
「さあ、中へ。陛下がお待ちですよ」
生倉さんがドアを開けてくれた。
まばゆい黄金の大広間だ。
かなりの大冒険だった。
それが、ようやく大団円を迎える。
(続く)
 




