空振り
それから数日、俺は五人目の男を見つけるべく、アパート内を探索した。
自宅付近の治安がいいから勘違いしそうになるが、どこも同じというわけではない。隙あらば軽率な行動に出る人間がいる。しかも人間性を失って獣になってくれるなら話が早いが、そこそこ外道であるにもかかわらず、どういうわけか人の姿のままというものがいる。
かく言う俺もその一人だが。
人間性とはいったいなんなのか?
誰かの気分次第なのか?
「オマエ、誰を探してるんだ?」
なぜかクソガキまでついてくるようになった。
「お前なぁ、人のプライヴァシーを尊重するという考えはないのか」
「ねーゾ。どうせあの手紙の五人目だろ? どこから探すんだ?」
「さあな。目星もないし、片っ端からやるしかない」
「暇人だな、オマエ」
「ま、そういうことだ」
さすがの俺も、人様の家のドアをひとつひとつ開けて中を確認するほど愚かじゃない。危険だとかなんだとかいう以前に、恥ずかしくてそんなマネはできない。
人の集まりそうな場所を見つけて、津邑を探す。
最後に会ってから十年近く経ってはいるが、たぶん見れば分かる。よほど人相が変わっていなければ。
各フロアには、休憩所のようなスペースがある。
ちょっとした公園のような。
そこに顔を出すはずだ。
あるいは食堂でもいい。このアパートには、例の婆さんの経営する食堂のほかにも、いくつか店がある。ずっと待っていれば、いつかはどこかの食堂に顔を出すはずだ。神社でもいいが。
「さっきからジロジロ見られてるゾ……」
「部外者なんてこんなもんだ」
俺とクソガキは休憩所のベンチに腰をおろし、じっと待った。
たまに通りがかる住民たちの視線は冷たい。
普通、住民たちは、用がなければよそのエリアに顔を出さない。余所者というのは、たいていトラブルとセットだ。他者のなにかを狙っているか、あるいは誰かから逃げているか。
もしかすると休憩所には来ないかもしれない。
ここの住人たちは、残念なことに、近所の人たちと楽しく談笑する習慣がない。そもそもそんな楽しい世界ではない。他者はいつ獣になるか分からない。獣にならずとも、人の姿のまま愚行に出るものもいる。
見知らぬ人間と関わるのはリスクとなる。
「なあクソガキ、お前、あっちこっち歩き回ってるんだろ? なんか手掛かりはないか?」
すると肘で脇腹を攻撃してきた。
「なんだクソガキって。たまこサマと呼べ」
「名前あったのか」
「ちゃんと自己紹介しただろ……」
そうだったか?
記憶にない。
「たまこサマよ、この哀れな男を助けちゃくれねーかい」
「……」
返事がない。
見ると、クソガキは周囲をキョロキョロ見回していた。
「どうした?」
「い、いや、急に名前を呼ばれたから……」
「お前がそう呼べって言ったんだろ」
「サマはちょっと恥ずかしいゾ」
「たまこちゃんにするか?」
「ちゃんも恥ずかしいゾ……」
むずがゆそうに体を揺すっている。
注文の多いクソガキだ。
「じゃあ間をとってクソガキでいいだろ」
「姉ちゃんはあーしのことたまちゃんって呼ぶけど……。でもお前は、そのまま呼んでくれ。特別に許可するゾ」
「俺は呼び捨てで呼ばない主義なんだが……。まあクソガキよりはマシか。たまこ、なんか情報はないのか?」
「あるゾ」
あるのか。
クソ長いやり取りを省いて、結論だけ教えて欲しかった。
「なんでもいい。教えてくれ」
「ま、あーしは知らないけどな。姉ちゃんはいろんな情報持ってるから、姉ちゃんに聞けばたぶん分かるんじゃないかな」
「ホントか? いま行っても大丈夫か?」
「いやいやいや。それはムリだゾ。姉ちゃん、男と会うときは準備が必要だから。いきなり行っても絶対に入れてくんねーゾ」
「なんだそれは。じゃあ代わりに聞いといてくれよ」
「うん。いいけど、あとでプリンだゾ?」
「よかろう……」
このクソガキにプリンをくれてやるのは不本意だが。今回は事情が事情だ。やむをえまい。
*
しばらく待ったが、それらしい人物は現れなかった。
結局、クソガキが執拗に空腹を訴えてきたので、俺たちは撤収することにした。
このアパートで簡単に探し物が見つかるとは思っていない。それに、クソガキのお姉さんが代わりに見つけてくれるかもしれないのだ。気長にやったほうがいい。
なぜかクソガキは食堂を出入禁止にされているので、俺たちは食堂へは寄らず、神社にだけ寄って部屋へ戻った。
煎餅を与えると、クソガキは当然のようにソファで食い散らかした。
「今日は煎餅で我慢してやるけど、次はプリンを要求するからな」
「まあ待てよ。さっき神社でお願いしてきたばかりだろ」
「楽しみ過ぎてちびりそうだゾ」
「ちびってもいいが、帰ってからにしてくれよな」
「ん」
生返事で煎餅をむさぼるクソガキ。
このクソガキの見事なまでのクソガキっぷりは、いったいどのような環境下で涵養されたものなのだろうか。お姉さんはいったいなにをしているのか。謎は深まるばかりだ。
「ふと思ったんだが、お前の家ってこの隣だよな? お姉さんもそこにいるってことなのか?」
「いや、隣にはいねーゾ。実際に住んでるのはここから結構遠くだ」
「は? いつもそこの穴から来るじゃねーか」
子供一人が通れるくらいの穴だ。
頑張れば俺も通れるかもしれないが。そんなことをする理由がない。
ソファでふさいだら大声で泣かれたので、それ以来空けっぱなしにしてあるが……。
クソガキはきょとんとしている。
「誰も住んでないから勝手に通ってるだけだゾ」
「無人だったのか……。いや、でも待て。ここらの住人、みんなお前が住んでると思ってるぞ?」
「勝手に思ってるだけだろ」
なんなんだこいつ……。
ここには法も秩序もないのか?
いや、法はないが、秩序はかろうじてあるはずだ。もし秩序がなかったら、俺たちは人ではいられなくなる。
だが、思えば、普段、隣室から物音がしたことはなかった。
無人というのは事実なのだろう。
よりによってそんな部屋と穴でつながってるのは不気味だが……。クソガキが不法侵入してくる以外に害もないのでよしとしよう。
*
翌日、クソガキは来なかった。
俺は一人で探索。
各フロアの休憩所を巡ってみたが空振り。
帰りに食堂でメシを食い、帰宅した。
自宅ドアの前には小さなクーラーボックスが置かれており、中には六つのプリンが入っていた。神さまというより、もはや宅配サービスだ。
クソガキが来ないと、部屋は静かだった。
会話もない。
テレビが勝手について、意味不明なブロックノイズを流すだけ。音声もごにょごにょしている。本当に、いっさい、なんらの情報も伝わってこない。
俺は窓際に立って外を眺めた。
春の宵のように薄明るい、霞がかった夜空に、満月が浮いている。
いつでも満月。
ここでは一度も欠けたことがない。
見てすぐは心を奪われるが、やがて胃がムカムカしてくる。あまり長時間見るべきものではない。精神衛生上よろしくない。
決して月が悪いわけじゃない。
俺の個人的な問題だ。
死んだようにぼうっとテレビの明滅を眺めていると、やがて音割れした「通りゃんせ」が鳴り響いた。
ホラーだと思えばホラーだが、いい加減、長く住んでいるとただの迷惑な騒音にしか感じない。べつになにも起きない。
*
翌日、プリンをひとつ食った。
いや、ふたつ食った。
卵の風味のしっかり残ったプリンだ。カラメルも香ばしい。機械で作った量産品ではなく、コックの手作りだろう。ちゃんと焼いてあるからか、外側がざらついている。
子供のころ、俺はこの焼きプリンが好きではなかった。量産品を食いなれていて、ざらざらしているのが気にいらなかったのだ。いま思えばじつに贅沢なことだが。
その後の人探しは空振り。
のみならず、ガラの悪いおじさんから「なにやってんだ?」と絡まれる始末。刀でぶった切ってやってもよかったが、俺はそうしなかった。もっと優先して切りたい人間がいるのだ。こんなトラブルでつまずいている場合ではない。
自室近くまで戻ると、散歩中のネコを見かけた。
このアパートには野良ネコが住みついている。誰も見てなければ遠慮なくなでくり回すところだが、運悪く例の中年女性が目を光らせていた。しかもこの中年女性、極度のネコ好きらしく、可能な限りネコを独占しようとする。
俺へのアタリが強いのも、それが原因か。
野良ネコを巡るご近所のトラブルはありふれているが、ネコの奪い合いで衝突に発展するとは思ってもみなかった。
ま、誰になつくかはネコが決めること。
人間が我を張り合っても虚しいだけだ。
*
自室に入った俺は、流しで手を洗い、そのまま動きを止めた。
プリンを食ってしまおうか。
クーラーボックスにあるとはいえ、そんなに日持ちするものではない。クソガキが来ないのであれば、早めに食ってしまうしかない。
なくなったら神さまにお願いすればいいのだ。
神さまにはなにをオーダーしてもいい。
ただ、いちおうこんな噂話がある。
ある日、住人の一人が、ふざけて神さまにこうお願いしたという。「無限に金が欲しい」と。そして目を覚ましたとき、そいつの部屋は小銭で埋め尽くされていた。
かくして、そいつは小銭に埋もれて身動きがとれなくなり、部屋で一生を終えたらしい。
もっとも、この古い床板がそんな大量の小銭に耐えられるとは思えない。おそらく事実ではないだろう。
どこかの誰かが「いかにもありそうな作り話」を流したのだ。
このアパートの神は、おそらくそんなことで人の命を奪ったりしない。
ふと、ドアがノックされた。
来客だ。
クソガキではない。あいつはノックなどしない。もし来るとすれば、メガネくんか、中年女性だろう。前者ならコミュニティ内でのルールに関する周知、後者ならネコに関するクレームだと思われる。
「はいはい」
俺がドアを開けると、予想外の人物が立っていた。
予想外というか……誰だ?
フリルのついたワンピースを着た、メガネでおさげの女の子だ。
小さなバスケットを抱えている。
いや抱えているのはいいが、とんでもなく胸がデカい。女性の身体をじろじろ見るのは失礼だが。いや、しいてじろじろ見ずとも、一瞬で情報が伝わってきたのだ。たわわというほかない。
「あ、あの……霧島さん……ですよね?」
彼女は恥ずかしそうに、こちらも見ずに言った。
「はい、そうですが……。もしかして、たまこちゃんのお姉さん?」
「そ、そうです。姉のふうです」
一回も目を合わせてくれない。
まあ俺も人の目をじっと見るのは苦手だが。それでも会話のときは、ちらと顔を見るくらいはするだろう。彼女はそれすらしない。
男と会うのは苦手、という話だった。
俺もじろじろ見ないほうがいいだろう。
「えーと、たまこちゃんなら来てませんよ」
「はい……」
「あ、もしかして情報を持ってきてくれたとか?」
「はい……」
返事のたびに目が右を向いたり左を向いたりする。
かわいらしい反応だとは思うが、俺ごときに緊張し過ぎでは。俺はナメられることはあっても、こんな触れがたい感じで対応されることはない。
まあ俺の問題ではなく、彼女の問題なんだろう。
そわそわしている。
情報はくれないのか?
「あ、中、入ります?」
「は、はい。差し支えなければ……」
「どうぞ。なにもないところですが」
「お、お、お邪魔します……」
おどおどしている。
そのわりにはいきなり男の部屋に入ってくる。
もちろん悪いことをするつもりはない。ただ、男が苦手なら、玄関口で用件を伝えてくれてもいいのに。
「あ、ちょうどプリンがあるんで、よかったらどうぞ」
「ま、待ってください。違うんです。わた、私も、食べ物用意してきたんです。あの、アップルパイ……。よろしかったらぜひ……」
「いいんですか? あ、ソファどうぞ」
「え、霧島さんは?」
「俺は床に座ります」
「そんな……」
なんなのだこの雰囲気は?
いったい俺たちは、なんの会話をしている?
「なら失礼して、俺も隣に座りますよ」
「はい」
テーブルがなかったので、クーラーボックスを代わりにした。
神のおかげで助かった。
お姉さんはバスケットからアルミホイルに包まれたアップルパイを出した。
ふわっとシナモンのいいにおいが満ちた。
まだあったかそうだ。
「あ、あの、紅茶もいれてきました。よかったら」
「いただきます」
お茶会か?
いや、違うな。
もっと別の主旨だった気がするが。
「五人目の居場所、分かったんですか?」
俺がなんとか本題を思い出すと、しかしお姉さんはびっくりしたように身をちぢこめてしまった。
「あの、さめないうちに、アップルパイを……」
「はい、いただきます」
「フォークをどうぞ」
「ありがとうございます」
よく磨かれた銀のフォークを渡された。
なにからなにまで気が利いている。
早く食えという圧力を感じたので、俺はさっそくいただくことにした。
ひとくちサイズにカットされているから、フォークで刺して食うだけだ。こんがり焼けたパイのにおい、リンゴの甘酸っぱいにおいが食欲をそそる。口に入れると、期待を上回る味わい。
このアパートは食に乏しい。
食堂の定食はうまいが、やや薄味だし、そもそも材料が不明だ。神さまの宅配サービスもあるが、こちらも出所が不明。
しかしアップルパイは違う。
お姉さんの手作りだ。
「お味はどうですか?」
「いやー、うまいですよこれ。おひとりで作ったんですか?」
「はい……」
にこりと愛らしい笑み。
いや、愛らしいというか……なんだか歪んで……。
俺の目がおかしくなったのか?
「もっと食べてください」
「ええ……はい……」
フォークをパイに刺して、口へ運ぶ。
この行動に、いったいなんの意味があるんだったか。
(続く)