幸せになろう
翌日、赤尾さんが出社してきた。
俺はいまだ縛られたまま。自由にしたら、先生を殺しに行くとでも思われているのだろう。そしたら間違いなく死ぬか獣になる。
「おはようございます。見つかりましたよ、方程式」
目の下にクマがあるところを見ると、徹夜で探してくれたらしい。
疲れたとか言っていたのに。
ナツさんが熱々のお茶を差し出した。
「おぢゃです。どぞ」
「ありがとう」
生倉さんは立ち上がり、ソファに置かれた資料を手に取った。
「どう施術すれば?」
「先日、水槽から逆算した係数があるでしょ? あれを使って、対象の皮下に式神を注入します。すると反応が起こって、その部分だけ獣になる。もちろん強度を調整しながらね」
「失敗の可能性は?」
「さあ。なにせすべては机上の空論ですから。大丈夫。失敗しても、なにも起こらないか、あるいは全身が変異するだけですから」
それは大丈夫とは言わない。
俺は先生をぶっ殺すまで獣になるつもりはない。
赤尾さんは茶をすすり、こちらを見て笑った。
「大丈夫だって。君は変質しにくい体質みたいだからな。体質というか、精神というか。一般的な想定よりは安定的に施術できると思う。ま、俺はもう限界なんで、あとはボスにお願いしますよ」
「ええ。私が担当します。スキル面から考えても妥当な判断だと思います」
術の腕前は、ボスのほうが上ということか。
返事の途中で赤尾さんは寝た。気絶するかのように。
俺は一時的に拘束をとかれ、上着を脱がされ、うつ伏せにされた。
「あまり目立たない部位がいいでしょうね」
「あのー、どんなふうになるんです?」
「それは個人ごとに異なりますから、なんとも。もし大袈裟に変異するようなら、最悪、部位の切除も選択肢に入ります」
「ホントに最悪ですよ」
だったら自我を失った上で殺されたほうがいい。
アルマジロ、ラフレシア、がま口、毛羽毛現、樹木みたいなヤツ……。
いろいろ見てきた。
どうせ変異するならカッコいいのがいい。なんかこう……なんだ。いや、やっぱりどうあがいてもダメな気がする。
「では、始めます」
「はい」
返事より先にチクリとした。
え、針?
激痛ではない。少しツンとした感覚があっただけ。
生倉さんは「うーん」とうなっている。
説明してくれないから不安になる。
「え、どうしました? 変わりました?」
「えーと」
「なんです? 変化ナシ? あっ……」
やけに背中がむずむずする。
痛みはない。
どう表現していいのか……。これまで感じたことのない感覚。背中の筋肉が勝手に動いているような。
生倉さんはなんとか無表情を作ってはいるものの、それでも引いているのを隠しきれていなかった。
「どう?」
「いや、どう、と言われても、見えないので」
振り返ろうとするが、どれだけ反っても自分の背中は見えない。
え、ホントにどうなってんだ?
大丈夫なのか?
彼女は静かに告げた。
「もう少し続けます」
「あのー」
まったく報告もせず、自分の判断だけで継続してくる。
背中の広範にわたり、チクチクと針を刺された。おそらく針治療などに使う細いものだろう。痛くはないが、そんなに広くやられても……。
施術が続くに従い、部位がこわばる感じもしてきた。
背中を見ようとするが、反るのもつらい。
「うわー。まあ、これくらいで……いいのかな……たぶん……」
「うわー? え、ホントに。見ますよ?」
うわーはダメだろ。
もっとほかに感想はなかったのか?
「お風呂場に鏡がありますから、確認してきてください」
「はぁ」
*
風呂場はキレイに片付いていた。
くしやドライヤーなどが置かれていて、女性の自宅という感じがする。いや女性の自宅というか、俺だったら置かないようなものが置かれている。まあドライヤーは男でも使うか。
それはいいのだが……。
鏡を見ると、青黒い鱗が背中一面にびっしりと張り付いていた。
まさかの魚類……。
触れてみると、たしかに自分の身体から生えているらしく、ガッチリ食い込んでいた。はがそうとすると痛む。
*
「俺、なんなんです?」
「お魚的な……なにか……でしょうね……」
生倉さんは困惑したような表情。
まあ彼女を責めても仕方がないのだが。
ナツさんがにこにこしながらお茶を用意してくれた。
「えぐねですか? 龍みでぇですよ」
「龍……ですか?」
本当に?
見たことがないから分からないが。それならまあ……いい……のか? だけどこんなことになった以上、もう元の世界には戻れない。
生倉さんは印を結び、指の隙間からこちらを見た。
「あ、すごい安定してますよ。いい感じです」
「はぁ。安定……ですか。けど普通、誰か一人でも殺したら獣になりますよね? なんで俺だけ平気でいられるんです?」
「理由があれば意外と大丈夫なんですよ」
「理由? 誰が決めてるんです?」
まさか、神とか言ってくれるなよ。
すべてはそいつ次第ということになってしまう。
彼女はしかしふっと微笑した。
「誰というか……。まあ、式神でしょうね。ですがここの式神は、全住民と価値観を共有していますから。つまりは住民の総意ということになります。社会通念上やむをえないと判断された行為に関しては、あまり厳しい裁定がくだされないんです」
「人の命を奪うのに、やむをえないとかあります?」
「もし裁判所が機能していれば違うんでしょうけど。ここには存在していませんからね。ですので、現代社会の社会通念ではなく、もっと原始的な感性と考えたほうがいいかもしれません。被害を受けた分は、返してもいいのだと」
つまり私利私欲でなければいいのか。
俺の殺しも、このアパートでは許容範囲だったと。
現代社会なら一発アウトなのに。
いつか誰かが、このアパートにまともな人間社会というものを構築したら、全体の意識も変わっていくのかもしれない。
*
その後、来客があった。
先生だ――。
信じられないことに、彼は単騎で乗り込んで来た。
「余計なことをしてくれましたね」
青白い顔をさらに青白くして、廊下に立っていた。
怒った様子はない。
ただ、怒っていないのだったら、ここまでのリスクをおかしてまで殴り込みに来ないだろう。彼は焦っている。唯一のペットだったイチカを失い、次のターゲットである俺に執着し始めたのかもしれない。
事務所の中を荒らされたくなかったのか、ボスは外へ出た。もちろん俺も出た。赤尾さんはまだ起きそうにない。
「本日は、どのようなご用件で?」
生倉さんの質問に、先生はこちらを見て応じた。
「迎えに来たのですよ。あなたは、私と行動をともにすべきです。せっかくの素質を、このような場所でムダにすべきではありません。ともに世界を光で満たしましょう」
俺は刀を抜いた。
それが返事だ。
「なあ、先生。俺がどんだけあんたをぶっ殺したいと思ってるのか、まだ理解できねぇのか?」
「哀しい誤解があるようですね。しかし私には、その誤解を解く用意があります」
やや憔悴していても、温和な態度を崩さない。
だが、もう頭は冷静でないのだろう。
壊れた機械みたいな挙動になっている。
生倉さんも銃を取り出した。
「依頼達成のため、あなたの殺害を是と判断しました。なぜ無謀にも単騎で乗り込んで来たのかは理解できませんが……。とにかく、こちらとしては必要な措置を講じさせていただきます」
俺はその射線をふさぐように立った。
「ボス、俺にやらせてくださいよ。こいつだけはどうしても他人の手に委ねる気になれないんです」
「半分はお譲りします。ですが、職場の同僚として、私も同じだけの罪を引き受けるつもりでいます」
「ダメだ。ボスは見ててくれ。俺が変異したら、それをぶっ殺すのはあんたの役目なんだから」
自分でも自覚がなかったが、たぶん興奮してきている。
おかげで言葉が少々荒くなってしまったかもしれない。
先生は笑顔を浮かべている。
「そんなに殺気立った顔をしないで。深呼吸ですよ」
「そうだな……」
両手を広げていたので、俺はその右腕を真上から切り落とした。まるで枝でも叩き落すように、キレイに。
腕が落ちた。
先生はその腕を見つめている。なんともない顔で。
いや……。
なにかリアクションしてくれ……。
だが、リアクションは唐突に起きた。
切断面から血液が噴出したのだ。その血液が、まるで意思を持っているかのように方向を変え、切り落とされた腕と合流した。やがて吸い寄せられるように、腕がくっついてしまった。何事もなかったかのように。
袖の布だけが、床に置き去りにされた。
「いや、ちょっと待ってくれよ……」
俺はつい笑ってしまった。
余裕の笑みじゃない。
絶望に近い。
先生は溜め息をついた。
「いまこう考えましたね? まだこんな力を残していたのか、と」
「正解だ」
「ですが私の意思によるものではありません。これは呪いでしてね。ゆえに死ねない。絶対にね。私はね、あなたに言われて思い出したんですよ。なぜ世界を浄化すべきと考えたのか。そう。私自身が、聖水を浴びて消えるためだったんです。ですが……本当にそれだけでよいのでしょうか? 私は熟慮を重ねました。そして最終的に、ひとつの結論へと思い至ったのです。きっと私は、世界を浄化するため、最後まで生き延びるべき存在だったのだ、と」
妄想も大概にしろ。
呪いとやらは気の毒だが、他人まで巻き込まないで欲しい。
つまりは勝手に一人で死ねということだ。
ヒュンとなにかが飛翔し、先生の心臓部を撃ち抜いた。
生倉さんだ。
「では生かしたまま管理下に置くしかありませんね」
「えっ?」
先生は片膝をつき、不思議そうに顔をあげた。
「監禁ですよ」
「私を?」
「光もない暗い世界で、永遠に反省していてください」
先生は出血していない。
おそらくダメージを与える攻撃ではなく、気絶させるための攻撃。俺が食らったのと同じものかもしれない。
*
身動きのとれなくなった先生は、ある一室に監禁された。
出られないようドアに板を打ち付けられた上、護符まで貼られて。
力でも、術でも脱出できないように。
きっと先生は、心のどこかで俺たちをナメていたのだ。殺される心配もない。結界で守られた敵地へ乗り込んでも、無事に帰れる自信があったのだ。なんなら俺を連れて一緒に帰るつもりだったのかもしれない。
だが、それらはすべて誤算だった。
判断を誤るくらい追い詰められていたのだ。
おそらくこれで、あらゆる問題にカタがついた。
事務所の勝利だ。
もちろん俺の気分は晴れなかった。
誤算ならこちらにもあった。絶対にあいつをぶっ殺したかったのに、結局は叶わなかった。そして殺せないのなら、俺だって身体の一部を獣にする必要はなかった。
「えっ? なに? 終わったの?」
ようやく起床した赤尾さんは、目をしょぼしょぼさせながらそう尋ねた。
生倉さんはあきれ顔だ。
「赤尾さんの隣室に監禁しました」
「いや、なんで俺の隣に……」
「なにかあったとき、素早く対処できるように、ですかね」
「俺、いっぺん寝たら起きませんよ?」
それは今日の一件でよく分かった。
生倉さんも肩をすくめるばかりだ。
ともあれ……。
ああ、また喪失感だ。
目的を失った。
守りたかったものさえ守れずに。
*
解散になったあと、しかし俺は自宅へは戻らなかった。
先生からぶんどった鍵で、勝手に彼の部屋にあがりこんだ。
リビングには、よく分からない書物が山積みになっていた。誰かにとっては重要な研究資料かもしれない。だが、俺にとってはゴミでしかなかった。
会いたかったのは、オレンジの光を放つ水槽だ。
俺はその水槽に近づき、身をあずけた。夕日みたいに眩しい。子供のころ、こんな光を浴びながら昼寝をした気がする。幸福な記憶で満たされる。
「ごめんな、イチカ。これからはずっと一緒にいるからな……」
返事はない。
だが、いい。
俺はこの水槽を守り続けると決めたのだ。絶対に。誰にも触れさせない。
床にはペット用の餌皿が置かれていた。
溜め息が出た。
やはり先生は八つ裂きにしておくべきだった。
死ねないのなら、それでもいい。
身体が回復するたび、いくらでも切り裂いてやる。あいつにはそれでも生ぬるいくらいだ。
「イチカ。もう哀しいことも、苦しいことも、絶対にないからな。幸せになろうな」
(続く)
 




